ヨシュア7章〜9章「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」

2017年2月19日

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」という近代史の本が以前、ベストセラーになりました。昔は、一部の軍閥が勝手に戦争を引き起こしたという見方が大勢を占めましたが、最近はもっと大局的な視点が重視されるようになってきました。たとえば、日米開戦時の工業生産高では米国は日本の10倍にも達していました。しかし、そのような無謀な戦争に勝利を期待したのは、その36年前の日露戦争では日本が8倍の国家予算を持つロシアに勝利を収めたことが最も大きな理由になっていました。

しかも、時代遅れの大軍艦の建造を初め、日露戦争の勝利の方程式がいろんなところに現れ、それが新しい事態への対処を遅らせて来ました。ですから、「成功こそ失敗の母」ということができましょう。

一般的に、人の成功体験に学ぼうとする風潮がありますが、基本的にそれぞれの成功体験はあまりにもユニーク過ぎて、参考になりません。一方、失敗体験には驚くほどの類似性が見られます。そして、その最大の共通点を日本語にすると、「奢れるもの久しからず・・」と言われます。

ただ、世の成功者を斜に構えて、そのように批判することも注意しなければなりません。長く続く会社はどこでも健全な危機意識を共有しています。私が昔、勤めていた会社の10年次研修ではそのことが驚くほど徹底されていました。そして、世界で最も長く続いている組織体こそキリストの教会です。私たちはそのことを本日の箇所から学ぶことができます。その核心とは、主の前に遜ることです。

1.「民の心がしなえ、水のようになった」

主はエリコとの戦いに先立ち、「聖絶のものに手を出すな・・・イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないため」(6:18)と警告されました。ところが、ユダ部族のゼラフ氏族に属するアカンが、「聖絶のもののいくらかを取った」というのです(7:1)。

彼らが密かに天幕の中の地に隠したものは21節に初めて記されますが、ここではこれがイスラエル全体の問題であることとして、「イスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し・・・主(ヤハウェ)の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった」(7:1)と、たった一家族の罪が、イスラエルの民全体への「主の怒り」を引き起こしたと描かれます。

ヨシュアはかつてヨルダン川を渡る前に、民全体に向かって、「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主(ヤハウェ)が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」(3:5)と言っていました。当時のイスラエルの民はこれから起こることに期待と同時に不安を味わっていました。

ところが、神の圧倒的なみわざによってエリコの「城壁が崩れ落ち・・民はひとり残らず、まっすぐ町に上って行き、その町を攻め取った」(6:20)とき、彼らはその成功に酔いしれ、心が緩んだのだと思われます。それがアカンの罪を引き起こしたと言えましょう。

しかも、これは一部の人の問題に留まりません。なぜなら主は、「聖絶のものに手を出す」ことが、「宿営を聖絶のもの」にすると警告しておられたからです(6:18)。それは、神の所有物を盗んで、宿営の中に隠すことによって、宿営を汚し、そこを神のさばきの対象とすることを意味したからです。

エリコに対する劇的な勝利は、「主(ヤハウェ)がヨシュアとともにおられ」(6:27)、彼が求める先から、「主(ヤハウェ)の軍の将」が、「抜き身の剣を手に持って」現われ(6:13,14)、戦いを導いてくださった結果でした。ところが、「アイ」との戦いの準備では、エリコの戦いまでの描写とあまりにも違います。

アイはエリコの西20㎞あまりの、約1000m余りも高い地にありましたが、ヨシュアが遣わしたスパイは、アイが小さな町で、二、三千人ぐらいの軍勢を送るだけで、町を攻め落とせると断言しました(7:3)。しかし、それは地理的な面からも楽観的すぎる計画でした。何よりも、彼らはこの戦いを、主との交わりの中で行うという基本が欠けていたようです。

スパイのことばには2章24節のエリコの場合とは異なり、「主(ヤハウェ)は・・・渡され」ということばはありません。ですから、彼らは、自分たちが「聖絶のもの」となって、神が、彼らとともにはいないという重大なことにまったく気づかないまま、軍隊を送り、まさかの敗北を喫することになりました。

そのことが、「アイの人々は、彼らの中の約36人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打った」(7:5)と記されますが、シェバリムという地名がどこかは不明です。地理的な目印という点からすると、アイの東5.6㎞にある石切り場の当たりとも言われます。戦死者は少なかったものの、いざ負けてしまうと、アイに向かっての上り坂は天然の要害に思えて来たことでしょう。

