旧約、新約聖書という区分けは、福音がローマ帝国に広がり、同時に様々な誤った教えが生まれ始めた紀元180年頃に言われ始めたとのことです(イエスの十字架から約150年後)。
ヘブル8章13節などを見ると「旧約聖書は古びている」とも誤解されかねません。しかし、パウロが伝道したギリシャ北部のベレアの信徒に関しては、「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)と描かれていましたが、彼らが調べたのは旧約聖書です。
不思議にも、彼らは「素直」だったので、パウロの話を熱心に受け止めながら、それを鵜呑みにせずに、彼の話が旧約聖書と矛盾がないかを精査したことが称賛されているのです。
実は、「新しい契約」のことばは、新約聖書以前に、旧約聖書の中に繰り返し記されています。実は、僕自身も、旧約聖書を繰り返し読みながら、そこにある豊かさに気づき、深い感動を味わいました。
たとえば、すでに申命記30章には、イスラエルの民が神のみことばを守ることに失敗し、外国に追いやられ、そこで「あなたが我に返り、あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返り……御声に聞き従うなら……あなたの神、主(ヤハウェ)はあなたを元どおりにし、あなたをあわれみ……あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」と記されていました(1,2,3,6節)。
ルカ15章で、放蕩息子が自業自得で、外国で飢え死にしそうになり、「我に返って」、父のところに帰った時、まだ家まで遠かったのに父が駆け寄り、抱いて口づけし、彼に指輪をはめて息子の立場を回復させ、すぐに祝宴を始めたという話は、明らかに申命記が前提になっています。それは、父親の側から放蕩息子に駆け寄って、「この息子は、死んでいたのに生き返った」と繰り返していることからも明らかです(15:24,32)。
また聖霊降臨の話も、主ご自身が民の「心に割礼を施し……生きるようにされる」と記されていることの成就と見られましょう。パウロも、「御霊による心の割礼」(ローマ2:29)と言ったとき、この申命記を味わっていたことでしょう。「新しい契約」は、すでにモーセ五書に記されています!
1.「イエスはただ一度ですべてを…成し遂げられた」
7章25節は原文の順番では、「したがってイエスは、ご自分によって神に近づく人々を完全に(永遠に)救うことがおできになります。それはこの方がいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」と記されていました。
26節では、この「とりなし」の働きを受けて、「それは、このような大祭司こそ、私たちにふさわしい方だからです」と記されながら、その方に関して、「その方は、敬虔で(きよく)、悪もなく、汚れもなく、罪人から分離され、諸々の天よりも高く上げられた方です」と描かれます。
つまり、私たちを「完全(永遠)に救う」ことができ、私たちのために「とりなしておられる」大祭司は、レビ人の大祭司とは全く次元の違う方である必要があるということが述べられているのです。
先の4章15節では、「私たちの弱さに同情できない方ではありません」と述べられ、その理由が「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」と説明され、イエスと私たち罪人との同質性が強調されていました。しかし、ここではイエスが私たちを支配する罪の性質とは無縁な方で、死に支配されることなく、復活して、もろもろの天よりも高くされた偉大な、永遠の大祭司なので私たちを完全に救うことができるという点が強調されています。
そして27節ではまず、「この方には毎日の必要はありません」と記され、「大祭司たちのように最初は自分の罪のためにいけにえを献げ、続けて、民ためにということの」と説明されます。そして、「なぜなら、この方はご自身を献げることによって、ただ一度ですべてを、成し遂げられたからです」と記されています。「ただ一度ですべてを」とは英語でonce for all と訳される特別な言葉が用いられています。
28節ではさらに、「律法は、人間たちを大祭司に立て、彼らは弱さを持っています。しかし、誓いのことば、それは、律法の後ですが、御子を立てます。彼は永遠に完全にされた方です」と記されています。
律法に記された大祭司は弱さを担って罪を犯すため、民のためのいけにえを献げる前に、まず自分自身の罪のためのいけにえを献げる必要がありました。しかし、イエスは、「悪もなく、汚れもなく、罪人から分離された」方であったので、ご自身を完全ないけにえとして献げることができ、それによって完全な贖いを成し遂げることができたのです。
