エペソ1章〜3章「奥義―キリストにあって一つに集められる」

2018年8月5日

信仰者の歩みは「キリストのうちにある生活」と定義できます。あなたは今、聖霊によってイエスの弟、妹とされ、イエスの父に向かって「アバ、父」と呼びかけます(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。信仰は徹頭徹尾、神から始まっているのです。

N.T.ライトは、「もしルターが、宗教改革の基本教理をガラテヤ書やローマ書からではなくエペソ書から語っていたらその後の世界が変わっていたかもしれない……」とまで述べます。当時の改革者は、カトリックの煉獄の教えを否定することに忙しすぎて、私たちの救いのゴールに関しての当時の人々の誤解を正すことまではできませんでした。

しかし、エペソ書は、個人の救いよりも、宇宙的な救いの物語を語っています。また、ルターがナチスドイツによるユダヤ人迫害の道を開いたとも言われますが、確かにそれは否定できない事実です。

残念なことに、ルターによる晩年の反ユダヤ文書を読むと、まさにヒトラーが言ったようなことが書いてあります。そこにはドイツの片田舎の農民出身者の偏見が満ち満ちています。当時の常識的な偏見でもありますが、金融業とそこから生まれる都市の文化や生活への誤解がありすぎます。私たちは都市も農村も、農業も金融業も、キリストにうちにある生活として、再統合できるのです。

1.「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」

 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」(1:4)というのは途方もない宣言です。あなたがあの地方のあの家のご両親のもとで育ったということも、すべてキリストのうちにある永遠の神の選びのご計画の中で実現したことだというのです。それを知ると、あなた自身の性格や体形や能力もすべて、神の賜物として受け入れることができます。

そして原文では続けて新改訳5節の終わりの「愛をもって」ということばが4節の終わりに記されます。つまり、「御前に聖なる、傷のない者とされる」という信仰の成長も、「愛をもって、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた」という神のご計画から始まっているのです。

しかも、「ご自分の子にしようと」とは一つの単語で、神が私たちをご自分の一人子イエスと同じ「立場に置く」という意味です。何と神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。

それを前提に、「この方にあって私たちは、その血による贖い、背きの罪の赦しを受けています」(1:7)と記されます。これは、イエスの血による「贖い」は、神と私たちの個人的な関係の回復をもたらすということです。

ただ同時に、それがこの「世界の救い」につながるということが続けて、「神は……みこころの奥義を知らせてくださいました。それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画が実行されるものです。それは、一切のものが、キリストにあって(をかしらとして)、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」(1:9,10私訳)と記されます。

ここでは今まで隠されていた「奥義(mystery)」が、今、私たちに知らされたというのですが、その核心は「キリストにある再統合(recapitulation)」とも訳すことができる神学用語です。

申命記28章~30章にあるように、神はモーセを通してイスラエルの民に「祝福とのろい」の選択を迫りましたが、愚かにも彼らは「のろい」を選び取り、国を失ってしまいます。しかし、彼らが散らされた国々で神に立ち返るとき、神は彼らをあわれみ、彼らを再び「(ひとつに)集め」、約束の地での祝福を回復してくださると約束されていました(申命記30:1-6)。

それがここでは、「キリストをかしらにしてひとつに集められる」というのです(10節新改訳脚注別訳)。それがこの新約の時代には、ユダヤ人ばかりか、異邦人を含むより大きな枠で実現するということで、神に逆らってエデンの園から追い出されたアダムとエバの子孫であるすべての人間に適用できることでもあるというのです。

私たちも自業自得の罪で、放蕩息子のような苦しみを味わい、そこで神に立ち返ってきました。ただし、それは、この矛盾に満ちた世界から解放されて、魂が天国に憩うということではなく、この世界のすべての矛盾や問題が、「キリストにあって」解決されることを意味します。

それはイエスが主の祈りで教えられたように、「神の国(ご支配)がこの地に実現すること」です。それは神が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)と言われたように、神の平和(シャローム)がこの地に満ちることです。

同時にそれは、この地がサタンに惑わされた人々の自己中心的な権力機構によって歪められている状態が正されることです。当時のユダヤ人はローマ帝国の支配から独立したダビデ王国の実現を待ち望んでいましたが、そのような狭い「救い」ではなく、すべての権力が、「王たちの王、主たちの主」であるキリストに従う世界が実現することです(黙示録17:14、19:16)。それこそ旧約で隠されていた「奥義」なのです。

