申命記23章〜26章「主の聖なる民となるために」

2016年12月4日

三千数百年前の遠い国の細かな教えを学ぶことにどんな意味があるのかと、ふと思われることがあります。しかし、当時の文化背景を理解しながらここを読むと、知らずに微笑が湧いてきます。

現代は、普遍のドグマ(教義)よりも個別が重んじられる時代と言われますが、その原点が既に記されています。

なお、申命記12章から26章には様々な規定が記されていますが、それがどのような関係性で記されているのか、そのストーリを把握することが困難です。Gordon.J.Wenham というモーセ五書の世界的な権威者は、この部分が「十のことば」に対応すると記しています。

それによると、12章は、「あなたがたには……ほかの神々があってはならない……偶像を造ってはならない……拝んではならない」、すなわちカナン宗教との分離の命令です。

13、14章は「主 (ヤハウェ) の御名を、みだりに唱えてはならない」、すなわち、カナン礼拝との妥協をしないことの命令です。

15章から16章17節は「安息日を……聖なる日とせよ」、すなわち、時間を聖別することの命令です。16章18節から18章22節は「あなたと父と母を敬え」、すなわち権威を敬うことの命令です。

19章から22章8節は「殺してはならない」、すなわち人間の尊厳を守ることの命令です。

22章9節から23章18節は「姦淫してはならない」、すなわち異教徒との分離の命令です。

23章19節から24章7節は「盗んではならない」、すなわち財産の保護の命令です。

24章8節から25章4節は「偽証してはならない」すなわち、他者を公平に扱うことの命令です。

25章5-16節は「隣人の妻……隣人のものを、欲しがってはならない」という命令に、それぞれ対応するとのことです。

1.「姦淫してはならない」に関係する教え(22:9-23:18)

22章9節以降は、「姦淫してはならない」に関係する命令です。21-24節の三つの姦淫の罪に関しては死刑が命じられ、「あなたがたのうちから悪を取り除きなさい」と繰り返されます。聖書の教えは、男女の性的な関係において当時の異教文化と何よりも異なり、厳格で、姦淫の罪は基本的に死刑となりました。

25、26節では、婚約中の女が野にいて、助けを呼び求められなかった場合は、男だけを石で殺すように命じられました。

28,29節では、男が「まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕らえてこれといっしょに寝」た場合は、花嫁料に相当する銀50シェケルを父親に払って一生妻として面倒を見ることが命じられました。13-21節にあったように女にとって純潔を守ることは最も大切な掟であり、それを奪われた女性にとって、男が死刑になって罪を償ってもらうよりも、一生の保護を得られる方が大切だからです。

すべての背景には、男女の結婚関係を「聖別する」という基本原則があります。女性の純潔は将来の夫のために守るべき神秘であり、男性が他人の妻または婚約者を奪うことは殺人に等しい罪と見られました。新約では、男性の性も結婚相手のために聖別すべきとされています (マタイ19:9、Ⅰコリント7:4)。

23章1-3節では、「主 (ヤハウェ) の集会に加わってはならない」ということばが五回も繰り返されます。第一の者は、男性の機能を失った宦官と呼ばれる人々、第二は「不倫の子」、第三は「アモン人とモアブ人」ですが、第二と第三に関しては「十代目の子孫さえ」という厳しい条件が記されています。

それは、「主 (ヤハウェ) の集会」が、主ご自身が真ん中に住まれる場所なので、「聖さ」の枠にはまらない人を排除するという意味がありました。ただ、それは忌まわしい偶像礼拝に満ちたカナンの地を占領するというプロセスの中で守るべき規定であって、永遠のおきてではありません。

そのことがイザヤ56章では、外国人も宦官も主の集会に加わることができる時が来ると預言され、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とまとめられています。そして、のろわれた民を神の民に加えるのがキリストのみわざです。

「アモン人とモアブ人」(3節)とは、ロトとそのふたりの娘との間の父娘相姦から生まれた子孫で、神の民をのろうことによって、のろいを招いてしまいました。

一方、エドム人とエジプト人の三代目は、かつての一時的な友好関係の故に、主の集会に入ることができました (7、8節)。主は、ご自身の民に敵対する者に敵対し、ご自身の民に少しでも誠実を尽くすものにはあわれみ深くあられます。

