福音派の教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「あなたは救われたのです」と喜び合います。それは誤りではありません。しかし、その後の生き方に成長が見られないばかりか、教会から離れる人さえいるという現実を見ると、「神のかたちとして成熟を目指して生き始めるスタート台に立った」という面の強調も必要かと思わされます。
最初に読まれた詩篇84篇には、「心の中に シオンへの大路のある人は……涙の谷を過ぎるときも そこを泉の湧く所とし……力から力へと進み シオンで神の御前に現れます」という、厳しい社会の中で生きながら、成熟を体験し、ゴールを目指すということが歌われています。
この世の困難の中に飛び込む、ダイナミックな、希望に満ちた歩みこそ、キリストのあるいのちです。
1.「義のことばを味わい……善と悪とを見分ける」
5章11節の初めのことばが、「この方」というメルキゼデクに関することなのか、新改訳の脚注にあるように、「このこと」というキリストの大祭司としての働き全般に関することなのかについては意見が分かれます。しかし、キリストが旧約の大祭司の枠をはるかに超えているという点では同じです。
主の大祭司としての働きに関しては4章14節以降で述べられ、さらに8章では復活のイエスが神の右の座に就き、天の聖所で仕えておられると描かれます。多くの人はイエスを最初の大祭司であるアロンの働きを完成した方として理解しがちですが、ここではその大祭司職は「メルキゼデクの例に倣う」(5:10)ものと描かれます。
この時代のユダヤ人クリスチャンは、なお神殿での様々ないけにえにまつわる儀式から完全に自由になってはいませんでした。
そのことがここでは、「このことについて私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに関して怠け者になっているからです」と記されます。
さらにこの手紙の読者に関して、「あなたがたは時間からすれば教師になっているべきはずなのに、神のお告げの初歩的な原則を、もう一度誰かに教えてもらう必要があります。あなたがたは、固い食物ではなく、乳が必要にさえなっています。乳を飲んでいる者はみな、義のことばを味わうまでにはなっていません。幼子だからです。固い食物は大人のものです。それは、善と悪とを見分ける感覚を経験によって鍛えられているからです」(5:12-14)と記されています。
つまり、この手紙の受け取り手は、イエスを救い主と告白して以来、教師になって良いほどの時間が経っているのに、信仰の基本がまだ身についていないというのです。それは年齢的には大人になっているはずなのに、幼子のままに留まって、ミルクばかりを飲んでいる未熟な状態を指します。
それに対して、大人として成熟するとは、「義のことば」を味わうようになっていることで、何が神に喜ばれ、何が神に嫌われることかを自分で見分ける感覚が、様々な経験を通して身についている状態を指します。それは当時としては、キリストにある新しい歩みを始めたはずなのに、いつまでたってもユダヤ人の神殿礼拝にまつわる習慣から離れられない信仰者を指すと言えましょう。
日本の教会にも、日本的な習慣から自由になることができない信仰者が多いかもしれません。神の救いのご計画の全体像から神の義のことばを味わい、それぞれの置かれている場で、今、ここで何をすべきかを見分ける感覚が身につけているような人が少ないのかもしれません。それは幼子のままに留まっている信仰と言えましょう。
そのような人も、日本人として幼い時から訓練を受けているせいで、教会でクリスチャンらしく振舞うということはすぐに身に付きます。しかし、クリスチャンとして日本の社会で、日本的な常識から自由に、神のみこころが何かを自分で判断する感覚が身についていない場合があります。
「義のことば(教え)」というとき、私たちはまず、神がこの世界をどのような状態に造り変えようとしているかという大枠を理解する必要がありましょう。
ペテロの手紙第二の3章では、この目に見える世界が「火で焼かれ」て「過ぎ去る」と描かれながら、そのゴールに関しては、「私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(13節)と記されています。今の世界では、様々な不条理ばかりが目に付き、多くの人は正義よりも、損得勘定で動きがちです。しかし、神はご自身の「義」が満ちる世界を再創造してくださいます。私たちはその実現を先取りして生きるように召されているのです。
当時のユダヤ人クリスチャンの問題は、キリストを知らないユダヤ人の生活習慣から自由になれないことでした。同じように、今の日本人クリスチャンの問題は、偶像礼拝の伝統や村社会の価値観から、心の底で自由にされていないことを無自覚のまま、異教徒の日本人の眼差しを意識しすぎることかもしれません。
神の義のことばを自分で味わい、矛盾に満ちた社会の中で、心の奥底からイエスを自分の主として告白し、「イエス様だったら、ここでどうなさるか……」を自分で思い巡らすという経験を積むことではないでしょうか。私たちはそのような意味での、信仰の成長を望んでいるでしょうか。それが問われています。