3-14節は原文では長い一つの文章になっており、そこには「キリスト(のうち)にあって」が3回(3,10,12節)、「この方にあって」ということばが6回、さらに6節での「愛する方にあって」という表現も加えると、同じような表現が10回も繰り返されます。

つまり、私たちの救い」とは、「キリストのうちにある者」とされたこととして描かれ、さらにこの全世界が、「キリストをかしらとしてひとつに集められる」こととして描かれているのです。

私たちは自分に与えられた「救い」を、民族的、文化的、社会的な束縛の枠を超えた、「キリストのうちにある生活」として再定義する必要がありましょう。

1章17節からはエペソの人々の信仰の成長のためのパウロの祈りが記されますが、特に「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって……知ることができますように」(1:18、19)と祈られます。

その第一は、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」です。

第二にその「望み」の内容が、「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」が明らかにされると表現されます。それは、キリストにあって、私たちに朽ちることのない身体が与えられ、新しい天と新しい地において、農作業や芸術活動を楽しみ、互いを喜ぶことができるような祝福に満ちた世界です。私たちは今、様々な芸術活動を通して、与えられた「望み」の豊かさを「心の目」に見せることができます。

そして第三は、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を「知る」ことです(1:19)。その「働く力」の源泉が、「神の大能の力の働き(エネルゲイヤ)によって」と説明されます。私たちは自分のうちに「働く」神の力を体験的に知ることができます。

それはマザー・テレサが、「本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。イエスの呼びかけに「はい」と 答えることは、空っぽであること、あるいは 空っぽになることの 始まりです。与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが 問題なのです」と語っているとおりです。

しかも、原文では先の「大能の力」を受けて、「それを神は、キリストのうちに働かせ(エネルゲン)て、彼を死者の中からよみがえらせ」(1:20)と描かれます。つまり、神の大能の力の働きは、何よりもキリストの復活の中に現されており、その力が信じる者にも働いているというのです。

そればかりか神は、復活のキリストを、「天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」(1:21)とも記されています。

私はあるとき、「何で、こんな嫌なことばかりが続くのか……」と嘆きつつ、ヘンデル作「メサイヤ」を聞きに行きました。そこでハレルヤ・コーラスを聴きながら、一見、この地に暗闇が支配しているようでも、すでに天においては、イエスを「王の王、主の主」と賛美する声が響いているという霊的な事実が迫ってきて、身体が感動で震えたことがあります。イエスはすでに全宇宙の支配者であられるのです。

2.「神は、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ……」

その上でパウロは、「神は、すべてのものをキリストの足の下に従わせ、この方をすべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はこの方のからだです」(1:22、23私訳)と記します。つまり、キリストが治めるとは、キリストのからだである「教会(エクレシア)」が世界を治めることを意味します。

続けて、「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」と記されますが(1:23)、これはキリストご自身がすべての支配者として「みからだ」に起こった問題や欠けを、その身体の一部を持って満たすということです。

私たちの集まりのただ中にキリストが満ち満ちておられます。それは私たちの小さな共同体の中でも体験できますが、歴史的な視点から見ることもできます。

たとえば昨年は宗教改革500周年でしたが、当時のプロテスタントはカトリックを全否定してしまったように思えても、ルターもカルヴァンも、カトリック教会で受けた幼児洗礼を神の恵みのみわざとして受け止めていたことを忘れてはなりません。しかもこの宗教改革は、カトリックに深い反省を促しました。今やカトリックとルター派の和解も進んでいます。

私たちは自分たちの教会の枠を超えた全世界的なキリストの教会が世界の歴史にどのような貢献をしてきたかも見るべきです。

一人ひとりが「神のかたち」としてかけがのない存在であり、生まれ育ちや男女の性別の違いによって人を差別しないこと、また、強い人が弱い人を虐げることを戒めること、またすべての人に医療や教育の機会を保証する必要があるなどという価値観はすべてクリスチャンから始まっています。

そのことを私たちは、キリストにある「新しい創造」と呼ぶことができます。それに「心の目が開かれる」必要があります。

「教会」の原語は「エクレシア」で、「市民たちの会合」を意味しました。そこでは一人ひとりが平等な議決権を行使し、自由都市(ポリス)の方針が決められました。同じように聖書的な意味での「教会(エクレシア)」では、すべての人が、神ご自身によって招かれ、かけがえのない、主体的な意思を持つ存在として集められています