ですから、ルツはのろわれたモアブの娘でしたが、その誠実さのゆえに、何とダビデの曾祖母として迎えられたのでした。

また聖なる戦いに出陣しているとき、陣営の中がきよく保たれるように、生理的なことにも細心の注意を払うよう命じられました (23:9-14)。イエスの時代、あの死海文書で有名なエッセネ派は、これを入会の最も重要な条件としていました。

しかしこれは、「あなたの神、主 (ヤハウェ) が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれる」(23:14) という神のあわれみから生まれた命令でした。

15,16節では逃亡奴隷を「主人に引き渡してはならない」とあるのは、現代の難民や亡命者を保護する国際協定の原型と言えましょう。対象となったのは外国から逃れてきた奴隷だと思われます。イスラエル人が所有する外国人奴隷は財産だったからです。

それにしても「彼の好むままに選んだ場所に住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない」というのは何とも寛大で、異教徒との分離の例外規定とも言えます。奴隷がイスラエルを偶像礼拝に堕落させる恐れはなかったからです。これより少し前の古バビロニア王国のハムラビ法典では、逃亡奴隷を匿った者は死刑とされると記されていました。

17、18節では、イスラエルの民が「神殿娼婦……神殿男娼」になることが禁じられ、それから生まれた「遊女のもうけや犬のかせぎ」は、献金として受け入れてはならないと命じられます。

これは後に拡大解釈され、遊女や取税人が社会から排除される根拠とされました。しかし、文脈から明らかなように、異教の退廃した性道徳からの分離こそがテーマだったのです。

当時のパリサイ人は律法に少しでも反する疑いのあるものを退けることで、別の問題を引き起こしました。しかし、イエスは彼らの友となられました。それこそイエスがもたらした革命です。十字架と復活で、神の民の枠が申命記の枠を超えたのです。

2.「盗んではならない」に関係する教え(23:19-24:7)

23章19、20節では、「金銭の利息を……あなたの同胞から取ってはならない」と記されますが、当時の「利息」は、現代の違法な高利貸しを超える、平均五割などという法外なものでした。これは貨幣流通に市場原理が働かない時代のことですから、これを現代に適用するなら、資本の分配がかえって人情や賄賂に左右されることになりかねません。

私たちは常に戒めの原点に立ち返る必要があります。それは、互いに愛し合うべき同胞が困難にあっていることを、決して金儲けの機会にしないということです。

21-23節では「主に誓願」することに関してですが、それは、自分の大切なものを主にささげることで、主に自分の切実な願いを表現することですから、それを破ることは、主のものを盗むことになります。

24、25節では、「隣人のぶどう畑に入ったとき……満ち足りるまでぶどうを食べても良いが……かごに入れてはならない。隣人の麦畑の中に入ったとき……穂を手で摘んでもよい。しかし……かまを使ってはならない」と記されます。

つまり、その場での自分の飢えを満たすことに限って、摘んで食べることは認められました。これは隣人から「盗んではならない」ことの例外規定です。財産権は隣人愛の枠の中で理解される必要があるという意味と解釈できます。

後にイエスの弟子たちが麦畑を通って、「ひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた」(マタイ12:1) ことは、安息日でなければ何の非難の理由にもなりませんでした。これは、土地の所有権は、本来、主 (ヤハウェ) に属するものであることの信仰の表明でもありました。

24章1-4節では、「妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」との記述から始まりますが、これは後に離婚の合法化の根拠に用いられた箇所で、律法学者は「何か恥ずべきことを発見した」(24:1) 場合の意味を、「夫の食事を台無しにしたり、道で他の男と話したり、夫の親の悪口を言ったり、隣の家に聞こえる声でわめいた場合」などと具体的に述べました。

それに対しイエスは、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と、不貞以外の理由での離婚を禁じましたが (マタイ19:6)、その際、パリサイ人は「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか」と尋ねました。しかし、新改訳第三版での翻訳にも明らかなように、この規程の目的は、夫が妻を去らせ「ほかの人の妻となり、……」、その後、また同じように次の夫から離縁されたり、夫の死などによって、彼女が「ひとり身」になった場合、「再び自分の妻としてめとることはできない」(24:4) と、再婚した元妻との再再婚に歯止めをかけることです。

些細な理由で離縁し、「恋しくなった……」などと気まぐれを起こす男に女性が振り回されてはなりません。これも財産権の枠で理解すると画期的です。女性は決して、男のきまぐれで捨てたり、戻したりできる財産ではないのです。

