立川チャペル便り「ぶどうぱん」2016年冬号より
使徒パウロは、問題ばかりを起こしているコリント教会の兄弟に向かって、「あなた方が……キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた」(Ⅱコリント3:3) と途方もないことを書きました。使徒パウロを非難したコリント教会の人々でさえ「キリストの手紙」であると呼ばれるなら、私たち自身も、「私はキリストの手紙です」と堂々と証しして良いと思えるのではないでしょうか。ただ、それは決して、「私はイエス様を信じて、このように成長できました」と宣伝することではなく、「創造主は、こんな私の祈りにさえ耳を傾けて、私の罪を何度でも赦し、このままの私の存在を喜び、私の歩みを導いていてくださいます」と証しすることです。
イエスが語っておられたように旧約聖書の教えの中心は、全身全霊で神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することです (マルコ12:28-34)。当時のユダヤ人はみな申命記6章45節を日々繰り返し暗唱していました。そこには、「聞きなさい(シェマー)。イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神。主(ヤハウェ)はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」と記されていました。イエスはあくまでも、「律法や預言者を……成就するために来たのです」(マタイ5:17) と言っておられました。そして、申命記30章6節には、神がイスラエルの民の罪にさばきを下された後の祝福として、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、それであなたが生きるようにされる」と記されています。つまり、申命記6章の「聞きなさい……」の命令を、イスラエルの民が真心から実行できるようにと、神ご自身が彼らの内側から作り変えてくださるというのが神の約束なのです。
エゼキエル36章26節では、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と約束されます。つまり、神ご自身が私たちの心を作り変え、新しい霊を授けてくださるというのです。そして後者のことが、「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(36:27) と記されます。イスラエルの民は、「全身全霊で神を愛しなさい。それこそが律法の核心です」と何度も言われながら、それを実行できなかったのですが、終わりの時代には、それをイエス・キリストと聖霊が成し遂げてくださるというのです。
エレミヤ31章31-34節には、新しい契約と古い契約の対比が次のように約束されています。
「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は……エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった……彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ……わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす……人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ……わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
Ⅱコリント3章では、旧約の律法は「石の板に」記された一方で、新しい契約では、「人の心の板に書かれた」と記され、それをまとめて、「文字は殺し、御霊は生かす」(3、6節) と記されています。聖霊の働きに関して、人々を驚かせる超自然的な現象や神秘体験が話題にされる場合がありますが、聖書を神のことばとして感謝して受け止め、自分の罪を認め、創造主に向かって、「お父様!」と真心からお祈りできるということ自体が、聖霊のみわざなのです。
私たちのうちに天地万物の創造主である聖霊が住んでおられるという霊的な事実によって、私たちはこのままで「キリストの手紙」とされているのです。今もなお、あなたの家族や友人は、「教会に毎週通っているわりには、何も身についていないね……」などと言ってくれるかもしれません。それは、彼らが私たちをこの世の基準で測っているからに過ぎません。
そんな世の評価に一喜一憂することなく、あなたの家族や友人の不安や悩み、葛藤に心の耳を傾け、できたら彼らの目の前で、天地万物の創造主である神に向かってお祈りしてみてはいかがでしょう。伝道とは、相手を説得することではなく、あなたの隣人の心の底の声に耳を傾け、それをイエスの御名によって祈って差し上げることです。そこにこそ創造主なる聖霊の働きがあります。「キリストの手紙」としてそのような「祈りのミニストリー」に励みましょう。