2018年8月12日
私たちはみな、自分にとっての「常識」の枠で他人を「さばく」ものです。そして、「これはできて当然で、できないのはやる気がないから……」などということがあります。
使徒パウロがユダヤ人から命を狙われたのは、「神の民」となるための基準を下げたからとも言えます。ところが後のキリスト教会は、ユダヤ人が自分たちの生活習慣に固執し、キリストにある自由を受け入れようとしないことを非難し、彼らを迫害しました。キリストの十字架を「敵意を生み出す隔ての壁を打ち壊す」ものとして理解できているかが問われます(2:14)。
福音自由教会での会員受け入れの条件に「believers only but all believers(信者のみ、しかし、すべての信者)」という原則があります。ただ、「信者」の枠が人によって違います。
プロテスタント教会は洗礼や聖餐式、神の選びに関しての議論で分裂を繰り返してきました。最近は政治やLGBTも争いの種になり得ます。違いを許し合えなくさせるのはサタンの働きです。イエスを愛することにおいて一致できるなら幸いです。
1.「神はただひとりで、すべてのものの父です」
この書の鍵は1章9,10節の、「神は……みこころの奥義を知らせてくださいました……それは、一切のものが、キリストにあって(をかしらとして)、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」にあります。
それは、「キリストにある再統合(recapitulation)」とも言われます。
さらにパウロは3章8,9節で、「キリストの奥義」と自分の「務め」の関係を、「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、奥義の実現(計画の全体像、エコノミー)が何であるかをすべての人に明らかにするため」と記します。それは「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義」とあるように、異邦人も含めたすべての人間の創造のときという原点に立ち返らせます。
神は私たちの父祖のアダムとエバをその罪のゆえにエデンの園から追い出しましたが、今、「キリストをかしらとして一つに集められる」のです。
そして彼は、「この方にあって、私たちは確信をもって大胆に神に近づくことができます。それはこの方の真実によるのです。ですから、落胆することのないようお願いします、私があなたがたのために苦難に会っていることに関して。それはあなたがたの光栄だからです」(3:12、13私訳)と述べます。
私たちは、自分の信仰によってではなく、「キリストの真実によって」、「大胆に神に近づく」ことができます。私たちの信仰は、「キリストの真実」の反映にすぎません。しかも彼は、自分の苦しみの背後に、異邦人に「光栄」に満ちた救いをもたらそうと願うキリストご自身の熱い思いがあることに気づくようにと諭しているのです。
3章14節からパウロの祈りが記されますが、その始まりは、「このことのゆえに、御父の前に私のひざをかがめます」と記されます。私たちは「御怒りを受けるべき子」(2:3)と呼ばれた状態から、「神の子」とされました。
そして15節では、「その方によって、諸々の天と地上のすべての家族が名をつけられる」と描きます。ここにはギリシャ語での言葉遊びが見られます。「御父」はパテラ、「家族」はパトリアと呼ばれますから、「家族(パトリア)」という呼び名は「御父(パテラ)」に由来すると記されているのです。
なお「家族」とは「民族」とも訳すことができますから、ユダヤ人も異邦人も、同じ父なる神のもとにあるということが意図されています。
祈りの内容は、「どうか御父が……その聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」(3:16)というもので、それが「キリストをあなたがたの心のうちに……住まわせてくださいますように」と言い換えられ、それによって「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解して、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」と描かれます。
つまり、「内なる人が強くされる」とは、キリストの愛の全体像を理解できるようになることなのです(3:17-19)。最初のアダムは神の競争者になろうとして世界を混乱させましたが、私たちはキリストの愛を心の底から知る結果として「神の満ち溢れる豊かさにまで」「満たされ」るというのです。
ただし、それは個々人の内的な霊的成熟というより共同体の中に現わされるので、「この方に栄光がありますように、教会のうちにあって」(3:21)との頌栄でまとめられます。
4章1-3節の中心的な命令は、「御霊の一致を保つことに熱心でありなさい」です。これは、「一致を作りましょう!」という勧めではありません。日本ではそれが互いを委縮させ、各人の主体性を抑圧する雰囲気の原因となりますが、ここでの勧めの中心は、既に与えられた恵みを「保つことに熱心」であることです。
