福音宣教が、「私は惨めな人間でした。そのとき、私は主イエスを見出しました」というパターンに偏りすぎてはいないかと批判されることがあります。確かに、惨めさを知れば知るほど、イエス・キリストの赦しが分かるという面があります。それで、自分の過去の傷や失敗を思い起こすことで、救いのすばらしさを理解しようとするのかもしれません。
しかし、それでは減点主義で育ってきた多くの日本人は、ますます自分に与えられた賜物を発揮することに臆病になります。何よりも、失敗を意識できる方が、福音が分かるなどというのは自虐的とも言えましょう。
一方、007シリーズやミッションインポシブルやスターウォズなどに見られるような、戦いに勝利するヒーローを目指す自己実現的な成長路線でも気が休まりません。
何かを達成するという成功志向によって神の栄光を現わすという路線に、バブル経済以降の多くの日本人は疑問を感じるようになってきているようにも思えます。
聖書によると、すべての人は、「神のかたち(Image of God)」として創造されました。それは、人がそのままで神の栄光を現わすことができるためであり、また神が人を通してこの世界を管理するためでした。ところが最初のアダムは、神の栄光の代わりに自分の栄光を求め、この世界に「のろい」をもたらしました。
それに対し、神はご自身の御子を私たちと同じひ弱な姿で送り、「神のかたち」として生きるという方向を指し示してくださいました。それは誰からも称賛されるヒーローとしての道ではなく、自分の十字架を負って、ときには、あざけりとののしりに耐えながら、神の眼差しをのみ意識して生きる生き方でした。それこそが、神の平和(シャローム)をもたらす道だからです。
それにしても、自分をドジでブスであるかのように見てはなりませが、同時に、世の人々から評価される姿を求めてもなりません。私たちはそれぞれとてつもない欠点や弱さを抱えていますが、それは他の人との愛の交わりを築き、共同体として神の栄光を現わす契機になります。
ひとりひとりではなく、信者の群れとして、キリストの花嫁とされていることを忘れてはなりません。それはオーケストラのようなものです。それぞれに神から与えられたパートの楽譜があり、それらが全体として調和することで、この世界に対して神の栄光を現わすことができるのです。
1.「キリストは神の御姿である方なので、ご自分を無にされた」
マリヤもヨセフも羊飼いも天使も登場しないクリスマス物語があります。それは、パウロがローマで捕らわれの身となりながら、ピリピ教会の不一致のことで心を痛めて書き送った手紙の中にあります。その核心は、「キリストは・・ご自分を無(空虚)にした……卑しくした」(2:6,7)ということばで、「何事でも、自己中心(自分を前面に出したい思い)や、虚栄(むなしい栄光を求める思い)からすることなく、へりくだって(自分を卑しくする思いで)、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」という意味です(2:3)。
ここでの「すぐれた者と思う」とは、能力のことではなく、自分の上座に座るべき人と見るという意味です。当時は身分制社会でしたから、能力があるとは、奴隷としての価値が上がるという意味にもなり得ました。一方、貴族は血筋で地位が決まるので、能力はあまり大きな意味を持ちません。ですから、これは自分の能力を隠したり、また敢えて自分の能力を過小に評価することの勧めではなく、自分に与えられた能力を神からの賜物として感謝して受け止め、それを用いて、自分の目の前の人を貴族のように尊敬したうえで、仕えさせていただきなさいという意味です。
その上で、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」(2:5)と、キリストの物語が描かれます。
クリスマスは、「太陽をお造りになった神様が、赤ちゃんになった日」と表現したほうが良いかも知れません。全世界は父なる神と御子の共同の働きによって生まれたからです。
そのことが、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって(in)造られたからです……万物は、御子によって(through)、御子のため(for)に造られている」(コロサイ1:15、16)と記されています。
ここではそのことが、「キリストは神の御姿である方」(2:6)と表現されます。それは御子キリストが父なる神と同じ本質をお持ちであるということを意味します。キリストはこの世のすべての上に立ち、すべての束縛から自由な方なのです。
その方が、「神と等しくあることを自分のために用いようとはされず、ご自分を無にして、しもべ(仕える者)の姿を取られ、人間の似姿に生まれてくださった」と記されています。ここでは、「神の姿」である方が「しもべ(奴隷)の姿」を取られたという奇想天外な対比が強調されています。
新改訳で「仕える者」と訳されたことばは、もっと直接的に「しもべ」と訳すべきでしょう。私は今頃になって、パウロはそこにイザヤ52章13節~53章の「主のしもべ」に見られた「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」という姿を思い浮かべていたという解説を読んで深く感動し、この箇所の意味が深く心に迫ってきました。
