エレミヤ29章〜31章「人の思いを超えた主の救いのご計画」

2015年12月13日

ユダヤ人は歴史上、何度も想像を絶する苦難に会ってきました。神がご自身を知らせるために選ばれた民が、なぜ・・・とも思います。しかし、苦難はすべて神の御手の中で起こったことで、それを通して新しい世界が開けてきたという現実も確かにあります。

そのことを主は預言者エレミヤを通して、「わたしはあなたがたのために立てている計画を良く知っているからだー主の御告げーそれはわざわいではなて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)と語っておられます。

そして、クリスマスのたびごとに、イエスの誕生に伴い、ベツレヘムの二歳以下の男の子がヘロデ大王に殺された記事が思い起こされます。そこでも、「そのとき、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した」(マタイ2:17)と、その後の31章15節が引用されます。

日本政府の命令に背いて6,000人のユダヤ人難民に「命のビザ」を支給した杉原千畝氏の働きが映画化されました。彼ら夫妻はロシア正教会に属するクリスチャンで、夫人も後に「人間にとって一番大切なのは『愛と人道』だといつも思っていました」と記しています。

1940年7月、ソ連占領下のリトアニアの領事館に、ビザを求めたユダヤ人が殺到してきました。彼は後に、「私は外交官としては、外務省に背いて間違ったことをしたのかもしれない。しかし、私を頼りにしている何千人もの人を、見殺しにすることはできなかった。そして、それは正しい行動だったのだね・・・」と夫人に話したとのことです。彼は第二次大戦後外務省を退職し、その後、自分のとった行動がユダヤ人にどのような意味を持ったかなど知りませんでした。助けられたユダヤ人の一人が、杉原氏を発見したのは戦後24年も経ったときで、その時になって初めて、杉原氏も自分の働きが豊かな実を結んだことを知りました。

それにしても興味深いのは杉原から決して有効とは言えないビザを受け取ったユダヤ人たちのその後です。杉原は彼らをシベリア鉄道でロシアの東端のウラジオストクまで送る手配はできましたが、その後のことは全く目処が立っていませんでした。しかし、当地の領事も杉原の無言の思いを受け止め、独断でユダヤ人たちを日本の福井県の敦賀港に送ります。敦賀の人々は彼らを優しく受け入れ、汽車でユダヤ人社会があった神戸等に送られます。

杉原のビザには2週間しか日本に滞在できないはずでしたが、行き先の決まらない人は太平洋戦争が始まる半年前まで滞在が許され、日本占領下の上海に送られました。そのひとりで後にアメリカに移住できたレオン・ランチャートさんは、神戸での生活について、「あそこで過ごした9ヶ月間が私の一生で一番静かな心休まる時だった」とまで記しています。それはそこの多くの日本人が、ユダヤ人難民を暖かく援助してくれたからとのことです。

杉原氏の行動は、確かに英雄的ですが、彼の決断を知らずに応援した多くの日本人がいたからこそ、杉原氏の働きが今も多くのユダヤ人から感謝されていることを忘れてはなりません。

ところで、映画では船に乗ったユダヤ人難民が敦賀の山々を見て感動し、ハ・ティクヴァ(希望)という曲を合唱します。歌詞は以下の通りです(私訳)。

  「今なお心の奥底からユダヤのたましいがうめき、
  はるか東方の岸へ、シオンへと目が引き寄せられる。
  我らの望みはまだ失われてはいない。
  その望み、二千年来のものは、我らの地で、
  自由の民として生きること、
  シオンとエルサレムの地において

彼らは東へと進み続け、日本の山を見ながら、そこにエルサレムへの希望を見ました。その希望は日本滞在中にさらに豊かにされます。戦後間もなくユダヤ人の独立国家が誕生し、その歌が現在のイスラエル国家になっています。

もちろん、歴史を一面的に見てはなりません。現在のアラブ難民の問題を考える時、この歌を無批判に口ずさむことも危険かもしれません。

ただ、この歌は、ナチスの強制収容所の絶望の中にも希望を見出させる力となったことは事実です。その背後にエレミヤ29章11節があるとも言えましょう。それは、私たちすべてにとっての希望の源泉です。