2.「初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか」
6章1-3節の原文は、「ですから私たちはキリストに関しての初歩的なことばを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。それは再び基礎を築き直したりしないという意味です。それは死んだ行いからの回心と神への信仰、種々のバプテスマについての教えや手を置くこと、死者の復活と永遠のさばきです。神がお許しになるなら、それを行いましょう」と記されています。
ここには六つの基礎的な教えが記されますが、それは三組に分けることができます。それらは当時のユダヤ人の間での基本的な信仰の実践の延長とも言えました。
第一組の基本は、偶像礼拝の習慣を捨てて生ける神に仕えることを意味します。洗礼を受ける前の伝統的な誓約の最初には、「あなたは、いっさいの偶像礼拝と、それとまぎらわしい行為を行わず、悪魔とその力とむなしい約束をことごとく退けますか」との問いかけがあり、その後「あなたは、天地の創り主、全能の父なる神を信じますか」という問いかけがあります。
第二組の「種々のバプテスマについての教え」とは、レビ記等に記されたきよめの洗いからクリスチャンのバプテスマに至る教えを指すと思われます。「手を置くこと」はイエスが子供の頭の上に手を置いて祈られたことに始まり(マタイ19:13)、使徒たちがバプテスマを受けた者の上に手を置いて祈ることで聖霊を受けたこと(使徒8:17)、また、ある働きのために聖別する按手の祈り(使徒6:6)などがあります。
ただここではバプテスマを受けた人の上に手を置いて、その後の祝福に満ちた信仰生活のために祈ることを指していたのかと思われます。
ここでの最大のポイントは、第三組の「死者の復活と永遠のさばき」とも言えましょう。ダニエル12章2、3節に「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空のように輝き……」という終わりの日の復活と最後の審判のことが記されていましたが、クリスチャンとはその復活を先取りして生きる者です。
ですから、ここでの「初歩」を超えた問いかけとは、「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることになる」(ローマ6:8)とあるように、キリストにある復活のいのちを今この時から生き始めるということを理解しているのか、という意味だと思われます。
これはキリスト教会でしばしば、「あなたは救われました!」と言われて、「地獄に落とされる恐れはなくなった……」という面ばかりが強調されながら、クリスチャンとしてこの矛盾に満ちた社会で、どのように生きるべきかが明確に示されていないという問題を指していると言えます。
そして、6章4-6節の原文では、「不可能です」ということばから始まり、「悔い改めに立ち返らせることは」で終わる文章の中に、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいことばと来たるべき世の力を味わったうえで、なお、背いてしまうなら」ということばが入っています。
これはキリストのうちにある復活のいのちを実生活の中で味わいながら、しかも、その道から外れた者が、神に立ち返ることは不可能であるという恐ろしい宣言です。それは、すばらしいごちそうを喜んで食べた後に、それを自分で吐き出すようなことで、普通はあり得ないことを指しています。
そしてそのような背教は、「自分で神の御子をもう一度十字架にかけ、さらし者にする」ことであると厳しく戒められます。
これは、真のクリスチャンでも信仰を失うことがあるという意味で理解されることがあります。しかし、使徒ペテロものろいをかけて三度もイエスを知らないと誓いながら、信仰を回復することができました。それはイエスがペテロの信仰がなくならないように祈ってくださった結果でした(ルカ22:32)。ヘブル書で繰り返し強調されていることは、「キリスト・イエスが神の右の座に着いて私たちのためにとりなしていてくださる」ということです。
ここでの文脈は、「真の信仰が失われることがあるかどうか?」ということではなく、「初歩的なことばを後にして、成熟を目指して進もう」ということにあります。信仰の基礎をもう一度学びなおすよりも、キリストのうちにある復活のいのちの豊かさを味わうことこそが大切です。
そして、それを真に味わった者が、「後戻りすることなどはあり得ない!」ということが、ここでは逆説的に強調されていると考えられます。
先の「一度光に照らされ」とは、この世界や自分や家族の現実を、神の視点から「高価で尊い」と見られることです。
第二に「天からの賜物を味わう」とは、この世の現実の生活の中で自分を超えた力が内に働いているのを感じられるような体験です。信仰者はどこかで、多かれ少なかれ、そのような体験をしています。