私たちは自分のからだの不思議さや精巧さを、特に、病気になったときに何よりも体験できます。同じように、地上の教会も、様々な困難を通して、「キリストを死者の中からよみがえらせた方の大能の力の働き(エネルゲイヤ)」を体験できるのです。

2章最初の文章の中心は、「あなたがたは自分のそむきと罪との中に死んでいた者であり……(それらの中にあって)歩んでいました」にあり、これは、「生ける屍だった」という意味になります。

その際、「そむきと罪の中に(を通して)死んでいた」というのは不思議な表現です。ある方は、「罪とは何だろう……、頼んでもいないのにイエスが十字架にかからなければならないほどの罪を自分は犯しているのだろうか……」と疑問に思いました。ただそこで、聖書が語る「罪」とは、的外れな生き方をしていることを指していると教えられ、納得できました。

またその類語の「そむき(罪過)」には「立っているべきところから落ちた状態」という意味があります。

つまり、「背きと罪の中に死んでいる」とは、見当違いの方向に熱くなりながら必死に生きている人々、また見当違いの確信に立っている人々を指しているのです。

22節では、「この世の時代に合わせ(流れに従い)」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従っていると記されます。「空中の権威」とは、御使いの領域である「天」と、人間の領域である「地」との間という意味で、サタンは今、神と人との間に入り込んで、その関係を壊すために働き、神を信じようとしない「不従順の子らの中に働いている霊」として、この世に悪を広めています。

しかも「働いている(エネルゴン)」ということばは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるという対比が強調されているのです。

しかも3節では「その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と記されますが、サタンに従う歩みとは、自分の生きたいように自由に生きるということに他なりません。

それは、酒やドラッグや性的誘惑に身を任せてしまうということ以前に、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方に他なりません。そして、自分の創造主である神を忘れて、自分の狭い正義感に従って生きることが、「御怒りの子」と呼ばれます。つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、すべてのアダムの子孫を指します。

そのような人々への神の一方的なみわざの第一が、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」(2:4、5)と記されます。その核心は、「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」ということです。

それが「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言い換えられます。「救い」とは何かの苦しみから解放されるというより、「キリストとともに生きた者になる」こととして描かれているのです。

しかもこれが第二、第三のみわざとして、「キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(2:6)と記されます。これは復活と昇天を指します。これは遠い天国で初めて実現するというより、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していることと見られるのです。この目に見える現実を超えた視点から「救い」の不思議を見るべきでしょう。

7節は、この時間の観念を理解する鍵で、「それは来たるべき時代においてこの限りなく豊かな恵みを示すためでした。それはキリスト・イエスのうちにある私たちへの慈愛のうちにあります」と訳すことができます。

この「来たるべき時代」とは、2節の「この世の時代」に対応し、「救い」は後の時代になって初めて人々の目に明らかになると記されています。しかし、私たちのうちに既にキリストご自身の分身とも言える全能の聖霊が住んでいるので、今から「王」としての誇りと責任のうちに生きられるのです。

興味深いのは1章20,21節でのキリストの栄光による支配と、2章5,6節の私たちに約束された栄光支配が並行していることです。イエスに起こったことが私たちにも起きるのです。それは私たちが「キリストとともに生かされ」「キリスト・イエスのうちにある者」とされているからです。それこそ救いの本質です。

旧約聖書では、「救い」ということですぐに思い起こされるのは、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)という表現です。これは「モーセの十戒」とも言われることばで最も大切な前文です。

そしてこのエペソ書では、私たちが「自分の背きと罪の中に死んでいた」状態、「空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいた」状態から救い出されたこととして描かれます。日本のサラリーマンもときに、エジプトで奴隷であったイスラエルの民と似て、ときに会社の奴隷のような状態に置かれているかもしれません。しかし、私たちには想像を絶する輝かしい栄光が保証されています。

それにも関わらず、それを深く味わうことを忘れ、「この世の時代に合せる」ことで、安心を得ようとしていないでしょうか。自分の願望のままに、また目の前の不安に駆り立てられて生きることこそ不信仰です。

見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です。そうならないために、日々、主(ヤハウェ)の前に静まり、主が私たちに約束してくださった壮大な救いのご計画に思いを馳せることが何よりも大切です。

3.「私たちは神の作品であって……キリストにあって造られたのです」

「あなたがたは信仰によって救われたのです」(2:8)と聞いて、最初は気が楽になりましたが、そのうち「こんな信仰で救われるのか……」と不安になりました。しかし、「信仰」とは、神の恵みを受け止める受信機のようなものです。

