私たちは自分の世界でひとり平安を味わっていても、一歩外に出たとたん心が乱されます。私の予定に入りこみ、私の力を利用し、私の世界をかき回す人で満ちています。そんな人々を愛することは不可能にさえ思え、聖書を読むのが辛くなることがあるかもしれません。何が問題なのでしょう?何が足りないのでしょう?
私たちは神が与えてくださった途方もなく大きな救いをあまりにも人間的にとらえていないでしょうか。イエスを信じてから、何かの悪い習慣から解放されたという証しも良いですが、それ以上に、今、あなたの中に創造主ご自身が宿っておられ、あなたを通して世界に神の愛を伝えようとしておられるという神秘を味わっているでしょうか。あなたの中には、あなたが決して推し量ることができないほどの偉大なことが起きているのです。
1. 「それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」
イエスは「わたしを遣わした方は真実です」(28節)と言われましたが、そのことを不思議な形で証しされました。彼は神殿の庭で公然と語り出し、捕らえられても当然だったのに、「だれもイエスに手をかけた者はなかった」のです。そして、その理由が、「イエスの時が、まだ来ていなかったからである」(30節)と描かれています。
そのような中で、「群衆のうちの多くの者がイエスを信じて」、「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」と言うようになりました(31節)。
「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした」ので、「祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わし」ますが(32節)、イエスは平然と、「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」(33節)と答えました。それは、十字架まではしばらくの時があり、その後は、父なる神のもとに戻るという意味です。
続けて、主は、「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません」(34節)と言われました。これは、ご自分が天に帰った後のことを示しますが、これは同時に、目に見えるイエスの命も、ユダヤ人の手に左右されるのではなく、父なる神の御手にあるという現実を指します。神の時が来るまで、彼らはイエスを捕らえることができないからです。
それを聞いたユダヤ人たちは、互いに、「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか」と言い合います(35,36節)。
彼らはイエスがガリラヤのナザレ出身の田舎者であり、ヨセフという大工のせがれであることを「知っている」つもりでしたが、最も肝心な天の神の視点からイエスを見ることができていませんでした。イエスは天の父なる神から遣わされた方であり、この地での使命を全うした後に、再び、天の父なる神のもとに戻られる方なのです。そして、イエスを救い主であると認めないユダヤ人たちは、イエスのおられるところに来ることはできないのです。
イエスは繰り返し、「わたしを遣わした方」という表現を用いられます。そればかりかイエスはご自分のことを、「わたしは、天から下って来た、生けるパンです・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」(6:51,54)と言っておられました。
私たちは父のみもとに自分の信仰で上るのではなく、天の父なる神から遣わされたイエスご自身を私たち自身の中にお招きし、イエスご自身に私たちのうちに生きていただくことによって、最終的な復活にあずかることができるのです。それは死後に、「たましいが肉体から離れて天国に行く」というようなことではなく、私たちもイエスと同じように、栄光の復活にあずかることを意味します。
あなたの肉体を含めたすべてが、救いにあずかるのです。イエスが一方的に与えてくださった救いの途方もない偉大さ、大きさを、私たちは十分に理解することはできません。
2.「だれでも渇いているなら・・・」
7章37節は、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた」という表現から始まります。大声を上げるのは、28節に続いて二回目です。これはイエスが、仮庵の祭りに際し、「自分を世に現しなさい」(4節)という兄弟の勧めを退け、「内密に」(10節)エルサレムに上って来られたのと対照的です。
「祭りの終わりの大いなる日」(37節)とは七日間の「仮庵の祭り」(2節)を締めくくる八日目を指すと思われます。この祭りは一年の収穫を感謝するときでした。七日間、祭司たちはイザヤ12章の「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」(3節)などの聖句を唱えながら、エルサレム城内の南にあるシロアムの池から金のひしゃくで水を汲み、1キロぐらいを運び、神殿の祭壇に水を注ぎました。
イスラエルは、水さえあれば豊かな収穫が期待できる温暖な地ですから、これによって来年の豊かな収穫を祈ったのです。
イザヤ12章3節のヘブル語から生まれた世界的に有名なフォーク・ダンスがあります。歌詞は次の通りです。
ウシャブテム(あなたがたは汲む) マイム(水を) ベッサソン(喜びながら) ミマアーネイ(泉から) ハ・イェシュア(救いの) マイム マイム マイム マイム (水) ホ マイム(その水) ベッサソン(喜びながら) ヘイ ヘイ ヘイ ヘイ マイム マイム マイム マイム (水) マイム マイム ベッサソン (喜びながら)
祭りの終わりの日は、世界の歴史のゴール、完成の日を連想させます。神は預言者たちを通し(エゼキエル47章、ヨエル3:18、ゼカリヤ14:8等)、その日、エルサレム神殿から水が湧き出ると約束されました。その水は大きな川となって死海に流れ込み、そこに多くの魚が住むようになり、また、川の両岸にはあらゆる果樹が成長し、あらゆる実をつけるというのです(エゼキエル47:1-12)。