1.「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」

29章には、預言者エレミヤが、バビロンに引かれて行った捕囚の民、長老たち、祭司や預言者たちに向けてエルサレムから書いた手紙のことが記されています。すでにバビロンには、「エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たち」(29:2)が住んでいました。

そこで、「イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)」は、「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」と呼びかけ(29:4)、バビロン捕囚が主のみわざであることを強調します。

そして彼らに早期の帰国を望む代わりに、「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み・・・そこでふえよ。減ってはならない・・・その町の繁栄(シャローム)を求め、そのために主(ヤハウェ)に祈れ。そこの繁栄(シャローム)は、あなたがたの繁栄(シャローム)になるのだから」(29:5-7)と告げます。不本意に異郷の地に連行された人々には受け入れがたい言葉だったことでしょう。

そして主は、「あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな」(29:8)と言います。偽りの預言者たちは、人々の期待するような言葉を伝えますが、それは主から与えられた言葉ではありませんでした。

私たちも自分の期待に反した地に住み、期待に反する働きをせざるを得ないことがあるかも知れません。そのようなとき、都合の良いことばに耳を傾ける代わりに、今置かれている場の祝福とその寄留の地の繁栄を望むことが大切ではないでしょうか。

そのような中で主は、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(29:10)という具体的な希望を告げられます。あなたが今、悲惨な状況の中に置かれているなら、どのように感じるでしょう。「それでは遅すぎます!」と言いたくなるのではないでしょうか。

そんな絶望感を味わう人に向かって主は、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」(29:11)と言われます。ここで主は、「わたし」ということばを強調しながら、「わたしは知っている」、また、「わたしが立てている計画」と語りながら、ご自身がすべてのことを支配しておられるということを確信させようとしておられます。

しかも、そのことばは、天地万物の創造主であられる「主(ヤハウェ)」ご自身による「御告げ」であると記され、「それはわざわいではなくて、平安(シャローム)を与える計画であり、あなたがたに将来と希望(ティクヴァ)を与えるためのものだ」と解説されます。ユダの民にとって、バビロン捕囚は「わざわい」としか思えませんが、それは「平安(シャローム、平和)」を与える計画であり、彼らに「将来と希望を与える」ためのものであるというのです。

イスラエルの民は経済的な繁栄の中で、それらすべてを与えてくださった神のみわざを忘れました。それで主は、彼らに苦しみを与えることによってすべてが神の恵みであることを心から悟ることができるようにと導かれたのです。

人々は主が御顔を隠しておられるように感じますが、主が与えてくださる「将来と希望」とは、「わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」(29:12-14)と言われます。

旧約聖書の多くのことばはこのはるか前から記されていましたが、現在のような形に整えられたのは、このバビロン捕囚の時期であるとほぼすべての学者が認めています。彼らはこの悲惨を通して、主(ヤハウェ)を「見つけ」、一切の偶像礼拝を退ける「神の民」となりました。

そればかりか、主は、「わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集め・・・あなたがたを引いて行った先から・・・帰らせる」(29:14)と言われます。

この預言がなされたのはエルサレム神殿が破壊される約七年前のことですが、そのときすでに少なくとも二回に渡ってイスラエルの民の多くの者がバビロンに連行されていました。第一次捕囚は紀元前605年ですが、それから約七十年後、バビロン帝国はペルシャ帝国によって滅ぼされ、多くのイスラエルの民は約束の地に戻ることができました。それはまさに、この預言の通りでした。だからこそ、バビロンへの服従ばかりを説いた預言者エレミヤが今も尊敬されているのです。

一方、エレミヤは15-20節で、エルサレムに残されていたユダヤ人は、誤った希望に惑わされてバビロン帝国に逆らい、想像を絶する苦しみに会うと警告します。さらに、主は、安易な救いの希望を語る偽預言者たちに対するさばきを宣告されます (29:21-32)。

偽教師は苦しみに人を成長させ、作り変える力があることを忘れさせます。苦しみを正面から受け止め、それを成長の機会とされるように祈ることの方が、はるかに大切なのです。

2.「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が」

31章1節の「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」(31:1)とは、エレミヤの百年余り前にアッシリヤ帝国によって滅ぼされた北王国イスラエルに対する希望です。

彼らは遠い国々へと強制移住をさせられていますが、そこで、「主(ヤハウェ)は遠くから、私に現れた」というパーソナルな出会いを体験し、主ご自身による、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」という語りかけを聞くというのです。

