2016年12月11日
星野富広さんは、身体が不自由になり、イエスに出会うという過程での心境の変化を、「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と簡潔に描いています。
意識が自分に向いすぎる人は苦しくなります。聖書に記された神の救いのご計画に心を向け、その中に自分を置くなら、人はいつでも幸せを味わうことができます。
この申命記の書は、これから約六百年余り後の紀元前622年、ユダの王ヨシヤ王の時に、失われていたものが発見され、それによって一時的な信仰の覚醒が起きました。ただそれは遅すぎたとも言えます。警告されていた「のろい」が実現し、イスラエルの民はバビロン帝国の捕囚とされます。
しかし彼らはそこで、すべてが予め記されていた通りであることを受け止め、自分たちの創造主に立ち返ることができました。
クリスマスの季節にはいつもイザヤ9章から、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た……ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」(2、6節) と読まれますが、それは国の滅亡の後に現れる救い主の預言でした。今回の箇所に記された「のろい」を素通りして「祝福」を理解はできません。
1.エバル山で確認されるべきのろい(27章)
申命記26章の終わりは28章に続く方が、文章の流れが自然です。すべてモーセ自身のことばと理解できるからです。5章1節以降、モーセの名が登場するのは27章が初めてです。
しかし、12章から26章を「十のことば」の適用例と理解し、11章29-32節の「ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない……」という約束の地での可視的な誓いの儀式に対応するものとして27章が描かれ、それに挟まれて具体的な教えが記されていると考えるなら、この全体の流れが理解できます。
27章でモーセはイスラエルの民に、「大きな石を立て、それらに石灰を塗り……それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書き記しなさい……これらの石をエバル山に立て……なければならない」(2-4節) と命じました。この山は約束の地のほぼ真ん中の町シェケム(イエスがサマリヤの女と出会った井戸の近く)の北にあり、町の南にはゲリジム山がありました。
5-7節では、そこに祭壇を築いていけにえをささげ、「主 (ヤハウェ) の前で喜びなさい」と命じられます。これは12章の唯一の礼拝の場と矛盾するようにも考えられますが、「十のことば」を与えられた後の出エジプト記24章の契約の儀式との対応を考えると納得できます。
12章から26章の具体的な教えを全体としてみなで覚えるための儀式だからです。これはヨシュア記8章30-35節で、ヨシュアに導かれた民が具体的に実行したこととして描かれています。
9節でモーセは、「静まりなさい……きょう、あなたは……主 (ヤハウェ) の民となった」と、今、ヨルダン川を渡って約束の地に入る前の時点で、主の命令をここで聞いていることによって「主 (ヤハウェ) の民」となっているということを思い起こさせます。
その上で、約束の地の中央を占領してすぐに行う儀式として、十二部族を二つのグループに分けて、二つの山に立たせるように命じられます (12-14節)。そこで、東に向って右のゲリジム山には「祝福」を、左のエバル山には「のろい」を置くという目に見えるしるしで、祝福とのろいの選択を迫りました。
しかし、結果的にはエバル山に立たされた部族は辺境の地に住むことになります。ただ、救い主はその辺境の、ゼブルン、ナフタリの地を受け継いだガリラヤから現れます (イザヤ9:1)。
15-29節には、十二回にわたって「のろわれる……」と繰り返され、そのたびに「アーメン」と応答するよう命じられました。ここでは性的な罪が四回にわたって特に厳しく戒められますが、全体として注目されているのは「ひそかに」(15、24) 行われる罪と言えましょう。それはなかなか公になりにくい罪です。
そして26節ではこれまでのすべてをまとめて「このみおしえを……実行しない者はのろわれる」と記されます。
ガラテヤ人への手紙3章10節では、このみことばが引用されながら、「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです……キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と記されます (3:11、13節)。
21章23節でも、「木につるされた者は、神にのろわれた者」と記され、それがガラテヤ3章13節でも引用されて、アブラハムの民がのろいから贖い出され、私たち異邦人にも「約束の御霊」が与えられると保障されていました。つまり、「のろわれる」ということばにおののく者のために、イエスは十字架にかかってくださったのです。
2.祝福とのろいの対比(28章)
28章1-14節は、26章からつながる「祝福」の約束と考えることができ、そこではまず、「もし、あなたが、あなたの神、主 (ヤハウェ) の御声によく聞き従い……すべての命令を守り行なうなら……次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される」と約束されます。
