ヘブル人への手紙の結論では、「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえを絶えず神にささげようではありませんか」(13:15) と勧められていました。また詩篇22篇では、「あなたは 聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとされる方です」(3節)と告白されていました。
歴代誌の系図を読むイスラエルの民は、自分たちの歴史を振り返り、「初めの愛」に立ち返り、「どこから落ちたのかを思い起こす」ことができたのではないでしょうか (黙示2:4,5)。
聖書には多くのことが記されますが、真理は単純です。主を喜び、主を賛美する者は祝福された人生を送ることができ、主の恵みを忘れる者は、暗闇の中に生きることになります。
1.シメオン族の系図、ヨルダン川東側のルベン、ガド、マナセの系図
2章3節~4章23節まではダビデ家を含めたユダ族の系図が描かれていました。それに続いて4章24節から43節まではシメオン族の系図が描かれます。
それはヨシュア記19章9節に「シメオン族の相続地はユダ族の割り当て地から取られた。ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、彼らの相続地の中にシメオン族は相続地を受けたのである」と記されていたように、ユダ族の割り当て地の中にシメオン族が住んだからです。
そのようになったのは、ヤコブの第二、第三子であるシメオンとレビとが妹ディナが約束の地の真ん中に位置するシェケムの族長に犯されたことへの復讐を、謀略をもって乱暴に行ったことの結果です (創34章)。
ヤコブは死に臨んで、「シメオンとレビとは兄弟……彼らは怒りに任せて人を殺し、思いのまま牛の足の筋を切った。のろわれよ、彼らの激しい怒り、彼らの凄まじい憤りは、私はヤコブの中で彼らを引き裂き、イスラエルの中に散らそう」(創49:5-7) と預言したことの結果とも言えましょう。
4章24節ではシメオンの5人の子が記され、25-27節では五男のシャウルから7世代目の「シムイ」の家に続いたことが描かれますが、最後に「シムイには十六人の息子と六人の娘がいたが、彼の兄弟たちの子は多くなかった。彼らの全氏族は、ユダの子らほどには多くはならなかった」とまとめられます。
つまり、シムイの家は例外的に祝福されていたものの、シメオン族全体としてはユダ族のようには増えなかったというのです。28-33節まではシメオン族の居住地が、ユダ族と重なっている様子が描かれます。
34-38節の系図はどのようにつながっているかは不明ですが、その結論は「彼らの一族は大いに増えた」とあるようにシメオン族の中で例外的に祝福されていました。
その上で彼らの二つの軍事的な成功例が描かれます。第一は39-41節で、何とダビデから14代目のヒゼキヤの時代のことでした。当時ユダ王国はアッシリア帝国の南下圧力に苦しんでいましたが、シメオン族は大いに増えた「群れのために牧場を探し求めて……豊かな良い牧場を見つけ」……そこに住んでいた「ハム系の人々」を「聖絶した」と記されます (39-41節)。
また第二は42、43節にあるように、五百人の人々で死海南部のセイル山にいたアマレク人の残党を撃ち滅ぼし、そこを支配したということです。それは歴代誌が記された400年ごろまで続くことでした。つまり、ここではシメオン族の乱暴さが、勇気として機能した例が記されているとも言えましょう。
5章にはヨルダン川東側の地を相続した、ルベン、ガド、マナセの半部族のことが描かれます。
まず1節では「ルベンは長子であったが、父の寝床を汚したことにより、長子の権利は……ヨセフの子に与えられた」と記されます。これはヤコブの最愛の妻ラケルがベニヤミン出産とともに死んだという悲しみの中で、ルベンがラケルの女奴隷ビルハと寝たことを指します。ビルハはヤコブの側女でダンとナフタリの母でしたから、これは兄弟をも傷つけます。
