今から50年前、米国はベトナム戦争の泥沼化に苦しんでいる中で、Love & Peaceを掲げた反戦運動が盛になっていました。残念ながら当時の米国においては、キリスト教は戦争を正当化する宗教と見られていました。
同時にその年は、アポロ11号が月面に着陸した年でもあります。人々は新しい時代の幕開けを期待していました。そこで盛んになったのがニュー・エイジ運動です。これは決して古い話ではありません。先の大統領選でヒラリー・クリントンがドナルド・トランプに負けた最大の理由の一つに、米国の福音派がヒラリーのリベラル路線に反発したからと言われます。そこにはヒラリーがニュー・エイジ運動に共感し、霊媒によって過去の偉人と霊的交流をしていたという疑惑もありました。
そして残念ながら、福音派=トランプ支持=世界の対立を煽る教えというサタンの宣伝に多くの人々が惑わされてしまっています。
詩篇42、43篇はセットになった詩篇です。それは三部に分かれ、それぞれで「私のたましいよ、なぜうちしおれて(うなだれて、絶望して)いるのか……うめいて(思い乱れて)いるのか」と問いかけられます。
私たちはだれでも、この世の現実にある様々な争いの中で傷つき、苦しみます。聖書の教えは、この世界から自分に敵対する勢力を取り除こうとするものではなく、矛盾のただ中で「うちしおれ、うめいて」いる気持ちを正直に受け止め、すべての解決を神に委ねるというものです。
対立がないかのようにふるまうのではなく、そのただ中に身を置いて、「神に向かって叫ぶ」生き方です。なぜなら、イエスは敢えて敵の攻撃に身を任せて十字架にかけられ、敵の赦しを神に願われたからです。
人の行動は合理的な考え方以前に感情に支配されています。そして感情は、善と悪に二分化できるものではありません。詩篇の世界はニュー・エイジの教えのはるか前から私たちの心の奥底に語りかけ、心に自由を生み出してきました。ニュー・エイジを批判する必要もありません。本物が前面に出てくれば、偽物は色あせて見えるだけですから。
1.「私のたましいは、神に、生ける神に渇いています」
作者は自分の心の中に、「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」(1節)ような、激しい「渇き」があると告白します。
当地での日照りは、「野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ」(エレミヤ14:5)と描かれほどに悲惨なもので、そのとき「水」は「深い谷底」にしかなく、鹿はそれを遠くに見て「慕いあえぐ」ことしかできません。
同じように、作者は今、「生ける神」を遠く感じて、激しく「渇いて」いるというのです(2節)。
しかもここで、「いつになったら私は行って、神の御顔を、仰ぐことができるのでしょう?」と嘆いているのは、この詩篇の作者が、エルサレム神殿とその礼拝の交わりから遠く離された場所で、異教徒たちの間に住み、一日中、「おまえの神はどこにいるのか?」と嘲られ、「昼も夜も」自分の「涙」を「食べ物」にするような悲惨の中に置かれているからです(3節)。
そのような中で、この作者は、かつて自分がエルサレム神殿へと「人々の先頭に立って歩み」、「祭りを祝う群衆の、喜びと感謝の」賛美をリードしていた体験を、遠い昔のことのように感じながら、「たましいを……注ぎ出して」祈っているというのです(4節)。
その際、著者は、「私のたましいよ。なぜ、うちしおれているのか?」と、自分のたましいの現実を正面から受けとめようとしています。なお「うちしおれる」は、新改訳第二版では「絶望する」と訳され、その後も今も、「うなだれる」と訳されています。
そのギリシャ語七十人訳は「深い悲しみ」という意味の言葉が用いられていますが、イエスのゲッセマネの園でのお気持ちも、「わたしのたましいは深い悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:38私訳)と表現されています。
つまり、私たちは自分が絶望感に圧倒されることを恥じる必要はないのです。それは、イエスご自身が私たちに先立って味わっておられた感情だからです。
多くの人々は、絶望を意識化できないからこそ、無意識に閉じ込められた絶望感に駆り立てられ、目標もなく走り回り、この世の成功や快楽によって心を満たそうとしているのかも知れません。あれだけの事件を起こしながら、オウム真理教の流れを汲む宗教には多くの若者が集ってきます。
そのリーダーの一人の上祐氏は、かつてのホームページで、「瞑想によって、体内に眠っている霊的なエネルギーが覚醒し、この世の何物でも味わえないような幸福感、歓喜を体験し、さらに進むと自分への囚われから全く自由になり、様々な欲望がなくなって、完全な静寂の境地、不動の心が得られる。そうなると、逮捕され、人に裏切られ誹謗中傷されても、苦しまなくなる……」と語っていました。
