民数記22章〜24章「主は、のろいを祝福に変えられた」

2016年5月15日 ペンテコステ

キリスト教世界ではペンテコステを「聖霊降臨日」と理解しますが、本来の意味は五十日目を意味するに過ぎず、イスラエルの民はそれを「七週の祭り」(出エジプト34:22)と呼び、春の収穫感謝祭として祝いました(レビ23:15-22)。

そこでは、畑の隅まで刈らないことや落ち穂を集めないことが命じられますが、それはルツ記の落ち穂ひろいの物語につながります。ユダヤ人はペンテコステの日にルツ記を読む習慣があります。それは収穫感謝とともに、神の民に受け入れられる物語でもあるからです。私たちも倣うべきでしょう。

実は、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人は、この日を「律法授与の記念日」として祝うようになりました。それは、彼らが国を失ったのは律法を守らなかったからであり、国の回復は律法を守ることによって実現すると理解したからです。イエスの時代の人々にとってもそれは同じでした。

使徒の働き2章1節で、「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた」のは、それを覚えてのことだと思われます。事実、復活のイエスに対して弟子たちは、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」(使徒1:6)と尋ねています。律法が与えられた目的が「神の国」の実現にあったからこそ、弟子たちはこの日に集まっていたのです。

彼らはイスラエル王国の復興を期待していましたが、実際は、聖霊降臨による教会の誕生(神の国)として実現しました。つまり、ペンテコステの最大の意義は、律法授与の記念日が聖霊降臨日へと発展したこと自体にあるのです。

そこにおける「聖霊のみわざ」は、当時の誰もが期待しなかったような不思議でした。主の弟子たちは、異なった言語を話すひとり一人の心の板」に神の御教えを書き記す(エレミヤ31:33)ように、それぞれの異なった言葉で語りかけました。聖霊のみわざは、人の心を変えるのです。

日本の文化は、「のろい」「たたり」という「恐れ」に支配されている面があります。多くの人々が今も、「しるしと不思議」に惑わされ、危ない宗教に流れて行きます。また、「幽霊」が話題になることがあります。そこでは、「いるのか?」というより、そこに込められた「のろい」に人々は怯えるのでしょう。

多くの人々は、超自然的な現象にばかり目が奪われ、それが「あるか、ないか」を議論しますが、昔からそのような不思議を行なう偽預言者や「夢見る者」は必ずいると考えるべきで、珍しいことではありません。大切なのは、それがどこから来て、人をどこに導こうとしているかを見極めることです。

主はその背後ですべてを支配され、私たちが「主(ヤハウェ)を愛するかどうかを・・試みておられる」とも記されています(申命記13:1-5)。

今回は、有名なバラムの記事ですが、彼はここだけを見ると立派な人間のようにも思われがちです。しかし、他の箇所では悪人の代表者として描かれます。正しいことを言う人が善人とは限りません。主の御霊は悪人の口を通しても真実を告げられます。

同じように、世の人々が感心する何か偉大な働きができる人が、主に喜ばれているのでもありません。主は、悪人さえも「神の国」ために用いることができます。主は、人の心の内側にある動機を見ておられます。そこに「主への愛」があるかどうかが問われているのです。

1.主はバラムに、イスラエルは「祝福されている」と言われた。

イスラエルの民は荒野の四十年の試練を経て、主に信頼することを学び、約束の地に至る国々を圧倒する存在となりました。彼らは今、エリコの対岸のモアブの草原に宿営していましたが(22:1)、その南にはモアブ人が住んでいました。

主はイスラエルに「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない」(申命記2:9)と言われました。それは彼らがアブラハムの甥、ロトの子孫だからです。

ところが、モアブの王バラクは、隣のエモリ人の国の滅亡の様子を見て、イスラエル人に恐怖を抱き、ユーフラテス河畔のペトルにいるバラムという有名な占い師を雇ってイスラエルをのろわせようとします。

今の日本でも、わら人形に五寸釘を打ち付けるという「のろい」のセットがインターネットで販売されているほどですが、今から三千数百年前のオリエントでもそのようなまじないが広く信じられていました。