その結果、「民の心がしなえ、水のようになり」(7:5)と描かれています。これはかつて、「カナン人のすべての王たちの・・心がしなえ・・勇気がなくなった」(5:1)と描かれていたことと対照的です。主はヨシュアに、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない」(1:5)と約束されたのですから、彼らが敗北するということは、神の約束が、空手形だったということになります。

この敗北の理由は、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18:12)と記されている通りと言えましょう。

それと同時に、ある一部の人が、主の命令に逆らってしまったことにより、「宿営が聖絶のものとなった」ことの悲劇を知ることができます。これはイスラエルの宿営が、神のさばきの対象となって、滅びることを意味しました。

2.「そこで、主(ヤハウェ)は燃える怒りをやめられた」

それで、「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主(ヤハウェ)の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった」(7:6)と記されます。これは深い悲しみの表現ですが、アイとの戦いにおいて、「主(ヤハウェ)の箱」が登場するのはここが初めてです。彼らは戦いの前に、このように主の前に遜るべきだったと気づいたのかも知れません。

しかし、ヨシュアは、この敗北がイスラエルの滅亡につながるという現実を良く理解していました。切羽詰った彼は、大胆に神の責任を問うかのように、「ああ、主、ヤウェよ・・・どうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか」(7:7)と訴えました。彼には、敗北の原因が自分たちの高慢さだけではないと思われたからです。

実際、エリコの戦いとは対照的に、この戦いで、主は、沈黙し続け、敗北を見過ごされたと思えたからです。そして、このとき初めて、主は、敗北の真の原因を示してくださいました。もし、このときヨシュアが主の前にひれ伏していなければ、イスラエル全体が主の前に「聖絶のもの」となったまま滅亡していたことでしょう。危機の原因を人間的に分析する前に、ただ主の前にひれ伏すこと、また、率直に、主に訴えることが何よりも大切です。大胆に主にすがることこそが信仰の基本です。

主は、ひれ伏すヨシュアに、「立て・・」と命じ、「イスラエルは罪を犯した・・わたしの契約を破り・・・聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない」(7:11,12)と言われました。

主は、一人の罪の連帯責任を全員に負わせようとされたのではなく、彼らの間から「汚れ」を取り除かせ、「主(ヤハウェ)がイスラエル人の真ん中に宿る」(民数記35:34)という状態を回復させたいと願っておられたのです。だからこそ、主は、「くじ」を用いて、ご自身の側から、アカンが汚れの元凶になっていることを示してくださいました。

この期に及んでようやくアカンは、自分の罪が神の御前に明らかだったことを悟り、「ほんとうに、私は主(ヤハウェ)に対して罪を犯しました」(7:20)と認めました。しかし、宿営の中をきよめるというのが課題である以上、彼の謝罪を受け入れることはできません。

私たちはときに、「謝ったら、赦してもらえるはず・・・」と期待しますが、それでは神の赦しは、こちらが操作できることになってしまいます。人と人との関係でも、「契約」を破ったことには明確な処罰規定があります。

しかもここでは、イスラエル全体が「聖絶のもの」として滅びるのが契約の結果であるはずでした。ですから、アカンとその一族を取り除くことで、主が再びイスラエルの真ん中に戻ってくださるということ自体が圧倒的な恵みであることを忘れてはなりません。

アカンとその家族、所有物すべてが、宿営から遠く離れた(アイの約30㎞南東)ユダの荒野の中にある「アコルの谷」に連れて行かれます。そして、「全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけ・・アカンの上に、大きな石くれの山を積み上げた」(7:25,26)というのです。

イスラエルの民は、石を投げつけながら、アカンを憎む以上に、主の契約を破ることの恐ろしさを覚え、心を痛めていたことでしょう。その結果、「主(ヤハウェ)は燃える怒りをやめられた」(7:26)と描かれます。

ところが主(ヤハウェ)は、後に「アコルの谷を望みの門としよう」(ホセア2:15)と言われ、「のろい」を「祝福」の源に変えると約束してくださいました。アカンへのさばきが全うされることによって、神がイスラエルの真ん中に住んでくださったように、キリストが私たちすべての罪や汚れを負って十字架にかかられ「のろわれた者」となってくださった(ガラテヤ3:13)ことで、私たちは「神と和解させられた」と言われます(ローマ5:10)。

