エペソ3章14〜21節「御父の愛が内なる人を再生させる」

2018年4月1日

母にとってこの私のうちには不思議な力が働いているように見えるようです。聖書はほとんど読みませんが、「お前のうちに働く神の力は分かる」と言ってくれます。ただしそれはこの私を社会的な成功者と見ているという意味では決してありません。

母が私を出産する前の一年半余り、母は生死の境を彷徨っていました。僕を出産する力もないと見られていました。出産自体が命がけの奇跡でした。誕生した後も、一歳を過ぎた頃、高熱で扁桃腺が腫れ、医者は僕を逆さにして気道を開くため切開手術を行わざるを得ませんでした。すると何度か心臓の鼓動が止まったようですが、母の胸に抱かれるたびに心臓が動き出しました。

その神学的な意味が詩篇71篇6,7節で、「私は生まれたときから あなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方・・・私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです」と描かれています。

それに続いて、キリストの十字架と復活の場面を示唆する描写が続き、それを要約するように「あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが 私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます」と記されます(20節)。

私たちの人生には、「産みの苦しみ」があります。しかし、それは新しい歩みへの転換点になります。母も僕を産み育てることで強くなりました。そして、イスラエルが新しくされるための「産みの苦しみ」(マタイ24:8)こそ、その王であるイエスの十字架と復活でした。

預言書のテーマはイスラエルの死と再生(復活)であると言われます。残念ながら西洋化されたキリスト教が神秘的な力を軽視した道徳宗教化されるのは、この死と復活の物語が福音の核心から少しずつ離され、ギリシャ化された結果なのかもしれません。

1.「このことのゆえに、御父の前に私のひざをかがめます」

3章14節からパウロの有名な祈りが記されますが、それは今まで彼が語ってきたことを祈りとして表現するような意味があります。その始まりは、「このことのゆえに、御父の前に私のひざをかがめます」と記されています。

直前で彼は、「確信をもって大胆に神に近づく」(3:12)と告白しましたが、その表れとして、天地万物の創造主に向かって、「父よ」と親しく呼びかけながらひざまずくことができるというのです。

「父」という呼びかけは1章2節で、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」という表現で用いられました。万物の源であられる創造主なる神が、「私たちの父」と呼ばれ、イエス・キリストは、私たちにとっての「主」であると告白されました。

私たちは「父なる神」と「主イエス」のお二方から特別な「恩恵」を受け、お二方の愛の交わりの中に招かれ圧倒的な「平和(平安)」をいただけるのです。

そして、その神秘が1章3~14節まで続くパウロの祈りと賛美に現わされ、神が改めて、「私たちの主イエスの・・・の父」と呼ばれます。その際、その方が「ほめたたえられ(祝福され)ますように」と祈られますが、その同じ「祝福」を用いて、「神はキリストにあって、諸々の天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」と言われます。

神が祝福されることと私たちが祝福されることがつながっているのです。しかも、「霊的」とは「御霊に属する」という意味で、それは、神が与えてくださるものが地上の枠を超えた、創造主なる御霊に属する人知を超えた「祝福」を意味します。

そしてその内容が1章4節で「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」と説明されます。

私たちは自分の出生を、神の不思議なご計画の中で選ばれていたと受け止めることができます。すると自分の故郷をいとおしく、美しく見ることができます。それは、自分をキリストのうちにある者として見ることができたからです。

なお、原文では、「愛をもって」ということばが4節の終わりに記され、「御前に聖なる、傷のない者とされる」ために、「愛をもって、ご自分の子にしようとあらかじめ定めておられた」と記されています。

しかも、「ご自分の子にしようと」とは一つの単語で、神が私たちをご自分の一人子イエスと同じ「立場に置く」という意味です。神は私たちをまるでご自身の御子イエスと同じように高価で尊い者として見てくださるのです。しかも、私たちが「神の子」とされるのは信仰への報酬ではなく、すべて神のみわざです。

