私たちは、健康を求めすぎることで病気になり、お金を求めすぎることで貧しくなるという逆説をこの世界で味わいます。それから全く自由な生き方を、1200年代初めの中部イタリアの自由都市アシジを中心に活躍したフランシスコに見ることができます。
彼は当時恐れられていたハンセン病の患者を抱擁し口づけすることで、また裕福な父に対し、息子の立場を捨てるという証しとして衣服を返すということで、心の底からの喜びに満たされ、生涯を通してキリストにある自由を体験しました。
たとえば、十字軍の時代に、イスラム教国であったエジプトに出かけて行って、そこの支配者を回心に導いたという話があります。また、近くの町の人々が獰猛な狼に苦しめられているという話を聞くと、単身で狼の前に出て行って「兄弟」と語りかけ、定期的に餌を与える代わりに町の人々を襲わないという平和協定を結んだなどの逸話があります。
フランシスコはキリストの苦しみにあずかることを願い続けたため、死の直前にはキリストの十字架の傷跡と同じ聖なる傷跡を受けたとも言われます。死後二年のうちに聖人と認められ、現在は「環境保護聖人」として世界中の人々から尊敬されています。「平和の祈り」も彼の精神に由来するとされ、世界中で唱和されています。
彼は徹底的にキリストの貧しさに倣うことを実践したことによって世界中の人々に驚くべき影響を与え続けています。キリストに倣って「何も所有しない」ことの驚くべき強さと豊かさを証しした人です。
詩篇148篇は、彼がすべて被造物を「私の兄弟」と呼んだことの原点になる詩とも言えましょう。
1.「ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 諸々の天から」
1節の「ハレルヤ」は、日本語では「ほめたたえよ 主 (ヤハ) を」と訳すことができますが、そこではさらに「ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 諸々の天から」と続きます。「諸々の天」とは、原文では「天」の複数形ですが、当時の人々は「天」が何層にも分かれていると理解していました。たとえば使徒パウロも、自分が「第三の天にまで引き上げられた」と証ししています (Ⅱコリント12:2)。
そして「ほめたたえよ……天から」という表現は、7節の「地の上から」ということばと対照的です。そのことをより明確にするのが、「ほめたたえよ 主(彼)を いと高きところで」という表現です。しかもそれがさらに「ほめたたえよ 主を すべてのみ使いよ ほめたたえよ 主を 主の万軍よ」と記されます。
なお、サタンは「空中の権威を持つ支配者」とも呼ばれ、「天上にいるもろもろ悪霊」という表現もありますので (エペソ2:2、6:12)、「諸々の天」という領域で、「主 (ヤハウェ) が」いつでも「ほめたたえられている」というわけではないということが明らかです。
ですから「み使い」や主の軍勢である「万軍」に向かって、「ほめたたえよ 主を」と願われることは当然のことと言えましょう。
詩篇147篇では、主 (ヤハウェ) が宇宙から全地の気象現象までのすべてを支配されているということが次のように描かれていました。
「主は星の数を数え、そのすべてに名を付けられる」(4節)、「神は濃い雲で天をおおい 地のために雨を備え また 山々に草を生えさせ……獣に……食物を与える方」(8、9節)、「主は羊毛のように雪を降らせ 灰のように霜をまかれる。主は氷をパン屑のように投げつけられる。主がみことばを送ってこれらを溶かし ご自分の風を吹かせると 水は流れる」(16-18節)。
つまり、私たちが「異常気象」と呼ぶものの、神の御手の中で起こっており、また神の御手の中で解決されます。
ただし、そのような気候にしてしまっている人間の責任も決して忘れてはなりません。地球温暖化を否定するような動きにも注意する必要があります。私たちには、この世界を管理する責任が神から委ねられているからです。
そのような中で、詩篇148篇は、本来、意識を持っていないはずの太陽や月に向かって、「主をほめたたえよ」と命じる不思議な詩です。これは今から2,500年前の自然科学を知らない人への訴えとして退けるべきことではありません。
たとえば、太陽には11年周期の黒点数の変化と、より長期的な活動の周期があり、まるで長期的な呼吸をしているようにさえ見えます。私は高校時代に天文部に所属していましたが、昼にできることと言えば、この太陽黒点を観測することぐらいでした。