そして、今、神ご自身が、私たちの交わりの真ん中に住んでくださるばかりか、何と、ひとりひとりのからだを、「聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)とし、いつまでも、私たちとともにおられるというのです。

私たちにも、「その悪い人をあなたがたの中から除きなさい」(Ⅰコリント5:13)と命じられることがありますが、それは、「神のみこころに添った悲しみが・・熱心を起こさせた」(Ⅱコリント7:11)という動機によらなければなりません。それは、「良心が麻痺してしまった」(Ⅰテモテ4:2)者への最後の手段です。

十字架の福音は、「罪に泣く」という心にしか届かないからです。それは、神のあわれみを無にしないためです。

3.「見よ。わたしはアイの王と、その民・・その地を、あなたの手に与えた」

このように宿営の中がきよめられた結果、主は、ヨシュアが求める前から、ご自身の方から現われ、「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ・・・見よ。わたしはアイの王と、その民・・その地を、あなたの手に与えた」(8:1)と言ってくださいました。

しかも、「その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい」(8:2)と、エリコでは禁じられたことが、ここでは一転して許されました。神は、民の必要をご存知で、時に応じて柔軟な指示をくださいます。そればかりか、「伏兵を置け・・」などと、人間的とも言える戦略を授けられます。初戦に勝ったアイの民が高慢になっているからです。

主はこれを通して、高慢になることを戒めると共に、敗北の体験を無駄にせずに生かすことを教えてくださいました。そして、ヨシュアは今回、前回の十倍の勇士たち三万人を選びます(8:3)。

そして、ヨシュアは主の戦略を伝えた後、「主(ヤハウェ)の言いつけどおりに行わなければならない」(8:8)と改めて命じます。そして、「彼が約五千人を取り、町の西側、ベテルとアイとの間に伏兵として配置」しますが、この二つの町は2.5㎞程度しか離れていませんので、伏兵はベテルを背にするという危険を冒しています。

またヨシュア自身も、敵の目の前にある「谷の中で夜を過ごし」(8:13)、自分の身を囮として危険にさらしました。それは、怯えた民に、主に信頼することを教えるという意味もあったことでしょう。

先の勝利に酔っていた「アイの王」は、「気づくとすぐ…出て来た」と警戒心を持つこともなく襲いかかってきます(8:14)。その際、その後方にある「ベテル」の人々までも、町を空っぽにしておびき出されます(8:17)。先の戦いでは、イスラエルの民が勝ち誇っていたために敗北しましたが、ここでは反対にアイとベテルの民が勝ち誇ったために敗北したのです。

なお、「アイ」は、より大きな町のベテルの前線基地的な意味があります。ですからここでは、かつてイスラエルがアイに敗北したことが、ここでは逆に「ベテル」の民をもおびき寄せることにつながりました。

イスラエルは、アイでの敗北によって、主の前に遜り、より大きな勝利を手にできました。まさに、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と記されている通りです。キリストのうちにある者にとっては、取り返しのつかない失敗はありません。

アイとベテルの人々がイスラエルの後を追って町を出た時点で、何と主(ヤハウェ)ご自身がヨシュアに直接に、「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ」と命じられます(8:18)。まさに、主ご自身が反撃のタイミングを指示されたのです。伏兵を置くという策略から、伏兵に攻撃させるタイミングまでも主ご自身が導いておられるというのは何という驚きでしょう。先の敗北を喫したときの戦いとは正反対です。

そして、町の背後に隠れていた伏兵が町を攻め取り、火をつけ、イスラエル軍はアイの住民をはさみうちにします。その際、「ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を指し伸ばした手を引っ込めなかった」(8:26)とありますが、それは主のみこころが、イスラエルを用いてカナン人の悪を断ち切ることにあったからです。

これを現代の私たちの感覚で非難することは時代錯誤になります。ここに書いてある絶滅作戦は、当時の戦争では極めて常識的な方法でした。しかも、そこにはこの時期だけに適用できる主の明確な命令がありました。そしてイエスこそは、その常識を変えてくださった平和の王です。

現代の私たちには、罪人の身代わりに十字架にかかられた主ご自身が、「あなたの敵を愛しなさい。彼らに良くしてやりなさい」(ルカ6:27,35)と命じておられます。私たちの真の敵は、人間ではなく、自分の存在を隠しながら、人と人との間に憎しみの種を蒔いているサタンです。