なお、「誓いのことば」とは、21節にあった神ご自身が誓われることで、イエスが特別に大祭司とされたことを指しますが、イエスは復活したことによって永遠に完全にされた方と描かれています。
ここで私たちは誤解しがちですが、イエスは十字架でご自身をいけにえとして献げられましたが、彼は復活することで永遠の祭司とされ、ご自身の血を天の聖所に持って入られたのです。
律法で規定された大祭司は、年に一度、民全体の罪のための贖いをする際に、まず自分たちの罪のためにほふった雄牛の血を至聖所の宥めの蓋に持って入り、その後で、民全体の罪のために雄やぎをほふり、その血を至聖所の宥めの蓋のところに持って入りました。それによって、聖所の贖いが成し遂げられました。
しかも、全焼のいけにえに関しては、毎日絶やすことなく、一歳の雄の子羊を朝と夕暮れに一匹ずつ献げる必要がありました(出エジ29:38,39)。イエスはご自身を献げることによって「ただ一度ですべて」のいけにえの必要を満たしてくだささいました。
これがどれだけ大きなことだったかを私たちは忘れてはなりません。私たちはもう、神との交わりを保つために、動物を犠牲にする必要がなくなったのです。
2.「もし初めのものに欠けがなければ……彼らの先祖と結んだ契約」
8章1,2節では、「以上述べてきたことの要点は、私たちはこのような大祭司を持っているということです。この方は、天におられる大いなる方の御座の右に座し、聖所で仕えておられます。そこはまことの幕屋で、主がお建てになられたもので、人間が建てたものではありません」と記されます。
つまり、今、死の力を滅ぼし、天に昇られたイエスは大祭司として、「天」の「聖所で仕えておられる」というのです。
3節では、「大祭司はみな、ささげ物といけにえを献げるために任命されています。それゆえこの方にも、何か献げる物を持っている必要があります」と記されます。
その前提には、7章27節で「イエスは自分自身を献げた」ということがありますが、9章7節では「年に一度、大祭司だけが……血を携えて入る」と記され、さらに9章11,12節では「キリストは……人の手で造ったものではない……もっと完全な幕屋を通り……ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」と記さることからすると、イエスにとっての「何か献げる物」とは、「ご自分の血」であったということになります。
ただ、ここではその説明に入る前に、イエスが「天の聖所で仕えておられる」ということの意味が説明されてゆきます。
4節は、「もしこの方が地上におられるなら、決して、祭司ではあり得ません。それは、律法に従ってささげものをする人々がいるからです」と現在形で記されています。そこにはイエスが今、天の聖所で仕えておられるということが前提とされています。
そして5節は、「この人々は天にあるものの写し(コピー、スケッチ)と影(shadow)に仕えています。それはモーセが幕屋を建てようとしたときに、指示されたとおりのものです。神は、『よく見て、山であなたに示された型どおりに、すべてを作りなさい』と言われました」と記されています。
これは出エジプト記25章40節からの引用ですが、そこでは最初に「見なさい」という命令形が用いられ、続けて「あなたに見せられたイメージ(型)」ということばが使われています(25:9参照)。また、「山であなたに示された(見せられた)とおりに」ということばは出エジプト記27章8節などでも繰り返されています。
そこから、モーセは実際に、シナイ山で天の聖所を見せてもらったという解釈が成り立ちます。つまり、神が天の聖所のイメージ(型)をシナイ山でモーセに示して、それが地上の幕屋になったというのです。
そして6-8節では、「しかし、今、この方は、はるかにまさった務めを得ておられます。それであればこそ、彼はさらにすぐれた契約の仲介者なのです。それはさらにすぐれた約束に基づいています。もし初めのものに欠けがなければ、第二のものが求められる余地はなかったでしょう。しかし、神は彼らの欠けを見出して、こう言われました」という語順で記されています。
厳密には「契約」ということばは6節で一度だけ用いられ、「はるかにまさった」とか「さらにすぐれた」という比較のことばが強調されながら「さらにすぐれた契約の仲介者」という表現に読者の目が向かいやすく記されています。
7節の原文でも「契約」ということばは記されず、また8節の初めでも「人々」ということばも原文にはなく、最初のものの「欠け」のゆえに第二のものが求められるというテーマが強調され、8節後半の「新しい契約」に目が向けられます。
8-12節はエレミヤ31章31-34節のギリシャ語七十人訳をほぼそのまま引用します。これは新約聖書中、最も長い旧約の引用であると言われます。
それは「見よ、その時代が来る」から始まりますが、31章の初めでは、神がエルサレムを滅ぼし、イスラエルの民を遠いバビロンに追いやったあとの民の回復の希望が記されます。