ですからこの太陽に向かって、「主をほめたたえよ」と言って、その存在を通して神の栄光を現わすようにと願う気持ちは理解できます。
また多くの科学者は恐竜の絶滅とメキシコ・ユカタン半島の直径160㎞のチクシュルーブル・クレーターの関係を述べます。それは今から6,600万年前に原爆10億個分のエネルギーを持つ巨大隕石が落下したことでできました。
その際、メキシコ湾の地形を変える大津波が発生し、粉塵が全地を覆い、生命の半数ないし四分の三が絶滅し、恐竜は巨大さにゆえに生きられなくなりました。まさに、月や星が、地球と適度な距離を保つ軌道を動くことで、「主をほめたたえよ」と訴えたい気持ちが分かるとも言えましょう。
また4節では「ほめたたえよ 主を 諸々の天の天よ」と、何層にもなっている天の最上位に向かって主をほめたたえるように訴えています。全宇宙の中心が、またパラダイスと呼ばれる見えない領域すべてにおいて、主の御名が賛美されることが、全世界の救いにつながるからです。
そこではさらに不思議にも、「諸々の天の上にある水」に向かって、「主をほめたたえよ」と訴えられています。ノアのときの大洪水は、「大いなる淵の淵がことごとく裂け、天の水門が開かれた」ことで起きたと描かれますが (創世記7:11)。このとき「諸々の天の上にある水」が落ちてきたのでしょう。
そのような「天の上にある水」が、「主をほめたたえる」ことが、この地上世界の営みが安全に守られ続けることの鍵であると見られていたというのでしょう。
5節では、「ほめたたえさせよ 主 (ヤハウェ) の御名を」と上記の天の万象すべてに向かって「させよ」という使役形で記されますが、それに関して、「この方が命じて それらは創造されたのだから」という創造のみわざに立ち返って説明されます。
「それらの天上のもの」は、「この方がそれらを立てられ」ることで、「世々限りなく」あり続けると記されます。
また「この方が定めを置かれた」とは、天の法則のようなものを定められたというようにも理解できましょう。そして「それは過ぎ去ることがない」と改めて描写されます。
2.「ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 地の上から」
7節以降では「ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 地の上から」と、1節の「天から」との対比で描かれます。最初に「海の巨獣(きょじゅう)よ すべての淵(ふち)よ」と記されるのは、その大きさのゆえだと思われます。
さらに8節では、「火よ 雹よ 雪よ 煙よ みことばを行う激しい風(息)よ」と記され、これらの自然現象と見られるものすべてに対して、「ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を」と命じられています。
興味深いのは、「激しい風」が「みことばを行うもの」として描かれていることです。「風」には主の「息」という意味もあり、それを通して主がこの地の気象現象すべてを支配していると述べられているのです。それらの気象現象に「主をほめたたえる」ように命じることは、それらを通して、主の栄光が現わされることになるからと言えます。
日本語の「天気」には、「天の気分」という意味が込められているという解釈もあるようですが、その「天の気分」のご機嫌を正す存在としての「天気の巫女」を描いた映画が流行っています。しかもそこではこの「天の気分」は、最終的に巫女が人柱として自分の命を差し出すことさえ求めると描かれています。
日本の神道は汎神論的な世界観で、創造主という概念がありません。気象現象を支配する統一的な意思がありませんから、「どなたに」「どこに」に向かって祈ったらよいかわからないという現実があり、そのために「何をしたら良い」かもわかりません。
私たちは天の気まぐれに翻弄される存在でしかありません。それに対し、ここでは、気象現象の構成要素一つ一つに向かって、「主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」と、主の栄光を現わすという方向が示されています。しかも、そこには「主のことば」というみこころの成就があります。
9節では、「山々よ すべての丘よ 実のなる木よ すべての杉よ」と、地形や植物に、主を賛美するように訴えられています。