その際、バラクは、バラムに「私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている」(22:6)と伝え、彼を雇ってイスラエルに「のろい」をかけることで戦いに勝てると期待しました。これは、主がアブラハムに与えた約束をもじったパロデイーのような表現です。バラムは見せかけの「まがいもの」で人々の尊敬を勝ち得ていたのです。しかし、本物が現れるとその偽りが暴き出されます。

主はアブラハムの子孫のイスラエルや私たちに、「わたしはあなたを祝福し・・・あなたの名は祝福となる(あなたを祝福の基とする)。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:2,3)と言われました。それゆえ、バラムもどんな霊能者も、神の民をのろうことはできないばかりか、のろう者は、かえって自分の身に「のろい」を招くのです。

ここの意味を申命記は、「モアブ人は・・その十代目の子孫さえ、主(ヤハウェ)の集会に加わることはできない・・彼らが・・あなたをのろうためバラムを雇ったからである。しかし、あなたの神、主(ヤハウェ)はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた」(23:3-5)と記します。

つまり、モアブはイスラエルを「のろう」ことを願うことによって、自分自身に「のろい」を招いてしまいました。そればかりか、主は、この機会を用いて、イスラエルを祝福するというご意思をモアブに明らかにされました。

ところで不思議にもバラムは、異教の占い師でありながら、イスラエルの神「主(ヤハウェ)」との対話が許されていました。その意味は理解しがたいことですが、彼は主(ヤハウェ)と対話ができることで、「祝福」と「のろい」を彼自身が与えることができるかのように振る舞っていたのではないでしょうか。ですから、彼は主(ヤハウェ)にお伺いを立てることなしには何もできません。

それで彼は、モアブの使いを一晩待たせて主のみこころを尋ねます。すると主はバラムに現れ、「彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ」(22:12)と言われ、彼は彼らを国に帰らせざるを得なくなります。

バラムは不気味な預言者です。何と、神のみことばを取り次ぐとともに、不思議な力が宿っているというのですから・・。しかし、彼には主への愛は見られません。このような人こそが神の民にとって最も恐ろしい敵となります。ただし、全能の主は当然ながら、バラムの悪意を抑えることができました。

実は、未来を的確に予言し、「しるしと不思議」を駆使できる霊能者のような人はいつの時代にもいました。彼らは、私たちに「のろい」の力を見せて脅します。ある意味で日本の祖先崇拝は「のろい」の脅しで家族を結び付けているような面があります。ご先祖様をないがしろにする一人の行動が、家族全体にわざわいをもたらすと恐れられ、未信者の方々の回心を妨げる圧倒的な力になります。

しかし、私たちは恐れる必要がありません。それは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)とあるからです。

2.ろばに教えられるバラム 「わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」

ところが、モアブの王バラクはそれに対し、さらに大勢の位の高い大臣たちを遣わし、多くの報酬を約束しながらバラムの心を動かそうとします。それに対し、彼は、「たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主(ヤハウェ)のことばにそむいて・・何もすることはできません」(22:18)と言いながら、多額の報酬への未練を隠しつつ、「主(ヤハウェ)が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」(22:19)と彼らを翌日までとどめました。

多額の報酬を期待する人に限って「私はお金では動くことはありません」と敢えて強調するものです。事実、主の御心はバラムにはすでに明確に示されていたのですから、彼は即座に招きを断るべきでした。そして、主は、バラムの隠された動機を見ておられました。

ところが、主はその夜、彼に現れ、「彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ」(22:20)と言われます。何とも不思議ですが、それは、放蕩息子に財産を分けて堕落への旅を許した父親のようなみこころと同じではないでしょうか(ルカ15:12)。

ですから、ペテロは後に彼を「不義の報酬を愛したバラム」と呼びました(Ⅱペテロ2:15)。つまり、主はバラムにやりたいようにさせることで彼の罪を指摘しようとされたのです。そしてそれによって、ご自身の栄光を現そうとされたのです。

それで、「彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主(ヤハウェ)の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった」のでした。ろばには、「主(ヤハウェ)の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっている」のを見ることができました(22:23)。それでろばは、道をそれたり、石垣に身を押し付けたり、うずくまったりしました。

