ある人が、「マザー・テレサ、あなたはものを無償で与えて、貧しい人を甘やかしています」と批判したところ、彼女は「お金持ちを甘やかしている修道会はたくさんあります。貧しい人々を甘やかす修道会がひとつぐらいあっても良いでしょう」と答えました。確かに、この世の道徳は、貧しい者に厳しく、富む者に甘くなりがちです。
また、日本では、信仰の潔癖さよりは、柔軟さが評価されがちですが、マザーは「命なら差し上げられます。でも信仰は捨てられない」と断固と言いました。
彼女は驚くほど優しい方で、この地の暗やみの中に住む人々に寄り沿う「イエスの光」になろうとしていました。しかし、反面、彼女はその信仰の姿勢においては驚くほど純粋で、人間的な妥協を排し、一心に神を見上げていました。この優しさと厳しさ、それこそ「神のかたち」としての生き方です。
今回の箇所は、なかなか分かりにくい部分ですが、現代の私たちにとっても本当に多くの示唆があり、イスラム教への影響を初め、歴史的にも興味が惹かれます。また、ここには聖餐式の原点となる記事も記されています。
1.愛の共同体を通してご自身を現そうとされた神
イスラエルの民は「十のことば」を主から直接聞くとともに、シナイ山の様子を見て、たじろぎ、遠く離れて立ちます(20:18)。そして、モーセが山に登って行くことが、「神のおられる暗やみに近づいて行った」(20:21)と記されます。後にイザヤは、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」(イザヤ45:15)と告白しましたが、私たちが「神に近づく」とは、「暗やみに近づく」こと、また「ご自身を隠す神」に近づくことでもあるということを忘れてはなりません。
「主(ヤハウェ)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)とあるように、主は私たちの祈りにいつも耳を傾けていてくださいますが、神に近づくにつれて神を遠く感じるという側面があることも忘れてはなりません。
マザー・テレサが貧しい人々のただ中に住んで働きを始めたときは、いつも微笑みながら、神との親密な交わりを体験できていました。しかし、働きが順調になるにつれ、神に見捨てられているような孤独感、空虚感を感じました。
彼女は深く悩みましたが、やがてそれこそ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架で叫ばれたイエスの孤独に近づいていることであると理解しました。神が彼女の中に確かに働いているからこそ、何によっても満たされない神への渇きを感じたのだと示されたのです。
これはしばしば「たましいの暗夜」と呼ばれます。もしあなたが、たとえば、「私は、かつては信仰の喜びに満たされていたのに、今は、神を遠く感じるばかり」と思いながら、それでもなお、神との交わりを求めているとしたら、あなたは健全な成長のプロセスにいます。なぜなら、それこそ、「神のおられる暗やみに近づいている」ことの証しだからです。
そして、主はモーセを通して、「あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た」(20:22)と言われました。暗やみの中におられる神は、ご自身のみことばを通して私たちに現れてくださいます。
ですから、「想像の翼を広げて神を思い巡らす」ことは危険です。あくまでも自分の知性や感覚で神を理解することはできないということをわきまえて、神からの啓示に心を開くことが信仰の始まりです。
そして、「十のことば」に続く第一の教えは、「わたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない」(20:23)というものでした。これこそ神が最も忌み嫌われる罪です。
偶像を造ることは、ご自身を隠される神を、自分たちの勝手なイメージで表わそうとすることです。しかし、イスラエルこそ、その神を、目に見えるように表す「祭司の王国、聖なる国民」(19:6)でした。「ご自身を隠す神」が、イスラエルを通してご自身を現そうとするとは、何という驚きでしょう。彼らが、律法を守り、愛に満ちた共同体となることで、世界は神を知ることができるはずだったのです。
「あなたが彼らの前に立てる定めは次ぎのとおりである」(21:1)以降は、イスラエルの民が約束の地で、神の民として整えられるための一時的な規定で、新約の時代には適用されませんが、その基本原則は、三千数百年後の私たちにとっても、極めて示唆に富んだものです。
まずヘブル人は同胞を奴隷にすることは禁じられていましたが(レビ25:35-46)、その前提のもとで「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合」のことが記されます(21:2)。これは明らかにヘブル人の奴隷を外国人から買い取ることを意味し、その場合は、「七年目には自由の身として無償で去る」ことができると記されているのです。これは奴隷を買い取る人の財産権に配慮しながらも、奴隷にまで身を落とした同胞を助け出す道を示したものです。
5,6節では、奴隷に自分の家族を守る権利が保障されています。とにかく、人と人との関係に関する律法の第一が、奴隷の解放やその家族の保護に当てられているのは画期的です。
なお、「人が自分の娘を女奴隷として売るような場合」(21:7)とは、文脈から明らかなように、貧しい人々が自分の娘をどこかの裕福な貴族の「大奥」に入れるようなことを意味しています。