ここでは、人間となった上で、その最下層の「しもべ」となったと記されているわけではありません。事実、イエスは社会的に大工の息子という下層民ではありましたが、「奴隷」ではありませんでした。ただ、パウロのようなローマ市民でもありませんでしたので、「奴隷」にふさわしい十字架刑が宣告されることになりました。
ですから、ここでは父なる神に徹底的に従う「主のしもべ」となるという一環で、「人間の似姿に生まれた」と記されているのです。「似姿」とは、神が人を「神のかたち」として、「神に似せて」創造されたというみことばを思い起こさせます(創世記1:26)。キリストは、「神のかたち」に創造された人間を救うために、敢えて、神の御姿でありながら、人間の似姿になってくださったのです。
しかも、ここでは、「人間の似姿に生まれてくださった」と、クリスマスのことを思い起こすように訳すことができます。
なお、新改訳で、「神のあり方を捨てられないとは考えず」ということばは、新共同訳では「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と訳されていますが、翻訳が困難です。ここには、何よりも最初のアダムの罪が意識されています。アダムもエバも、「神のかたち、神の似姿」として、それぞれ個性を持った互いに補い合うすばらしい存在として創造されました。
それにも関わらず、蛇が善悪の知識の木の実を指して、「あなたがたがそれを食べるその時、あなた方の目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)と誘惑したことばに従ってしまいました。これは被造物でありながら、自分を神の立場に置こうとすることでした。
私たちはどこかで、人の期待に応えられないこと、何かの失敗をすること自体を「罪」と考えがちですが、聖書が語る最も根本的な罪とは、自分を神とすることに他なりません。アダム以来全ての人は、基本的に神の権威の簒奪者になってしまったとも言えましょう。
アダムは「神のかたち」として、神に従うべき者として創造されたにも関わらず、自分を神に等しい立場に置こうとしました。それに対し、キリストはすでに神と等しい方であられたのに、その立場を自分のために用いようとはされず、聖書が描く「主のしもべ」の姿に徹底的に従おうとされたのです。
キリストは人の上に立って権威をふるう代わりに、「ご自分を無にされた」(2:7)と強調されています。
昔、サイモンとガーファンクルがヒットさせた「コンドルは飛んで行く」において、「僕は、カタツムリ(snail)であるよりも雀でありたい……釘(nail)であるよりはハンマーでありたい……ここを飛び立っていったあの白鳥のように……でも、人は大地に縛り付けられ、この地に悲しみの声を響かせている、一番悲しい声を」と歌われました.
キリストは世の悪を打つハンマーになることができたのに、悪人から打たれる「釘」になられ、十字架で大地に縛り付けられ、悲しみの声をあげられ、それによって、釘が二つのものを結びつけるように、主は、神と人、人と人とを和解させてくださいました。
2.「この方は……ご自分を卑しくされた」
そして、「人間の似姿に生まれられた」ということばは、「人としての性質(外見)をもって現われ(見出され)」と言いかえられます。キリストは「しもべの姿」を取られはしましたが、それはイザヤ53章に従ったことでしたから、神の御姿を捨てられたというのではなく、「神の御姿」を保たれたまま、「しもべ」の姿になられたと解釈することができます。それでここでは、外見上の肉体としてのキリストは、人とまったく同じとしか見えないような状態になったと強調されているのです。
その意味は、この肉体が持つ不自由さをその身に引き受けることです。私たちは、腹が減ると力がなくなり、気力も萎え、心も不安定になります。また人から誤解されたり非難されたりすると心が痛みます。理解してくれる友がいないと耐えられない孤独感に陥りますが、主はその同じ「性質」を持たれたのです。
また、主は、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」(ヘブル4:15)とあるように、生きることの痛みや悲しみを体験され、その中で、肉体から生まれる様々な欲望と戦い、それを制する必要すらあったのです。
そして何よりも、キリストが「人となった」ことで、「死ぬ」ことが可能になりました。そのため主は、御使いのように一時的に人間の姿を借りることをなされずに、私たちとまったく同じように、母胎の中の胎児の姿から成長して誕生するというプロセスを通られました。
太陽をお造りになった方が、マリヤの乳房を吸い、対話しながらことばを覚え、成長されました。何という不思議でしょう。全世界の創造主は、死の危険と隣り合わせの中に生まれ、あの貧しいヨセフとマリヤがいなければ一瞬たりとも生きて行くことさえできないひ弱な赤ちゃんとなられたのです。
