申命記9章〜11章「全能の主に結び付く幸い」

2016年10月9日

私は昔、ひとつの教えに熱くなると、別の思想に非寛容にならざるを得ないと警戒していました。しかし、それは逆でした。

真理はイエスにだけあると心に決めたとき、かえって心が自由にされ、いろんな考え方、感じ方に柔軟になれた気がします。それは、自分で自分を守る必要がなくなるからでしょう。

イスラエルの民が約束の地で祝福を味わうために必要な命令があったように、私たちも新しいヨシュア(イエス)によってこの世界に遣わされ、生かされます。その際、いつでもどこでも、主との交わりを第一とすることが何よりも求められています。

主を全身全霊で愛することこそが律法の初めであり、完成です。そのために必要なのは、みことばに心を浸し、神のビジョンに私たちの心が動かされることです。

1.「あなたが正しいからではなく・・」「覚えていなさい。忘れてはならない・・」

9章は、「シェマーの祈り」(6:4)を思い起こさせる、「聞きなさい(シェマー)。イスラエル」で始まり、続いて、「きょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえているその民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である」(9:1,2)と記されます。

1章28節では同じ表現で、それこそがイスラエルの民が約40年前に、約束の地に登って行く勇気をくじかせた理由であると記されていました。とにかく今、40年前には絶対に不可能と思えたことが可能にされるということが強調されているのです。状況は何も変わっていませんが、40年の荒野の訓練を通して、神がこれをまったく別の視点から見させてくださったのです。

これこそ、今回の日本伝道会議のテーマであったRe-Visionの意味かと思われます。神の民の霊の目が開かれて、神の視点から現実を見られるようになりました。絶望的な状況を、希望の目で見られるようになったのです。

その際、「きょう、知りなさい。あなたの神、主(ヤハウエ)ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる」(9:3)と、それが主の一方的な恵みであると強調されます。

ただそこには、別の危険も生まれます。私たちは物事がうまく行ったときには、差し当たりは神に感謝するとしても、すぐに、心の中で「私が正しいから・・」(9:4)と、自分の側に成功の理由があると言ってみたくなるからです。そこに霊的高慢への道があります。

それでモーセは、彼らがエモリ人の地を「所有」できる理由を説明して、「あなたが正しいからではなく・・心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主(ヤハウェ)が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主(ヤハウェ)があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである」(9:5)と言います。

主は、約五百年前のアブラハムに、子孫が奴隷とされて苦しみながらも増え広がり、強い民族となって約束の地に戻って来ると誓われましたが(創世記15:13-16)、それが成就するのです。同時にそこでは、「エモリ人(カナン人)の咎が・・(さばきを猶予できないほど)満ちる」ためとも記されていました。

それでモーセは再び、「知りなさい・・・」(9:6)と言い、また「覚えていなさい。忘れてはならない」(9:7)と言いながら、本来、イスラエルの民も主の怒りを受けて「根絶やし」にされるにふさわしかったことを思い起こさせます(9:8)。

主はホレブ(シナイ)で契約を結びましたが(十のことば)、そこでは特に、「偶像を造ってはならない・・それらを拝んではならない」と命じられていました。それに対し、民は声を一つにして「主(ヤハウェ)の仰せられたことは、みな行ないます」と答え(出エジ24:3)、それを受けて、主はそのことばを記した契約の板を授けるためにモーセを山に登らせました。

ところが、モーセが四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まずに、主の前にへりくだっているときに、イスラエルの民は金の子牛の像を作って、それを拝んでカナンの宗教を真似たような祭りをしてしまっていたのです。彼らこそ約束を破る天才でした。

申命記4章では、「十のことば」が与えられた際のことを思い起こさせながら、「主(ヤハウェ)がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も・・・・あなたの神、主(ヤハウェ)の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」(4:15-24)と、神を目に見える彫像で現すことが何よりも戒められていました。

それは、「聞きなさい」という命令とセットになっていました。

神を目に見える姿で現すことは、人が自分の望む神のイメージを勝手に作りだし、それを拝むことになります。イスラエルの罪は、何よりもこの偶像礼拝にありました。それに対し、新約では、神がご自身のイメージを私たちと同じ姿になられたイエスを通して現してくださいました。

