福音書には、「さげすまれ、人々からのけ者にされた」救い主の姿が描かれています。それは人として最悪の苦しみです。人は最もひ弱な生き物であるからこそ、協力関係の中に生きる必要があります。孤立ほど恐ろしいことはなく、人はそこで精神を病むしかありません。
マタイの福音書では、イエスの癒しのみわざは、イザヤが預言した「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」というものであったと描きます(マタイ8:17、イザヤ53:4)。つまり、イエスは人々を助けるたびに十字架に近づいて行かれたのです。
それを、子供用のドラマにしたのが「やなせたかし」さんです。アンパンマンは自分の身を削りながら、弱者を助け、悪と戦います。しかし、そこでは十字架の死までは描きようがありません。
イスラム教の聖典のコーランでは、イエスは処女マリヤから奇跡的に誕生した最高の預言者の一人とされています。しかし、そこでは、「ユダヤ人たちはイエスを殺したのでもなく、十字架につけたのでもなく・・・神が彼をみもとに引き上げたもうたのである」と描かれます(4-157,158)。
それは十字架が神と人から見捨てられた「しるし」であり、預言者の死としてはあまりにふさわしくないものと思えたからでしょう。
ある心理学者は、「人は意識の上では愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識の中では、愛することを恐れているのである」と語っています。人の助けになろうなどと思わなければ「傷つく」こともありません。イエスが罪人を愛そうとしなかったら、十字架にかけられることもありませんでした。しかし、人は、面倒に巻き込まれることを避けようとする結果、世界では愛が冷めて行くとも言えます。
人に真に必要なのは、見捨てられる勇気なのかもしれません。それを恐れないところに愛が成長するからです。
1.「それは、平和(シャローム)を聴かせ・・・『あなたの神が王となる』と告げる」
預言者イザヤの40章以降は、エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされ、多くの民が捕囚とされるという絶望を前提として記されています。それは、主ご自身が、彼らを懲らしめ、反省させるために行ったことで。
ただし、当時の世界の人々は、エルサレムの滅亡はイスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力であったためだと思いました。それで、神は、ご自身の栄光を表すために今、新しいことをされます。
52章7節からは、「なんと美しいことよ、山々の上にあって福音を伝える者の足は」と記され、その働きについては、まず「それは、平和(シャローム)を聴かせ、幸いな福音を伝え、救いを聴かせ、シオンに、『あなたの神が王となる』と告げる」と説明されます。
「あなたの神が王となる」ということが「幸いな福音」と言われるのは、現代の人々には不思議です。それはイスラエルの神がエルサレムからこの世界全体を治めるという意味です。
「福音」とは神のご支配が明らかになることです。主はまず神の民にご自身を啓示し、そして神の民を世界に遣わすことによって、ご自身を知らせてくださいます。それは、神がこの世界の歴史を確かに導いておられ、ご自身の「平和(シャローム)」を必ず実現するという希望です。
なお、「それは平和を聴かせ」とありますが、パウロはこのことばを用いて、「足には平和の福音の備えをはきなさい」(エペソ6:15)と勧めました。私たちは、「平和の福音」を身近な人との関係の中で味わい、またその「平和」を広げるために召されたのです。
マザー・テレサは、「世界平和のために、われわれはなにをすべきですか?」と問われたとき、「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」と答えたとのことです。まずは目の前の人に信頼を寄せ、仲間となることの積み重ねが世界平和につながるからです。
そして続いて、「彼らは、まのあたりに見るからだ、主(ヤハウェ)がシオンに帰られるのを」(52:8)と記されます。それはエルサレムが廃墟とされたのが、主の栄光がエルサレムを立ち去ったからであり(エゼキエル11:23)、その救いは、主の栄光が戻ってくることによって実現すると理解されていたからです。
そのことを覚えながら、9節では、「共に大声をあげて歓喜せよ、エルサレムの廃墟よ。主(ヤハウェ)がその民を慰め、エルサレムを贖われたから」とさらに説明されます。エルサレムがバビロン帝国のくびきから解放されるのです。
そのことが改めて10節で、「主(ヤハウェ)は聖なる御腕を現された。すべての国々の目の前に」と記されます。「御腕を現す」とは、主の明確な救いのみわざが見えるようになることです。
イエスのエルサレム入城こそは、主(ヤハウェ)がシオンに帰られたということを現すものでした。エルサレムの人々はそのとき、この預言を成就するかのように、「共に大声をあげて歓喜」しました。それはイエスがエルサレムをローマ帝国の支配から贖い出す救い主だと思われたからでした。