ここでは「恵みのゆえに」という原因と、「信仰を通して(through)」という媒体の区別が明確にされています。そのことが、「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(2:9)と記されます。

すべてが神の恵みであることを心の底から味わうようになるということが、信仰の成長に他なりません。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。

その上でパウロは、「実に、私たちは神の作品であって、良い行い(複数)をするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。それをも神はあらかじめ備えてくださいました。そのように私たちが歩むことができるために」(2:10、後半私訳)と記します。

原文では「良い行い」ということばは一度しか登場しません。それは私たちの目を自分の働きではなく、神のみわざに向けさせるためです。

しかもこの中心は「私たちは神の作品です」という宣言です。「作品」のギリシャ語は「ポイエマ」で、英語の「ポエム(詩)」の起源とも解釈できます。それは神の栄光を「イメージさせることば(擬音語)」とも訳せます。

たとえば、「春の小川は さらさら行くよ」と歌う詩の「さらさら」が「擬音語」で小川の流れをイメージさせる詩的表現です。同じように、私たちの存在自体が、神を何らかのかたちでイメージさせるというのです。あなたは「がみがみ叱る神様」か、「さんさんと太陽の光が降り注ぐ」ように神の愛を現わすかが問われます。

パウロは先に、「死んでいた者としての歩み」、また「自分の肉の願い(欲)の中に生き、肉と心の望むままを行い」という「歩み」を描きましたが、ここでは、「救い」の結果を、「良い行い(複数)のうちに歩む」者となることとして描いています。

その前提として、「私たちは神の作品(ポエム)であって」と記されますが、あなたは自分の個性や感性をそのように見ているでしょうか。そこでは「みんなと同じ」ではないこと自体が何よりの魅力となります。

しかも、ここでは「(様々な)良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた……それをもあらかじめ備えてくださった」と記しますが、「良い行い」とは、人との比較からではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるというのです。

それは「キリストのうちにある創造」の原点に立ち返ることで、「一切のものが、キリストをかしらとして一つにされる」(1:10)という目的にかなって、キリストにある共同体が築かれて行くという尺度から見直されるべきことと言えます。

たとえば私は、自分の神経症的な不安や生き難さの中から詩篇によって慰めを受け続けています。そこでの「良い行い」とは、自分の傷つきやすい心を正直に受け止め、それを神に祈るということであり、また、個人的な葛藤を正直に表現するということに他なりません。そして意外にも、極めて個人的なことは本当に多くの人々の心の内面に届くのです。

それを様々な形で表現してきましたが、それを通して、「祈ることができなかった自分が、祈ることができるようになった」と言ってくださった人がおられます。

私は自分の性格や感性が異常ではないかと悩んでいた時期がありましたが、私が神の「ポエム」であるなら、私が個人的に感じることは神が感じさせてくださっていることであり、表現することばは、神が表現させたいと願っていることとも言えましょう。

この世は、働きの結果を数字で表すことが大好きです。しかし大切なのは、人と人との心が共鳴し合うことともにイエスの救いを喜ぶことができることなのです。

しかも、「私たちは」、共同体として「神の作品(ポエム)」なのです。あなたが他の人と違っているからこそ、互いの欠けを補い、新たな気づきを与え合えるのです。世界的な「キリストのからだ」の一部として、どのようなポエムを奏でているでしょう。

2章14節の「キリストこそ私たちの平和です」とは、「心の平和」というより、ユダヤ人と異邦人という「二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意を生み出す隔ての壁を打ちこわし、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄され」たことを意味します(2:14、15下線部私訳)。

当時の神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁があり、どれほど熱心にイスラエルの神を求める人でも、異邦人である限り中庭に入ることは許されませんでした。しかし、キリストの十字架がこの「隔ての壁」を「打ち壊し」てくださったのです。

それを実現する神秘が、「こうしてキリストは、この二つをご自身において一人の新しい人間として創造し、それによって平和を実現し、両者を一つのからだとして神と和解させてくださいました。それは十字架を通してであり、ご自身にあって敵意を滅ぼされたのです」(2:15、16私訳)と描かれています。

十字架は、何よりも敵意」を廃棄し、葬り去るためのものと記されます。ここで何よりも強調されるのは、キリストがユダヤ人と異邦人を、「ひとりの新しい人間として創造」してくださったということです。それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Ⅱコリント5:17)と記されてことに通じます。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国の民(直訳では「同じ市民(fellow citizens)であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」(2:19、20)とは、エペソの教会に集っているギリシャ人がエルサレムの使徒たちと同じ神の民とされたという意味があります。

