ほんとうに明日は、どうなるのだろう……という不安の中に私たちは置かれています。そのとき、何らかの合理的な説明がなされることを期待します。しかし、詩篇の祈りの世界はそうではありません。
ただ、不条理のただ中に身を置いて、「神よ、なぜ……」と訴える祈りに満ちています。この時期を、天地万物の創造主との交わりを深める機会とできれば幸いです。
詩篇10篇1-6,14-17節「害毒と苦痛を見られる神」
主 (ヤハウェ) よ なぜ あなたは遠く離れて立ち
苦しみのときに 身を隠されるのですか……
あなたは見ておられました。
労苦と苦痛をじっと見つめておられました
それを御手の中に収めるために
不幸な人は あなたの身を委ねます
みなしごは あなたがお助けになります
この詩篇では、「主 (ヤハウェ) 」が「遠く離れて」、「苦しみのときに……身をかくされ」ているようにしか思えないという現実に、作者は圧倒されています (1節)。そして、「神はいない」と公言する「悪者」の「道はいつも栄え」「敵という敵を……吹き飛ば」しているように見えます (4、5節)。
残念なのは、神を否定する者の心の方が平安に満たされているという皮肉が見られることです (6節)。それはしばしば、私たちの現実でもあります。神に従おうとする者が次々と苦しみに会い、「神はいない」と言う者の方が、繁栄し、平安に暮らしているという中で、信仰生活が空しく感じられることが、あなたにもあるかもしれません。
そのような中で、14節で突然、神に向かっての賛美が、「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました」と記されます。これは、主ご自身が、ご自分の民がこの地で体験する「害毒と苦痛」をみこころを痛めながら、見つめておられたという意味です。それは私たちにとって、神の御子の主イエスご自身が十字架で苦しんでくださったことに現されています。
それを前提に、「不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした……あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます」と告白されます(14、17節)。
これは、たとい「主 (ヤハウェ) のさばき」は多くの人々にとって「遅すぎる」と思えたとしても、歴史を振り返ってみると、その時々に、神の御手の中で守られてきたという現実がありました。ときに、不条理な死を遂げる人があっても、キリストの復活を見るならば、神の真実なご支配の中で私たちが守られ続けるという確信を持つことができます。この世の不条理を十字架と復活で正される神は、私たちの想像をはるかに超えた救いを実現されます。
祈り
世に不条理が満ちているように思える時、イエスの十字架と復活の意味を思い起こさせてください。人ではなく、神の視点から、この世界を見させてください。
以前、ディボーション誌MANNAに投稿してきた記事を加工して、立川チャペルの愛兄姉にお分かちします。転送やラインなどでの分かち合いはご自由にどうぞ。