しかし、これは麻薬の作用と似ていないでしょうか。これと対称的に、19世紀のデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールは、「絶望は死に至る病である」と言いつつも、同時に「絶望できるとは、無限の長所である」と言っています。それは、動物は絶望しませんが、「神のかたちに創造された」人間は、絶望感を神に祈ることができるからとも言えましょう。
最近、普通の家で育った若者が簡単に犯罪に走りますが、それは「悩みを抱えられなくて、すぐにキレてしまう」からだと言われます。もし、世界の矛盾に目を開き、人の痛みに共感し、自分の心の闇を直視するなら悩むのは当然です。そこで、「悩みを抱える力」こそが問われているのです。
いつも「私は平安です!」と言っている人は、心が麻痺しているのかも知れません。愛は人の痛みへの共感から生まれます。様々な犯罪や反社会的行動は、心が麻痺した人によって起こされているとも考えることができましょう。
鹿児島ナザレン教会の牧師の久保木聡先生は刑務所の教誨師もしておられますが、苦しみの意味を次のように書いておられます。
苦しみは神の罰じゃない。 相手の苦しみに共感するための“道”であり、 自分の未熟さを知る“きっかけ”であり、 必ず救い出す神と出会う“窓”でもあるんだ
現代は「心の時代」と言われ、二千年間続いた魚(うお)座から水瓶(みずがめ)座の時代への幕開けとさえ言われることがあります。「魚」は初代教会のシンボルでしたから、それはキリスト教の時代の終わりを宣言することにつながり、「ニュー・エイジ(新しい時代)・ムーブメント」と称される様々な危ない教えが広まっています。
1969年にThis is the dawning of the age of Aquarius(これは水瓶時代の夜明けだ)という歌が世界中で大ヒットしました。それは平和が惑星を導き、愛が星々を動かす新しい時代だというのです。
しかし、現代の対立構造は、聖書の教えの限界を示すものではなく、近代合理主義思想、科学技術万能思想の限界を示すものと言えましょう。そして、残念ながら、多くの人々はその枠組みを無意識に受け入れているため、聖書の豊かさを読み取ることができなくなりがちです。
聖書には確かに明確な善悪の基準が書いてあり、それによると、LGBTを正当化する教えも、神による創造を認めない教えも、超能力的な霊媒も、無神論的共産主義も神の御教えに反しているように思えます。
しかし、そうは言ってみても、それぞれの主張の背後に、人間の尊厳や想像力、社会正義を求める熱い思いがあることも認めざるを得ません。その一つひとつを批判しても、かえってこの世の争いを加速するだけのように思い、葛藤を覚えます。そして、真理が優しく明らかにされることを求めて「渇き」ます。
そしてこの詩篇の著者も、自分の信仰を嘲る声の一つひとつに反論する代わりに、ただ神に自分の気持ちを訴えているだけなのです。
聖書は三千年前から、人間の心の底にある渇きは、神への渇きであると記しています。たとえば今から1600年前のアウグスティヌスという神学者は、放蕩な生活に溺れ、恍惚体験を売り物にする宗教に走ったあげく、真の神に向かって次のように告白しました。
あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。
ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、
安らぎを得ることができないのです
2.「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」という絶望
この詩篇の第二部は、「私のたましいは、私の前で、うちしおれて(絶望して)います」(6節)との告白から始まります。
彼は、神の神殿があるエルサレムから遠く離れたイスラエルの地の北の果て、ヘルモン山のふもとに置かれているのですが、そのような絶望の中だからこそ、「それゆえ、あなたを私は思い起こします」と敢えて言いながら、いつでも、どこでも、神を思い起こすことができることを示しています。
ただし、その際、かつて水のない渇きを感じた彼は、反対に、水が多すぎることの恐怖、「大滝のとどろき」に呑み込まれる恐怖を味わいます。
「深淵は深淵を呼び起こし」とありますが、「深淵(テホーム)」には当時、恐怖を抱かされるイメージがありました。それは地ができる前の闇に包まれた「大水」をも指します。
しかも作者は、それを「砕け散るあなたの波」と呼び変え、神のさばきの現れと受け止めています(7節)。
そして、そこで突然、作者の気持ちは、「昼には、主(ヤハウェ)が慈愛(ヘセド:変わらぬ愛)を施してくださいます。夜には、主の歌が、私とともにあります」(8節)と、不思議な感謝へと百八十度転換しています。
そして「私のいのち」はこの神との交わり自体、「祈り」にあると告白します(新改訳第三版)。「神への祈り」が「私のいのち」というのは驚くべき表現です。つまり、彼は、「もう駄目だ!」と思ったその時、神を身近に体験できたというのです。
それは、絶望と神の臨在の体験は、しばしば隣り合わせにあることを示しています。
さらに、その時こそ、人は自分の世界に閉じこもらず、「なぜ、私をお忘れになったのですか?なぜ、私は敵の虐げに嘆いて歩かなければならないのですか?」(9節)と自分の気持ちを正直に訴えることができます。