しかし、神はそれ以上に、イエスの十字架と復活によって、「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放する」(ヘブル2:14,15)という不思議な「救い」を実現してくださったのです。イエスの復活こそ、悪魔と罪と死の力に対する勝利です。
そして、「地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」(52:10)とは、今、信仰者が常に死を乗り越えた希望に生きることができることに現されています。
世界は喜びの完成に向かっています。イエスはすでに世界の歴史を変えてくださいました。私たちは既に新しい世界に足を一歩踏み入れています。私たちの信仰は揺らぎますが、自分の意志の弱さ、無力さを認め、イエスにすがろうとしている限り、最終的な「救い」は確定しています。
それは人知を超える迫害に耐えた使徒パウロが、「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)と告白したとおりです。
2.「主(ヤハウェ)のしもべ」としての生き方を全うされたイエス
52章13節以降は、「主のしもべの歌」として多くの人々から愛読されてきた所で、旧約聖書しか信じないユダヤ人がイエスを救い主として信じる際に最も多く用いられている不思議な預言です。
ただし、不思議にもこの歌は、「見よ。わたしのしもべは栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる」(52:13)という「栄光」から始まっています。
ただ、その直後に、「多くの者があなたを見て唖然とするほどに、その見ばえも失われて人のようではなく、その姿も人の子らと違っていたのだが・・・。そのように、彼は多くの民を驚かせ、王たちはその前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ」(52:14、15)と記されていました。
多くの人々は十字架の後で復活を見ますが、ここでは復活預言から始まっています。それは、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右の座に着座されました」(ヘブル12:2)と記されている通りです。イエスは「ご自分の前に置かれた喜び」を見ていたからこそ、苦難に耐えられたというのです。
私たちも、世の不条理に振り回され、敗北者の道を歩むように見えても、すでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)とされているのです。人は、希望が見えるときにこそ、苦難に耐えられます。
なお、私たちはこれを最初からキリスト預言として読んでしまいがちですが、もっと原点に立ち返って、私たちと同じ不自由な肉体に縛られていた人間イエスが、このみことばをどのようにお読みになったかを考えるべきでしょう。
イエスは総督ピラトの前で沈黙しておられた時、また、ローマ兵から鞭を打たれていた時、また「いばらの冠」をかぶらされて嘲りを受けておられた時、この「主のしもべの歌」を思い巡らしていたことでしょう。
主はそこに描かれた生き方を全うすることこそが「ユダヤ人の王」としての使命であることを自覚し、またそれによって「神の国」を全世界にもたらすことができると信じておられました。
現代のユダヤ人も、ナチスの大迫害を受けながら、自分たちが「主(ヤハウェ)のしもべ」として苦難に耐えているという自覚を持っていたとも言われます。
この歌は、不条理な苦しみの中で、そこに積極的な意味を生み出す力を持っています。この歌を生きる者は、苦難に耐える力を受けることができます。
私たちは十字架の「暗さ」に、この世の暗やみを圧倒する「光」を見ることができます。N.T.ライトは、「the cross is the victory that overcomes the world (十字架は、世を打ち負かす勝利である)」と述べていますが、当時の「十字架」はローマ帝国の最大の「脅し」でした。
イエスの幼児期に何千ものユダヤ人がガリラヤ地方で独立運動に参加し、十字架にかけられました。帝国にとっては法の秩序と平和を守らせるための脅しのシンボルでしたが、イエスはそれを「愛と赦し」のシンボルに変えてくださいました。
しかも、その脅しはキリストの弟子には通用しなくなり、ついにはローマ帝国自体が十字架にかけられたイエスを救い主と信じるようになります。
イエスの受難のシーンには、真の王者の姿が描かれています。ハエを殺すように人を殺すことができたローマの百人隊長はそれに気づきました。なぜなら、真の王の権威とは、民を救うためには自分のいのちを差し出すことができるという生き様に現されるからです。
イエスの十字架の場面では、ローマの兵士たちがイエスに、「紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ」、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし、「葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた」と、その嘲弄の様子が生々しく描かれます。
