立川チャペル便り「ぶどうぱん」2016年クリスマス号より
皆様のお祈りに支えられて、9月19日から30日まで、12日間英国を夫婦で旅してくることができました。ロンドンに三泊し、博物館、美術館、様々な教会を見学し、英国王室の教会でもあるセントポール大聖堂の夕方の礼拝で聖餐式に与かりました。その後、オックスフオードに立ち寄り、大学の古い教会でまたまた聖餐式にあずかりました。それぞれで、美しい式文と聖歌隊賛美の美しさが印象的でした。その後、ピーターラビットの故郷として有名な湖水地方に二泊し、またまた古い教会を訪ねましたが、そこでの活動の一端を知ることができました。日常の活動が活発に行われている様子でした。
今回の唯一の土日は、スコットランドの首都エディンバラの教会で一回のオルガンコンサートと日曜日には二回の礼拝に参加しました。そこは、全世界の長老(プレスビテリアン)教会の母教会と自認する教会でした。礼拝式や聖歌隊の賛美の美しさに感動しました。また聖餐式も感動的でした。日本の教会の礼拝式や聖餐式が、その教会の影響を受けていることが分かり感動しました。
そして、日曜日午後に今回のメインの目的であったセントアンドリュースに入り、そこに五泊しました。そこの教会でも、礼拝式の流れ、聖歌隊の賛美の美しさに感動しました。
今回の何よりの目的は、世界的に非常に尊敬されている同大学のN.T.ライト先生の講義を聴講し、個人的にお話しさせていただくことでした。先生は超多忙な方で、行ってみるまで分からないことばかりで非常に緊張しましたが、そのような中で、講義を直接聞けたばかりか、昼食をご一緒させていただけたことは本当に感謝なことでした。また、ライト先生の同僚の学者、ヘブル書の権威のモフィット先生とも昼食をご一緒させていただき、神学の話しを深くさせていただきました。またモフィット先生の紹介で大学院生のセミナーにも二回参加できました。
ライト先生とお会いするのは17年前に、カナダのヴァンクーバーで持たれたリージェント・カレッジ牧師向けセミナーで講義をお聞きして以来のことでした。当時の私は、従来の福音派の神学が、聖書の時代背景や文脈を軽視した、誤った単純化に走る傾向があったことに疑問を持ちながらも、聖書全体のストーリーの中から旧約預言とイエスの救いの関係をうまく説明できずに葛藤していました。そのセミナーを企画してくださったリージェントのゴードン・フィー先生、そこにゲストとして招かれていたライト先生との講義を聞きながら、まさに、「霧が晴れる」ような体験をさせていただきました。何よりも、聖霊のみわざの理解の不足が、旧約と新約の連続性を見えなくしていたと分かったのです。私がその後、旧約聖書のストーリーを大枠で捉えるメッセージを語り、それを次々と本として出版するようになったのは、このライト先生との出会いのおかげでした。先生は、当時の私の疑問に、「従来の神学の枠組みを横において、繰り返し聖書自体を何度も何度も読むように」と勧めてくださいました。
今回、ライト先生とお会いし、直接確かめてみたかったことは、マルティン・ルターに始まる宗教改革以降の神学をどのように評価するかということでした。それは、しばしば、ライト先生が、プロテスタントの基本教理と言われる「信仰義認」を軽視していると、様々な学者から批判されていたからです。以下に、ごく簡潔に、改めて確認できたライト先生が説く聖書理解の要旨を記してみます。
私たちの福音派の伝統では、しばしば、イエスを救い主として信じた人に向かって、「あなたは今、救われました!」と言います。確かに、将来的な「新しい天と新しい地」のいのちを保証されたという点で、それは間違ってはいないのですが、たとえば、パウロは、「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(ローマ5:9) と記しながら、「義認」と「救い」を明確に区別して語ります。イエスの十字架によって「義と認められる」のは、最終的な「救い」の必要条件ではありますが、そのふたつを区別しないと、イエスを救い主として信じた後の様々な誘惑との戦い、この世の試練の理由やこの世に生きる意味が見えにくくなります。
「救われた」はずなのに、どうして、こうも問題ばかりに直面し、そのたびに、自己嫌悪に陥り、失望ばかりを味わうのか……何も救われていない……のでは……などと、悩む人は多いように思えます。
「信仰義認」が「救い」と同義かのように言われるようになったのは、16世紀の宗教改革が基本的に、当時のカトリック教会の煉獄(天国、地獄の前段階)の脅しに対抗することにあったからです。当時の人々は、神の怒りのさばきを極度に恐れていました。また、19世紀の福音派のリバイバル運動でも、「地獄の恐怖」を目の当たりに思い描かせることによって、十字架の救いの恵みを語るという傾向がありました。そこで語られる「救い」とは、単純に言うと、「地獄からの救い」を意味しました。確かに、「神の怒り」は、この世界を平和に満ちた世界へと完全に造りかえるために、神のご意志に逆らう人々を滅ぼすことですが、その目的はあくまでも、この地に神の平和(シャローム)を実現することにあります。そして今、原理主義化した宗教が、独善主義によってこの世の争いを加速化させる中で、神の救いのご計画が、個々人のたましいの行き先の問題に矮小化されてはいないかが改めて問われています。