それは「私はあなたに信頼しているからこそ、人々から憎まれ、そしられているのです。こんな中で、なぜあなたは沈黙しておられるのですか?」と神に問いかけることではないでしょうか。
イエスも十字架で、「神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ」(マタイ27:43)と嘲られた時、「私の神、私の神よ。なぜわたしをお見捨てになったのでしょう」と叫ばれました。それは詩篇22篇1節そのものですが、この9節の叫びと基本的に同じ意味だと思われます。
信頼しているからこそ、正直な気持ちを訴えられます。
10節では3節にあった「おまえの神はどこにいるのか」という敵対者の嘲りの声が繰り返されます。それは神を知らない者にとっては、信仰者が「敵の虐げに、嘆いて歩かなければならない」(9節)ような姿は、神がおられないことのしるしにしか受け止められないからです。
しかし、日々、神に祈っている信仰者の心の中では、神への信頼の告白と、神への嘆きの訴えは、決して矛盾するものではありません。
そのような中で、11節では5節のことばが繰り返されますが、ここでは、「うめいているのか?」という疑問に「なぜ」が加わって「私のたましい」の苦悩がさらに強調されています。
ただし、作者は、その絶望感に圧倒されることなく、自分のたましいに対し、力強い父親のように振舞い、「神を、待ち望め」と語りかけます。つまり、自分のたましいの現実をまず優しく受け止めた上で、絶望感に呑み込まれないようにと励ましているのです。
しかも「私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を」と付け加えます。これは聖霊に導かれた自分が、肉に支配されたもうひとりの自分に向って語りかけているとも解釈できましょう。
キルケゴールは、先の文章に続き「けれども、絶望しているということは、最大の不幸であり悲惨であるにとどまらない、それどころか、それは破滅なのである」と言っています。つまり、絶望できることは良いことでも、それに留まり続けることは破滅だというのです。
私たちも絶望感を味わっている「私のたましい」に向かって、「なぜ、うちしおれているのか。なぜ……うめいているのか」と優しく寄り添うように問いかけながら、同時に「神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を」と呼びかけることができます。
しかも、6節での「私のたましいは……うちしおれています」という告白からこの賛美に向かう流れの中に、詩篇の祈りの神秘の核心があります。しかもこれこそ、人間イエスが実際に体験されたことなのです。
3.「あなたの光とあなたのまことを遣わし、導いて下さい」
そして著者は、まわりの現実に再び目を向けながら、「神よ、私のためにさばいてください」(43:1)と必死に祈ります。
聖書の中では、「さばき」ということばはしばしば、神の敵、また信仰者の敵に対して用いられていますが、ここでも「私の訴えを取り上げ……欺きと不正の人から、助け出してください」と、神が私の味方となってさばいてくださるようにと訴えています。
イエスは、ルカ18章1-8節で、「不正な裁判官」でさえ、一人の貧しいやもめが「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」と叫ぶ声に、耳を傾けるというたとえを持ち出しながら、「まして神は…選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか」と、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教え」られました。
そして、「あなたこそ、私の神、私の隠れ場です」(43:2)と告白しながら、再び「なぜ、私を拒まれたのですか」と自分の悲惨な現実を訴え続けます。それは自分が敵の前にいかに無力なものであるかを謙遜に認めることでもあります。
ですから、それに続いて、「あなたの光と、あなたのまことを遣わしてください。それらに私を導かせてください」(43:3)と願いました。私たちにとっては、イエスこそ、「光」であり「まこと」です。
そしてこれは、イエスと同じ「助け主」である聖霊が遣わされるようにとの祈りでもあります。私たちは、偽りの希望を捨てて、古い自分に死ぬことがない限り、真の意味で心の奥底に隠された絶望から抜け出すことはできません。
何と多くの人々が、表面的な笑顔の奥底に、底知れぬ絶望感を抱えながら生きていることでしょう。しかし、絶望感と向き合ってイエスにすがるところから、真のいのちの希望が生まれます。
ニュー・エイジの教えは、しばしば、自己啓発セミナーと結びつき、「あなたの願望は実現する」という幻想を抱かせます。それがたとえば、「修行によって、身体を浮かせることができる」などという無意味な修練にまでつながりました。
たしかに、それは、誤ったキリスト教道徳の中で、自分の心の底にある願望を押し殺してきたことへの反動でもありますが、正しい聖書の教えでは、自分の小ささや惨めさを知ることと、真の自由を味わうことは矛盾しません。