ですから後にパウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)と記しています。私たちの教会は宗教改革の伝統に立っていますが、英国で宗教改革が起こった時、そこにはどの町々や村々にも、既に素晴らしい会堂があり、多くの聖像が置かれていました。彼らはそれらの像を会堂の中から廃棄しながら、聞くことと歌うことを中心とした新しい礼拝の形を作りだして行きました。

どの教会の礼拝でも、聖書朗読者、みことばを歌う聖歌隊が特別に訓練されていることが良くわかりました。

英国の教会の聖歌隊は、「讃美歌」を歌うという以前に、聖書のことば自体を歌い、グレゴリアンチャントのように、神への祈りを歌でリードしています。今回、私たちは英国国教会や長老教会などに集いましたが、そこにはドイツのルター派教会に共通するものがありました。みことばが美しく歌われることによってそれが心の奥底に迫ってくるのです。

ただ音楽には、人々の心の偶像礼拝を刺激する強烈な力があります。たとえば、ロンドンを訪ねる人は、つい、ビートルズのアビーロードスタジオの前に行き、その道で写真を撮りたい思いにさえ駆られます(私たちも同じことをしました)。

それぐらいなら良いのですが、音楽は心の偶像礼拝と結びつく面があるので、スイスの宗教改革者ツウィングリは、礼拝堂からオルガンを締め出し、別の改革者は、詩篇以外は歌わせないようにしました。

しかしそれに対し、ドイツのルター派教会や英国国教会は、音楽をより創造的に礼拝の中に生かす工夫を重ねて来ました。そして、ついにはそこから生まれた讃美歌が、逆にこの世の音楽を変えたのです。

残念ながら、私たち自由教会の流れは、儀式的なものを次々に排除してしまい、このような歴史を忘れがちです。しかし、そのような中で私たちの教会は、儀式的な固定化を避けつつ、同時に、音楽の多様性を生かす試みを続けております。

イスラエルの堕落は、みことばを聴く代わりに、自分たちのために「鋳物の像を造った」(9:12)ことから始まりました。その後のカトリック教会の堕落も、偶像礼拝から始まっています。すべての偶像礼拝の根本に、自分の理想、理念、正義、願望、感覚などを絶対化する思いがあります

それに対し、みことばの朗読を聞くことと、みことばを歌うことこそ、主への礼拝の中心にあります。そしてその内容は、私たちが受けた救いは、私たちの功績によるものではなく、神の一方的なあわれみによるということでした。

2.「そのときも、主(ヤハウェ)は私の願いを聞き入れられた」 二度目の契約の板

主は、金の「鋳物の子牛」(出32:8)を造って拝んだ民に対し、「この民は実にうなじのこわい民だ・・わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう」(9:13,14)と一度は言われました。それはご自身の愛が裏切られたことへの怒りです。同時にそのように警告されたこと(4:27)を実現するという意味でもありました。

しかも、モーセ自身も彼らが偶像礼拝をしている姿を見て、神からいただいた二枚の「石の板」を「打ち砕いて」しまいました(9:17)。それは民の側から契約を反故にしてしまったことが明らかだったからです。これは結婚の誓いが即座に破られたのを見て、婚姻届を破棄するようなものです。

このときモーセは、「四十日四十夜、主(ヤハウェ)の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった」(9:18)のでした。それは彼が、「主の激しい憤りを・・恐れた」(9:19)からでした。ただ、彼は、「そのときも、(ヤハウェ)は私の願いを聞き入れられた」と振り返ります。

また、「主(ヤハウェ)は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされた」(9:20)と敢えて記されますが、民の圧力に負けたにせよ、金の子牛を実際に作ったのはアロンですから、彼が赦されたこと自体が奇跡です。それはモーセが「アロンのためにも、とりなしをした」からであると記されます。

彼はその際、神の「いのちの書」から「私の名を消し去ってください」とまで言って、民全体の罪の赦しを請い求めたのでした(出32:32)。モーセは、「聞きなさい!」と訴えますが、その前提として、主ご自身が彼の願いを再三にわたって「聞いてくださった」ということがあります。

主は私たちの罪に激しい憤りを示しながらも、私たちの訴えに耳を傾けてくださる方です。そのことは今、イエスが、私たちの王、代表者として、父なる神にとりなしていてくださるということで保証されています。

なおこのときモーセは主に、「あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そして、この民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください」(9:27)と言いつつ、彼らを滅ぼせば、世の人々から、「主(ヤハウェ)は・・できない(無力)・・彼らを憎んだ」だと言われ、主の力と愛への不信が広まると訴えています。