しかし、それにも関わらず「イスラエルの長子ルベンの子は……」という系図が記されます。4~6節の系図がルベンのどの子とつながっているかは不明ですが、6節では「その子はベエラ、彼をアッシリアの王ティグラト・ピレセルが(捕囚として)引いていった。ベエラはルベン人の族長であった」と記されます。これは北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされ、民が捕囚とされた紀元前733年のことです。
7-10節はそれ以前のルベン族の広がりが、「東は大河ユーフフラテス」などと記されます。これはあり得ないことのように思えますが、「家畜が増えたから」とあるように遊牧民に移動としては可能なことで、そのことがギルアデ地方のはるか「東方一帯に天幕を張って住んだ」と記されます。しかも、サウルの時代にサラの女奴隷ハガルから始まった一族を倒したという勝利が描かれています。
11-17節はルベンの北のガド族のことが描かれますが、その最初の「ガドの子孫は……バシャンの地に住み」とは不思議です。そこはガリラヤ湖の東北部の広大な地域で、本来マナセ族の割り当て地だからです。ただ17節で「イスラエルの王ヤロブアムの時代」とあるような北王国の領土が最大化したときであれば、ガド族もマナセ族もそれぞれはるか北にまで支配地を広げた結果として理解できます。
その成功の鍵は20節で「それは、彼らがその戦いのときに神に叫び求めたからである。彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた」と記されています。しかも22節では「この戦いは神から出ていたため」という勝利の理由が記されています。ただし、彼らがそこに住んだのは「捕囚の時まで」でした。
23、24節はマナセの半部族の支配地と指導者が描かれます。バシャンは強い雄牛が育つ肥沃な地で、約束の地全体の水源地であるヘルモン山まで及びました。しかも、そこに住むマナセ族の「数は多く」、「かしらたちは……勇士で、名のある人たち」で、彼らの将来は希望に満ちていたはずです。
ところが25節では「彼らはその父祖の神の信頼を裏切り、神が彼らの前から根絶やしにされたその地の神々を慕って淫行した」と、驚くべきことが記されます。「淫行」とはまことの神との契約を忘れ、偶像の神々を拝むことです。
それに対して何と神は、「アッシリアの王……の霊を奮い立たせ」たというのです。神が異教徒の王の霊を奮い立たせて、ルベン、ガド、マナセの半部族をアッシリアの地に強制移住させたというのです。
それぞれの部族には神の「さばき」と同時に「祝福」がありました。どれほどの罪があっても、それぞれの部族にはその後の回復がありました。しかし、主を礼拝することをやめたとき、滅びが待っていました。
2.レビ人の奉仕、「歌をもって仕える」
6章全体にはレビ族の系図と居住地のことが詳しく描かれます。レビはシメオンと同じように、その乱暴さのゆえにヤコブから「イスラエルの中に散らそう」という不遇な扱いを受けます。しかし、彼らの場合は、土地を相続しない代わりに、「神の幕屋に仕える」という崇高な働きを委ねられました。
1節では、レビの三人の子から「ゲルション族」「ケハテ族」「メラリ族」が始まるという原点が記されます。そして2,3節では、そのケハテの長子アムラムの子孫として、「アロン、モーセ、ミリヤム」という出エジプトの際の指導者が生まれたと描かれます。
アロンの長男ナダブと次男のアビフは、レビ記10章によると、「主が彼らに命じたものではない異なる火を主 (ヤハウェ) の前に献げた」ことにより、「火が主 (ヤハウェ) の前から出て、彼らを焼き尽くした」というのです。そのためアロンの祭司職は第三子エルアザルに受け継がれます。
その14代目のことが10節で「これは、ソロモンがエルサレムに建てた宮で、祭司の務めを果たしたアザルヤである」と記されます。南王国ユダの最盛期を築いた王ウジヤは様々な成功をおさめ、高ぶって、主の神殿に入って香をたこうとしました。
しかしアザルヤはこの強大な王ウジヤの前に「立ちふさがって」、「主 (ヤハウェ) に香をたくのはあなたのすることではありません」と大胆にその行動をたしなめ、ウジヤはツァラアとにかかります (Ⅱ歴代誌26:16-19)。彼は権力者に屈せずに、祭司の働きを全うした人でした。