そればかりか、主は、肉体の自然の死ではなく、「死にまで、実に十字架の死に従う」ほどまでに、「自分を卑しくされ」ました(2:8)。先の「現れ(見出され)」も、「死に従う」の「従う」ということばも分詞で、中心的な動詞は「卑しくする(低くする)です。これは先の、「自分を無にする」と同様この世の人々が期待する英雄像に真っ向から反します。
特に、十字架刑は、極悪人のしるしです。人がその言葉を聞くだけで、恐怖にふるえるほど、残酷で、あざけりとののしりに満ちた刑罰でした。イエスはそこで、人としてのすべての尊厳を奪われました。人にとって栄誉とか誇りは命よりも大切なものですが、それらを捨てられたのが、「自分を卑しくする」ということでした。
イザヤ53章3節には、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」と記されています。
そしてそのこと意味が、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った……彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(53:4)と説明されます。それは、私たちのすべての罪をその身に負う「しもべ(奴隷)」の姿になって、罪の「奴隷」となっている人を救い出すためでした。
なお、十字架が全人類の罪の贖いとなり得たのは、イエスが単なる人間ではなく、「神の御姿」を保たれたままの創造主であられたからです。主があなたの創造主でなければ、どうしてすべての罪を贖うことができるでしょう。
しかし、真に、「キリストは神の御姿であられ……ご自分を無にして、しもべの姿を取られ……自分を癒しくし、死にまで、実に十字架の死にまで従われた」(2:6-8)のでした。
そして、そのキリストの十字架の苦しみが私たちにとっての「救い」をもたらしたということが、「彼への懲らしめが私たちに平安(シャロ-ム)をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた」(イザヤ53:5)と記されています。
このキリストの歩みにごく自然に従った人にポーランド生まれのコルベ神父がいます。彼は1930年から足掛け6年に渡り長崎を中心に働きましたが、1936年にポーランドのある修道会の院長に任ぜられ帰国します。まもなくナチスドイツがポーランドに侵攻しますが、彼はユダヤ人を助けるとともにナチスを批判するような文章を書き続けます。彼は1941年、47歳の時に捕らえられ、アウシュビッツ強制収容所に入れられます。
その夏、収容所から脱走者が出たことで、彼の属する隊が連帯責任を負わされ、無作為に10名の囚人が選ばれ、殺されることになります。
そのとき選ばれたガイオニチェックというポーランド人が、「私には妻子がいる」と泣き叫びました。するとすぐにコルベ神父が前に進み出て、「私が身代わりになります。私は妻も子もいませんから」と願い出ました。彼は他の囚人と共に、地下牢に閉じ込められました。そこでは食べ物も飲み物も与えずに、餓死させるという牢でした。
コルベ神父はそこで毅然として仲間を励ましていました。その地下牢の様子を見た人は、そこには祈りと賛美の声が響き渡り、まるで聖堂のようだったと伝えています。彼は苦しむ者とともに苦しむこと自体に使命感を覚えていたのです。
その後、二週間たっても彼は餓死しなかったので、毒薬を注射されて彼は息を引き取りましたが、そのときも彼は自分から腕を差し伸べ、天を仰ぎ見ながら、その顔は美しく輝いていたとのことです。
このとき助けられたガイオニチェックは、奇跡的に強制収容所を生き延び、94歳になるまでコルベ神父の生き様を証し続けました。コルベ神父はその生涯に渡ってごく自然にキリストに倣うという生き方を貫いていました。そこには、身代わりの刑罰を受けることで、他の人が生かされたという現実がありました。
そして彼の生き様自体が、驚くほど多くの人の心にキリストの姿を思い起こさせたので、カトリック教会の聖人にまでされることになりました。
3.「それゆえ神は、この方を高くあげて、すべての名にまさる名をお与えになりました」
「それゆえ神は、この方を高く上げて……」(2:9)とは、イエスが「ご自分を卑しくされた」ことに、神が応答してくださったとの意味が込められています。
これは、イエスが、「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)と言われたのと同じことばの用い方です。ただ、ここでは単に「高く」ではなく、「すべてにまさって高くされた」という意味が込められた表現になっています。
そして、「キリストが……ご自分を無にされた」ということに応えて、「神は……すべての名にまさる名を与えられた」と言われます。それは、自分を空っぽにする者を、神が最高の栄誉で満たしてくださるということです。
その目的が、「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(2:10,11)と記されます。