しかし、主(ヤハウェ)はご自身の誓いを真実に果たされ、ご自身の計画を人の罪によっても差し止められることなく、必ず成し遂げてくださる方です。モーセはその神のご真実と全能性に信頼したのです。

今回、私が17年ぶりにお会いしてきたN.T.ライト教授は、神がアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)と約束されたことを、聖書をつらぬく神の契約の核心と捉え、「神の義」とは何よりも、この契約に対する真実さであり、それがイエスの十字架に現されたと強調されます。

そしてそれは、ここでモーセが、「アブラハム・・・を覚えてください」と祈ったことと対応します。私たちも主に訴えるとき、イエス・キリストによって表わされた神のご真実に訴えることができます。

そして、主(ヤハウェ)はモーセに、「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ」(10:1)と命じられ、主ご自身が再び、「その板に・・十のことばを、前と同じ文で書きしるされ」(10:4)、モーセに授けてくださいました。

「十のことば」は神の愛とあわれみのしるしでしたが、その最高の贈り物を前と同じように受けることができたのです。これは、王様が、自分で結婚の誓いを破ってしまった妻と、何もなかったかのように、前と同じ誓約を交わしてくれるようなものです。

イスラエルの真ん中に置かれた「十のことば」の石の板は、一度、民の側から反故にされ、二度目に与えられた恵みだったということを忘れてはなりません。まさに主は、やり直しの機会を与え続けてくださる方であることの何よりのしるしです。

なお、ここでも神の臨在のしるしとは、神の偉大さをイメージさせることができる目に見えるしるしではなく、民に直接に語りかけた「十のことば」自体であるということを忘れてはなりません。

私たちの教会では、講壇に、宗教改革の原点であるルター訳聖書のオリジナルのコピーを置いております。カトリック教会ではラテン語訳聖書のみが聖典とされ、民衆に分かる言葉に勝手に翻訳することは禁じられていましたが、ルターは一般の人々にわかることばに聖書を翻訳することに全生涯を賭けたとも言えます。そこからドイツ語の統一が生まれたとさえ言われます。

とにかく、主のみことばをわかる言葉で聴くことができるということ自体が、何よりの神からの愛とあわれみの現れであるということを常に覚えたいものです。

3.「心の包皮を切り捨てなさい」「うなじのこわい者であってはならない」

多くの人々は、「主のみこころは?」と尋ねます。モーセはそれに答えるかのように、「それは、ただ、あなたの神、(ヤハウェ)を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、(ヤハウェ)に仕えあなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる(ヤハウェ)の命令と主のおきてとを守ることである」(10:12,13)と述べます。

ここでは、ヤハウェを「恐れ」「仕え」ということがまず強調されます。これは、「聞きなさい、イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神、主(ヤハウェ)は唯一である」に対応するものです。

その上で、そのことばを「守る」ことが特に強調されます。守る」とは、行動以前に、「教えに注目する」ことが中心的な意味で、そこには「あなたのしあわせのため」という言葉が加えられています。

これらのことばは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」というシェマーの祈りと呼ばれる申命記6章4,5節を別のことばで表現し直したものと言えましょう。

モーセは続けて、「見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主(ヤハウェ)のものである。主(ヤハウェ)は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛され・・あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた」(10:14、15)と述べます。

これは、私たちの主が全宇宙の見える世界、見えない世界、来るべき世界全ての創造主であることを強調しながら、その方がまず私たちを「恋い慕い」「愛され」「選ばれた」ということを思い起こさせるものです。信仰とは、主の愛への応答です。

しかも新たに、「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい」(10:16)と命じられます。彼らの心は、指の「たこ」のような固い皮膚に覆われ、感覚が鈍くなっていました。

「あなたは、初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)という警告がありますが、心が動かなくなることこそ堕落の始まりです。回りの出来事に心が動じなくなることを願うなら、結果的に、主の愛にも心が動かなくなってしまうということになり得ます。

続けて、「もう、うなじのこわい者であってはならない」(10:16)言われますが、それは、農耕に使われる牛が「くびき」を通して伝わる御者のサインを感じられずに、衝動の赴くままに進むようなものです。私たちも主のみことばを聞きながらも、まったく昔と同じパターンでしか行動できない場合があります。

