多くの人々の心の中には、光によって自分の闇があぶり出されるのを恐れる思いがあるかもしれません。また人は、自分の罪を知りながら、それが人々の目にさらされるのを恐れ、ときに、それがあらわにされると必死に自己弁護をはかろうとします。イエスはそのような闇を抱えた人にどのように接してくださったでしょう。
1.「この女は、姦淫の現場でつかまえられた・・・」
7章53節~8章11節は、新改訳の注にもあるように、本来ここに属していたかは疑問です。この話は最も古い写本にはなく、ときにはこの福音書の最後に付録として掲載されていたり、またルカの福音書に入っている場合もあったからです。これが、文体や内容からしても、ルカの一部と見る人もいます。
ただ、多くの人々はこれを、実際にあって、弟子たちの間で語り継がれたこと認めています。イエス以外にこのような見事な応答はできないと思われるからです。また、この箇所に挿入されていることの中に神の不思議な摂理も感じられます。
まずこれが起きた状況が、「そして人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた」と描かれます。
そこに「律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから」、イエスに向かい「先生」と呼びかけつつ、「この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」(5節)と尋ねました。
そしてさらに、「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった」(6節)と記されているように、これは巧妙な罠でした。もしイエスがモーセに反することを言ったなら、彼を偽預言者として告発できました。
一方、イエスが、彼らの言うモーセの命令に同意した場合、死刑判決の裁判権を占有するローマ帝国への反逆者として訴えることができるばかりか、彼の評判は失墜します。実際のところ、姦淫を犯した者を石打ちにするという刑は、ほとんど執行されていなかったからです。
あなたなら、どう答えるでしょう?ただそれを考える前に当時の事情をもっと調べる必要があります。モーセの律法では、人を裁く場合、異なった立場にある複数の目撃者の証言が求められますが、姦淫の立証は極めて困難です。
ところが、この女は、「現場でつかまえられた」というのです。しかも、男も女も同じく裁かれる(レビ20:10、申命22:22)はずなのに、男はいません。申命記22章22-24節には以下のように記されています。
「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。
ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。
彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい」
モーセの律法では、何よりも男性の側の罪から指摘されて、女性の場合は、助けを求めて叫ばなかったこと自体が、男性と同意の上と見られて、ふたりとも石打ちにして殺すことが命じられていました。
ですから、これは、ひとりの女が罠にはめられたと解釈できます。当時は、男が複数の女を妻とすることは許容された一方、女の場合は、夫以外の人と性的交わりを持つなら、必ず姦淫になりました。
この女には夫があり、彼は妻と関係を持った男を取り逃がして平気でいたという不健全な構図があります。彼女と関係を持った男は、彼女を追い出したいと思っている夫の差し金だとさえ考えられるかもしれません。
とにかく、彼女を引っ張ってきたユダヤ人の指導者は、イエスを告発することばかりを考えており、この女の人生には何の関心もなかったことが明らかです。聖書に精通しているはずの人が、人のいのちにこれほど無感覚になれることに驚くばかりです。
もしあなたがイエスの立場だったらどうでしょう。彼らの質問にどう答えるかに夢中になり、同じように、この女性の心の声を聞けなくなってはいませんか。そのとき、あなたの心の目はどこに向かっているでしょう。
2.「しかし、イエスは身をかがめて・・・」
彼らの問いかけに対する対応が、「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた」(8:6)と描かれます。古来、何が書かれたのかについて様々な見解がありますが、それで見落としてしまう情景がないでしょうか。私たちが興味をひかれるのと同じように、ここにいたすべての人の目は、突然、地面に置かれたイエスの指先に向かったのは間違いありません。
真ん中に立たされたこの女は、恐怖と同時に、恥ずかしさでいっぱいでした。彼女は人々の好奇と軽蔑の眼差しから逃れたかったに違いありません。イエスから見つめられることは、なお辛かったことでしょう。
イエスは、彼女の気持ちに、無言で寄り添ってくださったのではないでしょうか。