15節のエホツァダクに関しては、「主 (ヤハウェ) がネブカドネツァルの手によってユダとエルサレムを捕囚にしたとき、そこを去った」と、驚くほど簡潔に描かれます。
これは後に、彼の子のヨシュアが総督ゼルバベルとともにバビロン捕囚から解放された民を導いてエルサレム神殿を再建することにつながります。
16節からはレビの三人の子の系図が描かれます。22節からはケハテ族が描かれますが、そこではケハテの次男イツハルの名が、アミナダブという名で記され、そこから28節で大預言者サムエルが登場する流れが記されます。
サムエル記1章1節ではサムエルの父エルカナはエフライム族の出身かのように描かれますが、それはエフライムの地に住んでいたという意味にも理解できます (ヨシュア21:20,21)。
31-47節にはダビデが整えた神殿の聖歌隊の指導者の系図が記されます。不思議にも、「幕屋の前で、歌をもって仕える」(32節) 者が、ケハテ、ゲルショム、メラリというレビの三つの氏族から記されます。
33節の「歌い手ヘマン」は大預言者サムエルの孫です。そこには詩篇にしばしば登場する「コラの子」という名も登場し、彼らはケハテ族です。
39節では「ヘマンの兄弟アサフ」と記されますが、これはアサフが「ヘマンの右側に立って仕えた」という関係を表すもので、彼はゲルショム孫でした (43節)。詩篇には「アサフの賛歌」ということばが数多く登場します。
44節ではヘマンの「左側」には「キシの子エタンがいた」と記されます。彼はメラリ族でした。これらを通して「歌をもって仕える」人がどれだけ重視されたがが分かります。
48、49節ではレビ人のはるかに大切と思われる幕屋での奉仕が驚くほど簡潔に記されます。まるで大祭司アロンの子孫の祭司の働きよりも、歌の奉仕者が注目されているかのようです。
事実、現在の教会の礼拝では、幕屋礼拝の中心「全焼のささげ物」はありませんが、詩篇の朗読や様々な賛美が礼拝の中心になっています。そして詩篇にはダビデの作品ともにアサフやコラの子たちの歌が多数登場します。
54-81節にはレビ人に割り当てられた居住地が描かれます。彼らには土地の割り当てはなかったはずですが、家畜を養うための最低限の「放牧地が与えられ」ました (55節等)。
また彼らは「逃れの町」などで霊的な指導力を発揮することが求められました。彼らはイスラエルの十二部族の割り当て地のただ中にそれぞれ居住地が与えられ、それぞれの地での人々の信仰を導く責任が与えられていました。
3.イスラエル北部の系図 わざわいの中から始まる祝福
7章にはイスラエルの北部の支配地のことが描かれます。1-5節にはイッサカル族のことが記されます。彼らはイスラエルの穀倉地帯とも言えるイズレエル平原の東側からヨルダン川西岸の地という肥沃な地を割り当てられていました。
不思議にもここでは、三回にわたって「勇士」の数が記されます。これは2節にあるようにダビデが神に背いてイスラエルの戦士の数を登録させたときの記録かもしれません(21章)。ただ、この地は異教徒との激しい戦いが繰り返されたという意味で、勇士の数が描かれているのでしょう。
6-12節にはベニヤミン族のことが描かれます。その系図は8章で詳しく記されますが、ここでも三つの氏族ごとに、三回にわたって「勇士」の数が描かれます。
彼らはダビデの前の王サウルを生んだ部族ですから、彼らはダビデの家と争う可能性があったということで勇士の数が登録されたのでしょうか。
13節にはナフタリ族のことがごく簡潔に、ラケルの女奴隷ビルハの子として描かれます。
14-19節はヨルダン川西側を割り当てられたマナセの半部族のことが描かれます。不思議にもここには、アスリエル、マアカ、ツェロフハデの娘たち、モレケテという女性の名が四回も登場します。
マナセ族の割り当て地が増えたのは、民数記27章に描かれたツェロフハデの娘たちの訴えが神に喜ばれたからです。その五人の娘「マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァ」(1節) は、父には息子がなかったということで、父の名が相続地に残らないことは不公平であると訴えました。