「誠実」とはヘブル語の「ヘセッド」の訳で「契約を守り通す愛」のことです。

その回復の希望のことを主は、「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し・・・再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる」(31:4、5)と言われます。

そのような文脈の中で、31章15節では、「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」と語られます。

「ラマ」はエルサレムの北八キロメートルにあるベニヤミン族の中心都市で、そこに後にバビロン捕囚として連行される人々が集められました(40:1)。ラケルはヨセフの母で、彼女からエフライムとマナセという北王国の中心部族が生まれましたから、北王国の悲しみがラケルによって表現されているのだと思われます。

この箇所は、イエスの誕生の際、ヘロデ大王がベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をみな殺したという悲惨な出来事が、この預言の成就であるとして引用されます(マタ2:17,18)。まるで神が幼児たちの死を望んでいたかのようにも受け取られかねない表現です。

ただ、これは、かつてのモーセの誕生を思い起こさせることでもあります。あのときも、生まれたばかりのイスラエル男子がナイルに投げ込まれて殺される中で、モーセひとりがエジプトの王の娘によって「水の中から・・・引き出」されました(出エジ2:10)。神はその悲劇を通して、モーセが将来のイスラエルの指導者となるように導いておられました。

同じくイエスの誕生にも、民の「嘆き叫ぶ声」(マタイ2:18)が伴いましたが、それこそ赤子のイエスをイスラエルの救い主として育てるために必要なステップであり、神がイスラエルの民の悲しみを上から見下ろす代わりに、悲惨と不条理のただなかに降りてこられたという意味を持っています。

ここでも、「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ・・・あなたの将来には望み(ティクヴァ)がある・・あなたの子らは自分の国に帰って来る」(31:16、17)と告げられます。

それは先に主が、「わたしの計画は・・・あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(29:11)と言われたことと同じです。

なお、エレミヤ預言はバビロン帝国の滅亡によってすべて成就したわけではありません。イスラエルの民はなおもペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国の支配下で苦しみ続けます。この600年後のイエスの時代にも、ユダヤ人はローマ帝国の圧政のもとで苦しんでいました。

そのとき彼らはイエスのことばを退け、武力闘争で独立を勝ち取ろうとして、再び国を失います。そして、今度は二千年間近くの流浪の民となり、今度は、同じ主(ヤハウェ)を信じるキリスト教徒から厳しい迫害を受け続け、ついにはホロコーストにいたります。

ヨーロッパのキリスト教会はようやくその歴史を深く反省するようになりましたが、同時に、イエスのことばを退けたユダヤ人にも責任があります。ただ、彼らも自分たちの歴史を反省しながら、謙遜にされ、神の救いを、忍耐を持って待つようになったとも言えます。ですから、戦後のイスラエルの国家の回復の中にも、エレミヤ預言の成就を見ることができると言われることもあります。

3.「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」

そして主は、今、裏切りの民、エフライムに対するご自身のお気持ちを、「わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20)と描かれます。

ここには、反逆の民を懲らしめながら、ご自身の「はらわた」を震わせる神の痛みが見られます。ここから、日本で唯一世界的に有名になった神学者、北森嘉蔵の「神の痛みの神学」という名著が生まれます。それはご自身に背き続ける者のために、ご自身の御子を十字架にかける神の痛みでもあります。

ですからここでは、それに続いて、主は、「おとめイスラエルよ。帰れ・・・裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか」と彼らの回心を訴えます(31:21)。そのときに起こる不思議が、「主(ヤハウェ)は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう」(31:22)と預言されます。

「強い男が弱い女を抱く」というのが当時の常識ですが、神の力が、弱さの中に表されるとき、この逆転が生まれます。イエスはひ弱な一人のマリヤという女性に抱かれて成長しました。そして、今も、多くの男性の信仰は女性によって守られ支えられています

そして、このエレミヤ書に記された最も画期的な福音が、「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」(31:31)と描かれます。これこそ「新約」の由来です。

それは、まず第一に、「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった」(31:32)と描かれながら、その上で、「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(31:33)と記されます。

パウロはこの表現を用いながら、福音から離れそうになっているコリントの信徒に向けて、「あなたがたは・・・キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた・・・文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:3,6)と励ましています。