詩篇96篇では、主のご支配が全地に明らかになるときのことが、「野とそこにあるものはみな 喜び踊れ。そのとき 森の木々もみな喜び歌う。主 (ヤハウェ) の御前で」(12節) と描かれています。
また詩篇98篇では、「主 (ヤハウェ) は御救いを知らしめ ご自分の義を国々の前に現わされた」と記されながら、そのときに起きるべきことが、「もろもろの川よ 手を打ち鳴らせ。山々も こぞって喜び歌え」と訴えられています (2、8節)。
それは、創造主の栄光がこの地に現わされるときに、山や木もそれに合わせて「喜び歌う」ということですが、それは神の被造世界が「新しくされる」ことを意味します。
しかもそこには、「獣よ すべての家畜よ 這(は)う者よ 翼のある鳥よ」という地のすべての生き物が含まれています。
パウロはローマ人への手紙8章19-21節で、被造世界全体が新しくされる希望を、「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」と記しています。
それは、この地上世界が狂ったのは、アダム以来の人間の罪によるものなので、この地の人間がキリストの復活にあずかり「神の子ども」として「現れる」ときに、この地上世界全体がすべて新しくされるという希望を語ったものです。
ですから11-13節では、「地の王たちよ すべての国民(くにたみ)よ 指導者たちよ 地のすべての治める者たちよ 若者たちよ おとめたちよ 年老いた者たちよ 幼い者たちよ 彼らにほめたたえさせよ 主 (ヤハウェ) の御名を」と訴えられています。
すべての人間が、「神のかたち」としての生き方を回復して、創造主なる主 (ヤハウェ) をほめたたえる生き方を全うできるときに、全世界が「新しくされる」からです。
そこではさらに続けて、「それは 御名だけがあがめられ その威光が地と諸々の天の上にあるのだから」と追加の説明がなされています。「威光」ということばは英語でマジェスティとも訳されます。諸々の天とこの地に、神の御威光はすでに明らかにされています。
私たちの「霊の目」が開かれるときに、主の御名をあがめるということが、驚くほど自然なことに思え、主をあがめざるを得なくなるというのが聖霊のみわざです。
13節の「彼らにほめたたえさせよ」の「彼ら」には、先の「翼のある鳥」も含まれます。
アシジのフランシスコは、あるとき小鳥たちに、「兄弟なる小鳥たちよ。あなたがたを造ってくださった神様のご恩を深く感じていなければなりません。そしていつでもどこにいても神様をほめたたえていなければなりません。神様はあなたがたにあらゆるところに飛んでゆく自由をお与えくださったのだし、またそんな風に二枚も三枚もの着物を授けてくださっている……
あなたがたは種まくこともせず、刈り入れをすることもしないのに、神様はあなたがたをも、あなたがたの子どもたちをも養っていてくださる……だから兄弟たち、これほどのご恩を忘れる罪に陥らないようにしなさい。そして、いつも神様をほめたたえることに熱心でありなさい」と勧めたと言われます。
すると小鳥たちは四つのグループに分かれ、空に十字架を描くように飛んで、美しい歌声を上げたというのです。神にとって不可能なことはありませんから、神は小鳥たちをこのように動かすことによってフランシスコと弟子たちに十字架の福音を世界中に広めるようにと勧められたのでしょう。
14節では「主は御民の角を上げられた 主にある誠実な者すべての賛美を」と描かれます。「角を上げる」とは、「雄牛の角」を上げることから、神の民に特別な力が与えられることを意味します。
また、「誠実な者」とは新改訳で「敬虔な者」と訳されますが、もとのことばはヘセド(契約の愛)と同じ語源の言葉で、主がご自身の契約を守り通す「誠実さ」に応答する人間の「誠実さ」と解釈できます。
この同じことばが詩篇149篇では「敬虔(誠実)な者たちは栄光の中で喜び踊れ……彼らの口には 神への称賛があり 彼らの手には 両刃の剣があるように」と記されます (5、6節)。
そこにも、「喜び」と敵を圧倒する「力」が約束されています。それは、「主 (ヤハウェ) を喜ぶことは、あなたがたの力だから」(ネヘミヤ8:10) と記されている通りです。
14節の後半では、「御民」のことが「主に近い民 イスラエルの子らの」と追加して描かれ、最後に、「ほめたたえよ 主 (ヤハ) を」と記されます。
