コロサイ1章1〜20節「イエスの愛に包まれて歩む」

2016年5月1日

私たちは幼い時から、「問題を解決する」ことを最優先するように教えられてきました。早く正確に解くことができる人が「優秀な人」と見られます。

しかしこの地では、一つの問題の解決は必ず、次の問題を生み出します。貧富の格差を無くそうとした共産主義は、恐ろしい政治権力を生み出しました。自国の安全を切望する思いが、恐ろしい核爆弾を作りました。選択の自由を尊重する市場経済が、格差を生み出しました。

聖書は、世界の完成に至るプロセスを、絶え間のない進歩とは描きません。キリストの再臨が近づくにつれ混乱と争いは増し加わります。ですから本当に必要なのは、問題を解決する能力以前に、問題を抱えたまま生きる力です。

そして福音の核心とは「望み」であり、それは問題を背負い込むようにして、人々を愛する力を生み出します。私たちは自分の心の闇を探索する前に、神がキリストにおいてなしてくださったみわざを心から理解しつつ、生きることを目指すべきです。すべての営みは「キリストのうちにある」ものです。

英国の神学者リチャード・ボウカム博士は、次のように語っています。

「教会は、希望の共同体、神様が全世界の被造物に対して持っておられる希望の共同体です・・・キリスト者の希望は、神の約束を信頼する事です。たとえ最悪の状況が起ころうと、神様のご計画は必ず成就すると信頼し続ける事です。

神様はどんな悪よりも大いなる御方であり、悪からでさえ良きものを引き出され、失われたものを回復し、修復し、死人を目覚めさせて下さる御方だからです。この希望こそがクリスチャンを支え、導くのです。」

1.神に感謝できるわけ。福音が、実を結び、成長する

この手紙は、パウロが、現在のトルコの南西部にあるコロサイという小さな町の教会に向けて記したものです。それが聖書の一部とされるのは、キリストの教会が、時と場所を超えて同じ祝福と同時に共通の問題を抱えているからではないでしょうか。

なお、この手紙を解釈するのは、電話の会話の片方だけを聞いているように困難なものです。コロサイ教会の事情を様々な角度から推測する必要があるからです。

この教会は、エパフラスという人の働きで生まれましたが、その後、様々な誤った教えが入りこんだため、パウロに助けを求めたのだと思われます。この教会は多くの問題を抱えていましたが、パウロは彼らを「聖徒たち」、「忠実な兄弟」と呼びました。それは彼らが、「キリストにある」者とされているからです。

もし彼が私たちに手紙を記しても、「東京にいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟」と呼んでくれることでしょう。

「恵みと平安・・」の祈りはパウロの手紙に共通しますが、「平安」はヘブル語にするとシャロームで、心の平安ばかりか、人との平和をも意味します。どの教会も、罪人の集りである以上、具体的に平和のために祈られる必要があります。それは、20節に記された、「十字架によって平和をつくり」につながります。

ときにふと、パウロの手紙を、解釈を加えずに朗読する方が良いのではないかと思うこともあります。しかし、私たちの教会に、直接適用できない部分も多くあります。たとえば、彼らはユダヤ教やギリシャ哲学の影響下にあり、私たちは日本的な多神教や義理と人情の道徳観の影響を受けています。また言語体系も全く異なります。

説教者は、この二つの時代、二つの文化や言語体系の橋渡しをする責任が与えられています。そのため、当時のことばかりか、ここにおられる方々の現実を知っている必要があります。

コロサイ人と私たちの置かれた環境は何と違うことでしょう。そして私たちも、それぞれ特殊な環境に遣わされます。サラリーマンと自営業者、主婦と学生、独身と既婚者に、公務員と営業マン、それぞれに異なった文化と言語があります。

しかし、極めて特殊な中にも適用できる普遍の真理があるのです。それは、「キリストにある者」とされるということです。自分がキリストの愛にとらえられ、包まれ、復活のキリストの御手に守られていることを思い起こして見ましょう。それこそ、いつでもどこでもあなたに実現している現実なのです。

ところで、パウロの文章は長く複雑です。3-8節のすべては、「私たちは神に感謝しています」(3節)にかかります。感謝をされるべき方は、「私たちの主イエス・キリストの父」です。福音は、イエスの父なる神が、私たちの父となられたということに要約できます。

神はイエスを愛するようにあなたを愛し、イエスに聞くようにあなたの祈りに耳を傾けてくださいます。しかも、感謝は、「いつも・・祈る」という中で生まれるというのです。

感謝の根拠としてあげられたのは、「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰」(4節)と「すべての聖徒たちに対して抱いている愛」の二つです。