しかし、バラムには主の御使いが見えませんでした。それで彼はろばを三度も打ちました。その上で主(ヤハウェ)は、ろばの口を開かれ、「私があなたに何をしたというのです。私を三度も打つとは」(22:28)と答えさせます。当時の誰からも尊敬されていたバラムは、愚かにも、ろばに教えられる必要があったというのです。

そして、その後ようやくバラムの目が開かれて、「主(ヤハウェ)の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た」(22:31)というのです。彼は恐怖におののき、ひざまずき、御使いを伏し拝みます。

この意味を後にペテロは、「バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことができないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです」と説明します(Ⅱペテロ2:16)。

バラムは、「主(ヤハウェ)の使い」から、自分の命がろばに助けたことを知らされます(22:31-33)。彼は「あなたのお気に召さなければ、私は引き返します」(22:34)と言いますが、御使いは、再び彼をバラクのもとに遣わしつつ、「わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」(22:35)と警告されます。

これによってバラムは、主(ヤハウェ)のことばに反して語ることの危険を腹の底から知らされます。それで、彼はバラクに会ったとき、「神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません」(22:38)と念を押します。

その上でバラムはバラクに、「私のためにここに七つの祭壇を作り、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください」と願います(23:1)。これは当時の異教徒の最高の礼拝の形だったと思われます。

その際バラムは、「たぶん、主(ヤハウェ)は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう」(23:3)と語ります。ここでバラムはあくまでも異教の習慣に従った霊媒師、または占い師として行動しています。そして、バラクに恐れを抱かせて、主のことばを告げます。

主も敢えて彼らの習慣を利用し、バラムに「神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主(ヤハウェ)が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか」(23:8)と言わさせます。これは彼がバラクの期待に応えることができないと知らせるためでした。

そればかりか、主は彼を通して、「だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数え得ようか」(23:10)と民の繁栄を約束します。これは、主がヤコブにベテルで現れ、「あなたの子孫はちりのように多くなり…地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」(創世記28:14)と言われたことを思い起こさせる、祝福のことばです。

占い師バラムはろばに教えられ、「のろい」を金で買い取ろうとしたバラクも、その不可能なことを知らされます。それでも彼らは諦めることなく、占いや霊媒の働きを続けます。

その背後には、自分を人生の主として、将来さえも支配していたいという幻想があるのではないでしょうか。しかし、私たちに与えられた人生の知恵とは、「あなたがたには、あすのことは分からないのです」(ヤコブ4:14)という真理を心の底から受け止め、明日を知ろうとする代わりに、明日を支配する創造主を愛し、主にゆだねることなのです。

3.「なんと美しいことよ。ヤコブよ。あなたの天幕は・・・その王国はあがめられる」

さらにバラクは、場を変えることで「のろい」を引き出そうと、バラムを「ピスガの頂」に連れて行きますが(23:14)、ピスガとは山脈で、いくつもの山々があります。そこからはイスラエルの一部だけを見下ろすことができ、「のろい」にふさわしいと思ったのでしょう。

今度はバラク自身が七つの祭壇を築き、バラムから「のろい」の言葉を引き出そうとします。バラムはバラクを気遣い、それが不可能と説得する代わりに、霊媒師または占い師としての働きを続けます。彼の動機は不純ですがそれを通してさらに、主の栄光が現されます。

主(ヤハウェ)は再びバラムの口にみことばを置き、「バラクよ・・私に耳を傾けよ・・神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない・・彼らの神、主(ヤハウェ)は彼らとともにおり・・ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じて・・イスラエルに告げられる」(23:18、20、23)と語らせます。これは、まじないや占いに頼ってイスラエルと戦うバラクへの回心を訴えることばです。

しかし、バラクはなおも別の場所にバラムをつれて行きます。その際、バラクは、「もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかも知れません」(23:27)とまで言います。そこは別のピスガの頂の一つの「ペオルの頂上」(23:28)で、そこからはイスラエルのキャンプ地全体を見下ろすことができました。

バラクはそこでなお占い師としての行動を取り続け、同じ祭壇を設けさせます。ただし、そこで初めて、「バラムは・・これまでのように、まじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向け」(24:1)という行動の変化を見せます。

