コロサイ1章24節〜2章7節「キリストにあって歩むとは?」

2016年5月8日

多くの人は自分の生活が期待通りに進んでいるときは心を平静に保つことができます。しかし、様々なストレスを抱えるたびに、覆い隠していた古い自分の姿が表に出てきてしまいます。それは、アダム以来の全ての人の心を支配する「恐れ」が芽を出すからです。

そのとき、いつまでたっても変わらない自分に失望し、自分の生まれ育った環境に起因する自分の弱さや愚かさに自己嫌悪を覚えてしまいがちです。

あなたは心の底から、あの時、あの町での、あの両親を通しての自分の誕生を「キリストにあって」の恵みと受けとめきれているでしょうか?

意外にも、これは多くの人にとって、何よりも難しいことです。第一の赤ちゃんとしての誕生を心から喜べるなら、あなたの人生はあなたの個性を真に生かす場とされるのではないでしょうか。

1.「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」

パウロは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」(1:24)と不思議なことを記します。彼はかつてキリストの教会を迫害しましたが、今や異邦人教会のために命を賭けています。そこには、異邦人の使徒として召された結果として、イエスの代理として苦しみに会っているという意識があるのだと思われます。

そのことが何と、「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」(1:24)と表現されます。それは、罪の贖いのための十字架の苦しみに「欠け」があったというのではなく、「キリストの苦しみ」から始まった「神の国」が、今、完成に向かう中で「産みの苦しみをしているという意味です。

出産の苦しみによって新しい命が誕生するように、神の平和に満ちた世界が実現するために「産みの苦しみ」(ローマ8:22)があります。そして、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も」その苦しみに共にあずかるように召されています(同8:23)。それは私たちがキリストの似姿に変えられるために受けるべき訓練でもあります。誰も訓練なしに成長することはないからです。

パウロはかつてキリストの教会を迫害しました。そのときイエスが彼に現われ、「なぜ、わたしを迫害するのか……わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:4,5)と言われ、教会への迫害をご自身への迫害と同一視されました

その経験からパウロは、教会の苦しみをイエスご自身の苦しみと心から受けとめ、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」のは「キリストのからだのため」であり、それは「教会のことです」と結びます。

実際、キリストは今、教会をご自身の「からだ」としておられますから、私たちが指先の痛みを頭で感じるように、教会の痛みをご自身の痛みとして感じられますし、反対に、私たちが教会を愛することを、ご自身への愛として喜んでくださいます

パウロはイエスに捕えられた後、「神は……この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを知らせたいと望まれた(原語で強調)」(1:27)と自分の心で受けとめます。

その上で、確信に満ちて、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(1:27)と語りました。これはキリスト者の幸いを一言で表わしたようなことばです。「かつては神を離れ、心においては敵となっていた」人が(1:21)、キリストの肉のからだにおける苦しみによって、神と和解させられました。

しかも、その福音は、「私の身をもって……」と言って、異邦人伝道にいのちをかけたパウロの苦しみを通して伝えられたのです。イエスとその弟子が苦しまれたからこそ、今、キリストが私たちのうちに住むことが可能になりました。

私たちの「中におられるキリスト」こそ、「栄光の望み」です。主が十字架で死んで、栄光の身体によみがえったように、私たちにも栄光の復活が待っています

それは、青虫が冬の間、さなぎになることを通して、春には美しいアゲハ蝶に変わるようなものです。私たちは今、青虫のように地に這いつくばって生きています。しかし、私たちにとっての死とは、さなぎになって越冬することに似ています。越冬さなぎの場合は、5カ月間から8ヶ月間にも渡ってさなぎの状態で、まるで死んだように冬眠しています。しかし、春が来るとそれまでとは似てもいつかない姿に変えられ、空に羽ばたいてゆきます。

それゆえ、私たちはどんなに暗い中にも、栄光の望みに満たされることができます。このことをパウロはローマ書8章10,11節で、「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(私訳)と記しています。

ところで、パウロの異邦人伝道以前には、神に受け入れられるためには、ギリシャ人も、まず割礼を受け、食物の規定などを守るユダヤ人になる必要がありました。なお、当時は、ユダヤ人にだけは、偶像礼拝を強要されないという特権が与えられていましたから、同じ神を信じるようになった異邦人にとっては、まずユダヤ人の仲間入りをすることには信仰を全うする上では大きな意味がありました。