イエスの時代には、これらの教えをもとに、人々の生活を縛り、また守れない人を排除しました。イエスはそれに対し、律法が与えられた原点である「神のあわれみ」に人々を立ち返らせようとしました。本来、人を生かし合うための教えを、互いを裁き、排除しあう規程にする危険は今もあります。

5節は聖なる戦いに際しての徴兵免除の規定で (20:5-7参照)、「人が新妻をめとったときは……何の義務をも負わせてはならない……一年の間、自分の家のために自由の身となって、めとった妻を喜ばせなければならない」と命じられます。

目的が「妻を喜ばせる」とあるのは妻の権利を守ることで、何とも画期的です。神は新婚家庭を守るように特別な配慮を命じておられることを現代の教会も理解すべきす。

6節の「ひき臼……の上石を質にとってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである」とは興味深い表現です。財産権を尊重しながらも、それを隣人愛の大きな枠の中で理解すべきという意味です。

さらに7節では、イスラエル人をさらって奴隷に売るような者は、「死ななければならない」と厳しく記され、「あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい」とこの部分が締めくくられます。

3.「偽証してはならない」に関係する教え(24:8-25:4)

24章8、9節では、「ツァラアトの患部には気をつけて」という文脈の中で、ミリヤムがモーセを不当な理由で非難したために神のさばきを受けたことが思い起こされます (民数記12章)。

10-13節では、「隣人に何かを貸すとき」の、担保の取り方にも、貧しい人の生活が成り立たなくなるような方法は厳しく戒められています。また、雇い人が在留異国人であっても、賃金の支払いを遅らせるようなことがあってはならないと厳しく命じられました (24:14-15)。

また、子の罪を父にまたは父の罪を子に負わせることを禁じていること (24:16)は、個人の人格と責任を尊重した近代法の起源と言えます。

また17、18節では、在留異国人や、みなしご、やもめを保護することが命じられますが、その際、「思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを」(18節) と、個々人を公正に扱うことと結びつけられます。

19節で、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」とあるのには、微笑みたくなります。

続く「オリーブの実」(20節) に関しても、「後から枝を探してはいけない」と訳すべきで、「ぶどうの実」に関しても「後になってまたそれを摘み取ってはならない」と命じられます (21節)。

レビ記では「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」の具体例として、「刈り入れるときは、隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない」と命じられました (19:9、18)。落ち穂やぶどうの摘み残しは、貧しい人々が、恥じることなく自分の手で働き、生活を成り立たさせるために残すのでした。

後にモアブの娘ルツは、しゅうとめのナオミのために落穂ひろいを熱心にしますが、その際ボアズはしもべたちに、「あの女に恥ずかしい思いをさせてはいけない」(ルツ2:19) と、さりげなく落ち穂を残させました。

愛とは、人を恥じさせずに居場所を残すさりげない配慮です。そして主はそれらをまとめるように、「あなたは……奴隷であったことを思い出しなさい」(24:22) と社会的弱者を軽蔑しないように命じます。

「むち打ち」(25:1-3) の限界が四十回と定められていた根拠が、犯罪者であっても「あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないため」とあるのに驚きます。

イエスが十字架にかけられる頃は、律法違反にならないようにと39回に減らされていましたが、「卑しめないため」との心は無視されていました。

「脱穀をしている牛にくつこをかけてはいけない」(25:4) とは、貧しい人のために収穫物を残すという先の教えと同じ文脈です。目の前に脱穀の麦が飛んで落ちているのを、牛に食べさせないようにするというのは牛を機械のように扱うことになります。

使徒パウロは、この教えを、福音を取り次ぐ伝道者に適用し、「脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事するのは当然だからです……御霊のものを蒔いたのであれば、……物質的なものを刈り取るのは行き過ぎでしょうか」とまで述べています (Ⅰコリント9:9-11)。そこでも、福音を宣べ伝える者に「恥ずかしい思いをさせない」ことが申命記の文脈から命じられます。

4.「隣人の妻……隣人のものを、欲しがってはならない」(25:5-16)

25章5-10節の「兄弟……のひとりが死に、子がない場合……その兄弟がその女のところに入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない」との規定は、世界各地に見られるレビラト婚の原型のような記述です。

その趣旨は、子を残さずに死んだ夫の跡継ぎを残す責任を、彼の妻と彼の兄弟に命じるものです。当時は土地こそ、神の具体的な祝福の象徴であり、それを子孫に残すことは、最高の責任であったことを理解する必要があります。