それは約束の地を占領する前、ヨルダン川東側の地をマナセ族に割り当てられる前のことでした。彼女たちは、まだ入ってもいない約束の地の分配を現実に受け止めていたのです。そしてモーセは彼女たちの訴えを主 (ヤハウェ) の前に差し出します。
主はそれに対し、意外にも、「彼女たちに、その父の相続地を渡せ」と命じます (7節)。女性に相続権が認められることは、当時としては画期的なことでした。
ヨシュア記17章5、6節ではマナセの半部族にヨルダン川西側の「十の割り当て地があてがわれた」理由が、「マナセの女の子孫が、男の子孫の間に相続地を受け継いだからである」と記されています。マナセ族はその初期、女性の信仰で栄えたのです。
20-29節にはエフライム族のことが描かれます。ヨセフの長男はマナセですが、ヤコブは弟のエフライムにより大きな祝福を約束し (創48:19)、その子孫としてモーセの後継者「ヌンの子ヨシュア」が生まれます。
21節ではその系図の初期に「エゼルとエルアデ」が「この地の生まれであるガテの人々に殺された」と記されます。これは明らかにカナンを征服したあとのことでしょうから、22節の「彼らの父エフライムは、何日もの間喪に服した」という記述は、ヨセフの子のエフライムよりもずっと後の人を指します。
そして、この人から生まれたこの名前が「ベリア」と名付けられます。それは、「わざわいの中で」という意味があります。これはヤベツ(主が痛ませた)という否定的な名が、祝福の基となったように、「わざわいの中」からヨシュア、つまり、「主 (ヤハウェ) は救い」という祝福の子が生まれたということを示しているとも言えましょう。
28、29節には、エフライムとマナセの割り当て地が描かれ、最後に「これらの地に、イスラエルの子ヨセフの子孫が住んだ」とまとめられます。
これはヨセフが、ルベンの代わりに長子として、二倍の分け前を受け、その子のエフライムとマナセが約束の地の真ん中に相続地を与えられたことを描いたものです。
30-40節にはアシェル族の系図が記されます。彼らはカルメル山やツロを含むイスラエル最北端の地中海岸の地方を割り当てられました。特にアシェルの子の第四番目のベリアからの系図に焦点が当てられます。
40節に記された戦士の数は民数記26章47節記された当時の半数以下になっています。
8章全体にベニヤミンの系図が描かれますが、7章6-12節と大きく異なります。7章ではベニヤミンの三人の子が記されますが、8章では五人の名が記され、長男以外の名は異なります。
6節に記された「エフデ」とは、士師記3章15節で「ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデ」のことだと思われます(8章5節のゲラと6節のエフデがつながる)。6、7節の「マナハテに捕らえ移された」の意味も不明です。
ただ、12、13節ではベニヤミン族が地中海岸のペリシテの地にまで支配地を広げたと描かれます。14-28節も解釈困難ですが、最後の「彼らはエルサレムに住んだ」という記述から、そこに多くのベニヤミン人が住んでいたことが分かります。
29-40節ではサウルの家系が描かれ、29節のギブオンとはエルサレムの北北西10㎞にある町で、30節では、その町を開いたギブオンの第三番の子としてサウルの父キシュの誕生が記されます。ただ、33節では「ネルはキシュを生み」と記されるので、ギブオンとキシュの間には省かれた名があることは明らかです。
興味深いのは、サウルの子の中では長男ヨナタン以降の系図、またヨナタンの孫のミカの第四子アハズの系図だけが記されていることです。それは39、40節の「ウラムの子たちは勇士であり……子や孫が多く、百五十人いた」という無名の人の祝福の描写につながります。
後に使徒パウロは自分の肉的な誇りを、「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人」と描いています (ピリピ3:5)。