それと同時に、イエスの行動は、彼女をひっぱってきた人々を恐れさせます。イエスは、そのみわざと教えによって人々の注目を集めていました。そんな人が不可解な行動を取ると、攻撃者は、「何かあるのでは・・・」と恐れにとらわれます。
律法は、偽証罪に対しては特に厳しい裁きを命じていました。人を死刑に陥れるような偽証が明らかになれば、証人自身が死刑になりました。何よりもそこでは「悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」(出エジプト23:1)と、その動機も問われました。イエスはこのみことばを書いておられたという説もあります。
どちらにしても、律法学者やパリサイ人は律法に精通していましたから、イエスが地面に書いて何かを示唆するだけで、その意図に気づき、恐れが湧き起こったでしょう。
それで彼らは、早くイエスの応答を引き出そうと必死に同じ質問を繰り返しました。そのことが、「けれども、彼らが問い続けてやめなかった」と記されます。
その上でイエスは頃合いを見計らって、「身を起こして」、意外にも、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7節)と答えます。見事なことに、これは、モーセの律法と全く矛盾しません。
それと同時に、彼女を訴えたひとりひとりを神のさばきの前に立たせました。最初に石を投げる人は、「私には罪がない!」と言い切る覚悟が必要です。しかも、当時は、年長者が主導権を取らなければなりません。
彼らは身の危険を感じました。そして、今や、告発者自身が自分の心のやましさと向き合わされました。
しかも、ここにもイエスの優しさが見られます。ここでは引き続き、「そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた」(8:8)と記されます。そうすることで、訴えたひとりひとりが、イエスや民衆の鋭い視線をあびずにすみました。
そして、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」と記されます。
イエスは、どのような悪人をも、さらし者にしたりはなさいません。イエスは人々の視線をご自身のことばに向けさせることで、ひとりひとりが、ひそかに自分と向き合う空間をつくってくださいます。
愛は、待つことです。決して、人の首ねっこを捕まえて罪を認めさせるようなことはしないのです。
3.「女はそのままそこにいた・・・」
その後の情景が、「女はそのままそこにいた」(8:9)と描かれます。イエスひとりを残してユダヤ人の指導者は立ち去りましたが、驚くべきことに、女も、人々の視線から身を隠すことも忘れて、真ん中に立ち続けたのです。彼女の心の目は、このとき自分よりもイエスに向かっていました。
イエスは、このときになって再度「身を起こし、その女に」、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」(10節)と問いかけます。彼女は、このとき改めて、自分の置かれている状況の決定的な変化に気づかされます。
彼女の答えは、新改訳の注のように、「主よ」(11節)という呼びかけから始まります。これを彼女の信仰告白とは断定できませんが、尊敬と感謝の気持ちを表わしている事は確かです。
その上で彼女は、「だれもいません」 と答えます。それに対しイエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」(11節)と言われました。
本来、罪のないイエスだけが彼女に石を投げることができるはずですが、彼は神としての権威を持って赦しを宣言しました。
ただ、イエスは同時に、彼女の行為を「罪」と指摘したその上で「今からは決して罪を犯してはなりません」と警告します。それは、イエスが、彼女の行為に、決して同意はしていないということを表します。
彼女のような立場に置かれた人は、必死で自己防衛をはかります。その結果、訴えが明らかなほど、かえって自分の罪を認められなくなります。
イエスは、人々ばかりか、彼女の目をも、ご自身の指先に向けました。彼女は一息つき、人々の視線を忘れる機会が与えられました。彼女は、自分がこの絶体絶命の危機から救われたと知ったとたん、「主よ」と自然に呼びかけました。
そして、今度は素直に、自分の生き方を改める思いへと導かれたに違いありません。自分を大切にしてくれる人のことばには、誰もが耳を傾けることができるのですから。
彼女がその後、すぐに生き方を変えられたかどうかは分かりません。しかし、イエスの十字架を目撃したか、そのことを聞いたとき、「罪の赦し」にはイエスご自身の血の犠牲が必要だったということを知ったはずです。
そのとき、「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」というイエスのことばの意味の重さが迫って来たことでしょう。その時、彼女は、改めて、罪人のままの自分を尊重して下さる神の愛を知り、それに応答して生きようとの力が与えられたことでしょう。
あなたも、「お前なんか愛するに価しない」という声を聞くことがありませんか?それはサタンの声です。その時、イエスは私たちの目をご自身の十字架に向けさせて下さいます。