これは豊かな人にとっては一夫多妻が当然であったような中での規定ですが、そこでは女奴隷の最低限の立場が保障されるとともに、「他の女をめとるなら、先の女への食べ物、着物、夫婦の務めを減らしてはならない」(21:10)と何人もの妻たちを平等に扱うように命じられます。
これは、一夫多妻の許容というより、男の身勝手を抑え、社会的弱者である女性を守る規定です。
21章12-14節では殺人罪に対する死刑の規定が記されますが、そこでは殺意のない殺人者には、「のがれる場所」が指定されているほど、加害者の人権への配慮さえ記されていました。
一方で、「自分の父または母を打つ者」ばかりか「のろう者」(21:15,17)までも、「必ず殺されなければならない」と繰り返されています。父母を敬うことは、神を恐れることと切り離せません。目に見える権威を軽んじる者は、目に見えない権威をも軽んじるからです。
18,19節では人に傷を負わせた場合にどのように弁償すればよいかの現実的な賠償規定が記されています。20、21節では「奴隷は彼の財産」という経済論理を認めながらも、死ぬまで罰するならば「復讐」という死刑が主人に課せられると記され、奴隷に対する処罰に制限が設けられています。
22-25節では、有名な「目には目。歯には歯」が記されていますが、これは復讐を正当化する教えではなく、裁判での賠償規定です。なお文脈からすれば、「人が争っていて」、みごもった女を流産させながら「殺傷事故がない場合」の「罰金」の「裁定」の仕方を述べた後、それと反対に、「殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない」と記され、「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、打ち傷には打ち傷」という完全数七つの基準が記されます。
これは文字通りに施行するというよりは、加害者に被害者と同じ痛みを体験させることによって、「神のかたち」に創造された者の尊厳を守ろうという神の知恵です。最近のネット世代の傷害事件を見ると、この基本精神は時代遅れの野蛮ではないことが分かります。
しかも、ここでは身分の差や、その人の社会的影響力などは関係なく同じ罰が与えられるのですから、権力者の横暴に歯止めがかかります。文脈からすれば、これは本来、人と人との争いを傷害事件に発展させないための歯止めの教えでした。
イエスは、「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています」とこの規定を引用しながら、「しかし、悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい・・一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」(マタイ5:38-41)と言われました。これは真逆の勧めのようで、実際は、原点の精神に立ち返らせる解釈でした。
そのことの現れが、「自分の・・奴隷の歯一本を打ち落としたなら、その歯の代償として、その奴隷を自由の身にしなければならない」(21:27)という当時としては奇想天外な、奴隷の人格権を保証する教えです。ここには、奴隷制を実質的に対等の雇用関係に変える力があります。
小生は30年近く前の伝道実習の際に自転車で転倒して前歯を折ってしまい、今になって、また非常に困っているので、律法の記述の暖かさが身に沁みて来ます。
21章28節から22章17節には当時の社会で起こり得た様々な事故や争いへの対処の指針が記されています。そこに流れている原則は、「人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」(創世記9:6)という、すべての社会的弱者へのいのちの尊厳の保護です。
同時に、すべての人への平等な財産権の保護、また人の財産権を犯した者には具体的な「償い」が求められるということ、また家畜に対する注意義務、また処女の純潔に対する最大限の尊重などです。当時の権力者の横暴や独身女性の生きにくさなどを知ることなしにこれらの規定を読むと誤解が生まれがちですが、そこに流れる神の愛を読み取る必要があります。
2.「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない」
ここには、厳し過ぎるように思える規定も記されています。たとえば、「呪術を行なう女は生かしておいてはならない・・・ただ主(ヤハウェ)ひとりのほかに、ほかの神々にいけにえをささげる者は、聖絶(絶滅)しなければならない」(22:18-20)を読むと、ぞっとしますが、これは異教徒にではなく、神の民と自称する者に適用されるさばきです。
それは、イスラエルが神に選ばれ特別に愛された民であることと表裏一体です。新約でも「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」(Ⅰコリント16:22)と言われるように、霊的な浮気は、自分の足を打ち抜くような自滅行為なのです。
その民族的な誇りと責任の一方で、「在留異国人を苦しめてはならない・・・あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったから・・」(22:21)と、誤った選民思想を正す少数民族の保護が命じられています。
「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない・・わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。わたしの怒りは燃え上がり・・あなたがたの妻はやもめとなり・・子どもはみなしごとなる」(22:22-24)では、神が社会的弱者を憐れみ、権力を悪用する者に、復讐すると警告します。