この世界の悲惨が人と人との願望のぶつかり合いから生まれていることを忘れてはなりません。
ただそこで、神の願いと自分の心の奥底の願いは、いつも矛盾するわけではないということも知る必要があります。先の久保木先生は、その逆説を次のような詩で表現しています。
「自分が嫌い」って思っててもいいよ。 (自己受容できてたほうがより良いけど……) ただ、 「あなたのことが大好き」って 思ってくれてる存在は 忘れないでほしい。 永遠に愛されてるんだから……
この詩篇作者は、神の「光」と「まこと」によって、神の神殿に戻され、喜びと感謝に満ちて礼拝することを願います(43:3,4)。同じように、私たちにとっての真の希望は天上のエルサレムです。私たちは、この地にいる限り、旅人であり寄留者として、神との交わりへの「渇き」を持ちつづけます。
しかし、神の御顔を直接に仰ぎ見るという「救い」は、既に保証されています。ですから、偽りの「新しい時代(ニュー・エイジ)」が提供する霊的な恍惚感に惑わされる必要はありません。私たちの「渇き」は神の導きの中にあるからです。
しかも、この詩篇では「私のたましい」に向かって、三度も、「なぜ、うちしおれているのか?なぜ、私の前でうめいているのか?」と問いかけられますが、それは叱咤激励するような意味ではなく、その気持ちに寄り添う語りかけと理解すべきです。
なぜなら、神の世界に関心を持ち、人の痛みに耳を傾け、ともに「うめく」ことから「愛」が始まるからです。この世界には、最初の人間アダムの罪によって弱肉強食の争いが生まれました。
そのため、ローマ人への手紙8章22-26節では、「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」と描かれながら、その世界の「うめき」を聴きながら、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も……私たちのからだがあがなわれることを待ち望むながら、心の中でうめいています」と記されています。
つまり、御霊を受けたものは、「うめく」というのです。ただし、そこには大きな希望が生まれます。なぜなら、そのとき「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」からです。
ここには、「被造物」、「私たちの心」、「御霊」による「うめき」の三重奏とも言える状態が見られますが、それは、世界に愛が広がり、世界に平和が実現するという過程でもあります。
なお、42篇5節では「御顔の救い」と記されていましたが、42篇11節と43篇5節では「私の顔の救い」と描かれます。
それは、人々に嘲られ、うなだれている顔が、喜びの「顔」に変えられ、神の栄光を反映して、輝き出すことを意味します。「救い」が顔に表されるというのです。それこそ信仰者の歩みです。
私たちは矛盾に満ちた地に遣わされるのですから、落ち込み、絶望感を味わうのは当然です。しかし、それに呑み込まれて、自己憐憫や被害者意識の中に閉じこもる必要はありません。
自分の気持ちを優しく受けとめつつ、その気持ちを神に委ねることができます。暗闇は、光を輝かせる舞台なのです。
キルケゴールは、「人間の最大の悲惨は、罪よりもいっそう大きい悲惨は、キリストにつまずいて、そのつまずきのうちにとどまっていることである」と述べています。「死に至る病」とは、キリストに絶望することに他なりません。しかし、私たちがこのお方にすがる限り、赦され得ない罪はありません。
聖書が語る「罪」とは、人間の道徳に反すること以前に、この赦しを拒絶するという不信仰です。自分で自分を義と認めようとするのではなく、イエスの義にすがることこそ神のみこころです。
三度イエスを否認したペテロは、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうと良い時に、あなたを高く上げてくださいます (Bow down, then, before the power of God now, so that He may raise you up in due time) 」(Ⅰペテロ5:6)と記しています。
そこから「You raise me up」という神への賛美が生まれました。次のように歌うことができます。
心が沈んでしまい、せつなくうめく時に 私はひとりたたずむ、あなたが来られるまで あなたは、私を支え、高めて下さるから そびえたつ山さえも、恐れず上って行く 心が騒ぐばかりで すべてがむなしい時 不思議な御手に包まれ 永遠の愛を知る あなたは 私を支え 背負って下さるから あらし吹く海さえも 恐れず進んで行く You raise me up, so I can stand on mountains You raise me up to walk on stormy seas I am strong when I am on your shoulders You raise me up to more than I can be.