3-6節では美しいリズムで、六回にわたって「祝福」が約束されています。「入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」とは、日々の行動の自由の中に現れる祝福を指します。
7-13節は交差法によるひとつのまとまりで、7節と12b、13節が敵や外国を圧倒すると約束され、8節と11節、12aが地の産物の祝福、9、10節が「聖なる民」、「主 (ヤハウェ) の名がつけられる」ことの祝福として描かれます。
それは具体的に、「主 (ヤハウェ) は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる……主 (ヤハウェ) は……あなたのすべての手のわざを祝福してくださる……主 (ヤハウェ) は……時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される……主 (ヤハウェ) はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない」(28:7、8、13)というように表現されます。
自分の労苦が思うように実を結ばないときに、私たちは何よりもまず、主 (ヤハウェ) を見上げるように招かれているのです。
「のろい」は「祝福」よりもはるかに多く記され、15-46節、47-57節、58-68節の三つに区分できます。そこではまず第一部の初めでは、「もし、あなたが、あなたの神、主 (ヤハウェ) の御声に聞き従わず……すべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる」(28:15) と宣告されます。これは2節と正反対の表現で、16-19節も3-6節の真逆で六回にわたって「のろわれる」と警告されます。
そして20-44節は、先の7-13節の祝福の真逆が起きることが描かれます。
ある宣教師が未開のジャングルを訪れた時、そこで、「あなたの神は、どんな災いを下すのか?」と聞かれたので、宣教師が、「私たちの神は、災いではなく祝福だけを下さいます」と答えました。するとその人は、「災いを下さない神を、なぜ礼拝する必要があるのか……」と言ったという事です。
しかし、文明社会?に住む人々も、この世の権力から下される「のろい」を恐れて生きてはいないでしょうか。人は、神からの「のろい」の可能性を理解できて初めて、この世の「のろい」を小さく見られるのではないでしょうか。
20-24節では、「のろい」は様々な自然災害や疫病として国全体に及び、誰も逃れることはできないと強調されます。特に23、24節は12節の天からの祝福とは逆に、「天は青銅となり」という「のろい」として描かれます。
25-29a節では7節と対照的に、「主 (ヤハウェ) は、あなたを敵の前で敗走させる……主 (ヤハウェ) はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる」と恐怖に圧倒される様子が描かれます。
また、29bから33節では、12節の「手のわざを祝福される」とは真逆に、「あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪される……婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建ててもその中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない……地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べる」と労苦が無駄になる様子が描かれます。
イザヤ65章17節以降の「新しい天と新しい地」の祝福は、「彼らはむだに労することがない」(同65:23私訳) と描かれます。
34節~44節はそれまでのことを別の角度から述べたもので、43、44節は先の12b,13節と真逆の表現で、45、46節は15節の繰り返しで第一部の「のろい」の結論部と言えましょう。
28章47節から57節は、はるか後のバビロン捕囚を示唆します。そこには「のろい」ということばは登場しませんが、それよりはるかに悲惨なことが記されます。その原因は47節では、「すべてのものに豊かになっても……主 (ヤハウェ) に、心から喜び楽しんで仕えようとしない」という忘恩に対するさばきです。その結果、「主があなたの首に鉄のくびきを置き、ついには……根絶やしにされる」(48節) というのです。
49節は、「主 (ヤハウェ) は、遠くの地の果てから、鷲が飛びかかるように、ひとつの国民にあなたを襲わせる」とバビロン帝国のことが具体的に描かれているようにも解釈できますが、これはアッシリヤやギリシャの攻撃に適用できることですから、あまり固定的に考え、バビロン捕囚以降に書き加えられたなどという解釈にならないことが大切です。
それにしても、52節からは敵の包囲がもたらす悲劇が、「包囲と、敵がもたらした窮乏のために……あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が……自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ……食べるであろう」(53、56、57節) と皮肉に描かれ、哀歌2章20節では、その通りに実現したと記されています。