しかも「信仰」と「愛」は、彼らが誇ることができる働きではなく、「天にたくわえられている望みに基づくもの」(5節)で、それも彼らの心の中に自然に湧き起こったものではなく、「福音の真理のことば」を「聞いた」結果として生まれたものです。

そして、その福音は、自分で把握したものではなく、届けられたものであり、それはエパフラスという具体的な人の働きによってなされたのです。

今、コロサイの教会が揺れているのは、エパフラスが語ったことへの疑問が生まれたからです。そこでパウロは、すべてが彼の働きから始まったことを思い起こさせました。彼はパウロから学んだことを忠実に伝えただけで、当時のユダヤ人学者やギリシャ哲学者からは、無教養に見えたかも知れませんが、彼もパウロと同じ「忠実な、キリストの仕え人」だというのです。

そして、そのエパフラスが伝えた単純な福音のことばから、天にたくわえられてある「望み」が、今初めて、明らかにされました。それは、キリストが「新しい天と新しい地」を実現し、この世界を愛と平和で満たしてくださることです。キリストの復活はその保証です。そこから「イエスへの信頼」が生まれます。そして、完成を先取りし、余裕をもって聖徒を愛する」ことができるのです。

福音の核心は何より「望み」として描かれます。人が福音を知ることで、急に頭が良くなったり体力がついたり、社会的な立場が良くなったりするわけではありません。つまり、目に見える現実が変えられるというより、「天にたくわえられている望み」が明らかにされることで、生き方が変えられるのです。

ただそれは「死んで天国に行く希望」というより、神のご計画通りこの世界が平和(シャローム)の完成に向かうという「望みです。

それは、信仰と愛における変化です。これは、何かの学問や技術を「会得し」、自分を変えるというのではありません。福音自体が、「実を結び、広がり(成長し)続けた」結果です。

私たちは受動的に福音を聞き、福音が身体の内側に働くのに任せることで、望み」が変えられ、その結果、行動が変えられるのです。

私はいつも知恵を獲得することに熱心でした。しかし、そこには感謝ではなく空しい誇りが生まれました。誇りが傷つけられると、一層の獲得の努力へと駆立てられました。

しかし力を抜いて、語られた単純なみことばが自分の内側に根を張るのに任せようとした時、福音が、実を結び、成長し始めたように思います。

2.「愛する御子の御支配の中に移された」ことを、感謝しながら歩む

9-20節もひとつの文章で、すべては、「私たちは・・絶えずあなたがたのために、祈り求めています」にかかります。ここからは、感謝に代わり、祈りの内容が二つの観点から述べられます。

それは第一に「神のみこころに関する真の知識に満たされる」ことです。当時の聖書は旧約だけでした。イスラエルの民に向けて書かれたことの中に、すべての民族の救いに関する神のみこころが明らかに啓示されていました。

福音は単純だと述べましたが、旧約も極めて簡潔にまとめて理解することが可能です。それは、創造主がひとりのアブラハムを選んで、彼とその子孫と結んだ契約を守り通すという物語です。

第二は、「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれる」(10節)という、「歩み方」に関する祈りです。それは「善行のうちに実を結ぶ」「神を知る知識を増し加える」「あらゆる力をもって強くされる」「父なる神に喜びをもって感謝をささげる」の四点からなります。

そして13-20節で、感謝すべき内容として、御子による救いのみわざが説明されます。つまり、「歩み方」も、新しい倫理や道徳を実践でるようになるということよりも、神への感謝を福音から学ぶことなのです。それは生活から遊離した学びではありません。

パウロは、「福音が・・実を結んだ」(6節)と同じことばで、「あらゆる善行のうちに実を結ぶ」(10節)と強調しました。福音は、実生活の中に、実を結び成長するのです。

知識と日々の歩みは、車の両輪のようなものです。キリストにあって、具体的に歩みながら、神が御子イエスによってなしてくださったみわざを黙想するなら、実生活の中で、生きて働いておられる神の愛を頭ばかりではなく、身体で体験できるのです。

ある人が、「人が自分の人生の物語を語ることができるように助けてあげたい」と言っておられました。人生には、「これを感謝することなどできません!」ということが必ず起こります。しかし、それも、キリストにある人生の一部と捉えられるなら、変化が期待できます。