さらに、「隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない」(22:26)と、貧しい同胞者には、無担保、無利息で金を貸すよう命じられます。その根拠が、「わたしは情け深いから」(22:27)と簡潔に記されます。これを心で味わってみたいものです。
「神をのろってはならない」(22:28)と並んで、「民の上に立つ者をのろってはならない」と記されているのは興味深いことです。どのような社会でも、為政者や官僚に対する不満は絶えることはありません。新約でも「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられた者です」(ローマ13:1)と記されています。
指導者の葛藤を理解しようとしない下品な批判は厳に慎むべきです。そして、様々な社会既定の最後に、「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない」(22:31)と記されています。
23章1-3節も社会正義に関する教えで、「偽りのうわさ」や権力者におもねる偽証が戒められながら、同時に、「その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない」(23:3)と、公正さが強調されています。
23章4,5節は、人間関係に悩まざるを得ない私たちにとって、嬉しくなるほど現実的な教えで、「あなたの敵の牛が・・迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」と記されています。
「やりたくなくても」とは、厳密には、「見捨てることを止めて」と記され、正直な気持ちを横に置いて助けることを意味します。そうすることで、私たちを嫌っている人の隣人となるのです。
23章6-9節には裁判や社会的正義に関する教えですが、「わたしは悪者を正しいと宣告することはしない」(7節)から、「罪人である私たちが神の前で義人とされる」という逆説の背後に見られる神の痛みが見えてきます。
それについて使徒パウロは、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)と記しています。キリストの犠牲なしに罪人の義認はあり得ません。
23章10-12節では、「七年目には、その土地を・・休ませなければならない」と命じられ、また「七日目は休まなければならない」と命じられます。それは、「民の貧しい人々に、食べさせ・・野の獣に食べさせ・・牛やろばが休み・・女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるため」でした。
この規定は、すべて、当時の社会制度や私有財産権を尊重しながら、同時に、社会的弱者を保護し、落ちぶれた人に再出発の可能性を与えるためのものです。
現代の日本が、一度でも道を踏み外した人に極めて不寛容で、強者の権利を保護する方向に働きがちなのとは大違いです。奴隷の子に「息をつかせるために」、主人が休むように命じられていることに感動を覚えます。
14-17節には年に三度の祭りを祝うことが命じられています。これは過越しの祭り、七週の祭り(初穂の祭り)、仮庵の祭り(収穫祭)で、現代の私たちにとっては、イースター、ペンテコステ、収穫感謝祭です。
「子やぎを、その母親の乳で煮てはならない」(23:19)とは、豊穣を求める具体的なまじないを真似ることの禁止ですが、同時に母親の乳は子のためにあるという秩序を守る、生き物に対するあわれみの原則も見られます。
「もし、御声に確かに聞き従う・・なら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう」(23:22)とは、真に恐れるべき方を知る時、敵や仇への恐れから解放されるという原則です。
主はアブラハムを召すときに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3)と言われたとおりです。
「あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない」(23:24)とあるのは、神がイスラエルを用いてカナンの人々とその悪習を絶滅しようと決めておられたからです。
現代の私たちには、他の神々を拝む人の風習や偶像を打ち壊すようには命じられてはいません。しかし、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とあるように、この世の偶像礼拝者の風習や価値観が、教会の中に入り込むことがないように、常に目を見張ることが命じられています。「主(ヤハウェ)に仕えなさい」(23:25)という命令こそは、すべての祝福の前提だからです。
27-31節には、主ご自身が約束の地から偶像礼拝者を追い払ってくださることが約束されていますが、「わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することがないためである」(29節)と記されています。
これは現代にも適用できます。神は私たちの前に、様々なわざわいを起こすような人を残していますが、それは彼らを一度に追い払うと、この地が無政府状態になるからです。たとえば、米英がイラクの横暴なフセイン政権を一気に打倒しましたが、その結果、自称イスラム国が生まれました。ここで神は、「わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう」と言っておられます。忍耐が何よりも大切です。