しかも、「御霊の一致」とは、「御霊」のみわざとしての「一致」です。私たちは目の前の問題の解決に忙しくなり、「謙遜と柔和の限りを尽くし」という大原則を忘れがちです。これはキリストと聖霊のみわざを忘れることがないように、主の恵みを覚え続けることに「熱心」であるようにという「勧め」と理解すべきでしょう。
パウロは続けて「御霊による一致」を、七回の「ひとつ(ひとり)」という表現で描きます(4:4-6)。「からだは一つ」とは、人間的な組織を超えたキリストのからだなる教会の存在を認めることですが、それは「一つの御霊」の働きです。
そこにはすべてのキリスト者の「望みが一つ」であるという希望の共有があります。たとえば、ユダヤ人と異邦人、韓国人と日本人との間には、悲しい過去がありますが、神の民として「召された」という点では、共通の「望み」のうちに生かされています。
また私たちにとっての「主はひとり」のイエスのみであり、基本的な「信仰」告白も「一つ」として共有され、生涯「一つのバプテスマ」しか受けません。
そして、教会組織が違っても互いの存在や違いを尊重することができるのは、「神はただひとり」であり、その方は「すべてのものの父」であり、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられ」るという原点があるからです。
私たちが「天のお父様!」とお呼びする方は、まさにこの世のすべてを支配しておられる方なのです。普遍的な教会を信じる原点は、まさに「すべてのものの父」から始まります。
2.「キリストのからだとしての成長」
4章11節では、普遍的な教会の専任の働き人のことが描かれますが、それは8節の「彼は……人々に贈り物を与えられた」ということばを前提として、「使徒、預言者、伝道者、牧師または教師」がキリストご自身からの最高の「贈り物」として描かれます。
具体的には現代の「牧師」の責任は、一人ひとりが喜んで「キリストのからだを建て上げる」という目的のために「奉仕」に励むことができるように「整える」ことです。
ここではその目的が、「神の御子に対する信仰と知識において一つになることに達すること」と同時に、「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達すること」(4:13)と記されます。
先には、既に与えられている「御霊による一致を保つ」ことが求められましたが、ここでは、「一致に達する」という目標が描かれます。残念ながら、今も昔も、様々な信仰のスタイルや聖書解釈があります。
そのような中で、牧師または教師に求められているのは、何かの目新しいことを教えるのではなく、すべてのキリスト者に共通して適用できる教え、また時代を超えて守られてきた信仰と教えに聖徒たちの目を向けることです。
それは同時に、「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく」(4:14)と描かれますが、誤った「教え」の背後には「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略」があります。
それで15節では、「愛において真実となり、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」と記されますが、これは「愛において」福音の真実を明らかにし、誤った教えを正すと理解できます。何よりも強調されているのは、「愛」によって、キリストの教えが彼らにとって真実なものとされてゆくというプロセスです。
しかも、ここでの「成長」は16節では、「キリストによって、からだ全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされる」と言い換えられます。「成長」を生み出すのはキリストご自身であり、それはキリストのからだとして「成長して、愛のうちに建てられる」ことが目標です。
ある人が、キリストの似姿に向かって成長しているなら、そこには、愛の交わりの成長も伴っているはずです。個人の成長と、教会としての成長は並行して進むからです。
また、「あらゆる節々を支えとして」という表現は、以前は「備えられたあらゆる結び目によって」と訳されていたように、一人ひとりにすでに「結び目」が備えられており、愛の交わりは、外から指導や強制によってではなく、一人ひとりのユニークさが生かされる形で、それぞれの主体性をもとに喜びのうちに生み出されるという意味です。
そのことがさらに、「それぞれの部分」である各人の、「その分に応じた働き(エネルゲイヤ)」がなされることよって、「成長して愛のうちに建てられる」と描かれます。
組織的には極めて未熟に見えながら、不思議に一人ひとりの目が群れの欠けた所に向かい、満たされるという共同体こそ、キリストのうちにある神秘体です。
その際、幼い子供が不完全な人間とは呼ばれないように、問題を抱えたひ弱な教会もキリストのからだとして、聖霊の宮としての美しさに満ちているということを忘れてはなりません。欠点を見る前に主のみわざを見上げましょう!そこに聖霊のみわざがあります。
3.「古い人を脱ぎ捨て……神にかたどり造られた新しい人を着る」