「すべてが、ひざをかがめ……」とは、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない……すべてのひざはわたしに向ってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う」という預言の成就です(イザヤ45:22-24)。
それは本来、父なる神が受けるべき栄光を、御子が受けるということを意味します。それによって、「父なる神がほめたたえられる」(2:11)というのです。御子が自分を卑しくされた結果、御父と等しい栄光をお受けになられました。それは、「ご自分を無にし、低くする」という生き方自体が、神のご性質を何よりも表現していたからです。
私たちはどこかで、神をまるで横暴な絶対君主かのように誤解している面があるかもしれませんが、神のご性質は何よりも、ご自身を徹底的に低くされたキリストの生き方に現されているのです。だからこそ、キリストは神が受けるべき栄光を受けられたのです。
そればかりか、最後に、「地の下にあるもののすべてがひざをかがめ……『イエス・キリストは主である』と告白し……」(2:10)と記されているのは、サタンさえもイエスの前にひざまずくという宣言です。
心に大きな不安や葛藤を抱え、自分を責めてばかりいる方にお話をすると、よく、「このままで良いんですね……」という反応が返ってきますが、私は、「そのままの姿でイエス様について行ってください」と言い変えるようにしています。それは、心の目を、自分ではなくキリストの姿に、神でありながら、奴隷の姿になるほどにご自分を無にされ、十字架の死に従うまでにご自身を卑しくされた姿に向けていただくためです。
それは、這い上がろうとする代わりに、人の下に置かれることを願う生き方です。それは人と自分を比べた劣等感のようなものではなく、高い崖の上からハング・グライダーで飛び降りるような思いかも知れません。しかし、そこには、何という自由と喜びが待っていることでしょう!
それは、自分の肉の欲望に駆られた冒険ではなく、キリストの生き方に習う冒険です。あなたは自分の無力さや汚れに圧倒されるでしょうが、そのただ中で、自分のうちに働く神の力を体験できます。
ペテロの手紙第一2章9節にはイエス・キリストに結びつく者を、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と呼んでいます。
「王である祭司」とは、ひとりひとりにキリストの御名によって、ユダヤの大祭司を超える立場が与えられ、恐れることなく神の前に出ることができるようになったことを意味します。しかも「王」であるとは、ダビデと同じように大胆に神に祈り、神の使命に生きることができることを指します。
あなたはダビデでありアロンになるのです。それは私たちのうちにキリストご自身が聖霊によって住んでくださっているからです。しかし、それは私たちが世の人々に対して自分を誇ることができるようになるためではなく、キリストに倣って、「不当な苦しみを受けながらも……悲しみをこらえ……ののしられても、ののしり返さず…正しくさばかれる方に任せる」という生き方を貫くことです。
あなたに様々な賜物が与えられているのはそれによって、人との戦いに勝つためではなく、それを用いて他の人々、また社会全体に仕えることができるためなのです。
この神秘をマルティン・ルターは「キリスト者の自由」で次のような逆説として表現しました。
「キリスト者はすべての上に立つ自由な主人であって、何人にも服従しない。
キリスト者はすべてに仕えるべきしもべであって、すべての人に服従する。」
私たちは、創造主なる聖霊を受けているので、いかなる権力の奴隷になる必要もありません。私たちは神の直属の部下です。ただ、それはこの肉体において、キリストに倣って、すべての人に仕えるためであるというのです。
なお、「人に仕える生き方」というのを、「顧客に仕える」と言えば、すべての商売の原則にも適用できるほどの世の常識かもしれませんが、仕事では何よりも成果が問われます。
しかし、この生き方とはイザヤ52章13節~53章の「主のしもべ」に倣うことに他なりません。そこで強調されているのは、人の誤解や中傷に耐えながら、ただ神のみこころに従い、人の悲しみや痛みに寄り添って行く歩みです。そこで問われるのは、より多くの人々に影響力を発揮し、人を動かすことができたという結果や成果ではなく、ただひとりに寄り添うという生き方です。
それはたとえば、人の悲しみにただ静かに耳を傾けること、また親の介護であったり、子どもの心の声を聴くことです。ただし、それは子供を王様にしたり、人を自分に依存させたり、人を振り回す人の言いなりになることではありません。
大切なのは、人の評価ではなく、神の眼差しをいつでもどこでも意識しながら生きることなのです。そして、神はあなたの労苦に報いてくださいます。それはキリストを高く引き上げてくださったことと同じです。
私たちは人の価値がその生産性で測られるような世界に生きています。しかし、人の価値は、どれだけ偉大なことを達成できたかではなく、どれだけキリストに倣って、自分を低くして、神と人とに仕えたかで決まるのです。