そして、これを前提としなければルツ記は理解できません。彼らは、何よりも、「死んだ者の名をその相続地に起こす」(ルツ4:10) という使命のために結婚したとあるからです。

これを「隣人の妻を欲しがってはならない」という第十の教えの中で理解すると、結婚は互いの欲望を基にではなく、神からの使命のためにという原則が明らかになります。

今は、「みこころの人と結婚するには?」などと尋ねられますが、聖書は「結婚の目的は?」と問います。自分の幸せを第一に求める者が、絶え間のない欲求不満に陥るのと同じように、ふたりの愛自体を目標にする人は、波長の合わない伴侶に失望します。

しかし、主によりよく仕えるための同伴者を求めるなら、互いの違いを、すれ違いの原因としてよりは、補い合う関係の基礎として喜ぶことができます。

しかも、たとい、あなたの伴侶が愛するに値しない存在に思えたとしても、そこにこそ神から与えられた最高の使命を見ることができます。なぜなら、神の愛は、愛するに値しない者を、愛するに値する者に変えることであり、私たちもそれに倣うべきだからです。愛は、感じるものではなく、実践すべき歩み方です。

11、12節では、慎みのない妻が、夫の争いに加担して敵の男の性器をつかむ際に、「その女の手を切り落としなさい」と命じられています。

13-16節では「正しい重り石」や「正しい枡」を用いて取引を行なうことが命じられています。これらは、自分の不安や欲望に駆られて、相手の大切なものを侵害することの戒めです。

17-19節では、イスラエルの民がエジプトから出てきたとき、アマレクが襲いかかり、「あなたの後ろの落伍者を、みな切り倒した」罪に対して「アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない」と記されます (18、19節)。これは、「隣人のものを、欲しがってはならない」ことへのさばきです。

5.乳と蜜の流れる地で

26章は12章以降の律法の総まとめのような意味があり、神のみわざへの応答が見られます。主が与えられた相続地での収穫の初穂は、主の幕屋がある唯一の礼拝の場に持って行き、主に献げることが命じられました (26:1-11)。その際言うべき言葉は、神がイスラエルの民になされたみわざの美しい要約です。

「私の父はさすらいのアラム人」(5節) とはヤコブ、別名イスラエルのことです。彼らは七十人でエジプトに下り (創世記46:27)、そこで「大きくて強い、人数の多い国民となり」、「過酷な労働を課せ」られ、「父祖の神、主 (ヤハウェ) に叫ぶ」と、「主 (ヤハウェ) は……私たちをエジプトから連れ出し……乳と蜜の流れる地、この地を私たちにくださいました……今、ここに私は……初物を持ってまいりました」(6-10節) と言うのでした。

12-15節は、三年毎の十分の一のささげ物の際に、民が告白すべきことばが記され、特に、「私は、私の神、主 (ヤハウェ) のみことばに聞き従い、すべてあなたが私に命じた通りしました」(14節) と告白できるようになることが求められていました。

そこでは特に、自分が社会的弱者を顧みたこと、また死人に供物を供えなかったことが強調されていました。それをもとに「民」と「地」の「祝福」を祈り求めるのでした。

16-19節は、イスラエルに律法が与えられた根拠が、「あなたは主の宝の民であり」と語られています。それは彼らが主の命令を受けているという自体に保証されています。

主の御教えは、私たちを束縛するものではなく、私たちを幸せにすることができる神の知恵でした。そしてそれを守るなら、「主は、賛美と名声と栄光とを与えて……すべての国々の上に高く上げ……あなたの神、主 (ヤハウェ) の聖なる民となる」と約束されています (26:18、19)。

4章6-8節では、彼らが律法を守ることで、世界の国々の民から、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と呼ばれると記されていましたが、それと同じことです。

そして、私たちも「主の宝の民」です。それは、私たちにみことばが与えられ、またそれを理解するために聖霊が与えられているからです。私たちに与えられている宝のすばらしさを忘れてはなりません。

それぞれの細かな規定を、「十のことば」との関係でみる時、神の御教えの柔軟さに感動します。私たちは「奴隷」状態から救われ「自由人」とされましたが (Ⅰコリント7:22、23)、心の底に奴隷根性が残っています。

神の御教えを、規則としてではなく、原点にさかのぼって現実に適用できる自由を楽しみましょう。