58-68節では、「この光栄ある恐るべき御名……主 (ヤハウェ) を恐れて……このみおしえ……を守り行わないなら」、出エジプトの神の御業が逆転されると描かれ、60節ではエジプトを襲った「十の災い」がイスラエルに下ることが示唆されます。
そればかりか、64、65節では、「主 (ヤハウェ) は、地の果てから果てまでのすべての民の中に、あなたを散らす……これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない」と、その後の、今に至るまでのユダヤ人の悲劇が預言されます。
65-67節は圧倒的な不安に苛まれて精神を病んでしまうことが描かれます。
また68節では「あなたを……再びエジプトに帰らせる」と、イスラエルに対する神の救いの御業が帳消しになると記されます。イスラエルは、地上のどの民族より愛された分だけ、厳しく裁かれました。彼らの神の無力さのせいではありません。
68節の「あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい」とは現代にも通じる悲惨です。それは、誰もが避けるほど惨めな仕事にもありつけないばかりか、誰からも声をかけてもらえないほどに身を落とす状態です。そこで深く反省しても、落ちた穴が深ければ自分で這い出すことは不可能です。
しかし、全能の主 (ヤハウェ) にあって不可能はありません。そのような人に、主は「あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示2:5) と命じられます。「初めの行い」とは、主の恵みのうちに歩ませていただいていた原点です。誰も自分だけの力で生きてきた人はいません。その恵みに立ち返って、そこにあった関係を回復するのです。
3.「のろいの誓い」の後に「あなたを栄えさせて喜ばれる」(29、30章)
申命記はモーセの三つの説教からなっています。第一は1章6節~4章43節、第二が5章から28章でした。そして、第三がこの29章と30章で、これはそれまでの教えをまとめる意味があります。
29章1節では、「これは……ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である」と記されますが、シナイ契約の中心は、神がイスラエルの真ん中に住むということでした。それによって彼らは、「大きなしるしと不思議」を見ることができました。
ただ4節では、「しかし、主 (ヤハウェ) は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった」と記されます。パウロは後に、このみことばを言い換え、イスラエルの民がキリストの福音を理解できなかった原因を、「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない心を与えられた。今日に至るまで」と記しています (ローマ11:8)。
ホレブで結ばれた契約では、それを守るときの「祝福」、背く時の「のろい」が十分ではなかったので、モーセはこの「モアブ」の地で、27章9節にあったように、そこにいる民を改めて「主 (ヤハウェ) の民となった」と宣言し、契約を更新したのです。そこには彼らの「心」と「目」と「耳」とを開いて欲しいという熱い思いが込められています。それと同時に、彼らがすぐにそれを忘れることを心配し、「契約」に伴う「のろい」を思い起させたのです。
5-8節では、ホレブでの契約以降の歩みを簡潔にまとめ、彼らが四十年間の荒野の生活を守られ、最後にはヨルダン川の東側の強大な国々に劇的な勝利を収めたことを思い起こさせました。
それを前提に9節では、「この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである」という希望が記されます。
10-15節では、彼らの子孫が約束の地に広がって住むことを前提に、「あなたが、あなたの神、主 (ヤハウェ) の契約とのろいの誓いとに、入る。それは、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるものである」(12節私訳) と述べられます。
「のろいの誓い」とは、先に「のろわれる」と繰り返されていたことばとは全く異なる一つの単語で、契約を守るという「誓い」自体を指します。ですから多くの英語訳では、契約という単語を修飾するように「誓われた契約に入る」と訳されます。
ただ、どちらにしてもこのモアブでの契約においては、この契約を破った時の「のろい」の部分が前面に出ているので、敢えて、「のろいの誓い」とここでは訳されています。
そして、14、15節では、「この契約とのろいの誓い(誓われた契約)」が、彼らの中に住む在留異国人や奴隷ばかりか、そのすべての子孫に及ぶと強調されます。
しかも、16節以降ではイスラエルが異邦の民の神々に仕えるようなことが絶対にあってはならないと警告されます。
そして19、20節では「(のろいの)誓い」ということばのみを用いて、それを軽んじる者へのさばきが、「『私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある』と心の中で自分を祝福する者があるなら、主 (ヤハウェ) はその者を決して赦そうとはされない」と厳しく警告されます。