4章22-24節でパウロは、キリストのうちにある生活の変化を、「古い人を脱ぎ捨て……新しい人を着た」という、既に起こった立場の変化として描きます。それは古いアダムの生き方を捨て、キリストをその身に着ることで、バプテスマはそれを象徴する儀式でした。
その際、水から上がった直後に、新しい衣服を着させてもらうという習慣もあったようです。それは、奴隷の衣服を脱ぎ捨て、王家の衣服を身に着けるようなことです。
ただし、心の底では奴隷根性から自由になることがなかなかできません。その変化のきっかけは、「心(思い)の霊において新しくされ続ける」(4:23)ということです。これは、先に、「むなしい心(思い)」(4:17)と言われた状態から変えられたことによります。もともと人は、自分の肉の意思で、「新しい人」であるキリストを「着る」のではありません。創造主である御霊が、その変化を起こしてくださいました。
ところが私たちは、神が起こしてくださった変化を忘れ、古い生き方に逆戻りしそうになります。「心(思い)」がその変化について行かないからです。そこで必要なのは、私たちが既にバプテスマを受け、キリストをその身に着け、死の中からよみがえって、新しい歩みに入っているという霊的な変化の事実を繰り返し思い起こすことです。
私の心を長らく支配していた感情は、アルコール依存やギャンブル依存と同じような自己嫌悪と全能感の繰り返しでした。何かあるたびに、「馬鹿にされてたまるか……」という意地が自分を駆り立て、うまく行くと、「そら、見たことか!」と自分を誇ります。
私たちは自分の行動を動かす感情の力を謙虚に認める必要がありますが、それは困難なことです。実は、自分を弁護する必要を感じているということ自体が、その人の心が人の評価に左右されていることの最大のしるしです。そこで、大切なのは、自分のうちに沸きあがってくる昔ながらのアダムの感情を正直に認め、それが生まれることを神に告白しながら、神が私たちのうちに起こしてくださった変化に、感情がついて来るように待つことです。
それには時間がかかります。ただ、感情は、時と共に、意思と行動によって変えられてくるものです。心が神の救いのみわざに向けられ、神と隣人を愛するという具体的な行動に自分の意思を向けて行くときに、必然的に、神の平安がついてきます。
4章26節は、「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません。あなたがたが憤っている状態の上に、日を沈ませてはならない」と訳すことができます。私たちには怒るべき時があります。
ただそれが人間関係を破壊する激しい憤りに向かってはなりません。それで、ここでは「悪魔に機会を与えないようにしなさい」と警告されます。人の怒りの感情の中に悪魔は巧妙に入り込み、他者の人格否定を生み出すからです。
4.「神に倣う者となりなさい。御霊に満たされなさい」
5章1節では、「神に倣う者となりなさい」と、不可能と思えることが命じられます。それはキリストに倣う生き方でもあります。それと対極にある生き方が、「淫らな行い、あらゆる汚れ、貪り」で、原文の語順ではそれが最初に来て、「あなたがたの間では、それらを口にすることさえしてはいけません。聖徒にふさわしく」と記されています(5:3)。
そしてさらに、「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい」(5:8)と勧められます。そこでは、「光になりなさい」ではなく、すでに「光となっている」のだから、「光の子ども」としての誇りを持って「歩みなさい」と言われているのです。
その上で、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(5:10)と命じられますが、これは一人ひとりが誰かに命じられて行動するのではなく、主体的に、何が主に喜ばれることかを、主のみことばに照らして見分けるようにという勧めです。
そして、「それで、こう言われています」(5:14)と引用された詩は、初代教会で洗礼を授けるときに使われていた讃美歌ではないかと思われます。
そこで、「眠っている人よ。起きよ。死者の中から起き上がれ。
そうすれば、キリストがあなたを照らされる」と歌われています。
これは、自分が死に向かっているアダムの子孫であることに認め、目を覚まして、救いを求め始めるとき、神の救いの光が自分を照らすという意味です。キリストがあなたを照らすとき、あなたはキリストにあって「光」となっています。
さらに5章18節では、「ぶどう酒に酔いしれてはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」と記されます。「酩酊」は、しばしばこの世の秩序を越えさせますが、聖霊に満たされる時にも、私たちはこの世の人の評価や、様々な無意味なしきたりから自由に生きることができます。
両方とも人の心を自由にしますが、酩酊は放蕩を生み、聖霊は聖い生き方を生み出します。ところで、「御霊に満たされる」ことの意味には様々な側面がありますが、ここでは四つの側面が記されています。
