立川チャペル便り「ぶどうぱん」2019年イースター号より
去る4月2日に小生の父、高橋光市が93歳の生涯を閉じ、天に召されました。幸い2011年7月に日本キリスト教会連合の旭川めぐみ教会において、当時の牧師の込堂一博先生から洗礼を授けていただいておりました。母が息子である小生の信仰に従って洗礼を受けたいと言ったのがきっかけではありますが、込堂先生が何度も父を訪ね、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27) という厳然たる事実を語りつつ、「イエス・キリストの十字架のみわざを信じることによって救われる」という福音の核心を語ってくださいました。父は、自分の愛情不足で家族を傷つけて来たことを自覚しており、それが心に落ちたのだと思います。残念ながら、受洗後、認知症が悪化して行きましたので、礼拝出席等はほとんどできませんでした。
受洗に際し、小生が父の話を聞き取り、父の気持ちになって証しの文章を書き、内容に関しては本人の了承を得て、受洗の際は、小生が代読いたしました。それを後でご紹介します。今回の葬儀にさしてその文章を再び読ましていただきましたが、改めて示されたのは、小生の本の中で一番売れている「正しすぎてはならないーlet it be(あるがままに)」というのは、父の生き方そのものであったということです。幸い、葬儀の参列者の方々にその本をお贈りすることができました。
父は北海道の開拓農民の第二世代として現在の旭山動物園の近くで生まれ、その後、現在の東川町に、本家からより広い土地を貸してもらえるということで移り住みました。ただ、そこは原生林を開墾した跡が残る、大木の切株が残る稲作水田でした。五人兄弟の長男でしたが、18歳で父親を亡くし、一家の大黒柱として農作業に励みました。父はそれらの大きな変化を、let it be(そのままに)受け止め、目の前の仕事に集中していたようです。幸い、徴兵される寸前で戦争が終わり、しかも、戦後の農地解放令で、耕作地を自分の土地として所有できました。それも「マッカーサーのおかげ……」などと、単純に喜んでいました。戦前の感覚からしたら、非国民呼ばわりされない発言ですが、伝道者の書7章16節に「正しすぎてはならない」とあるように、自分の知恵ですべてを把握しようとする代わりに、時代の流れにしなやかに対応していたのでしょう。
結婚に導かれたのは、父の働きぶりを見ていた近所の方が、昔からの知り合いの農家の長女である母を勧めてくれたからです。23歳で結婚し、二番目の子の長男として僕が誕生しました。僕が小学校に入ったころの記憶ですが、父は、政府からの補助金の助けを得て、3ヘクタールの水田の土地を全部入れ替えました。約4kmあまりも離れた土地から良い土を馬橇に載せて運び、スコップだけを用いての作業でした。冬に雪を掘りながらの作業が何年続いたかは分かりません。僕も少しだけ手伝いをしましたが、その記憶は鮮明に残っています。おかげで土地の収穫力が上がったようです。とにかく、スコップ一つで、3ヘクタールの土地を入れ替え、また水田を整備して行きました。そこまで徹底してやった農家はほとんどなかったようです。大変な作業を、一歩一歩進める忍耐力は、僕が父から受け継いだ最大の遺産と言えましょう。そこにも、余計なことを考えずに目の前の働きに集中する let it be の心があります。なお、「あなたがたが神の(みこころ)を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」(ヘブル10:36) というみことばは僕の愛唱聖句でもありますが、何よりも、父の生き方から教わったことかと思わされています。
ただ、唯一の息子である僕が、大学まで進学し、農家のあとを継がないことが明確になる時期と、政府の政策による水田の拡張工事と農作業の機械化の流れの中で、土地に対する更なる投資に躊躇を覚えるようになりました。ただ同時に、そのころから、母がピーマン作りを始めるようになり、父はそれを手伝うことに力を注ぐことになります。同時に、農作業の主導権が母の方に移って行きます。不思議なのは、父にとって本当に大切な土地を受け継がせることを僕に一切押し付けようとしなかったことです。僕の中には、そのことで葛藤を味わった記憶がありません。