そこで彼が「目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、(ヤハウェ)の霊が彼の上に臨んだ」と描かれます(24:2)。つまり、今度は、主ご自身がバラムの口をそのまま用いてご自身のみこころをバラクに伝えようとしておられるのです。

私たちは主の霊が私たちの力を補助するかのうように、「慰め励ます」と考えがちですが、主の霊はどんな悪人をも動かすことができる創造主ご自身であり、主の霊が下ることの圧倒的な力を忘れてはなりません。

そこで主は、イスラエルの宿営を見下ろすバラムを通して、「なんと美しいことよ。ヤコブよ。あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、延び広がる谷間のように川辺の園のように、主(ヤハウェ)が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。その手おけからは水があふれ、その種は豊かな水に潤う。・・・その王国はあがめられる」(24:5-7)というエデンの園の回復を連想させる最高の祝福が告げられます。アロエは「医者いらず」とも言われる薬用になる植物です。

この情景は後にエゼキエルが、新しいエルサレム神殿から湧き出た水が川となって世界を潤し、そこに生える木の葉が薬となると預言されることに結びつきます(47:1-12)。バラムはイスラエルの繁栄の幻を預言したのです。その上で、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる」(24:9)というアブラハムへの祝福が繰り返されます。

バラクは、大量のいけにえをささげたにも関わらず、不利なことばばかりを聞いたことで、怒りを燃やしました。それに対し、バラムは今まで同様、自分は主のみこころ以外を語ることができないことを繰り返します。

たしかに、バラムからしたら、霊媒者の取次ぎを依頼した者は、どんな不都合なことを告げられても報酬を支払うのが義務のはずですが、バラクは「主(ヤハウェ)が・・もてなしを拒まれた」(24:11)と言い逃れます。彼は「のろい」を求めていたのであって、主のみこころを知りたかったわけではなかったからです。

それに対してバラムはバラクに、「この民が後に日にあなたの民に行おうとしていること」までも告げてしまいます。それは、「ヤコブからひとつの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべて騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く」(24:17)というモアブへのさばきです。これは将来ダビデがイスラエル王国を確立し、周辺の国々を属国として治めることを意味します。

また20節の「アマレク」はイスラエルの宿敵ですが「その終わりは滅びにいたる」と預言され、22-24節では周辺の国々の将来を語って、「ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう」(24:23)と主の完全な支配を告げます。

バラムは自分のいのちを危険にさらしながら何の報酬も得られませんでした。それどころかこの後、イスラエルに異教の神々を拝ませるきっかけを作ったことで、主のさばきを受け、剣で殺されます(31:8、16)。

バラクも超自然的な「のろい」の力に頼ろうとして、かえって自分の身に「のろい」を招きました。彼らは徹底的に、主(ヤハウェ)と主の民に敵対することはできないと知らされます。少なくとも、主はこれによってモアブの王に戦う気力をなくさせました。主は占いを無益にしたばかりか、無益な争いをも差し止められたのです。

それにしても、バラムほど正確にイスラエルの祝福を告げることができた人はいません。彼は主(ヤハウェ)と直接対話することができました。また、人々を「のろい」、それを実現させることもできました。彼が現代の日本に生きていたら、霊能者として人々の尊敬を勝ち得たことでしょう。

ペンテコステを、主の民が様々な「しるしと不思議」を行ない始めた奇跡の記念日?とばかり見る人々がいます。しかし、バラムの例にあるように、主に敵対する者でさえも、主の御許しの中で超自然的な働きができるのです。

ペンテコステは、「神の国」を建てるための主の御教え(律法)が与えられた記念日が、それを実現する聖霊が与えられた日になったことです。聖霊降臨の何よりの目的は、神の愛のご支配(神の国)をこの地に実現し、広げることです。

聖霊の働きは何よりも、人々の心の奥底に、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)という告白を生み出すことにあります。それは、「イエスの生き方に倣う」者とされたいと願うことに他なりません。

それは世の人々から評価される生き方ではない場合も多くあります。目に見える結果ではなく、「愛」こそが問われています。