そこで「主(ヤハウェ)は遠くから」はバビロンにいるイスラエルの民に「現われ」、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛(ヘセド)を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る」(3,4節)と約束されたという、神の真実の愛(ヘセド)の中でのイスラエルの回復が記されます。
そしてその15節では、「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが」ということばが記されています。これはイエスの誕生後にヘロデ大王がベツレヘムの二歳以下の男の子をすべて殺させたという悲劇と結びついてマタイ2章18節で引用されます。それも新しい時代の到来に伴う産みの苦しみと言えます。
とにかく、キリストあって「新しい時代が到来する」ということが示唆されているのです。
そして、「そのとき、わたしは……新しい契約を実現させる」と記されますが(8節)、これは著者が強調したことばで、もともとは「新しい契約を結ぶ」と記されていました。そして続けて、「それはわたしが彼らの先祖と結んだ契約のようなものではない」と記されながら、シナイ山で結ばれた契約のことが「彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日のもの」と説明されます(9節)。
それ以降の文章には、ヘブル語聖書との違いが若干あります。第一にヘブル語の方では「彼らはわたしの契約を破った、わたしは彼らの主(夫)であったのに」と記されていることが、ギリシャ語では、「彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」と記されています。
ヘブル語の方では神とイスラエルの民の契約関係に目が向けられながら、それを彼らが破ったという罪が強調されます。一方で、ギリシャ語の方では神が彼らを「顧みなかった」ということが強調されています。その分、ギリシャ語訳では、最初の契約の「欠け」に目が向けられます。
契約の「欠け」とは、神は彼らが「初めの契約にとどまる」ことができないと知っていたはずなのに、そうなったときに「顧みなかった」と描かれているとも言えましょう。確かに、神は多くの預言者を送って回心を促しましたが、それが彼らの心に届かないことをも知っておられたからです。
3.「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心に書き記す」
そして10節では、「これは契約である」ということばから始まり、「これらの日の後に、わたしが結ぶものは」と記され、「新しい契約」のことが紹介されます。
そしてその内容が、ヘブル語聖書では、「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記す」となっていた表現が、ギリシャ語訳では「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心に書き記す」と記されています。
「心の中に書き記す」という画期的なことは同じなのですが、それ以前に「思いの中に置く」と、主の律法(トーラー:御教え)が人々の心の奥底に根付くという面が強調されています。
ここでもシナイ契約にあった「欠け」が示唆されています。それは、以前の契約が、彼らの頭の上を通り過ぎて行ったというようなニュアンスです。
コリント人への手紙第二3章3節では、パウロはこれを前提に、「あなたがたが……キリストの手紙であることは、明らかです。それは墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです」と大胆に記しています。
ヘブル書の著者にとってもパウロにとっても、エレミヤ31章に記された「新しい契約」がどれほど大きな意味を持っていたかが明らかです。それは旧約聖書の中に驚くほど明確に記された新約の福音です。
ここでは、「律法の文字」が変わったのではなく、与えられ方が変わったということが強調されています。それをパウロは、「文字は殺し、御霊は生かすから」(同3:6)と解説しました。それは律法が、石の板に記されたさばきの基準としてではなく、人間の思いの中に置かれた、人々の心を内側から動かす教えとなったという意味です。聖霊がそれを可能にしました。
そして、その律法(トーラー:御教え)が実現する新たな関係が、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と記されます(10節)。これはイザヤ65章17節以降の「新しい天と新しい地」での描写では「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」と描かれます。