続けて、1章7節では、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」と記されます。「贖い」とは代価が支払われて奴隷状態から解放されることを意味します。それは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷状態から解放されたことを意味し、その後は、バビロン捕囚からの解放であり、当時はローマ帝国の剣の支配からの解放を意味していました。

しかし、イエスは当時のユダヤ人に、この地に起こる様々な戦いや困難を、「産みの苦しみの始まり」(マタイ24:8)と再定義して、ただ目の前に課せられている務めに誠実に励むことを勧めました(24:45-51)。

実は、この世の権力者の陰には、より恐ろしい悪が存在します。私たちはそのサタンの支配から「贖い出された」のです。そのことが、2章2節では、「かつては、この世の時代に合わせ、空中の権威を持つ支配者に従って、あなたがたは歩んでいました。それは、不従順の子らの中に今も働いている霊に従ったことです」と訳すことができます。

 

まず、「この世の時代に合わせ(流れに従い)」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従ったものでした。サタンは天の神と地の人との間の「空中」に入り込み、神と人との関係を壊すために働き、神を信じない「不従順の子らの中に働いている霊」として、世界に悪を広めています。

この「働いている(エネルゲオー)」とは、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)という表現と対比されます。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

 

2章3節も、「その中にあって、私たちはみなかつて、自分の肉の願いの中に生き、肉と心の望むままを行い、そのままでは他の人々と同じように御怒りの子に過ぎませんでした」と訳すことができます。つまり、悪霊に従った歩みとは、皮肉にも、自分の生きたいように生きることだというのです。

最初の人間のアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けて善悪の知識の木を見たとき、「その木は・・目に慕わしく・・・好ましかった」ものに映ったと記されています(創世記3:6)。それは、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するという生き方を指し、そのように生きる人が、「御怒りの子」と呼ばれます。

つまり、神の怒りの下に置かれている者とは、極悪人というより、生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指します。

とにかく、私たちは「御怒りの子」と呼ばれた状態から、イエスの貴い血によって救い出され、イエスの弟、妹としての立場を持つ「神の子」とされたのです。

そして3章15節では、その私たちの父となってくださった方に関して、「その方によって、諸々の天と地上のすべての家族が名をつけられる」と描きます。ここにはギリシャ語での言葉遊びが見られます。「御父」はパテラ、「家族」はパトリアと呼ばれますから、「家族(パトリア)」という呼び名は「御父(パテラ)」に由来すると記されているのです。

なお「家族」とは「民族」とも訳すことができますから、ユダヤ人も異邦人も、同じ父なる神のもとにあるということが意図されています。それは2章19節でエペソの異邦人クリスチャンにパウロが、「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」と言ったことを改めて思い起こさせます。

ただ同時に、ここでは「諸々の天と地上のすべての家族」とも記されているように、そこには御使いたちさえも含まれるとも考えられます。つまり、私たちの天の「父」は、すべての被造物にとっての「父」でもあると呼ばれているのです。

当時は、父親の権威が絶対的でした。父親がすべての子供に名をつけましたが、それは子供に対する父の権威の現れでした。それは同時に、家族一人ひとりを、自分のいのちを賭けて守り通すという意思の表れでもありました。

同じように、天の父なる神は、天と地のすべての家族に対する支配権を主張すると同時に、すべての家族を守り通すという強い意志を持っておられます。

2.「聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」

  ここでのパウロの祈りの第一の内容は、「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがってあなたがたに力を賜りますように。その聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」(3:16)というものです。

先に彼は、「神の恵みの賜物により、また神の力の働き(エネルゲイヤ)により、福音に仕える者になりました」(3:7)と告白しましたが、その同じ「神の力」によって、「あなたがたの内なる人が強くされるように」と祈ったのです。

しかも、そこに「聖霊を通して」とあるように、私たちの心の奥底の霊の領域に御霊の働きがなされ、私たちの人格を成り立たせている根本が神によって強くされるようにという祈りです。

