ヨハネ8章21〜41節「真理はあなたがたを自由にする」

2015年5月17日

昔の日本のある首相は、「政治は数、数は力、力は金」と堂々と発言し、金権政治と批判されましたが、残念ながら一面の真理とついていると言わざるを得ません。議会性民主主義では議席の数が何よりも大きな意味を持ちます。その議席が金で買えるというのは、あまりにも国民をバカにした発言ですが、数は力というのは現実です。そのような中で人は、知らないうちに、お金や権力の奴隷になってしまいます。

「金銭愛こそあらゆる悪の根です」(Ⅰテモテ6:10)、「金銭愛から自由に生きなさい」(ヘブル13:5)と聖書には記されています。それはお金から無縁に生きることの勧めではなく、お金を神からの預かり物として丁寧に管理し、神の国のために用いながら、生きる目的が金銭愛から自由になることです。

イエスは、「真理はあなたがたを自由にする」と言われました。その自由とは、この世における様々な権力、お金の支配からの自由をも意味します。真理のために戦ったはずの人々が、お金や権力の魔力に酔いしれて、人を人とも思わなくなってしまった歴史を忘れてはなりません。

1.「信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」

イエスはパリサイ人に向かって、「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません」(8:21)と不思議なことを言われました。7章33,34節にも同じような表現がありましたが、ここで何よりも驚きなのは、「あなたがたは・・、自分の罪の中で死にます」(21節)と言われたことです。それは、イエスに従う者が、「いのちの光を持つ」(8:12)と言われたことと対照的です。

パリサイ人たちは当時の模範的な市民で、礼儀正しく、約束を守り、よく働きました。彼らこそ、光の中を歩んでいると見られました。しかし、イエスに敵対する彼らこそ、闇の中を歩んでいたのです。

イエスはかつて、ご自分を「夜」になって訪ねてきたパリサイ人のニコデモに向かって、「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」(3:19-21)と言われました。

彼らは表面的には光のうちにいるように見えましたが、それは単に自分の罪深さを隠しているだけの見せかけの場合が多くありました。

それに続いて、主は、「しかし、真理を行なう者は、光の方に来る」(3:21)と言われました。その後の展開を見ると、それにすぐに応じたのは、ニコデモではなく、何と当時ユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤ人の中でも、最も惨めだった思われるひとりの女でした。

ニコデモは人目を避けて夜イエスを訪ねましたが、サマリヤの女は、真昼に自分の夜の生活があらわにされながら、イエスを救い主と信じ、自分のみずがめを置いて町に戻り、多くの人々に真の光である方を指し示しました。最も暗い闇の中にいたような人が、もっとも光に近かったのです。

先週の姦淫の現場で捕らえられた女の場合もそうです。死刑にふさわしい者が、イエスによって、新しく、光のうちに、いのちの歩みを始めることが許されました。自分の行ないの悪さを恥じ、教会の交わりをまぶしく感じるような人がいるなら、そのような人をこそ、イエスはあわれんでいてくださいます。

本当の闇の中を歩んでいる人、罪の中で死んで行く人々は、パリサイ人のように、自分のうちにある闇を自覚していない人なのです

イエスのことばに対して、ユダヤ人たちは、「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか」(8:22)などと、嘲るようなことを言います。彼らはイエスをうわべだけで判断して、イエスのことばに真剣に耳を傾けようとはしていません。

「それでイエスは彼らに」、「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と言われました(23、24節)。

「わたしのことを信じなければ」(24節)とは、新改訳の注にもあるように、「『わたしはある(エゴー・エイミー)』と信じなければ」と記されています。それは、「わたしは世の光です」と宣言するイエスが、神から遣わされた「ひとり子の神」(1:18)であられるということを信じなければという意味だと思われます。

なお、それを信じない人が「自分の罪の中で死ぬ」というのは非常に厳しい宣言で、乱暴にも聞こえますが、聖書に一貫しているメッセージです。たとえばイザヤ書の最後でも、不信者へのさばきが、「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる」と記されていました。

また、新約でもローマ人への手紙、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」(3:22,23)と、イエスの贖いを信じない者へのさばきが示唆されていました。それは、たとえば、嵐の中で、神がせっかく出してくださった救命ボートを拒絶して、溺れ死ぬことに似ています。