ガラテヤ人への手紙6章15,16節では「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神の(霊の)イスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」と記されていますが、新約においてはすべてのキリスト者が、「主に近い民 イスラエル」と呼ばれます。
とにかく、私たちのうちにすでに「新しい創造」が始まっており、それは全世界の新しい創造へとつながっているのです。
3.「御子によって 万物をご自分と和解させてくださるため」
コロサイ1章13-20節では、私たちの「救い」が「愛する御子のご支配の中に移された」こととして描かれます。
そこでは「御子のうちにあって」の「罪の赦し」ばかりか、「御子」を「見えない神のかたち」、また「すべての造られたものより先に生まれた方 (the firstborn)」と定義しながら、「御子」を天地万物の創造主として描きます。
さらに「御子」を「死者の中から最初に生まれた方 (the firstborn)」として、「御子」の復活を「新しい創造 (New Creation)」として描き、その意味を「御父は……御子によって 万物をご自分と和解させてくださる……十字架の血によって 平和 (シャローム) をつくられた……地にあるものも 天にあるものも」と説明します。
つまり、キリストにある救いは、全被造物に及ぶのです。以下は原文のリズムを生かした私訳。
御父は、闇の力から私たちを救い出し 愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子のうちにあって (in) 私たちは贖い すなわち罪の赦しを得ています。
御子は 見えない神のかたちであり すべての造られたものより 先に生まれた方(the firstborn) です
それは 万物が 御子にあって (in) 造られるためでした。
すべて 天にあるもの 地にあるもの 見えるもの 見えないもの 王座も主権も支配も権威も
万物は 御子によって (through) 御子のために (into) 造られているのです。
御子は 万物の先に存在し 万物は 御子にあって (in) 成り立っています。
そして 御子は そのからだである教会の かしらです
御子は 初めであり 死者の中から 最初に生まれた方(the firstborn) です
こうしてすべてのことにおいて 第一のものとなられたのです。
それは 御父がみこころによって 御子のうちに (in) ご自身の満ち満ちた本質を宿らせ
御子によって (through) 万物をご自分と (into) 和解させてくださるためでした。
それは その十字架の血によって (through) 平和 (シャローム) をつくられたことによるのです
御子によって (through) 地にあるものも 天にあるものもです。
私たちはキリストにあって、たましいばかりか、全被造物の「救い」、「新しい天と新しい地」のシャロームの完成を待ち望むことができます。
13世紀初めのアシジのフランシスコは、神が全世界を喜びのうちに創造したことと同時に、この世界を「愛する御子のうちにあって」完成に向かっているものとして見ることができました。
彼は太陽を自分の兄弟、月と星を自分の姉妹と呼び続け、その晩年に次のような詩を記します。Brother Sun Sister Moonという伝記映画のタイトルも、賛美歌75「ものみなこぞりて」もここから生まれます。
いと高く、いと強き、主、わが神よ。
賛美も、さかえも、ほまれも、みな主のもの、
豊けき恵みも。
主にこそ、すべてはふさわしい。いと高き主。
だれひとり人は、口にする資格もない、
主のみ名を。
主をこそほめたたえよ、すべての被造物とともに。
わけてもとくに、兄弟なる太陽とともに。
朝がくる、主こそは、まことの光のみなもと。
美しい太陽、燦然とかがやくその光。
いと高きにいます主、太陽こそは主のしるし。
主をこそほめたたえよ、姉妹なる月、星のため。
大空に、月、星をつくってくださったのは主、
きよらかで、いとおしく、とてもきれいに。
主をこそほめたたえよ、兄弟なる風のため、
空気のため、雲のため澄んだみ空、
また、すべての季節のため。
季節こそは、被造物に
生活の支えとして与えられたもの。
主をこそほめたたえよ、姉妹なる水のため。
水は、とても役に立って、つつましく、
たいせつで、そして、きよらかだ。
主をこそほめたたえよ、兄弟なる火のため。
夜のやみを照らすため、与えてくださった火。
きれいで、陽気で、たのもしくて、強い。