しかし、パウロはここで、そのような自己保身的な姿勢を忘れさせる大胆な霊的な現実を思い起こさせました。それは、異邦人のままの彼らに、万物の創造主であるキリストが、既に住んでおられ、ご自身の栄光の姿にまで変えてくださるという告白です。

この「栄光の望み」の中で、彼らは異邦人としての自分たちのアイデンティンティーをそのまま喜び、長い霊的な伝統を守り続けているユダヤ人たちと同じ神の民に加えられることになったのです。しかし、その教えがユダヤ人を激しく怒らせ、パウロは牢獄に入れられることになりました。

ただし、イエスが主であることを否定するユダヤ人は、「外見上のユダヤ人」に過ぎないとも言われます(ローマ2:28,29)。

2.「自分のうちに力強く働くキリストの(働き、エネルギー)によって」

パウロは、「私たちはこのキリストを宣べ伝え」(1:28)と言いますが、それは単にキリストの紹介をするというより、「知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教える」という神経を使う、骨の折れる働きです。しかも、その目的は「すべての人を、キリストにある成人(成熟した者)として立たせるため」(1:28)と記されます。

原文では、「あらゆる人」も「すべての人」も同じ言葉で、三度も繰り返されます。パウロは、自分の枠にはまる人ではなく、あらゆる種類の人々を分け隔てなく「戒め」「教え」、キリストにある「成熟した者」または「完全な者」として立たせようとしているのです。「完全」とは、「完璧」ではなく、いけにえとして神に受け入れられる状態、22節にあった「聖く、傷なく、非難されるところのない者」になることです。

そしてパウロは、「このために労苦しながら、奮闘しています」(1:29)と言っています。キリスト者の成長を導くというのは、途方もない労苦とエネルギーが必要なことですが、パウロはそれを「自分のうちに力強く働くキリストの(働き、エネルギー)」によって実行していると語ります。

それは、人間の力ではなく、私たちの「死ぬべきからだをも生かす」ことができる復活の力、神ご自身の「働きです。「働く」も「働き」もギリシャ語のエネルゲイヤに由来し、「エネルギー」の語源です。その神の働き(エネルギー)が私たちのうちに宿っているのです。

2章初めでパウロは、自分の苦しみが神から理解されていることに満足せずに、「私の顔を見たことのない人たち」が、「私がどんなに苦闘しているか、知ることを望んでいる(原文で強調)」と、敢えて訴えています。ここでの「苦闘」と、1章29節の「奮闘」は基本的に同じ意味のことばです。それは彼が、自分の「苦闘」を証しすることが若い信仰者に、「恐れ」よりも「勇気」を与えることを確信していたからです。

パウロは彼らを、幼児のように世話される立場から、「キリストにある成人として立たせる」(1:28)ことに目標を置いていましたが、そのためには言葉ばかりではなく、自分の生き様を通しても、「キリストを宣べ伝える」(1:28)必要がありました。

人は、基本的に、苦しむことを避けながら、楽に人生を過ごしたいと願いますが、同時に、何かのために苦しむことができる人に尊敬の心を抱きます。それは、苦しみを担う力、真の霊的なエネルギーに憧れるからではないでしょうか。

パウロは、「私たちがキリストとともに栄光を受けるために、キリストとともに苦しんでいるなら……キリストとの共同相続人でもあります」(ローマ8:17)と記しています。

私たちはキリストとともに「新しい天と新しい地を」相続し、治める者になりますが、それは「キリストと共に苦しむ」というプロセスを通して明らかにされます。私たちが「キリストと共に栄光を受ける」ということがなかなか実感できないのは、この「共に苦しむ」というプロセスを避けているからかもしれません。

神はご自身のみことばの解き明かしを、欠けだらけの器に委ねました。一見、極めて非効率で誤りやすい方法ですが、生身の人間の苦しみを通してしか伝わらない真理があります。

私たちのうちに住んでおられる「キリスト、栄光の望み」のすばらしさは、この世でわざわいに会うという「弱さ」の中にこそ完全に表わされるからです。そのために私たちも、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」という働きへと召されているのです。