ただ同時に、「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています」とまで言いました (同3:7、8)。
確かに、キリストのうちにあることのすばらしさから見たら、そのような出生に関する誇りなどは、「ちりあくた」のようなものです。しかし、パウロは自分の出生を深く自覚しながら、それを伝道のために用いたことは確かです。
ヤベツのように「痛みの中に」、またエフライム族のベリアのように「わざわいの中に」誕生することも祝福の契機とされるからです。
4.バビロン捕囚から帰還した者たち 「レビ人のかしらとしての賛美の奉仕」
9章1節はそれまでの系図のまとめのような意味でバビロン捕囚が描かれ、2節からは捕囚からの帰還が記されますが、最初の帰還者として祭司やレビ人たちが描かれます。
さらに3節ではエルサレムへの帰還者として、ユダ族、ベニヤミン族ばかりか、北王国の中心部族であったエフライム族とマナセ族もいたということが記されます。いわゆる「北の十部族」などと一括りにできないことがこれによってわかります。
そして4-6節にはユダ族からの帰還者がペレツの子孫を中心に描かれます。また7-9節ではベニヤミン族の帰還者が描かれます。
そして10-13節では祭司の帰還者の系図が描かれますがその合計が1,760人であるとは、ネヘミヤ11章12-14節の合計が1,192人であるときよりも大幅に増えています。
14-16節ではアサフやエドトンの子孫という聖歌隊の指導者の名が記されます。
17-19節には宿営の門衛が描かれますが、「コラの子」とは6章37、38節の聖歌隊の指導者の系図と重なる部分があります。さらに20節ではその働きがモーセ時代のピネハスに、21、22節では会見の天幕の戸口の門衛の定めがダビデとサムエルにさかのぼると描かれます。さらに23-27節ではその門衛たちの具体的な配置が描かれます。
また28-32節ではレビ人の主の宮での奉仕がさらに記され、33節では「これらは歌い手で、レビ人の一族のかしらであり」と描かれます。
つまり、門衛などの奉仕者は同時に「歌い手」でもあったのです (33節)。つまり一族の指導者たちは「歌い手であり」、「彼らはエルサレムに住んだ」(34節) というのです。
25章1節には「ダビデと軍の長たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、竪琴と琴とシンバルに合わせて預言するものとした」と描かれ、またソロモンの神殿奉献の際には、この三つのレビ人のグループが楽器を奏でて主を賛美したとき、「栄光の雲が神の宮に満ちた」と描かれています (Ⅱ歴代5:12-14)。
バビロン捕囚から帰還したレビ人は、神殿がどれほど小さくなっても、この賛美の伝統を守り通していたのです。栄光に輝く神殿は滅びても、主への賛美は時代を超えて続いています。
「御父は、私たちを暗闇の支配から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13) と記されていますが、私たちは今、光の支配の中に生かされています。
ただ同時に、私たちの先祖の系図を見る時に、どこかにまことの救いを求める思いがあり、神によって生かされてきた系図なのかとも思います。富山県から北海道に流れてきた私の先祖は、浄土真宗の教えをも携えてきました。そして私にとってはその開祖親鸞を知ることが、キリスト信仰への入り口となっています。それは、「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5) とあるように、どのような闇の中にも、キリストの導きが見られるからです。
しかも、「神は、世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる傷のない者にしようとされた」(エペソ1:4) という記述を見る時に、神は私を日本の歴史の始まり以来の系図の中から選んでくださったことが分かります。
暗闇と思える系図の中に、祝福の契機となる種を見ることができるのです。