そして、ヨシュアの時も、今も、方法に違いはありますが、神の目的は愛と平和に満ちた「神の国」を建てることです。神が私たちの罪を赦してくださったのは、私たちとの交わりを回復し、ご自身の働きに加え、生かすためなのです。

4.祝福を選ぶか、のろいを選ぶか

ヨシュアはその後、アイから中央高地を北上し、約束の地の真ん中に当たるシェケム近郊に達します。そして、主がモーセを通して「主(ヤハウェ)があなたがたを導き入れたなら、ゲリジム山には祝福をエバル山にはのろいを置かなければならない・・」(申命11:29、27:1-26)と命じられたことを実行します(8:30-35)。

ヨシュアは、エバル山に大きな石を建てて、モーセが記した申命記を書き写した上で、民をふたつの山の前に分かれて立たせ、「祝福とのろい・・をことごとく読み上げ」(8:34)ました。彼らは、このような具体的な行動を通して主(ヤウェ)を愛するか、また反対に主に背いて「のろい」を選ぶかを問われたのです。

イエスも私たちに対して、「だれもふたりの主人に仕えることはできません・・あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)と言われました。しかし、多くの人は、イエスが不可能と言われたことにチャレンジしようとして信仰の破船に会います。

一方、イエスが、外に出て「空の鳥を見なさい・・野のゆりがどうして育つのかわきまえなさい」(マタイ6:26,28)と言われた簡単なお勧めを無視してしまいます。私たちも、聖書の朗読を耳で聞き、神の創造のみわざを目で観察するという具体的な行動によって初めて、「だから、神の国とその義とをまず第一に求め(捜し)なさい」(マタイ6:33)というみことばが心の底に響きます。あなたは自分の目に何を見させ、耳に何を聞かせているでしょうか。

9章1節ではヨルダン川の西側の「王たちは・・一つになって・・イスラエルと戦おうとした」と描かれます。これは12章まで続く戦いの要約のような表現です。

ただし、9章ではその戦いのきっかけになった事件が記されます。「ギブオンの住民たち」(3節)とは、アイやベテルから南南西約10㎞、エルサレム北北西10㎞ぐらいにあるまさに約束の地の中心の住民です。申命記7章1,2節ではカナンの住民に関して、「彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない」と命じられていました。しかし、それは約束の地の「外」の住民との関係には適用されませんでした。

ここでは、「ギブオンの住民」たちがヨシュアを欺き、自分たちがカナンの外の住民であるかのように装って「盟約を結んだ」(9:6、15)ことが描かれます。

このときイスラエルは、「主(ヤハウェ)の指示をあおがなかった」(9:14)というのです。主がともにいてくださったのに、主がおられないかのように行動してしまいました。これは、エリコの戦いの後に、主にすがることを忘れてアイとの戦いに負けたときのパターンと同じです。彼らはすぐに失敗体験を忘れ、主が与えてくださった成功の中で、危機意識を失っていました。

その結果、彼らは、カナン人との妥協という問題の種を蒔くことになります。実際、後にイスラエルの民が約束の地の征服に失敗し、偶像礼拝の習慣に飲み込まれてしまったのは、彼らがカナン人との共存を図ったからでした。

しかし、それが騙された結果であっても、「主(ヤハウェ)にかけて彼らに誓った」(9:18,19)という盟約は無効になりませんでした。実際、それは、数百年後のダビデをも拘束し(Ⅱサムエル21章)、主(ヤハウェ)は、この盟約を持ち出して、サウルがギブオン人の血を流したことの償いを命じます。

つまり、偽りの情報の上に立った契約でも、主の前での誓約は互いを縛るのです。結婚してしまってから、「こんなはずではなかった・・・」と言ったとしても、それは手遅れです。誓約は絶対的な意味を持ちます。

人は、基本的に、困難の中で主にすがり、祝福を受けても、それを自分の手柄のように思うものです。ですから、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築きあげたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい」(申命記8:17,18)と記されています。

主の恵みを忘れ、主にすがることを忘れることこそ、すべての失敗の始まりとなります。ただし、数々の失敗をしたとしても、「アコルの谷を望みの門としよう」と言われた主は、新しい歩みを何度でも始めさせてくださいます。

しかもそこでは、失敗体験が、主との交わりを深化させ、新たな祝福の母となっています。