そして21節では、「契約のすべてののろいの誓いにしたがい」、その契約を軽んじた者を「イスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される」と警告されます。
異邦人たちはイスラエルの悲劇の歴史を見ながら、主 (ヤハウェ) を恐れるようになると言われます(22-28節)。それは、この警告が予め記されていた結果です。
29章29節の「隠されていることは、私たちの神、主 (ヤハウェ) のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり……このみおしえのすべてのことばを行うためである」とは、啓示の核心です。知りたくても分からないことは、知る必要がないことです。しかし、本当に必要なことは既に知らされています。私たちの使命は、今明らかな御教えに従うことです。
主は、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラテヤ6:7、8) と、あなたの現在の選択が、あなたの未来を決めると言われます。
30章では、「あなたの前に置いた祝福とのろい、これらのすべてのことが、あなたに臨み……あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主 (ヤハウェ) に立ち返り……心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主 (ヤハウェ) は、繁栄を元どおりにし……あなたを再び、集める……たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても……そこからあなたを連れ戻す」と語られます (1-4節)。
バビロン捕囚を通してイスラエルは劇的に変えられ一切の偶像礼拝と決別しました。しかし、彼らの回心は不徹底だったため、バビロンからの解放後もペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国に支配され続け、そのような中で、救い主の到来を待ち望んでいました。
しかし、彼らは真の問題は、神の御教えを法律の条文のように扱い、弱い人々を軽蔑し、神のあわれみを忘れていたことでした。イエスは何よりそれを指摘したのでした。
6節で、真の救いは29章4節との対比で、「あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、それであなたが生きるようにされる」と記されます。
それは私たちの心が変えられること、つまり、神を愛することができない者が、神を愛する者へと変えられることです。そのためにイエスはあなたの罪を負って十字架にかかり、三日目によみがえり、ご自身の御霊を遣わしてくださいました。
9節では、28章3-6節の祝福の約束が思い起こされながら、「まことに主 (ヤハウェ) は……あなたを栄えさせて喜ばれる」と約束されます。
14、15節でモーセは、「みことばは、あなたが行うように、ごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にある(私訳:原文は「できる」とは書いてない)。見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く」と言い、また、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい……」(30:19) と念を押しましたが、イスラエルは「のろい」を選び取ってしまいました。
それで神は、御子を世に遣わし、全ての罪の「のろい」をその身に負わせてくださいました。今は、キリストにある救いを受け入れるか、拒絶するかという選択が迫られています。
私たちも、日々刻々と、イエスにすがるか、自分の肉に従って生きるかが問われます。コンピューター言語がゼロと一の組み合わせで驚くほどの多様性が生まれるように、人生も、小さな選択の積み重ねによって形作られてゆきます。
私たちは、確かに何度も失敗しますが、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2) とあるように、既にキリストにあって、「のろい」から「祝福」の中に移されているということを決して忘れてはなりません。
自分の願望に縛られすぎて、既に実現した恵みや救いを忘れることがあったとしても、様々な困難は、もはや神の「のろい」の表れではなく、「平安な義の実を結ばせ」(ヘブル12:11) るための、神の愛の訓練のときです。たとえ、現在の苦しみが自分の罪の結果だとしても、キリストにすがりながら生きる者は、すべてが「祝福」へと変えられる神の御手の中に生かされているのです。
「のろい」の時代は、「ぶどう畑を作っても……収穫……できない……夜も昼もおびえ」(28:30、66) などと、労苦が実を結ばず不安にさいなまれる状況として描かれていました。
しかし、今は、「いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58) と約束されています。