お一人おひとり、それぞれ全く異なった事情の中で、不安な日々を過ごしておられることと思います。この騒ぎの中で、置かれている状況の違いが余りにも大きくなっているように感じます。
ある人は時間が余りにもゆっくり流れるという倦怠感を味わい、ある人は、数々の責任に駆り立てられ息つく暇もないように感じておられることでしょう。
僕は今朝、改めて、「なんで自分はこんなにイライラしているのだろう、呼吸が浅くなっている……」という感じを味わいました。何となく、置かれている状況は異なっても、この落ち着かない感じは同じかと思います。
僕の場合は、こんなとき、いろいろ社会や経済の状況を分析して、何かの聖書的な見識を発信したい誘惑にかられます。しかし、どれだけ社会を正しく批判できても、それが「何の益になるのか?」と思わされました。そして、今、改めて自分の中にある気持ちを言えば、「イライラが募って、祈る気にもならない……」というのが正直なところかと思います。
昨日来、詩篇をお分かちしたいと思ったのは、この「祈る気にもならない……」という気持ちを祈りに変えるためです。
詩篇13篇は、自分のイライラした気持ちを神に訴える祈りが記されています。
ダビデは、1、2節で「主 (ヤハウェ) 」の御名を呼びながらも、何と四回にもわたって、「いつまで、救ってくださらないのか」という趣旨で、「いつまで……私を永久にお忘れになるのですか」「いつまで御顔を……お隠しになるのですか」「いつまで私は……思い悩まなければならないのでしょう」「いつまで敵が……勝ちおごるのですか」と大胆に訴えます。この最後の「敵」ということばをコロナウィルスと読み替えると実感がわいてきます。
そして3節では、立て続けに、「私に目を注ぎ、私に答えてください……私の目を輝かせてください」と訴えます。そして、その理由がさらに、「私の敵(コロナ)が」勝ち誇って喜ぶことがないようにと、極めて個人的な視点から訴える様子が描かれています。これから見ると、しばしば私たちの祈りは、あまりにもお行儀が良すぎるのかもしれません。主は、幼い子供が親に泣いてすがるように、自分の気持ちを正直に訴えることを喜んでくださいます。
ただ、そのように泣きじゃくった結果として、5節では突然、すべてをわきまえた大人になったような気持ちになって、まず「私は」と強調しながら、「あなたの恵みにより頼みました」と告白します。「恵み」とは、英語では、「unfailing love(尽きることのない愛)」とか、「steadfast love(不動の愛)と訳され、神の真実の愛を表現する特別なことばです。これこそ聖書のテーマとも言えます。後に、使徒ヨハネは、「全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18) と記しますが、ダビデは、まさに主の懐に飛び込んだ結果として、恐れることなく大胆に、主に訴えることができたのです。
そして、最後にダビデは、主の救いを「喜び」、主のみわざを思い起しながら、真心から「主に……歌い」ます。この詩は、最初の「いつまでですか」と言う繰り返しの訴えと、この終わりの、主への喜びに満ちた賛美の対照が、何とも不思議です。しかし、嘆きの訴えから、喜びへの転換こそ、詩篇全体に流れる神の民の物語です。私たちも、詩篇に合わせて自分の心を表現するとき、同じ恵みにあずかることができます。
祈り
主よ、様々な不条理に直面する中で、主に大胆にすがり、祈ることができるように導いてください。それを通して、主の真実の愛を喜ぶ者とさせてください。
上記は以前、ディボーション誌MANNAに投稿してきた記事を加工したものです。転送やラインなどでの分かち合いはご自由にどうぞ。