詩篇42,43篇 指揮者のために。コラの子たちのマスキール 鹿が深い谷底の水を慕いあえぐように、 (1) 神よ。私のたましいは、あなたを慕いあえぎます。 私のたましいは、神に、生ける神に、渇いています。 (2) いつになったら私は行って、神の御顔を仰ぐことができるでしょう? 昼も夜も、私の食べ物は、涙ばかりです。 (3) 「おまえの神はどこにいるのか?」と、一日中言われながら。 私は昔を思い起こしては、たましいを私の前で注ぎ出しています。 (4) 神の家へと、私は人々の先頭に立って歩んだものでした。 祭りを祝う群集の、喜びと感謝の、その声の中を……。 私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか? (5) 私の前で、うめいて(思い乱れて)いるのか? 神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。御顔の救い、私の神を。 私のたましいは、私の前で、うちしおれて(絶望して)います。 (6) それゆえ、あなたを私は思い起こします。 遠いヨルダンの地から、ヘルモンとミツァルの山から。 あなたの大滝のとどろきに (7) 深淵は、深淵を 呼び起こし 砕け散るあなたの波は みな、私を呑み込みました。 しかし、昼には、主(ヤハウェ)が、慈愛(ヘセド)を 施してくださいます。 (8) 夜には、主の歌が、私とともにあります。 私のいのち、神への、祈りが。 それゆえ、私の岩であられる神に申し上げます。 (9) 「なぜ、私をお忘れになったのですか? なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩かなければならないのですか?」 私に敵対する者どもは、骨を砕くほどに、私をそしり、 (10) 一日中、私に向かって言っています。 「おまえの神はどこにいるのか?」と。 私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか? (11) なぜ、私の前でうめいて(思い乱れて)いるのか? 神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を。 神よ。私のためにさばいてください。 (43:1) 私の訴えを取り上げ、不真実な民の言い分を退けて下さい。 欺きと不正の人から、私を助け出して下さい。 あなたこそ、私の神、私の隠れ場なのですから。 (2) なぜ、私を拒まれたのですか? なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回らなければならないのですか? どうか、あなたの光と、あなたのまことを、遣わしてください。 (3) それらに、私を導かせて下さい。 あなたの聖なる山、御住まいに向かって。 そして私は、神の祭壇、私の最も喜びとする 神のみもとに行き、 (4) 立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。 神よ。私の神よ。 私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか? (5) なぜ、私の前でうめいて(思い乱れて)いるのか? 神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を。 ✦ 翻訳責任:高橋秀典2008年 注:詩篇42,43篇はひとつの詩であったと思われる。「マスキール」の意味は不明。 1節の「深い谷底」は、原文ではこのような意味を表す一つのことば。 2節の「……なったら……できる」は、原文にはないが、意味を明確にするために付加した。 4節の「昔」とは、原文では「これら」と記され、4節後半の昔の思い出を指している。 5節の終わりの「私の神」は、6節の初めに記される場合が多いが、節は霊感されていない。 6節の「遠い」は、これらの地がエルサレム神殿から遠く離れていることを説明するために付加。 8節の「慈愛」は原語で「ヘセッド」と記され、神の契約の愛を意味することば。 43:1の「不真実」とは、42:8の「慈愛(真実の愛)」と訳した言葉に否定形をつけた形容詞表現