主をこそほめたたえよ、姉妹で母なる大地のため。
われらを支え、われらをはぐくみ、
いろんな果物を産み出してくれる、
色とりどりの花や野の草も。
主をこそほめたたえよ、主を愛すればこそ、
人をゆるす心を持った人たちのため、
苦しみや悩みを耐える人たちのため。
平和のために苦しめられる人はさいわいだ、
いと高き主が、むくいてくださる。
主をこそほめたたえよ、姉妹なる死、
からだの死のために。
生きる人間はひとりも、死を逃れられぬ。
死に至る罪の中で死ぬ人々はわざわいだ。
死のとき、主のきよく聖なるみ心のままの
姿とされている人々は、さいわいだ。
第二の死も、その人々にはなんのおそれもない。
主をほめよ、主をたたえよ、主に感謝せよ。
心からへりくだって、主に仕えよ。
詩篇148篇 (私訳交読文)
ほめたたえよ 主 (ヤハ) を (1)
ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 諸々の天から
ほめたたえよ 主(彼)を いと高きところで。
ほめたたえよ 主を すべてのみ使いよ (2)
ほめたたえよ 主を 主の万軍よ
ほめたたえよ 主を 日よ 月よ (3)
ほめたたえよ 主を すべての輝く星よ
ほめたたえよ 主を 諸々の天の天よ (4)
諸々の天の上にある水よ
ほめたたえさせよ 主(ヤハウェ)の御名を (5)
この方が命じて それらは創造されたのだから
この方がそれらを立てられた 世々限りなく (6)
この方が定めを置かれた それは過ぎ去ることがない
ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 地の上から (7)
海の巨獣(きょじゅう)よ すべての淵(ふち)よ
火よ 雹よ 雪よ 煙よ (8)
みことばを行う 激しい風(息)よ
山々よ すべての丘よ (9)
実のなる木よ すべての杉よ
獣よ すべての家畜よ (10)
這(は)う者よ 翼のある鳥よ
地の王たちよ すべての国民(くにたみ)よ (11)
指導者たちよ 地のすべての治める者たちよ
若者たちよ おとめたちよ (12)
年老いた者たちよ 幼い者たちよ
彼らにほめたたえさせよ 主(ヤハウェ)の御名を (13)
それは 御名だけがあがめられ
その威光が地と諸々の天の上にあるのだから
主は御民の角を上げられた (14)
主にある誠実な者すべての賛美を
主に近い民 イスラエルの子らの
ほめたたえよ 主 (ヤハ) を
「太陽のうた」 アシジのフランシスコ作 1225年
「聖フランチェスコの小さな花」 田辺保訳 より
いと高く、いと強き、主、わが神よ。
賛美も、さかえも、ほまれも、みな主のもの、
豊けき恵みも。
主にこそ、すべてはふさわしい。いと高き主。
だれひとり人は、口にする資格もない、
主のみ名を。
主をこそほめたたえよ、すべての被造物とともに。
わけてもとくに、兄弟なる太陽とともに。
朝がくる、主こそは、まことの光のみなもと。
美しい太陽、燦然とかがやくその光。
いと高きにいます主、太陽こそは主のしるし。
主をこそほめたたえよ、姉妹なる月、星のため。
大空に、月、星をつくってくださったのは主、
きよらかで、いとおしく、とてもきれいに。
主をこそほめたたえよ、兄弟なる風のため、
空気のため、雲のため
澄んだみ空、また、すべての季節のため。
季節こそは、被造物に
生活の支えとして与えられたもの。
主をこそほめたたえよ、姉妹なる水のため。
水は、とても役に立って、つつましく、
たいせつで、そして、きよらかだ。
主をこそほめたたえよ、兄弟なる火のため。
夜のやみを照らすため、与えてくださった火。
きれいで、陽気で、たのもしくて、強い。
主をこそほめたたえよ、姉妹で母なる大地のため。
われらを支え、われらをはぐくみ、
いろんな果物を産み出してくれる、
色とりどりの花や野の草も。
主をこそほめたたえよ、主を愛すればこそ、
人をゆるす心を持った人たちのため、
苦しみや悩みを耐える人たちのため。
平和のために苦しめられる人はさいわいだ、
いと高き主が、むくいてくださる。
主をこそほめたたえよ、姉妹なる死、
からだの死のために。
生きる人間はひとりも、死を逃れられぬ。
死に至る罪の中で死ぬ人々はわざわいだ。
死のとき、主のきよく聖なるみ心のままの
姿とされている人々は、さいわいだ。
第二の死も、その人々にはなんのおそれもない。
主をほめよ、主をたたえよ、主に感謝せよ。
心からへりくだって、主に仕えよ。