私たちは、神から遣わされた者として、自分の世界の中に閉じ篭り、窒息しそうな人の傍らに座り、その悲しみや苦しみの告白を聞くことができるなら、それは、神の御前での嘆きに変えるのです。そして、イエスご自身がともに嘆き、感謝を生み出してくださいます。

なお、パウロが先に、「主にかなった、あらゆる点で(主に)喜ばれる歩みができますように」(10節)と願ったことの中心は、何よりも四点目の「父なる神に、喜びをもって感謝をささげる」(12節)ことに現されます。

つまり、キリスト者の歩みの核心は、自分の欠けを覚える前に、与えられた救いを感謝することなのです。

その感謝の根拠として、第一に、「光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格を与えてくださいました」と記されます。それは、一方的な恵みで与えられた「資格」です。

それを言い換えるようにして第二の感謝の理由が、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出し」(13節)と記されます。アダム以来、自分が「神のようになる」(創世記3:5)ことを願う全ての者は、前向きに生きているようでも、滅びに向かっています。

自分の弱さを克服し、競走に勝つことは、美徳とばかり言いきれるのでしょうか?一人の勝者の背後で99.9%の敗者が生まれ、その一人もやがて敗者になります。この競走原理こそ、まさに暗やみの圧制ではないでしょうか。

しかも、救われてなお、「一流のクリスチャンになりたい!」などと駆り立てられないでしょうか?暗闇の支配者であるサタンは、エデンの園で、エバの目を「食べてはならない」という一つの木に釘付けにしました。サタンは今も、現状に不満を持つようにと誘惑し続けているのです。

しかし、私たちは、既に「(御父が)愛する(御)子のご支配の中に移」されています。イエスは、御父が「愛する子」です。そして、私たちも「御子のうちにあって・・あがない、すなわち罪の赦しを得て」(14節)います。「あがない」とは、奴隷状態から解放され、自由人とされること、「罪の赦し」とは私たちが神の「愛する子」とされることです。

なおイエスがバプテスマを受けられたとき、天が開け、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と言われましたが、これが今、私たちへの語りかけとなりました。この声を聞く歩みこそ、御子のご支配にあることです。

確かに、自分の罪深さを認識することと、「こんな私が神の子とされた!」と感謝できることは切り離せない関係にありますが、罪の自覚を深めることばかりに心を集中することは危険です。サタンも自分の罪深さは良く知っているのですから・・・。

ある人は、幼い頃から、道を踏み外さずに生きながらも、人生の意味を捜しあぐねて真の神に出会いました。しかし、その後、「私は自分の罪深さが実感できない・・」などと落ち込みました。しかし、その彼も、「救いのご計画の全体像が分かった時、初めて、この世の栄光を望む自分の罪深さに圧倒された」と言っています。

罪の本質とは、何よりも、神の愛の語りかけに応答しないことなのですから、神の救いのご計画が分かった後で、罪が分かるという方が健全かもしれません。とにかく、感謝が伴わない「歩み」は、冷たい道徳主義です。それも人を駆り立てる「暗やみの圧制」ではないでしょうか?

3.「御子にあって、御子によって、御子のために」

15-20節は「キリスト賛歌」とも呼ばれ、一つの詩のように整えられていますが、15節の初めは「彼は」という代名詞です。つまり、この箇所は独立しているのでなく、「父なる神に、喜びをもって感謝をささげ」られる根拠としての御子のみわざが述べられます。御子が創造主であることを覚えることは、御父を忘れることではなく、賛美することになるのです。

これは四部に分けられ、15、16節と18b-20節が対応し、それに挟まれて、ふたつの短い文があり、前半で御子による創造が、後半で御子による世界の創造が歌われています。

世界は確かに罪に支配されていますが、目に見えるものを軽蔑することは御子による救いを誤解することです。「御子は、見えない神のかたちであり」(15節)とあるように、見えない神は、目に見える肉体を持つ御子を通してご自身を証しされたからです。

しかも、この方は、世界が存在する前に、父なる神から「生まれた方」なのです。それは、御子が、この世界ばかりか、目に見えない世界や御使いをも創造することができるためでした。

16節では、「万物は」、「御子にあって」「御子によって」「御子のために」、「造られた」と繰り返されます。「王座も主権も支配も権威も」という中に、当時のローマ帝国による圧政も含まれています。この地の制度や営みのすべてが、「御子にあって成り立って(共に保たれて)いるというのです(17節)。