3.「キリストのうちに知恵と知識との宝がすべて隠されています」

2章2節はパウロの苦闘の意味が、「それは、この人たちが心に励ましを受けるため」と記され、その上で、「愛によって結び合わされながら、理解をもって豊かな全き確信に達し……キリストを真に知るようになるため」と続きます。

作家の池澤夏樹さんはMinistryVol.17で「プロテスタントに嫌味を言うわけではありませんが、一人ひとりに聖書を配ってしまったのはどうだったのか。ユダヤ教みたいにみんなで朗読するならいいんです。でも一冊の本として個室に入ってしまったために、会衆の中の一人ではなく、神と一対一になってしまった。それによって普通の人が、哲学の課題を負わされてしまったんですよね」(p.53)と記しています。

これは確かに興味深い視点だと思います。信仰の成長とは、ひとりで聖書知識を蓄えることではなくて、「愛によって結び合わされる」という教会の交わりの中で起こるべきことではないでしょうか。

その上で、「全き確信」の内容が、「神の奥義であるキリストを真に知ること」と記されています。「キリストを知る」とは、1章15-20節のキリスト賛歌を心から理解し味わうことです。

キリストは何よりも万物の創造主であり、すべてのものはキリストにあって成り立ち、キリストに向けて保たれています。そして神はキリストのうちにご自身の満ち満ちた本質を宿らせることによって、御子の十字架によって万物をご自身と和解させてくださいました。それによって、私たちはこのままで、「神の子ども」とされたのです。

私たちが神について、世界について、自分の人生について知るべき全てのことは「キリストのうち」に隠されています。彼らの交わりは今、誤った教えによって分裂の危機に瀕していました。しかし、「キリストを真に知る」ということの中に、彼らの交わりと確信のすべての必要が満たされるというのです。

なぜなら「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」(3節)からです。これは、「(キリストではなく)律法こそが知恵と知識の宝である」というようなユダヤ主義者の「まことしやかな議論」(2:4)に対抗した表現だと思われます。

パウロは引き続き、「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいます」(2:5)と、御霊によって彼らと自分が結ばれていると強調しています。私たちの霊が祈りのうちに聖霊に結びついているときに、私たちは離れた兄弟姉妹ともいっしょにいることができます。

その状態を彼はさらに「あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜びながら」と描きます。「秩序」も「堅い」も、軍事用語として戦いの場面で頻繁に用いられる言葉です。パウロはコロサイの教会の人々が、誤った教えで惑わす霊的な戦いに動じることなく「堅く立っている」ことを、御霊によって「見て、喜んでいる」のです。

ところで、キリストを知ることは自分の人生の目的を知ることにつながります。

たとえばパウロは、生粋のユダヤ人であると同時に、ローマ市民としてギリシャ文化の恩恵を受けていました。しかし、彼はそれを神の賜物と見る代わりに、ユダヤ人としてのアイデンティティーばかりに固執し、神の教会を迫害しました。

しかし、キリストを知った時、自分の使命をギリシャ人とユダヤ人の和解にあると心から理解できたのです。

私にも自分が何者であるかというアイデンティティーの混乱がありました。自分が北海道の山奥の小学校でさえ落ちこぼれであったことや、神経症的な性格という人間的な「枠」に囚われ過ぎました。その心の葛藤が、牧会方針の揺れとして現れることがありました。

しかしある時、自分の内側にある矛盾する声に優しく耳を傾けることが、この教会に与えられた個性を生かすことになると示され、自分自身の癒しと自分の使命が一体のことだと理解できました。

あなたの中にも様々なアイデンティティーの混乱があるのではないでしょうか。しかしすべてを、「キリストのうちにある」という観点から見られるとき、人間的には矛盾すると思われるアイデンティティーのすべてが調和し、そこに生まれた内的な和解は周囲の世界に及びます。

4.「キリストにあって歩みなさい」

2章6,7節はこれから4章6節まで続く具体的な勧めの核心です。「主キリスト・イエスを受け入れた」とは、「キリスト(救い主)であるイエスを自分の主人とする」という意味です。1章13節では、私たちは「闇の力」から救い出され、「御子のご支配」の中に移されたと記されていました。それは同時に、私たちの人生は、キリストを迎え入れることによって、自分のものではなくキリストのものになったことを意味します。