一方、イエスに信頼し従う者は、もはや「下から」来た「この世の者」ではなく、イエスと同じように「上から」来た「この世の者ではない」者なのです(23節、1:13,3:7)。そして、イエスを遣わした方が、イエスとともにおられたように、イエスは、いつも、あなたとともにいてくださいます。

私は長い間、「悔い改めも信仰も足りない僕は、神の愛から遠い」と、落ちこぼれ意識を味わっていました。しかし、ある時、「神は・・世を愛された」(3:16)ということばが心の奥底に迫りました。

神は、罪に満ちた世を、臆病なニコデモ、愛情嗜癖(ラヴ・アディクション)のサマリヤ女、38年の人生を無駄にした男、姦淫の女を、一方的に愛され、自由にしてくださったのです。すべてが神の主導権です。それが分かったとき、「自由」を味わいました。

2.「人の子を上げてしまうと・・・知るようになります」

そこで、パリサイ人を初めとするユダヤ人たちは、イエスのことばを信じることができずに、イエスに、「あなたはだれですか」(25節)と尋ねます。それに対しイエスは、「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです」(25.26節)と言われました。

彼らは神の救いのご計画に関しての先入観が強すぎて、イエスの話しを謙虚に聴くことができませんでした。当時の宗教指導者たちにとっての共通の目標は、ダビデ王国の再興という意味での「神の国」の実現でした。ただ、そのためにゲリラ活動のような武力闘争に訴えるのか、それとも、安息日律法を中心とした神の御教えを誠実に守ることによって神のあわれみにすがるのかという点で論争を続けていました。

それに対して、イエスは神がご自身を遣わすことによって、今、ローマ帝国の支配のただ中に「神の国」を実現しつつあると語っておられたのですが、「彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった」(27節)というのです。

当時の宗教指導者がイエスの働きをどれだけ誤解していたかということはヨハネ11章48節に記されています。彼らはイエスのことに関して、「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」と恐れていました。

当時の人々にとっての救い主とは、ローマ皇帝に代わってイスラエルを治める王でした。イエスはご自分を救い主であると示していましたから、彼らの色分けからしたら、イエスの運動はローマ帝国との衝突を引き起こすものと判断されるのも無理はありませんでした。

当時のユダヤ人は神の国を実現する手段としてすぐに武力に訴えるのか、それとも皇帝に屈服するように見せかけて神の時を待つのかで、議論が沸騰していました。

それに対し、イエスは、戦うわけでも屈服するわけでもない、この世の政治を超えた生き方を主張されました。それは、今ここに既にご自身を通して現れている神のご支配に信頼して、互いに仕え合う生き方を全うするという道でした。

しかし、それは当時の宗教指導者にまったく理解できないことでした。彼らの目があまりにも地上的な統治機構としての「神の国」に向かいすぎていたからです。しかし、それはモーセの律法や預言書に現れた神のご支配ではなく、誰が権力者となるのかという論争に過ぎませんでした。

政治論争は、しばしば、相手の政策理念の背後に歪んだ動機や、現実への無知があると、徹底的にやり込めようとします。そのうちに、相手の立場になって考えるという神の御教えの根本すら忘れてしまいます。

イエスは「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります」と言われたのは、そのように相手を非難し合ってばかりで、神の御教えを、自分を正当化するために用いるような姿勢があったからです。

イエスは先に、「もし、あなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(24節)と言われたのは、永遠のさばきとともに、目の前の政治情勢の結末を示したことばでした。当時のユダヤでは、ローマ帝国へ対応を巡っての政治対立が激しくなりました。そのような中で常に力を持つのは過激な武闘派であり、その中でも最も残酷な人々が権力を握り、ローマ皇帝自らの軍隊を招き寄せて、この時から約40年後の紀元70年にエルサレム神殿は廃墟とされます。

イエスを救い主と信じなかったユダヤ人たちはこの闘争に巻き込まれて、まさに「罪の中で死んで」ゆきました。私たちも今の日本で政治対立の中で互いへの尊敬を忘れるなら、同じような破滅が待っています。

一方、引き続きイエスは、「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです」(28,29節)と言われました。

ここで、「あなたがたが人の子を上げる」と言われたのは、ユダヤ人たちがイエスを十字架に架けることを意味し、また、「わたしをひとり残すことはありません」とは、ご自身の死からのよみがえりのことを指しています。