律法の核心である「十のことば」は「石の板」に記されましたが、イスラエルの民はそれを守ることができず、自らのろいを招いてしまいました。それをパウロは「文字は殺し」と表現しました。それに対し、この新約の時代においては、神が私たちのうちにご自身の「御霊」を与え、私たちの心を内側から作り変えてくださるというのです。

もちろん、私たちが自分の心の内面を見るとき、御霊の働きを感じられないことの方が多いかもしれません。しかし、私たちが、「私の心は何と醜く、空っぽなのだろう・・・」と謙遜に認めていること自体の中に御霊の働きがあるのではないでしょうか。

そして今、「そのようにして、人々はもはや、『主(ヤハウェ)を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ」(31:34)というみことばが実現しつつあります。

私たちは、自分の回心の体験を振り返るとき、一方的に新しい知識を教え込まれたという以前に、不思議に、心の中にイエスの救いを慕い求める思いが沸いてきたということがなかったでしょうか。それは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:1)とある通りです。

そして主は、そのときに起こることを、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」と言っておられますが、それこそが十字架のみわざです。

私たちは御霊の働きを誰の目にも霊的な立派な人に変身できることと考えがちですが、29章11-13節においても「わたしを見つける」ことと記され、この箇所においても「わたしを知る」と記されています。つまり、主との交わりの回復こそ御霊の働きの中心です。御霊は私たちに罪の赦しの福音を確信させるものです。

イスラエルの民はバビロン捕囚を通して神の民として整えられました。黙示録17章ではお金の力で国々を支配する「大淫婦」のことが「大バビロン」として表現され、その支配のもとで神の民が苦しむ様子が描かれます(4-6節)。

つまり、バビロン捕囚は今も続いているとも言えます。しかも、それによって社会不安が激しくなると「獣」と呼ばれる独裁者が現れ「大淫婦」を滅ぼすと記され(16節)、その独裁者は「六百六十六」で象徴されます(13:18)。

ユダヤ人を迫害したヒトラーやクリスチャンを最初に迫害した皇帝ネロもその悪魔の数字を持つ者とも言われることがありますが、そこでは小羊イエスがこの世の権力に打ち勝つと約束されています。

実際、歴史上に現れた独裁者はいつも短命であり、その苦難の後に、神の民の祝福が訪れるということの繰り返しでした。バビロン捕囚を通して決して偶像を拝むことのない神の民が生まれまれました。そして、最近は、大バビロンよりさらに恐ろしい悪魔の数字を持つ独裁者ヒットラーの大迫害を通して、二千年来の悲願であったユダヤ人国家が生まれました。

私たちもこの世界では大バビロンや独裁者のもとで、吹けば飛ぶようなちっぽけな者として、苦しめられることがあります。しかし、天地万物の創造主である神の御子ご自身が、ひ弱な赤ちゃんとなって、私たちの仲間になってくださいました。イエスの生涯が全能の父なる神の御手の中で導かれたように、私たちの生涯も守られています。

ただそこで求められるのは、お金や権力という人間的な性急な解決を求める代わりに、イエスに倣って不条理と悲惨の中にも神のご支配を認め、置かれたところで神と隣人とを愛し続けることです。

たった90年でバビロン帝国は滅びましたが、個人の独裁者の支配はさらに短いものです。そして、神の民は迫害に会うたびに豊かにされ、貧しさとひ弱さの中にさえ、栄光に満ちた神のご支配を発見することができます。それこそが創造主が赤ちゃんになった神秘です。

残念ながら現在のイスラエル国家は、神のあわれみによって建国できたにも関わらず、この神秘を理解せず、今度は軍事力ばかりに頼って国を守ろうとしているのかもしれません(他国も同じですが・・・)。

イエスはそのような中で、「心(霊)の貧しい者は幸いです」と語りながら(マタイ5:3)、神が喜ばれる信仰の基本は、自分の無力さと無知とを心の底から味わい、神にすがることにあると言われ、罪人のままの私たちを神の子として受け入れるために十字架にかかってくださいました。

そして今、いつも自己正当化に走ってしまう私たちを神の前に謙遜にし、イエスの生き方に習うことができるようにと、創造主ご自身である聖霊が与えられました。