この前提には、1章20、21節の「大能の力を神は、キリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて・・・すべての名の上に置かれました」という記述があります。つまりイエスを復活させた神の「大能の力」が私たちのうちにも働くということです。

そのことが2章4-6節では、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背き(罪過)の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました・・・神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせともに天上に座らせてくださいました」と記されていました。

神のみわざの第一は、「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」ということです。しかもこれが第二、第三のみわざとして、「キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天を指します。

これは天国への期待というより、私たちが「キリストのうちにある者」とされているという観点からは、すでに実現していると見られるのです。

そして3章17節では、「聖霊を通して、内なる人を強くしてくださいますように」(3:16)ということばが、「(御父が)キリストをあなたがたの心のうちに、信仰によって、住まわせてくださいますように」と言い換えられます。御霊が住んでくださるということは、キリストご自身が住んでくださることに他ならないからです。

また、ここで「信仰によって」というのも、何事にも動じない自分の内側から沸き起こる確信のようなものではなく、キリストのみわざにこころを開くという柔らかな心を指すといえましょう。信仰は神のみわざです。

それがさらに展開されるように、「また、愛のうちに根ざし、基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するほど強くされますように。そして、人知をはるかに超えたキリストの愛を知るほど強くされますように。そのようにして、あなたがたが満たされますように、神の満ち溢れる豊かさにまで」 (3:17-19)と祈られます。

「愛のうちに根ざし、基礎を置いている」とは明らかに、キリストの愛に浸され支えられ守られているということを意味します。

続く祈りは、「御父が、その栄光の豊かさによって‥力を賜りますように」(3:16)以降の神の愛のみわざすべてを指しながら、「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるように」という願いだと思われます。

そして、そのことが、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ること」として言い換えられます。

そして、このように神の愛の広さ、深さ、高さ、深さを理解し、キリストの愛を心の底から確信することによって、「神の満ち溢れる豊かさにまで・・・満たされる」というのです。最初のアダムは神の競争者になろうとしてエデンの園から追い出されました。しかし、私たちはキリストの愛を心の底から知る結果として、愛と哀れみに満ちた神のご性質に似た者にさせていただけるのです。

ただし、この成長とは何よりも共同体としての真の神の宮が建てられることに現わされます。そのことが2章20,21節では、「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされ、そして主にある聖なる宮へと成長します。この方にあって、あなたがたもまた、ともに築き上げられ、御霊にあって、神の御住まいとなります」と記されていました。

多くの人々は、クリスチャンとしての信仰の成長を、あまりにも個人的な次元で考えがちかもしれません。しかし、目に見える成長とは、人と人とが「ともに組み合わされ・・・ともに築き上げられる」ことです。それは時間のかかるプロセスです。家族関係の中で深い心の傷を負ってきたという人も多いからです。

この少し前に、ヘロデ大王は、大理石を組み合わせた壮麗な神殿の拡張工事をしていました。その神殿は、「神の家」と呼ばれていましたが、パウロは全世界のキリスト者の交わり自体を指して「神の御住まい」と呼んだのです。それは一つひとつの独立した教会組織の集合体ではなく、全世界の信仰者によって構成される唯一の目に見えない公堂の教会を指した表現です。

使徒信条では、「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白されますが、「公同」とはラテン語でカトリックと呼ばれ、本来、普遍性を意味します。

しかも、当時のユダヤ人にとっての「神の満ち溢れる豊かさ」とは、モーセのときに建てられた宮が、またはソロモンの時代に建てられた宮が、「栄光の雲」に満たされたような状態を指します。私たちはそのような「栄光」を全世界的なキリストの身体である教会を通して味わうことができるのです。