しかも、老いるにしたがって、母の意見に合わせて生きることをそのまま受け入れていたことです。まさに「正しすぎてはならない」の心の通りに生きていました。しかも、そのみことばの直前に、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日には(神のみわざに)目を留めよ。これもあれも、神のなさること」(同7:14) とあるように、自分の期待通りに進まないことをそのまま受け入れ、状況の変化に柔軟に対応して行きました。しかも、それでいて、生活に余裕が生まれたことをそのまま喜び、母とともに世界や日本の各地を旅行し、カラオケ大会に出たり、社交ダンスを楽しんだり、パークゴルフに興じたりと、「順境の日には幸いを味わい」続けていました。この四年近くは認知症が悪化し、介護施設での生活になりましたが、いつもニコニコとしていたとのことです。
正直なところ、僕は父の威厳も愛情もほとんど感じないまま育ってきました。それは僕の母に対する愛着の気持ちと驚くほど対照的です。しかし、今回、多くの信仰者の方々にお読みいただいている拙著「正しすぎてはならないーlet it be」が父から学んだことにあると気づき、改めて、父に対する感謝の気持ちを覚えることができました。皆様のお祈りに感謝申し上げます。
〜 高橋光市の信仰告白の証し 〜 2011年7月
私は大正十五年三月に北海道の開拓農民の長男として生まれました。両親は富山県から引っ越して来ました。まだ切り株の残っていたような水田を耕してゆくことは並大抵の苦労ではなかったようです。
私は、小さいころから、いつも、「生きるためには怠けていてはいけない……」「最後には頼りになるのは自分の力しかない……」と自分に言い聞かせて生きてきました。そのため、人の痛みに寄り添うということを習った記憶がありません。
また、私の上には二人の姉がいましたので、自分は長男として農作業だけに専念するように家の中で期待されてきました。そのため、今も、炊事も洗濯も掃除も、まったくといってよいほどできません。
そして私が十八歳のとき、父が亡くなりました。そして、一家の責任を担うことになり、農作業だけをきちんとやっていればよいという自分の信念を強めることになりました。
そして、二十歳のときに終戦を迎え、晴れて自分の土地を持つことができるようになりました。これからは働いた分だけ自分の家が豊かになれるという希望を持つことができるようになり、ますます仕事に励むようになりました。
そのような中で、近所の人の紹介で、昭和23年の12月に現在の妻を嫁に迎えました。近所の方は、私が真面目に農作業に専念する姿を評価してくださったということのようでしたが、私自身は妻を迎えて新しい家庭を築くということの意味をほとんど理解していませんでした。
そのため、当時、妻には精神的にも大変な苦労をかけたと思いますが、自分にはまったくその自覚がありませんでした。また、農家として立派にやってゆくというということばかりを考えていたので、跡取り息子のことは大切に思えても、ふたりの娘のことにはあまり可愛がることはありませんでした。
ずっと後になって、妻や娘たちから、自分の身勝手さを非難されるようになりましたが、私はそれに反論のしようがありません。本当に、良い夫でも、良い父親でもなかったことは認めざるを得ません。もし、死後に地獄があるとしたら、自分はそこに落ちるしかないのかと思うことがありました。
正直、私は、息子には農家の跡取りになって欲しいと思っていました。しかし、妻は、秀典が大学に入り海外にまで行って世界を広げてゆくことをいつも喜んでいました。そればかりか、キリスト教会の牧師になったことさえ、すぐに喜ぶようになってゆきました。自分が期待していた息子も、ますます遠いところに行ってしまうように思いました。本当に、人生は、「真面目に働けば、期待通りになる……」というものでもないということが良くわかります。
確かに、私は、農作業だけは真面目にやってきたのかも知れません。しかし、人の気持ちに寄り添うということ、人を愛するということにおいては、何と身勝手だったのかと思います。
また、自分は自分の力で生きてきたかのように錯覚してきましたが、私たちには計り知れない、目に見えない神様の守りがあったのだと思うようになりました。
聖書では、私たち人間にとって最も大切なつとめは、世界の創造主であられる神を愛し、また自分の隣人を愛することであると聞きました。
それからすると、自分は本当に罪人だと思います。しかし、そんな罪人のために、神様はご自身の御子イエスを十字架にかけ、それによって私たちの罪を赦し、肉体の死をも超えた永遠の喜びを約束してくださったと聞きました。
聖書の話しは、何度聞いてもよくわからないことがあります。しかし、自分の肉体のいのちがどれだけ続くかがわからなくなっている今、一方的な赦しと希望を与えてくださるイエス様にすがって残されたいのちをまっとうしたいと思っています。