4.「わたしは、世の光です」
8章12節以降は、7章52節に続く会話ではないかと思われます。まず、「イエスはまた彼らに語って」、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(8:12)と言われます。
議員やパリサイ人は、イエスのことを聞きながら、「ガリラヤから預言者は起こらない」(7:52)と拒絶しました。それなのに、イエスは彼らに向かって大胆にも、「わたしはある」(エゴー・エイミー)と、神の名を表す表現で、「わたしは、世(ガリラヤ、ユダヤばかりか世界全体)の光である」(8:12)と宣言されたのです。
しかも、これは、当時のエルサレムの人々が誇りに思っている、仮庵の祭りでの夜通しのともし火を見た後でのことばだと思われます。神殿の庭には七つのともし火皿を持つ高さ20数mにも及ぶ枝形燭台四基が据えられ、その明かりはエルサレム市内全体を照らしたと言われます。それは、エジプトから逃れたイスラエルの民を、四十年間に渡って神ご自身が、昼は雲の柱、夜は火の柱として、守り導かれた記念です。
神は、荒野の厳しい旅を天からのパン等で養い、約束の地に連れ上りました。今やイエスご自身がイスラエルの民ばかりか、世界全体を真の安息に導く「火の柱」であるというのです。
しかも、イエスは続けて、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言われました。これは、さらに大胆な宣言です。イエスを自分の人生の主と告白し、その御跡に従い続ける者は、どのようなときにも、闇の中を歩むことがないというのですから。
しかも、私たちの道を照らす光は、肝心な所に影を作る固定式ではなく、ともに移動するのです。それは、また、「いのちの光」として、私たちにいつでもどこでも、生きた神との豊かな交わりを与えるものです。
イエスは、祭りの感動覚めやらぬ人々の前に立って、このようなことを言いました。当時の宗教指導者からしたら、とんでもない大法螺としか思えなくても当然です。私たちが受け入れるように召されているのは、それほど人の常識を超えた、大胆な宣言なのです。
彼らの前に立ったのは、ヨハネがこの書の初めで、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった・・・すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(1:4,5,9)と述べられているその人だったのです。
もちろん私たちには、「一寸先は闇」と思えるような現実がどこにもあります。しかし、イエスに信頼し、その御跡に従うなら、例外なく、闇と思えたその所に、いのちの光を認めることができるようになるのです。
5.「わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っている」
そこでパリサイ人はイエスに、「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません」と言いました(8:13)。しかし、イエスは、「このわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です」(14節)と言われます。それは、「わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているから」だというのです。
イエスが、「わたしは、世の光です」と言われた時、イザヤ49章5、6節を思い巡らしていたことでしょう。そこでは主(ヤハウェ)のことが、「この方は、私を胎内にいる時にご自分のしもべとして造られ・・・私の神は私の力となられた」と記されながら、その方が、「わたしはあなたを諸国の光とし、地の果てまでのわたしの救いとしよう」と言われたと記されていました。
イエスは天の父なる神から遣わされ、「諸国の光」としての使命を全うし、御父のもとに戻られることを知っておられました。しかし、パイサイ人たちはイエスを「ガリラヤ生まれの大工の息子が・・・」などと「肉によってさばき」(15節)ました。
それに対し、イエスは、「しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます」(8:14-18)と途方もないことを言われます。
イエスは彼らが肉に従ってさばいていると言われたのは、彼らがイエスをさばくときのさばき方が、かつてニコデモが7章51節で指摘しているように公平さを欠いていたからです。
申命記19章15-19に、「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。
もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主(ヤハウエ)の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。
さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし・・悪を除き去りなさい」と記されていました。
ここでは、何よりも裁判の慎重さと公平性が命じられていました。彼らは自分たちの正義に酔っていましたが、イエスの告発者であるならば、それを第三者的な立場で立証する人が必要なはずなのに、ここにはいません。ですから主はここで、ご自身を訴えている者たち自身が、不当な裁判をする者として、被告席に立たされると言われたのです。
その際、反対に、イエスご自身と彼を遣わした方が「ふたりの証人」として、彼らを「さばく」という逆転が起きます。しかも、イエスは今、ご自分の立場は、彼を「世の光」として遣わされた父なる神ご自身が保証しておられるので、さばきの対象にはなり得ないと言われたのです。
自分たちの正義を必死に主張したパリサイ人は、不正な手続きを責められ、イエスは万物の創造主の御手の中で、余裕をもってここに立っています。
それに対し彼らはイエスに、「あなたの父はどこにいるのですか」と尋ねます(8:19)。イエスは平然と、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」(8:19)と言われます。
主は彼らが根本的なことを知っていないと指摘しました。それは、彼らが、神の「愛」という基本を知らなかったからです。愛とは交わりです。イエスは父なる神との関係の中でご自分を見ておられました。
人は皆、ひ弱な傷つきやすい存在だからこそ、「私はいったい何者なのだろうか」と問い続けます。その答えは、たとえば、私は、妻がいて初めて夫と呼ばれ、娘がいて初めて父と呼ばれ、信徒がいて初めて牧師と呼ばれるように、それは他の人との関りでしか与えられません。
それをまず感謝して受け止めればよいのですが、私たちはそれで満足できずに、人と自分を比較しながら自分の価値をはかろうとし、必死に人から受け入れられることを、また自分の居場所を求めます。それが「もっと私が賢ければ、もっと強ければ、もっと良い人であったら・・・」という駆り立てる思いを、また、「私はあの人よりはましだ・・」という思いを作るのです。
ところが、イエスは、ご自身のアイデンティティーを、「わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます」(18節)と言われたように、常に、天の父との関係でとらえました。イエスはいつも、ご自分のことを父なる神の目から見ておられ、「あなたを呼び、その手を握り・・・国々の光とする」(イザヤ42:6)と言われる父なる神の愛の語りかけを聞いておられました。
イエスのことを知らなかったパリサイ人は、同時に、自分を知っていませんでした。それで、彼らはいつも、人の評価を気にしました。それは現代の多くの人々の現実でもあります。
ところが、貧しい大工の家に生まれ、十字架上にかけられたこの世の失敗者を、天の神から遣わされ、引き上げられた方であると信じる者は、同時に自分を知ることができます。ひ弱で惨めなままのこの私が、「神によって生まれ」(1:13)、御父のもとに行くこと(14:1-6)を知り、また、イエスの大使としてこの地に遣わされていること(20:21)を知って平安に満たされるのです。
多くの人は、人と比較しながら、自分の出生や能力を心の底で恥じています。しかし、真のアイデンティティーを与える神のまなざしに立ち返るなら、自分を受け入れ喜ぶことができます。それこそが、私たちにとって、「やみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」という意味ではないでしょうか。
イエスに従う者は、自分がどこから来てどこに行くかが分かります。そして、自分もこのままで、「世界の光」とされているということが分かります。それは自分の使命を理解し、自分が生かされていることを知る、大きな喜びです。
最後に「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」(8:20)と記され、イエスご自身が神のときを生きておられることが記されます。
パリサイ人たちは、イエスを信じる人々が多い中では、イエスに手を出すことができませんでした。彼らは群衆の視線を恐れていました。彼らはイエスを罠にかけることに夢中だったのです。
詩篇36篇9節には、「私たちは、あなたの光のうちに光を見る」と記されています。それは、光の中で罪を示されながら、同時に、癒しの光を見ることです。イエスの光は、告発する代わりに癒します。隠したいような惨めな自分をも受け入れさせ、いつでもどこでも、愛の光で包み、生きがいを与えてくれます。
しかし、イエスに敵対したパリサイ人たちは対話を通して、その偽善、邪悪さがあぶりだされました。イエスご自身がさばこうとしなくても、彼らがイエスをさばこうとするそのプロセスを通して彼らの現実が顕にされたのです。
私たちに求められているのは、自分を正当化することなく、自分の罪を認め、それを赦してくださるイエスの前にへりくだることです。