また黙示録21章3節では、その交わりが全世界の民に広げられて、「見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」と記されます。
そのときに実現することが、「彼らは教えることがない……『主を知れ』と言うことによって」と描かれます。この「知れ」とは、単なる知識ではなく、「愛せよ」という意味が込められています。
これはイエスが律法の核心として申命記から、「聞け(教えを受けよ)、イスラエルよ。主(ヤハウェ)は私たちの神。主(ヤハウェ)は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(6:4,5)と引用されたことに通じます。
そこでは続けて、「これをあなたの子どもたちに良く教え込みなさい」(7節)と記されていましたが、そのような必要がなくなる時が来るというのです。その理由がここでは、「彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ」(11節)と記されます。
これは一人ひとりが、教えられることなく、自分の真心から、神を愛するようになることです。私たちの神への愛は、いまだなお成長途上にありますが、それでも共通するのは、それぞれが何ら洗脳的に教えられることも、強制されることもなく、あるときふと、イエスの十字架の愛を知り、目に見えない創造主に向かって、「お父様!」と呼びかけ、信頼できるようになったということです。
ここに聖霊のみわざの核心があります。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と記されているとおりです(Ⅰコリント12:3)。
さらにここでは、神ご自身の約束として、「わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ」(12節)と記されます。これはイスラエルの民の罪が赦され、アブラハム契約の原点、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)という、全世界の民族の祝福が、イスラエルを通して実現されることのきっかけです。
パウロはイスラエルの民に関して、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」とまず記し、その上でその目的を、「それはアブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした」と描いていました(ガラテヤ3:13,14)。
8章13節の原文では、「神は『新しい』と呼ぶことで初めのものを古いものとされました。年を経て古びたものは、間もなく消え行くものです」と訳すことができます。
これは決して、旧約の教えがもう必要がないというのではなく、契約が石の板に記されていたというシナイ契約の形が消えてなくなったということを意味します。事実、バビロン捕囚以来、十のことばが刻まれた「石の板」は、「契約の箱」とともに行方不明になっているからです。
そして、律法によれば、いけにえは常に、「契約の箱」の前で献げられるものでした。ここで強調されているのは、そのシナイ契約に規定されていた礼拝の形が消えたという点であることを忘れてはなりません。なぜなら、この文脈の中心は、祭司職の変化にあるからです。
私たちにとっては「いけにえを献げない」ことは当たり前でも、この手紙を読んだヘブル人にとっては自分たちの世界観が根本から変えられるようなできごとだったということを思い起こさなければ、ここの意味は理解できません。
「新しい契約」とは、神が「わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心に書き記す」と言われたことでした。旧約の文言が「古く」なったのではなく、キリストが完全な大祭司として、神と人とを隔てる幕を取り去り、ご自身の御霊を私たちの心の中に送られたことにあります。
私たちはイエスの御名によって、恐れることなく、大胆に創造主の御前に立つことが赦されました。これこそ「新しい契約」の核心です。
それは聖霊のみわざです。その恵みをパウロは、「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:17,18)と大胆に記します。
私たちはすでに「キリストの手紙」とされ、「栄光から栄光へと」変えられる途上にあるのです。この聖霊のみわざこそ、旧約と新約の決定的な違いです。
しかし、それはすでに申命記30章において、シナイ契約が振り返られる中に明記されていたことでした。キリストはその意味で、「わたしは律法……を……成就するために来た」と言われたのです(マタイ5:17)。
旧約の大祭司は、毎日いけにえを献げる必要がありましたが、イエスは「ただ一度で、そのことを成し遂げられた」からです。