その第一は、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り合う」(5:19)こと、第二は「主に向かって、心から歌い、楽器を奏でなさい」、第三は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」(5:20)です。御霊に満たされるとは、賛美と感謝に現わされます。
そして最後の第四は、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(5:21)という勧めです。御霊に満たされることは、互いを尊敬する、互いに従うという人間関係の中に現されるというのです。
それが具体的には、続けて、夫婦関係、親子関係、奴隷と主人との関係として表されます。そして、その日々の生活の人と人との関係に、「キリストをかしらとして一つとされる」という「再統合」を産む御霊の働きが現わされます。
5.「主にあって、その大能の力によって強められなさい」
6章10節では「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と記されますが、これは1章19節にもあった「キリストを死者の中からよみがえらせた力」が私たちのうちに「働く」ことです。ここではその力の目的は、「悪魔の策略に対して堅く立つ」ためと描かれます。人の力では悪魔に勝てないからです。
不思議なのは、6章14節からの描写は、イザヤ59章15節後半から描かれている神ご自身の救いのみわざそのもので、その神のみわざを私たち信仰者がキリストの代理としてこの世で行うと描かれているのです。
イザヤ59章16、17節では、「主は……ご自分の義を支えとされた。主は義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶり」と描かれますが、これは「主の御腕」としての「救い主」の姿であると解釈できます。ところが、これをもとにエペソ6章14-17節では、私たちがイエスの代理としてサタンが活動する世に遣わされるときのあるべき姿が描かれています。
何と、神は、ご自身のみわざを「救い主」を通して行うというより、この欠けだらけの私たちを用いて「キリストのからだ」である教会として行うようにと計画されたのです。
「真理の帯を締め」(6:14)とは、「ご自分の義を支えとされた」という神の「真実」を思い起こすことです。それが「神の正義の胸当て」をつけることにつながります。
足には「戦いの備え」の代わりに「平和の福音の備え」を履きます(6:15)。それは神の平和をこの世界に広げるためです。
「信仰の盾」(6:16)とは、自分の信仰の力ではなく、神の真実を思い起こすことです。サタンは、様々な不安を掻き立て、私たちがすでに「キリストのうちに守られている」ということを忘れさせ、私たちをキリストの愛の御手から引き離そうとします。
「救いのかぶとをかぶる」(6:17)とは、キリストの救いが既に始まっていることを思い起こし、そのみわざが完成することを待ち望むことです。
なお、イザヤでは「復讐の衣を身にまとい」と続きますが、これはもちろん私たちの責任ではありません。神が最終的にサタンの働きを完全に打ち砕くという希望の約束です。
神は、キリストの愛のうちにこの世界のすべてを再統合しようとされています。そのために神は、キリストの弟子の共同体としての「教会」を用いてくださいます。私たちは全世界的な「キリストのからだ」である教会の一部としてこの世に神の愛を証しするのです。
なおその際、ここに描かれている武具はすべて、防衛のためのものです。「御霊の剣」としての「神のことば」が唯一の攻撃の道具ですが、これはこの世の人々の無知を指摘するためというよりは、イエスの荒野の誘惑で用いられたように、サタンに対する勝利の手段です。
大切なのは、神とキリストのみわざがこの世の歴史を動かし続けているという神の真実を証しし、その真実の中に人々を招き入れ、世界中の人々が神の国の民とされ、創造主を礼拝することなのです。
キリスト者はサタンの支配から解放されはしましたが、サタンは今もキリストの弟子のうちに影響力を発揮しています。残念ながら、ルターが最晩年にユダヤ人迫害を正当化するような文書を書いたことにも、サタンの働きが現わされています。彼はユダヤ人に歩み寄った善意が仇となって帰ってきたことに激しく怒り「悪魔に機会を与え」ました(4:27)。
サタンは人と人との間に「敵意」をまき散らしますが、十字架は「敵意を打ち壊す」ものでした(2:14)。私たちは繰り返し、このキリストのみわざの原点に立ち返る必要があります。
ローマ帝国の時代に、クリスチャンが迫害を受けるたびに、キリスト教信者は爆発的に増えたと言われます。サタンの働きが激しいそのただ中に、キリストのみわざが露わにされます。
サタンは教会を分裂させようと画策しますが、私たちは十字架の前に遜ることによって、愛の交わりを築き続けることができます。
使徒パウロが囚われの身となったのは、ユダヤ人とギリシャ人が、「キリストをかしらとして一つにされる」という「奥義」の実現のためでした。それは現代的には、キリストの教会に様々な異なった背景の人が集められ、神の家族として組わされ、キリストのからだとして成長することを意味します。
またそれは、家族の平和、職場の平和として現わされます。ただ、奥義の実現のためにはサタンとの戦いが避けられません。