第三は「聖霊にあずかる者となる」ことです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』ということはできません」(Ⅰコリント12:3)とあるように、信仰告白自体が聖霊のみわざであり、神と人とを愛する力自体が聖霊のみわざです。
第四は「神のすばらしいことばを味わう」ことです。私たちはどこかで、聖書のことばを、神から自分への語りかけと味わったことがあるはずです。
そして第五は「来たるべき世の力を味わう」ということです。それはたとえば、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)というみことばの真理を心から味わうことでもあります。
私たちはみなどこかで、キリストにある復活のいのちを味わっているはずなのです。そして、そのような体験をした者が、再び神の御子に反抗し続けることがあり得るでしょうか。
なお、世界中の人々から愛されている讃美歌「Amazing Grace(驚くべき恵み)」の著者ジョン・ニュートンは、幼い時に母親からみことばをしっかり学び、多くの聖句を暗唱していました。しかし、その母が亡くなってから彼の人生は狂いだし、奴隷貿易の仲間になっていました。
皮肉にも、彼は母から習ったみことばを用いて、聖書の教えを嘲ってしまうほどに堕落していました。しかし、嵐の中で船が沈みそうになったときに、このヘブル6章4-6節のみことばが頭に浮かび、恐怖におののきます。「俺がこのまま死んだら、恐ろしい地獄のさばきが待っている……」と心から怯え、主の助けを求めました。
しかし同時に、主が「求める者には聖霊を与えてくださる」とのみことばが思い浮かび、自分にはまだ希望があると確信できました。
つまり、このヘブル書のことばは、「永遠のいのち」を失う可能性があるということを証拠づけるテキストではなく、中途半端な信仰を持った人に神への恐れを生み出し、回心に導くためのみことばなのです。
3.「最後まで、希望についての確信に満たされ続けること」
6章7節の始まりは、「土地は」ということばから始まり、「たびたびその上に降る雨を吸い込んで、耕す人たちに有益な作物を生み出すなら、神からの祝福にあずかります」と、土地がうまく雨を吸い込で、有益な作物を生み出す作用を持つべきことが記されます。
それとの対比で8節では、「(土地が)茨やあざみを生えさせるなら、無用とされ、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまいます」と、土地が無用のものとしてのろわれ、焼かれてしまうという悲惨が描かれます。後者の「土地」とは、4,5節に描かれた神からの恵みを無駄に受けた「見せかけの信者」のことを指します。私たちもそのように見られるでしょうか?
ただし、9節は、「しかし私たちはあなたがたについてはこう確信しています」ということばから始まり、「愛する人たち、さらに良いこと、救いに結びつくことを」と記し、「このように言っていたとしても」ということばが追加されています。
つまり、先の警告はこの手紙の読者には当てはまることはないと確信していながら、それでも念のためにこのように記した、というのが先の趣旨なのです。その理由は、「神は不誠実な方ではないので、あなたがたの働きや愛を忘れたりはしない」からです。
さらに「それらはあなたがたが神の御名のために示してきたことで、聖徒たちに仕えてきたこと、また仕え続けていることです」と記されます(10節)。つまりここでは、この手紙の読者が、神の御名のために聖徒たちに仕えてきたこと、また今も仕え続けているという働きと愛を、神は決して忘れることなく、報いてくださると、保証されているのです。
そして、11,12節では、「私たちは切望しています」ということばから始まり、「あなたがた一人ひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで希望についての確信に満たされ続けることを」と記され、その目的が、「それは怠け者となることなく、倣う者となることです。信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちに」と記されます。
つまりここでは、怠け者になることなく、信仰を全うした人の模範に倣うということが強調されているのです。
私たちの信仰に関して、「途中までは熱心に信じていたけど……」ということほど、愚かな、悲しいことはありません。信仰の本質とは、「希望についての確信に満たされること」また、「約束されたものを受け継ぐこと」にあります。
信仰においては、途中であきらめてしまったら、それまでのことがすべて無駄になるばかりか、「やがてのろわれ、最後は焼かれてしまう」という悲惨が待っているのです。
ただし、私たちはその歩みを自分の肉の力でするのではありません。イエスはすでに神の右の座に着き、大祭司として私たちのためにとりなしていてくださいます。そして2章18節に記されていたように、「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができる」方なのです。