ただ、それはまだイエスの弟子たちにさえ理解できなかったことばでしょう。しかし、イエスがこのように語っておられたことは、イエスの十字架と復活を通して、すべてが神のご計画通りであったことが分かるのです。イザヤの預言のように、語られたときは理解されなくても、時が来たら理解されるようになる、イエスのことばもそのようなものでした。

先のユダヤ人の最高議会での議論の中で、大祭司のカヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとっては得策だということも、考えに入れてない」(11:50)と言いました。それは、イエスを独立運動の指導者、ローマ帝国への反逆者として、十字架に架けることで、独立運動の気勢を削ぎ、またローマ帝国の軍事介入を避けることができると期待したということです。

しかし、そのような小手先の対応で、民衆の心は変わることがありませんでした。「イエスを十字架に架けろ」とののしった民衆の怒りのエネルギーは独立運動へと向かって行くばかりでした。しかし、一方で、イエスの十字架の場面を見た人は、イエスがローマ帝国への反逆者ではないことは一目瞭然に分かりました。そこで、イエスを救い主と信じるに至らなかった人さえも、イエスはユダヤ人の宗教指導者のスケープゴートとされたということだけは分かりました。

しかし、イエスの十字架には、まさに当時の人々の自己保身の身代わりに死ぬという面もあり、人々はそれを理解したので、「わたしが何であるかを知るようになる」というのは、まさにその通りに実現したのです。イエスを信じようとしなかった人でさえ、「イエスが国民のために死のうとしておられた」(11:51)ということは理解できたはずです。

3.「真理はあなたがたを自由にします」

ただ、それにしても、「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」(30節)と記されています。そこにいた人々がどれだけイエスのことばを理解できたかは分かりません。

しかし、彼らは少なくとも、イエスが、天の父なる神から「教えられたとおりに…話している」ということを「信じた」という意味です。

ところがイエスは、それを喜ぶのでもなく、「その信じたユダヤ人」たちに向かって、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」(31節)と、彼らは「まだ本物ではない」という趣旨のことを言われました。

「イエスの弟子となる」とは、一時の決心ではなく、「イエスのことばの中に置かれる」ことを意味するからです。私たちは確かに、イエスのことばによって、不思議な平安を味わったという体験があることでしょう。しかし、イエスのことばが私たちの血となり肉となるような真の弟子を目指すべきでしょう。

その結果、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ということが起きるというのです。なお、これは未来形の表現ですから、ここには、彼らがまだ真理を知らず、自由でもないという意味が含まれています

しかし、彼らは「神の友」アブラハムの子孫であることを誇りにしていましたから、「私たちは・・決してだれの奴隷になったこともありません」(33節)と反発しました。彼らは、ローマ帝国の支配を倒し、民族の誇りを回復させてくれる「救い主」を求めていたのに、その方から奴隷呼ばわりされたと感じました。彼らは何よりも、「あなたがたは自由になる」というイエスのことばに反発したのです。

当時のユダヤ人の問題は、そのような「強がり」にありました。現実には、彼らはローマ帝国の支配下にあり、半分奴隷状態でした。それにも関わらず自分を「すでに自由である」と呼ぶとは、現実を無視して、自分を神の立場に置くことです。

しかし、信仰とは、「私は神のあわれみなしには、ローマ帝国の脅しに屈せざるを得ないひ弱な者です」と告白して、神にすがり続けることです。目の前の現実の矛盾の中で、うめきながら、神ご自身による、人知を超えた救いを待ち望むことです。

イエスが真っ向から非難した罪人とは、遊女や取税人ではなく、自分の正義を主張していたパリサイ人でした。彼らは、たとえば、姦淫の現場で捕らえられた女を、イエスを告発する道具として利用し、彼女の人格を否定していました。そのように人を人とも思わないような姿勢が、ユダヤ人同士のいがみ合いと、同士討ちと、ローマ帝国との戦争を引き起こし、国を滅亡させたのです。

ですから、イエスは続けて、真っ向からそのことばを使って、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」と言われました(34節)。これは、もちろん、私たちが自分の肉の欲求の奴隷状態にあるということを指摘するものではありますが、ここではそれ以上に、自分の惨めさを認めずに、自分を神のようにするパリサイ人的な生き方の問題を指しているとも言えましょう。