私はドイツの福音自由教会の入会申請書の最初にこのことばが記されているのを見て、自分が名実ともに神の家族の一員にしていただけるという感動を覚えました。ドイツ語には家族や友人の間では互いを Du で呼び合い、仕事の関係では Sie で呼び合います。これは仲間うちか、仕事上の付き合いかという区別です。ですから、神に向かっての祈りは必ず Du という呼びかけで始まります。これは家族とされたことのしるしです。

そして、クリスチャンであるとの自覚を持った人どうしの間では、初対面の人でも Du で呼び合います。しかし、職場では、親しい同僚は例外として、毎日顔を合わせている人どうしでも、直属の部下に対してでも Sie と丁寧に呼びかけます。残念ながら、日本ではこの関係は逆になりがちです。職場では、「俺、お前」で呼び合いながら、教会に来ると互いに遠慮しあって丁寧な言葉遣いになりがちです。しかし、私たちクリスチャンは神の家族の一員とされたのですから、もっと親しみを込めて呼び合い、教会でこそ「神の家族」を実感できるのが理想です。

異なった言語、異なった慣習の人々が、ともに同じ主を礼拝できることが福音の力の最大の証しです。初代教会の成長の原動力は、民族の和解、敵対する階級間の和解、男女の和解にありました。その鍵はキリストの十字架です。人が十字架を信じるのは、同じ御霊の働きが一人ひとりの中に現されているからです。

人と人との和解こそ、福音の実です。パウロは3章3節で、「実に、奥義(ミステリー)が啓示によって私に知らされたのです」と記していますが、「キリストの奥義」(3:4)とは、1章10節にあった「キリストにある再統合(recapitulation)」です。そして、目に見えるキリストの支配とは、弱く無知な者の集まりに見える「教会(エクレシア)」を通して現わされるものです。

その不思議な力は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを生んだ世界的な学問の中心のギリシャ人と、いかなる偶像礼拝をも拒絶した最古の信仰の民であるユダヤ人が、アブラハムに繋がる「一人の新しい人間として創造」されたことから生まれます(2:15)。それは核融合にも似た爆発的な力を生み出す原因となりました。

まさに「多様性を保った一致」こそ力の源泉でした。

パウロは異邦人が神の民とされるという恵みを強調しましたが、教会の後の歴史では、キリストを信じないユダヤ人を反キリストの霊に支配された異端者として排除する動きになります。

ルターは宗教改革の始めの時期、「イエスは生まれながらのユダヤ人であった」という文書を書き、ユダヤ人の回心に期待し、優しく接しました。しかしユダヤ人は、聖書に立ち返ったドイツの信仰者に安息日律法や割礼を教え、ユダヤ教に導こうとしました。

ルターはそれに腹を立て、ユダヤ人の会堂も、家も破壊し、ラビに教えることを禁じ、ユダヤ教文章を没収し、ユダヤ人に金融業を営むことを禁じ、額に汗して働かせる法律を作るようにと勧めました。

ルターにとっての福音のテーマは、来るべき「神の怒り」からの「救い」でした。ですから、ユダヤ人を回心に導くためには、神の民として選ばれていたはずの彼らが、いかに神の怒りを引き起こしているかを明確にしてあげること、つまり、彼らに地獄の炎の苦しみを事前に体験させてあげるという「厳しいあわれみ」が必要だと記し、それが後のナチスドイツによるユダヤ人迫害の正当化に用いられました。

私たちの罪が、地獄の火の苦しみを招くという視点を強調し、その恐怖からの「救い」というテーマで福音を語ることは、残念ながら、人と人との分断を招きます。

パウロが強調した福音は、ユダヤ人とギリシャ人の「隔ての壁」が、キリストの十字架に壊され、二つのものが「一人の新しい人間」として再創造されることでした。ユダヤ人は、キリストにある「新しい創造」の圧倒的な魅力に引き寄せられるようにして、イエスを救い主と信じるはずだったのです。

当教会のヴィジョン「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」という観点から、改めてキリストの福音を理解しましょう。

私たちはこの都市の生活の中で、「富と権力」が幸せの鍵であるという幻想に惑わされています。そこで

「富や権力」を全否定するのではなく、キリストをかしらとして再統合することが私たちの責任です。