その上で、主は、みなしご、やもめ、在留異国人などの社会的弱者に特にあわれみ深い方であることが強調されます。

実際、イスラエルが特別に愛されたのは、彼らが余りにもひ弱で少数で、自分で自分を救う力がなかったからに過ぎません。主の愛とあわれみは、弱さを自覚する者に注がれるのです。

11章では特に、「乳と蜜の流れる国」としての約束の地が描写されます。エジプトの王パロの絶対権力はナイルの治水工事と結びついていましたが、約束の地は主(ヤハウェ)のご支配のもとで、天から必要な雨が調節されます。

イスラエルは温暖な地ですが、5月から10月の夏の六か月間は雨が降りません。しかし、それでも詩篇133篇3節にあるように、「ヘルモン山の露」がはるか南の「シオンの山々」にまで降ります。ヘルモン山は標高 2,814mでイスラエルの水源となり、その水はガリラヤ湖に流れ込みます。

11月から4月は雨期ですが、その始まりの秋の雨を「先の雨」、その終わりの春の雨を「後の雨」と呼びます(11:14)。この二回の雨季が守られさえしたら、作物は黙っていても育ちます。

そのことが11章10節では、エジプトでは、「野菜畑のように・・・自分の力で水をやらねばならなかった」のですが、約束の地では、水を運んだり、足で水車を踏んで水路に流し込むような必要もないという趣旨で記されています。簡単に種を蒔いて放っておけば豊かな収穫が期待できるのです。

ただ同時に、雨の降り方は人間の計らいを超えていますから、当地では、伝統的に、雨をつかさどる神バアルが礼拝し続けられていました。

13節~21節は申命記6章と並んでユダヤ人が暗唱し、持ち歩いていたみことばでしたが、ここでは「あなたがたの神、主(ヤハウェ)を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら」、季節に従って「先の雨と後の雨とを与えよう」(11:14)と約束されます。

大切なのは、豊かな収穫を得るための人間の努力ではなく、全身全霊で「主を愛し、主に仕える」ことなのです。そうすると、主ご自身が天から雨を支配し、人間の努力を越えた形で豊かな収穫が保障されます。

その一方で、他の神々に仕え、拝むなら、「雨は降らず、地はその産物を出さず・・・あなたがたは良い地から滅び去ってしまう」(11:17)と警告されます。

それに加えて「あなたがたの神、主(ヤハウェ)・・にすがるなら」(11:22)と言われますが、これは「男は・・妻と結び合い」と言う場合にも用いられる言葉です。民の最大の務めは、働きを成し遂げること以前に、主としっかりと結ばれることなのです。

その結果、「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる」(11:24)という途方もない約束がされます。

私たちの目の前にも、仕事の課題から子育て、夫婦関係のもつれまで様々な課題がありますが、根本で問われていることは主との結びつきなのです。

その上で、「もし・・あなたがたの神、主(ヤハウェ)の命令に聞き従うなら、祝福を、もし・・ほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」(11:26-28)と述べられます。これは申命記を貫く、「祝福とのろい」の選択のメッセージです。しかも、それは約束の地の真ん中に位置する二つの山、ゲリジム山とエバル山という目に見えるしるしとして覚えられます。

人生の根本においては、明確な、二者択一が必要だからです。コンピューターの言語が、すべてゼロか一かの二進法で成り立っているのと同じように、私たちは日々刻々と、主に仕えるか自分の心の偶像に仕えるかの選択が迫られています。

人の痛みに共感できるためには、心が適度に揺れる柔軟性が大切です。しかし、支点が不安定な振り子は揺れることができません。同じように、私たちは主にしっかりと結びつくことによって、かえって物事に柔軟に、また人の心に優しく寄り添うことができるのです。しかも、「しっかり主につながっていなければ・・・」と頑張っていると、ふと、自分の手が主に握られていることに気づくのです。

私たちの信仰は、すべて、主の一方的な愛と選びから始まっています。すべての霊的訓練の目的は、自分自身の心の偶像から解放され、主のみこころの中に生きられるようになることです。そのために、主の救いのご計画の全体像が心の中に満たされる必要があります。

ヨットの操縦士が、風を一杯に受ける技術を習得するように、神の霊によって生かされるために、日々、主との交わりの時間を聖別することが求められています。すべては恵みです。しかし、それを忘れさせる誘惑に負けないように主に「すがる」必要があるのです。