23章32,33節では「彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない・・・あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないから」と、偶像礼拝の文化に同化しないことが命じられます。それは彼らが、主の「聖なる民」となるためでした。しかし、実際は、彼らは約束の地に入った途端、カナンの偶像礼拝の文化にのみ込まれ、さばきを受けます。
3.神の民とされるための「契約の血」
24章には、主とイスラエルの長老七十人との契約の様子が描かれています。「そこでモーセは来て、主(ヤハウェ)のことばと、定めをことごとく民に告げた」(24:3)とは、モーセは一度山を降りて、上述のことばを語ったということです。
このとき民は、「主(ヤハウェ)の仰せられたことは、みな行ないます」と、「みな声を一つにして」答えました。それが忘れられないように、「モーセは主(ヤハウェ)のことばをことごとく書き記し」(24:4)た上で、いけにえをささげ、その血の半分を「祭壇に注ぎかけ」ます(24:6)。これは、神の側がこの契約の書にサインをしたというしるしです。
そしてモーセはこの今書き記したばかりの契約の書(20章22節~23章)を、つまり先と同じことばを読み上げました。このときも彼らは、「主(ヤハウェ)の仰せられたことは、みな行ない、聞き従います」(24:7)と繰り返しました。
それで彼は、残りの半分の血を取って、民に注ぎかけ、「見よ・・・これは、主があなたがたと結ばれる契約の血である」(24:8)と述べました。これは、民の側から自分の命をかけて契約を守ることの保証、血判状のような重い意味があります。これによって、彼らが「祭司の王国、聖なる国民」(19:6)とされるのです。
イエスは最後の晩餐で、「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です」(マタイ26:27,28)と言われました。イスラエルは契約を守ることに失敗をして国を失いました。それで、神の御子が、神と人との契約の仲介者となり、不信仰で罪人のままの私たちを、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(Ⅰペテロ2:9)としてくださったのです。
その後、長老七十人がモーセともにシナイ山に上って行き、何と「イスラエルの神を仰ぎ見た」と記されます。その様子が、「御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空(天)のようであった」と描かれています。
主は「天はわたしの王座、地はわたしの足台」(イザヤ66:1)と言っておられるように、主を仰ぎ見るとは、何かの姿を見ることではありません。彼らが見たのは、主ではなく、主の足台に過ぎず、それが天(空)のようであったというのです。サファイヤは濃い青色の宝石ですが、「青空」と訳されているのはサファイヤをイメージした意訳であって、厳密には、「サファイヤを敷きつめた様子が、天そのもののように透き通っていた」と記されています。
要するに、彼らは神を見たのですが、それは透き通った空のようだったのです。ここに、神はいかなるかたちにも表現しようのない方であるということが明確にされています。
その上で、「神はイスラエルの指導者に手を下されなかったので」、彼らは生きたまま「神を見、しかも飲み食いした」(24:9-11)というのです。これは契約の成立を祝う祝宴です。これは、神が、地上にエデンの園の交わりを復興したときの姿をあらかじめ見せてくださったものです。
そして、私たちの聖餐式も、御国で顔と顔とを合わせて神を仰ぎ見て飲み食いする祝宴のリハーサルです。
今回の箇所の最初では、神の臨在が「暗やみ」で、また最後では「透き通った青空」で描かれました。一見、対照的なようでありながら、共通するのは、人が思い浮かべることのできない状態で、神からの啓示がなければ何もわからないということです。
一方、神はイスラエルに神の民としての教えを与えることによって「祭司の王国、聖なる国民」としようとされました。つまり、神はイスラエルを通してご自身を世界に現そうとされたのです。そしてそこに住みひとりひとりは、かけがえのない「神のかたち」として尊ばれるべきでした。三千年前の文化が分からないので、私たちは細々とした規定に現された神のあわれみが見えなくなりがちですが、この原点を忘れてはなりません。
ところが、これだけの固い約束を交わしたはずの民は、この四十日後には、金の子牛を作って拝むことになるのです。何と言うスキャンダルでしょう。そして、私たちも、同じ弱さを持っているのかもしれません。しかし、今、私たちは、「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と告白することが許されています。
私たちの信仰こそ、神の創造のみわざです。それは、「『光がやみの中から輝き出よ。』と言われた神ご自身が、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせて」(Ⅱコリント4:6)くださったとある通りです。
何と、神の御霊ご自身が、弱く貧しい私たちの内側に、神を愛する愛を起こしてくださっているのです。「神のかたち」として生かされる意味を考えましょう。