何よりも注意すべきことは、自分で自分の心を閉ざしてしまうことです。7節に描かれた土地のように、私たちは神からの恵みの雨を吸い込んで、神からの光に自分自身を露わにし続けるべきです。
神のかたちに創造された人間には、すべて、自主的に働く意思が与えられています。それは隣人に対する愛として現わされると同時に、反対に、自分の身を自分で必死に守ろうと臆病になり、あらゆる危険の可能性に心を閉ざすということにも現れます。
神が開いてくださった可能性に心を開き続け、自分の身を差し出し続けるなら、あなたの将来はどんどん開かれて行きます。主ご自身があなたを守ってくださいます。
ジョン・ニュートンは23歳のときに劇的に創造主に立ち返りますが、皮肉にも、それまでの働きが認められて、奴隷船の船長に抜擢されます。彼はイエスに出会った後も「アフリカの黒人を人間として扱う」ことが神のみこころだとは分かっていませんでした。
彼の妻は、ジョンがその仕事から安全に離れることを願いつつ、航海の間、聖書だけは読み続けるようにと約束させます。彼は六年間、奴隷船の船長としての働きを続けますが、徐々にその仕事の忌まわしさに圧倒されます。その後、航海から帰って愛する妻とお茶を飲んでいると、突然、意識が消えて倒れます。この発作を機に、船乗りの仕事を辞め、税関職員の働きに着きます。
その後、ヘブル語やギリシャ語の学びを自分でしながら、回心から10年後に英国国教会の司祭に志願し、六年たって受け入れられます。
彼がAmazing Grace(驚くばかりの恵み)を記すのは1773年の47歳の時です。彼はそのとき、黒人奴隷の救いを望んでその歌詞を書くという思いはまったくありませんでした。しかし、この歌は1835年に米国南部で、黒人の方々に親しまれやすいメロディーがつけられ、黒人たちに安らぎや慰めを与える歌として広がります。その理由の一つは、かつての奴隷船の船長だった人が、奴隷解放の伝道師として生涯を全うできたということが大きな理由だったと思われます。
ただし、彼が奴隷貿易廃止法案の成立のための運動に加わるのは、回心から38年後、また牧師の任職を受けて22年もが経過した1786年のことでした。ジョンのことを心から尊敬していた若い国会議員のウィリアム・ウィルバーフォースは、ジョンが奴隷貿易に関わっていたことを知って、協力を求めてきました。
ジョンはそのとき、自分の忌まわしい過去の所業を明るみにさらけ出すことへの恐れを感じました。しかしすぐに、「神は、奴隷貿易の廃止という使命に参与させるために、私を今まで多くの危険から守り導いてくださった」と示されます。
実はそれを彼はすでにAmazing Graceの3番で「Thru many dangers, toils and snares I have already come; this grace has brought me safe thus far, and grace will lead me home(多くの危険や企み、罠を私は通って来た。この恵みが今まで安全に導いてくれた。さらに恵みが私を永遠の住まいへと導く)」と歌っていたからです。
妻のメアリーも、牧師を首になってもいいから、この運動に加わるようにと励ましました。この法案が英国議会で可決されるのは20年後の1807年ですが、ジョンは法案可決の9か月後に、天の神のもとに召されて行きます。そこに神の驚くべき摂理を見ることができます。
ジョン・ニュートンの生涯を見るとき、「義のことばを味わい、善と悪とを見分ける」という意味での信仰の成長には時間がかかるということが分かります。彼は幼い時、母親を通して神の光に照らされ、神のすばらしいみことばを味わっていました。しかし、七歳を迎える前に母が死んだのを見て、神に対する怒りの気持ちをため込むようになります。
その後、暗唱していた聖句によって、神の恐ろしいさばきに目覚めますが、彼の価値観は当時の世界の常識的な考えに囚われたままでした。たとえば1776年のアメリカの独立宣言では、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と記されていましたが、その時代は、アフリカからの奴隷が盛んにアメリカに引っ張って行かれていたときでした。人権宣言の「すべての人間」の中に、アフリカ人が含まれていなかったのは明らかです。
しかし、ジョンは、その不当性が解決されなければならないと示されたとき、自分の過去の罪深い働きを公にすることで、黒人奴隷の救いのために働く者となりました。彼はその時その時の神からの語りかけに応答した結果、神の働きのために用いられることができたのです。
しかも、回心の時もその後の働きにおいても、「来たるべき世のいのち」にしっかりと目が向かっていました。「希望についての確信に満たされる」ことが、目先の損得勘定を超えさせたのです。信仰とは、永遠の視点からこの世界を見られるという神秘です。自分の狭い殻を破って世界に出て行きましょう。