不思議にも、旧約聖書からの流れの中では、天国や地獄の話しはほとんど登場しません。中心的なストーリーは、エジプトでの奴隷状態からの解放と、その後は、バビロン帝国を初めとする異教徒の帝国の支配からの解放です。しかも、出エジプトの後も、バビロンからの帰還の後も、イスラエルの民は荒野のような生活を強いられています。それは、私たちの場合も同じです。イエスの救いを知らない人々は、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」(エペソ2:2) と言われるような状態にあります。私たちはサタンの支配下にあって「罪過と罪との中に死んでいた」状態から救い出されたのです。しかし、黙示録5章9、10節では、私たちが神の小羊であるキリストによってその支配から贖い出された目的が次のように歌われています。
「四つの生き物と二十四人の長老は……小羊の前にひれ伏し……新しい歌を歌って言った。
『あなたは……ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』(黙示5:8-10)
私たちは「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9)として、この世界を治める働きのために召されたのです。それは、「この世から救われる」こととは反対に、「この世を救う」ために、キリストの大使としてこの地に遣わされることを意味します。私たちの信仰の父はアブラハムですが、神は彼ひとりを召すことから、地上のすべての民族を祝福するというご計画を始められました (創世記12:3)。アブラハムの子孫のイスラエルは、地上のすべての民族を祝福するために召されたのです (創世記28:14)。ところが、イスラエルの民は世界を祝福するどころか、自分たちの神に逆らい続け、「のろい」を自分たちの身に招きました。それでイスラエルの王であるイエスは、イスラエルをこの「のろい」から解放し、新しいイスラエルを再創造するために、十字架にかかり、よみがえってくださったのです。十字架は、この世界を「のろい」から解放するための神の革命的なみわざでした。そして、イエスに従ったユダヤ人、新しいイスラエルから神の民が始まり、そこに異邦人が加えられることで現在の教会が生まれました。
肉のイスラエルが、世界の祝福の基となれなかったのは、彼ら自身がアダムの子孫としての自己中心な生き方を受け継いでいたからです。それに対し、エレミヤ31章31節以降では、主の御教えが石の板ではなく、民の心の中に記されるという「新しい契約」のことが記され、またエゼキエル36章26、27節では、聖霊が神の民に与えられることで、新しい神の民が生まれると預言されていました。
私たちがキリストの血によって義と認められたのは、神の民として生きる始まりに過ぎません。私たちはこの地に神の祝福を広げるために、「キリストの中にある者と認められた」(ピリピ3:9) のです。そのことはまた、「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいる」(ローマ8:9)とも言われます。私たちは全能のキリストの中に、また創造主なる御霊の中に、三位一体の神の愛の中に包まれて生きているのです。それは、地獄から救われるためという以前に、この地に神の祝福を広げるためです。それはキリストの宣伝をしながら歩くという以前に、この地をキリストの代理として治めるためです。
ライト先生は、英国の上院議員も務めた方ですが、キリストの福音があまりにも、この世からの分離ばかりを説き、「この地を祝福する」という神のみこころが曖昧になっていることを何よりも危惧しておられます。神は、ご自身のひとり子を身代わりに罰するほどに、世を憎んだのではなく、「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のです (ヨハネ3:16)。神はこの罪と不条理に満ちた世を愛され、この世界を変えるためにひとり子を世に遣わし、また、私たちを世に遣わしてくださるのです(ヨハネ20:21)。そのために私たちには全能の御霊が与えられました。信仰義認の教えは、神の民としての歩みの始まりですが、それを「救い」と混同させることによって、私たちがこの世に置かれている使命を曖昧にしてはなりません。ライト先生の神学は、宗教改革の原点の信仰義認を軽んじたのではなく、神の救いの全体像を見直して、宗教改革をさらに前進させることを意図しておられるのです。