イエスは、そのような嘲りを受けながら、イザヤ53章1-4節のみことばを思い巡らしていたことでしょう。
そこでは、「だれが私たちの聞いたことを信じたか」という反語的な問いかけから始まり、「主(ヤハウェ)の御腕は、だれの上に現されたのか」と、先の52章10節のことばに立ち返りながら、「あなたの神が王となる・・・主(ヤハウェ)がシオンに帰られる」ということを実現する「主のしもべ」の生き方が記されます。
それは、「彼は御前で若枝のように芽生えたが、乾いた地から出ている根のようだった。見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見ばえもない。さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」というあまりにも弱々しい姿でした。
イエスは、ご自分を「主の御腕の現れ」と意識しながら、主の救いは、人々のあざけりやののしりに耐えることによって実現できると信じておられました。イエスは神によって立てられた真の王としての自覚を持つからこそ、あざけりに耐えられたのです。
私たちは、自分の存在価値を高く評価してくれる方の語りかけを聞き続けることによってのみ、不当な非難に耐えることができます。
そして、4節では、「主のしもべ」が、「悲しみの人で、病を知っていた」という苦しみの意味が、「まことに、彼が負ったのは私たちの病、担ったのは私たちの悲しみ」と記されています。つまり、主の苦しみは、私たちの「病」や「悲しみ」を引き受けるためだったというのです。
ところが、当時の人々の反応が、「彼は罰せられたのだと思った。神に打たれ苦しめられたのだと・・・」と描かれます。
しかし、このとき人間としてのイエスは、不当な判決を受け、その直後に厳しい「むち打ち」の刑を受けながら、5節のみことば、「彼は、私たちのそむきのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちの平和(シャローム)、その打ち傷が私たちのいやしとなった」を味わっていたのではないでしょうか。
イエスは、ご自分が不当な苦しみに耐えることが、すべての人にとっての「平和」と「いやし」を生み出すと確信していました。後にペテロはこれを引用しつつ、「キリストは・・自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました・・・キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」(Ⅰペテロ2:24)と主の御苦しみの目的を語りました。
そして「いやし」の意味が続けて、「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(2:25)と記されています。
つまり、「キリストの打ち傷」によってもたらされた「いやし」とは、何かの念願がかなうというより、私たちが創造主のみもとに立ち返り、このままで「神の子」とされるということにあったのです。
そのことがイザヤ53章6節では、「私たちみなが、羊のようにさ迷い、おのおの自分勝手な道に向かって行った。そして、主(ヤハウェ)は彼に負わせた、私たちみなの咎を」と記されているのです。
3.「彼を砕き、病とすることは、主(ヤハウェ)のみこころであった」
イエスに十字架刑を宣告したのはローマ総督ピラトです。彼は裁判の席で、イエスに向かって、「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです」(マルコ15:4)と問いかけます。そこには、イエスが弁明さえすれば、この愚かな裁判を終えられるという期待がありました。
ところが、「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた」(同5)というのです。これはピラトにとって到底理解できないことでしたが、それこそがイザヤ53章7節に記された主のしもべの姿でした。
そこでは、「痛めつけられても、彼はへりくだり、口を開かない。ほふり場に引かれる羊のように・・・。毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」と預言されていました。
イエスは、人々が期待する救い主の姿ではなく、イザヤが預言した「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿を生きておられたのです。
続けてイザヤ53章8,9節では、「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。だが、彼の時代のだれが思い巡らしたことだろう。生ける者の地から絶たれた彼は、わたしの民のそむきのために罰せられたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた。それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから」と記されます。