3.「私たちのうちに働く御力によって」

そして祈りの最後は、「どうか、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて行うことができる方に、それは私たちのうちに働く(エネルゲオー)御力によってですが、この方に栄光がありますように、教会のうちにあって、すべての世代に、とこしえからとこしえまでありますように。アーメン」(3:20、21)という頌栄でまとめられます。

ここでは、御父が、「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えた」大きな働きをしてくださる方と呼ばれながら、その神のみわざに、「私たちのうちに働く力によって」という説明が加わっています。これは超自然的というよりも、神が私たちの内側に働くことによって、私たちが自分に可能だと思うことをはるかに超えた大きな働きをすることができるのです。

パウロはそのことをピリピ4章13節で、「私を強くしてくださることによって、私はどんなことでもできるのです」と告白しています。

パウロは3章3節で、「実に、奥義(ミステリー)が啓示によって私に知らされたのです」と記していましたが、「キリストの奥義」(3:4)には、自己保身に向かわせる「恐れ」から人を解放する力があります。

その「奥義」に関しては1章10,11節で、「それは、この方にあって、神があらかじめ喜びとされ、お立てになったもので、時が満ちて計画(オイコノミヤ)が実行されるものです。それは、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。天(複数)にあるものも地にあるものも、この方にあってです」と記されていました。

これは「キリストにある再統合(recapitulation)」とも訳すことができる、東方教会神学の核心です。

なお、目に見えるキリストの支配とは、弱く無知な者の集まりに見える「教会(エクレシア)」を通して現わされるものです。なぜならキリスト者の交わりである「エクレシア」とは、「キリストのからだ」そのものであるからです。

その不思議な力は、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを生んだ世界的な学問の中心のギリシャ人と、いかなる偶像礼拝をも拒絶した最古の信仰の民であるユダヤ人が、アブラハムに繋がる「ひとりの新しい人間として創造」されたことから生まれます(2:15)。

それは核融合にも似た爆発的な力を生み出す原因となりました。まさに「多様性を保った一致」こそ力の源泉でした。

パウロにとって、「キリストの奥義」(3:4)に動かされた働きというのは極めて具体的なことでした。彼はエルサレムの貧しい聖徒たちを助けるために、ギリシャの諸教会から献金を集めて、自らエルサレムに戻ることが神のみこころであることを「御霊によって示され」ました(使徒19:21)。

それは、ユダヤ人に憎まれている彼にとっては、いのちの危険が伴うことであり、回りの人々からは、無謀なこととして反対されました。そればかりか、彼が献金の訴えをあまりにも大胆にしたためか、コリントの教会の人々からは、「悪賢く・・だましとった」(Ⅱ12:16)などという侮辱を受けました。

彼はしかし、それでも、「異邦人は霊的なことでは、エルサレムの人々からもらいものをしたのですから、物質的なことで奉仕すべきです」(ローマ15:27)と、この行為が、異邦人とユダヤ人の一致を生み出すために何よりも大切なことと信じ、エルサレムで殺されることを覚悟で行きました。

この世的な効率性の観点からは、これほど愚かな行為はありませんが、主イエス・キリストは、異邦人とユダヤ人の一致という「奥義」を、パウロに示すとともに、彼を動かして、目に見える形での一致を作り上げてくださいました。

このような行為をいのちがけで行うことができたのは、彼自身がキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」に圧倒され、御霊によって、彼の「内なる人が強く」されていたからです。

私たちの肉の誕生も、神の子としての霊的な新生も、すべての「家族(パトリア)」の源である「御父(パテラ)から始まっています。

そして、聖霊の働きは、私たちの「内なる人を強める」ことに他なりません。それは「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」ということから生まれるものです。

そして現代の神の力とは、「天からパンを降らす」という奇跡以前に、この矛盾に満ちた世で、神と人とのために働くことを可能にする「私たちのうちに働く御力」として現わされます。

キリストを死者の中からよみがえらせた方の御力は今、私たちのうちに働いているのです。キリストの復活は、あなたの「産みの苦しみ」を導く力です。