コロサイの信徒は、偶像礼拝に満ちた世界から救われたことの反動で、この世の仕事や知識、政治的な権威などの、見えるものをすべて否定したのだと思われます。それに対して、パウロは、罪に堕落した世界が、それでも滅ぼされずに保たれているのは、創造主である御子のみわざであることを思い起こさせたのです。

この異教社会の日本にも、イエスのみわざの影響を認めることができます。たとえば、一週間のリズム、結婚制度、基本的人権やいのちの尊重、平和主義、「愛」や「自由」ということば、その他、数え上げたらきりがないほどです。この世界を批判ばかりして、そこにある美しさを見ることを忘れてはなりません。

私は昔、証券業務に従事していた頃、自分が「御子にあって」その職場に置かれ、「御子によって」造られた仕事の中で、「御子のために」働くという意味が分かるまでは、仕事が空しく思えました。私たちは仕事ばかりか遊ぶことすら、「御子にあって、御子によって、御子のために」行うのです。

この「万物」の代わりに、「国」「家族」「会社」「仕事」「食物」「スポーツ」「趣味」「配偶者」「子ども」「友人」「東京都」「教会」等と入れて読み替えてみてはいかがでしょうか。イエスは今この時、生きて働いておられます。私たちは、どんな暗やみの中にも、やがて美しく咲く花のつぼみを認めることができます。そこに希望に満ちた喜びが生まれます。

それで当教会のビジョンでは、「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」と記すことにしました。

しかし、同時に、目に見えるものに固執せず、「地上では旅人であり寄留者であることを告白する」(ヘブル11:13)ことも大切です。私たちは、この世のうちにではなく、その創造主である「御子のうちに」あるのですから・・。

それは、具体的には、キリストの「からだである教会」(18節)の交わりのうちにあることを意味します。

18節の「御子はそのからだである教会のかしらです」から、キリストにある再創造のみわざが記されますが、それは、教会こそが、「来るべき神の国の先駆け」だからです。

私たちは、神の新しい創造を見ながら生きて行くようにと召し出された者たちの集まりです。それは、神を知らなければ、持つ事のない希望です。

「御子は・・死者の中から最初に生まれた方」(18節)とあるのは、御子の復活が、私たちがやがて栄光の身体へと復活する「第一のもの」、復活の初穂だからです。

15節の「先に生まれた方」と18節の「最初に生まれた方」は原文では同じことばが用いられています。それは、御子が万物より先に生まれた方として、万物を創造されたのと同じように、御子こそが、死者の中から最初に生まれた方として、この世界を再創造してくださるという意味が込められています。

そして、御子は私たちと同じ弱く惨めな肉体となられましたが、御父は「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」(19節)ました。それは、「御子によって、万物をご自分と和解させてくださる」ためでした。御子のうちに神の本質が宿っているからこそ、その十字架の死が、神との和解をもたらすことができたというのです。罪ある人間は、全人類の罪を贖うことなどできないからです。

その「和解」のことが原文では続けて、「その十字架の血によって平和をつくられた(シャロームのギリシャ語動詞形)」と記され、「御子によって、地にあるものも、天にあるものも」と付け加えられています。

それは、愛と平和と喜び(シャローム)に満ちた「正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)が実現することの保証です。この地での労苦は、主にあって無駄にはなりません(Ⅰコリント15:58)。

しかも、その「保証」として「神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊」(ガラテヤ4:6)を私たちのうちにも宿らせてくださいました。創造主である聖霊ご自身が、欠けだらけの私たちを「聖く、傷なく、非難されるところのない者」(22節)へと造り変えてくださいます。

八木重吉という大正末期の詩人は、信仰に導かれた後、恵まれた生活の中で、説明し難い寂しさと悲しみを感じます。英語を教えて家族を養うことを、生ぬるい信仰と思えたからです。

しかしやがて、家族を喜び愛し、学校の生徒や同僚に仕えることを、キリストにある、キリストに仕える生き方と受けとめ、現在を感謝できるようになりました。

30歳で死の病(結核)にかかりますが、夢の中で、自分が、天使よりもすぐれた顔になり、栄光の光に包まれていることを見て、不思議な平安に包まれました。そして、小さな歩みしかできない自分を、イエスの眼差しで優しく見守られるようになりました。その心境がつぎの詩にあらわされています。

  「きりすと われにありと おもうはやすいが
  われみずから きりすとにありと
  ほのかにてもかんずるまでの とおかりしみちよ
  きりすとが わたしをだいてくれる
  わたしのあしもとに わたしが ある」