当時は、十字架で殺された者は、共同墓地に投げ込まれるのが常でしたが、イエスはユダヤ人の貴族であるアリマタヤのヨセフが自分のために用意していた墓に葬られました。それはこの預言の成就であり、神はそのようにしてイエスの復活の舞台を用意してくださったのです。
それは、イエスが神のみこころに従っておられたからです。
そのことが、10節では、「彼を砕き、病とすることは、主(ヤハウェ)のみこころであった。もし、彼がそのいのちを罪過のためのいけにえとするなら、末長く、子孫を見ることになる。主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる」と記されていました。
イエスはご自分を「罪過(償い)のためのいけにえ」とするのが、「主のみこころ」であると確信していたため、敢えて、ピラトの前で沈黙を守っていたのです。
そして本来、エルサレム神殿はイスラエルの民の「罪を贖う」ための神が与えたシステムでした。そこで、イエスはご自分の死を通して、神殿を完成しようとされたのです。
なぜなら、当時の神殿には神の臨在のしるしである「契約の箱」がなかったからです。それは、真の神殿を待ち望むために未完成の神殿に過ぎませんでした。イエスはその矛盾を真っ向から指摘したことで宗教指導者から憎まれました。
ただし、イエスは十字架にかけられますが、「三日目によみがえり」ました。そのことが11節では、「そのいのちの苦しみから、彼は見て、満足する」と記されます。そして、主の犠牲によってもたらされたことが、「わたしの義しいしもべは、その知識によって多くの人を義とする。彼らの咎を、彼自身が担う」と記されます。
まさにイエスは神殿の本来の目的を全うしてくださったのです。それはイエスが、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言われた通りでした(ヨハネ2:19)。
そして12節で主は、「それゆえ、わたしは多くの人々の間で、彼に分け与え、彼は強い者たちに戦利品を分け与える」とは、当時の戦争勝利によって戦利品を自分に従った者たちに分け与える情景です。
イエスは死に至るまで忠実である者たちに、ご自分の勝利の祝福を分ち合ってくださるのです。
一方イエスは12節にあるように、「それは、彼がそのいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたから」とあるように、犯罪人の仲間とされることを神のみこころと信じ、ピラトの前で沈黙を守りました。
自分を守るために平気でうそをつく祭司長たちと、ご自分が無罪でありながら、有罪判決を受けることが主のみこころであると確信して沈黙を守るイエスの対比が見られます。
主の沈黙に、王としての威厳が現されています。最後に十字架の意味が、「だが、彼こそが多くの人の罪を負った」と記され、復活し昇天した現在の働きが「そして、そむいた人たちのためにとりなしをする」と記されています。
イエスは私たちと同じ人間としての「弱さ」を持ちながら、イザヤ52,53章に記された「主のしもべ」の生き方を全うされました。私たちもその模範に倣うように召されています。
創造主への「従順」をアラビヤ語では「イスラーム」と呼びますが、残念ながらクリスチャンであってもイスラム教徒と同じような生真面目さ?で頑張ろうとする人々がときにいます。
マホメッドは処女マリヤから生まれたイエスを信仰の従順の模範と観ましたが、「神の独り子」とは認めませんでした。また、死に打ち勝ったイエスが聖霊によって私たちのうちに住むということも認めませんでした。マホメットは三位一体を否定してしまったからです。
私たちは自分の力によって「死の力」に打ち勝つことを目指すのではありません。祈りの始まりは、苦難の中で「神よ、どうして…」と嘆き合い、みこころを示されて「それは無理・・・」と訴えつつ対話を続けることではないでしょうか。
キリストは私たちに問題を解決する力以前に、問題を抱えたまま生きる力を与えてくださいます。そして嘆きつつ、兄弟姉妹と共に祈り合うただ中に、神の平和が広がって行きます。
すべての争いは自分を神とするところから始まっています。神のご支配を見えなくするのは、すべての人が、人を押しのけてでも上に立とうとするからです。私たちは自分自身が罪人ですから、自分の「いのちを罪過のためのいけにえとする」とすることはできませんが、「見よ。わたしのしもべは栄える」という、最終的な復活の栄光を目の当たりに思い浮かべながら、「さげすまれ、人々からのけ者にされ」るという「嫌われる勇気」を持つことができます。
それは、多くの場合、主のみこころを求めつつ目の前の「煩わしい」ことから目を背けず、損な役割を敢えて引き受けることではないでしょうか。私たちはそれができます。なぜなら、復活のイエスご自身が聖霊によって私たちのうちに生きていてくださるからです。
私たちは「今ここで」、三位一体の神の愛に包まれ、既にイエスの勝利を自分のものとしているからです。
イエスはイザヤ書52,53章を思い巡らしながら、十字架の苦しみに向かって行かれました。イエスは確かに神の御子であるのでそれができましたが、今、その御霊が私たちのうちに宿っているのです。