私たちはどこかで、自分の願望を満たしてくれる救い主を求めてはいないでしょうか。大切なのは、キリストの願望が私たちの願望となり、キリストのみわざが私たちを通して実現されることです。

フーストン先生は。クリスチャンとして生きるとは、「自我の圧政から自由になることFreedom from self-tyranny」と言われました。神に逆らって死の力に支配されたアダムの心は「恐れ」に支配されています。その「恐れ」が私たちを戦いと自己保身へと駆り立てます。「私が、私が」と頑張っている人は、自我という圧政の支配下にいるのです。

パウロはキリストを受け入れた者に対し、「彼(キリスト)にあって歩みなさい」と命じます。「歩む」ことこそ、この文章での唯一の命令形です。信仰は日々の生活の中に現されるからです。7節には四つの現在分詞が記され、すべて「歩みなさい」を修飾します。勧めの中心は「歩み方」です。

最初の「キリストの中に」は「根ざす」と「建てられる」の両方にかかります。

「キリストの中に根ざし」ながら「歩む」とは、自分の全生涯を神の賜物として受けとめることです。あなたは「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれ」(エペソ1:4)た結果として、欠けだらけの父と母のもとで生まれ、育てられ、時が満ちて、「暗闇の圧制から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された」(1:14)のです。その神の愛を味わい、その愛に浸りながら歩むのです。

第一の人としての誕生も、第二の霊的な誕生も、両者が「御子のうち」あって起こったことでした。

「キリストにあって建てられる」とは、根を深く張ることの結果ですが、「愛によって結び合わされ」(2節)ともあったように、「キリストのからだ」として交わりが築かれるのです。

しかもこれは「建てられ続ける」という現在進行形的な意味です。信仰は、目に見えない心のことのようですが、キリストに根ざした結果は、必ず、人との交わりとして実を結ばせます。主への愛と、主の被造物である者への愛とは表裏一体のことです。

「教えられたとおり信仰を堅くされなが(原文)」では、受動形に注目しましょう。信仰は、自分の身と心を福音に浸すことによって、堅くされるものなのです。しかもここでの「堅くされる」とは、5節にあった「堅い信仰」とはまったく違う言葉です。先のことばは軍隊用語で敵の攻撃に「動じない」という意味でしたが、ここは、信仰の理解において徐々に「堅くされ続けるという、しなやかな成長のイメージがあります。

もともと「信仰」とは「真実」とも訳される言葉で、私たちの信仰とは、キリストの真実への応答なのです。彼らの問題は、既に聞いた福音を不充分かのように思い始めたことでした。キリストがある人を通してあなたに目を留め、個人的に語りかけてくださいました。

信仰が堅くされ続ける鍵は、そのように既に教えられ」、心に響いたみことばを、繰り返し腹の底で味わい続けることにあります。ここでも継続性の意味が込められています。

なお最後に、「感謝に満ち溢れていながら」と敢えて記されるのは、現実の「欠け」にばかり目が奪われ、既に「キリストにある」という祝福を忘れていたからです。

私たちが、目標を達成することばかりに夢中になり、それに至る過程の歩みを喜び楽しむことができないなら、互いを愛し合い、世界にキリストの愛を示して行くという働きの中で、「互いを憎み合う」という皮肉が生まれます。残念ながら、私たちは自分たちの崇高な目標が明確になればなるほど、期待通りに動いてくれない人に対して腹を立てることが多くなります。

しかし、「新しい天と新しい地」に至るまで目の前から問題がなくなることはありません。すべてが一過程に過ぎないのです。私たちの人生は、「今ここにある恵み」を忘れるなら、人生は何と空しいことでしょう。

私たちは、問題に直面した時に、逃げるか戦うかのどちらかの傾向に心が揺れがちです。しかし、キリストにある歩みとは、その問題の中に入りこんで、そこにある対立した声に静かに耳を傾け、それをキリストにあって受けとめ直すことではないでしょうか。

自分の中の対立した声を優しく聴くなら、世界に平和を作る者として用いられます。あなたにとって矛盾が気になる所は、あなたにとっての「キリストの苦しみの欠けたところ」ではないでしょうか。

たとい、苦しみに会っても、そこでキリストのいのちが輝くことができるのです。様々な「苦しみ」は、「自分のうちに力強く働くキリストの力(エネルギー)」を体験する絶好の機会です。