彼らはそのように自分たちの正義を主張する生き方によって、国に争いを引き起こし、ローマ帝国の介入を招き、まさに「自分の罪の中で死ぬ」という状態にありました。自分の罪を認められないことこそ、アダムの子孫の根本的問題なのです。

ところで、イエスは、「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(35、36節)と言いました。ここで、「真理は・・自由にする」とのことばが、「子が・・自由にする」と言い変えられています。ですから、この「真理」とは、宇宙の法則、宗教的な洞察、何らかの知識等ではなく、イエスとそのみことばを意味します。

たとえば、地球の誕生とか、人生には苦しみと死が避け難いなどという「真理」を知っても、罪の支配から自由になることはできません。しかし、たとえば、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)と、心の底から味わったなら「自由」を体験できます。なぜなら、罪人のままの自分への愛を体験することから、神への愛が生まれるからです。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして・・・主(ヤハウェ)を愛し」ている人こそが、罪から自由にされています(申命記6:5)。一方、人は、責められる思いを味わうほど、神を愛せなくなります。

自由とは、このままの自分が愛されていることを確信し、大胆に神を愛して行けることです。ただ、ここのユダヤ人たち同様、イエスを信じたはずなのに自由を味わえないばかりか、信仰がかえって束縛になっている場合さえあります。

たとえば、「あなたはそれでもクリスチャン?」と言われるのを恐れ、「私のような生ぬるい信仰では駄目なんだ・・・」と、自分を卑下する人もいます。そして、自分で自分の信仰を励まそうとして心のバランスを崩すこともあります。

イエスの勧めは、「もっと信心に励んで真理を会得しなさい」ではなく、「わたしのことばにとどまりなさい」でした。「自由」はその必然的な結果であり、イエスご自身から生まれるものなのです。

イエスに信頼する者は、このままで神の子供とされ、「永遠のいのち」、つまり、来たるべき「新しい天と新しい地」のいのちに既に入れられています。この私たちの「いのち」をだれも奪うことはできません。

ローマ帝国による剣の脅しは、キリストに従う者には無力になりました。それどころか、殉教者の血を見た者たちは、脅しに屈する代わりに、死を超えたいのちの喜びを発見し、次から次へとキリスト信仰へと導かれました。迫害が益にされました。

まさに、イエスの十字架と復活を信じる者は、罪と死の支配から解放され、自由にされたのです。

イエスは、続けて、「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです」(37,38節)と言われました。

「わたしの父」とは父なる神のことですが、「あなたがたの父」とは、罪に満ちた肉の父を指しています。それで彼らは、「私たちの父はアブラハムです」(39節)と答えました。

それに対し、イエスは彼らに、「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」と言います。イエスが天の父なる神の話しをしているときに、彼らは、自分たちが血筋によってアブラハムの子孫であることを誇っていました。

そしてさらにイエスは、「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています」と言われました。

これはアブラハムの信仰が彼らの父を通しては伝わっていないことを明らかにすることによって血筋は何の意味もないと言ったのです。大切なのは、神の御霊に生かされることです。

政治対立では、徹底的に自分の正義を主張する一方で、相手の主張をこき下ろします。ですから、あることが政治問題化したとたん、落ち着いた判断ができなくなります。この世に完全はあり得ないのに、危険を減らすという議論をしたとたん、「おまえはどっちの味方なのか」などと言われたりします。そして、多くの国民がそのどちらかの極端な意見に影響されて行きます。

しかし、自分の正義を徹底的に主張することこそ、あらゆる争いの原点です。政治は本当に大切ですが、政治には恐ろしい魔力があります。それは、自分を神とする運動になり得ます。だからこそ、崇高な理念を掲げて権力を握った人々の多くが、権力の虜になってしまうのです。

イエスはそれに対し、この世の権力機構を、ご自分が自ら十字架にかかることで覆されました。ローマ帝国への反逆罪で十字架にかけられたイエスが、その約三百年後に、ローマ帝国全域で神としてあがめられるようになったのです。

福音はこの世的な正義の主張によってではなく、互いに仕え合う愛によって広がりました。「真理はあなたがたを自由にします」が、その真理とは、「あれか、これか」のこの世の政策や智恵を超えたところにあります。イエスの「弟子」になることによって、今ここに、「神の国」を広げて行く「自由」をともに喜びましょう。