本日は詩篇18篇1-19節を味わっていただければと思います。この標題は異例に長いもので、同じ歌はⅡサムエル22章にもあり、ダビデの生涯の総まとめ的な意味があることが分ります。彼はサウル王に命を狙われ、同胞のユダ族からも裏切られ、明日の命が分らない緊張の中に長い間、放置されました。
そのような中で彼は最初に、「あなたを私は慕う。主 (ヤハウェ) 、私の力よ。(英語ではしばしば、I love You, O Lord, my strengthと訳される)」(1節) と歌います。まさにこれは創造主への極めて個人的な愛の歌なのです。
続けて、主こそが自分を強力な敵の攻撃から守ってくださることを様々なことばで表現します (2、3節)。そこには、彼が岩山や洞窟などに身を隠し続けてきた体験を垣間見ることができます。あなたの生活の中では、主の守りは、どのようなことばで表現できるでしょうか。
ダビデは、絶体絶命の危機に何度も追いやられました。そのような中でダビデは、「主(ヤハウェ)を呼び求め」ますが、すると「私の叫びは、御耳に届いた」(6節) と記します。そして、主が彼を助けてくださるために、不思議にも「天を押し曲げて降りて来られた」というのです。しかもその際、「暗やみをその足の下にして」と描かれます。
ルターは「空が明るいとき、雲は高いところにある。しかし、地が暗く、暗い雲が低く空を覆っているとき、私たちの神は近くにおられる。主は暗闇を足台としておられるのだから。もちろん私たちは雲の中に神を見出すことはできない。かえって、雷鳴を聞きながら、神が私たちに怒っているようにしか感じられないが……」と、暗闇の中で主が近づいてくださる神秘を描いています(ルターの詩篇注解からの私訳)。
つまり、神が私たちの心の奥底からの叫びを聞いてくださるとき、かえって目の前の状況はさらに暗く、悪くなり、神が怒っているようにしか感じられないことがあるのです。
10-15節には、主が私たちに近づいてくださるときの神秘が描かれます。そこでは、「暗やみ」と「御前の輝き」、また「雹」と「火の炭」のように、自然では相反する現象が同時に迫ると記されます。主の臨在は、人の想像をはるかに超えているからです。
なおここで、この地に近づく主の怒りは、私たちの敵に向けられています。一方で、「主は、いと高き所から御手を伸べて……私を大水から引き上げられた」(16節) と記されます。そして、そこから生まれた余裕が、「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された」と描かれ、その理由が、「主が私を喜びとされたから」と記されます( 19節)。そして、主は、今、主の前に静まっておられるあなたを「喜び」としておられます。
祈り
主が私を喜びとされ、私の叫びに耳を傾け、天を押し曲げて降りて来られる方であることを感謝します。主が近づいてくださる不思議を覚えさせてください。
バッハの曲の中で何よりも有名になっているのが、「主よ、人の望みの喜びよ」ですが、これは、英語の訳詞の Jesu, joy of man’s desiring からとったものです。後の機会にドイツ語の原詞は紹介しますが、英語の歌詞には不思議な味わいがあります。
興味深いのは詩篇18篇では主ご自身が私たちの叫びに応じて天から降りてきてくださると描かれているのに、ここでは私たちのたましいが翼をかって天に引き上げられてゆくという逆の動きになっています。しかし、創造主ご自身が私たちへの燃えるような愛をもって迫って来てくださり、そこに主の愛に包まれた自由が生まれるということでは同じです。
ケルティック・ウーマンの演奏から以下の歌詞をかみしめながら味わってみていただければ幸いです。英語の歌詞はロバート・ブリッジス訳です。
Jesu, joy of man’s desiring
イエスよ、人の望みの喜びよ
Holy wisdom, Love most bright
聖なる知恵、最高に輝く愛よ
Drawn by Thee, our soul aspiring
あなたに惹かれ、私たちの魂は切望する
Soar to uncreated Light
創造されたことのない光へと はばたくことを
Word of God, our flesh that fashioned
神のことばが、私たちの肉を身にまとわれた
With the fire of Life impassioned
いのちを燃やすほどの情熱をもって
Striving still to truth unknown
(それゆえ私たちは)まだ知らない真理を追い求めつつ
Soaring, dying round Thy throne
あなたの王座を切に憧れ、はばたいて行く。