それはエデンの園の回復の情景です。黙示録は、それを新しいエルサレムとして描いています(黙示22:2)。ですから、豊かさをもたらす「水」こそが祭りのテーマでもありました。
そのような祭りのクライマックスで、イエスは立って大声で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(37節)と言いました。
先のイザヤ12章5,6節には、「歌え!主(ヤハウェ)を。主がなさったすばらしいことが全世界で知られるように。大声をあげて、喜び歌え。シオンに住む者よ。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方」と記されています。イエスが大声をあげられたのは、この箇所を思い起こして、ご自身のみわざを知らせるためだと思われます。
イエスはご自身を「イスラエルの聖なる方、大いなる方」と示しながら、「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」と言われましたが、この「救い」とはヘブル語のイェシュアで、イエスのヘブル語の名ヨシュアに通じます。つまり、イエスご自身の泉から、喜びながら水を汲むという意味を込めて、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われたのかもしれません。
イエスはかつて、たったひとりのサマリヤの女に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(4:14)と明かされましたが、ここでは多くの人々が集まっている神殿の庭で同じ意味のことを言われました。それは、イエスが水の湧き出る場所に導くとか、岩から水を湧き出させるというのではなく、自らが、永遠のいのちをもたらす水を与えるという意味でした。
そしてイエスはここで、「わたしのもとに来て飲みなさい」と言われた直後に、「わたしを信じる者は」と言い換えておられます。つまり、イエスから飲むとは、イエスへの信頼を促すことばなのです。
4世紀のクリュソストムスは、「イエスはだれも必然性や強制によっては引き寄せられない。そうではなくて、もしだれかが大いなる熱心さを持つなら、また、燃えるような願いを持つなら、そのような者をイエスは呼び寄せる」と言いましたが、イエスは、何よりも、私たちの心の渇きにやさしく語りかけられます。
ただ、それは、自分の心の奥底にある何らかの渇きを認めようとしない人には、イエスの招きは通じないということです。もし、あなたがもっと、愛のある人になりたいと願うなら、何よりも自分の中にある愛への渇きを正直に認める必要があります。
3.「生ける水の川が流れ出る」
その上でイエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われましたが、これは前述のエゼキエル預言を指します。不思議なのは、まわりの世界を生かす大きな川が、エルサレム神殿からではなく、「その人の心の奥底から流れ出る」という点にあります。
神はイザヤを通して「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」(44:3)と、地を潤す水と、人を生かす霊を並行して語りました。また、「あなたは、潤された園のようになり、水のかれないみなもとのようになる」(58:11)と、人が泉となると預言しました。
これは、神が多くの預言者を通して約束されたように、終わりの日にご自身の聖霊を人々に注ぐことを意味しました。
イエスは、これらをまとめ、「その人の心の奥底から生ける水の川(複数)が流れ出るようになる」と約束されたのです。なお、「これはイエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」(39節)と解説されますが、私たちはすでに聖霊降臨後の時代に生きています。
「私は御霊を受けているのだろうか?」と迷う人がいますが、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)と記されているのです。私たちは自分を「御霊を受けた人」と呼ぶべきでしょう(ローマ8:15、ガラテヤ3:2等)。
「生ける水の川が流れ出る」とは、まるで、エルサレム神殿から湧き出た水が大河となって不毛の地に豊かな果樹を育てるように、私たちがまわりのすべての人々を生かす者になることを意味します。
これは、「愛に満ちた人になりなさい」という命令ではなく、「イエスがあなたを愛に満ちた人に造り変える」という約束です。イエスへの信仰は、倫理や道徳である以前に、その約束を信じることです。
「自分は人を生かすことも、人の役に立つ事もできない」と思うのは、謙遜ではなく、自己卑下であり、サタンが吹きこむ考え方です。真の信仰とは、神がこのままの私たちを用いて、周りの世界を、エデンの園のように変えて下さると信じることなのです。イエスはどんな人をもご自身の目的のために用いることができます。その第一歩は、渇いた口を主に向かって開くことです。
なお、「心の奥底から」とは、厳密には「腹から」と記されています。私たちの行動を変えるほどの神の愛は、頭よりは腹で感じられるものです。
たとえば、「イエスは私の罪を赦すために十字架にかかられた」ということばを腹の底で感じたら、「この罪人のままの私が神様から抱きとめられている」という安心で満たされ、あらゆる自己弁明や自己正当化から自由になれるはずです。
ところが、私たちは、心のどこかでいつも、神は私がどのような成果を出したかに興味を持っておられるに違いないという、根拠のない呪縛にはまっています。
私たちのうちには確かに、御霊ご自身がすでに住んでおられるのですが、自分の意思の働きによって「御霊を消す」(Ⅰテサロニケ5:19)ことができます。それは御霊が、私たちの心の奥底で、ご自身のみこころを語るのを待たないことによってです。
私たちはしばしば、一呼吸置いて祈ってから始める前に、自分の意思で動き出してしまいます。また、人によっては、自分の意思さえ働かせずに、条件反射的な反応をします。たとえば、人の些細なことばを非難と受けとめ、攻撃は最大の防御とばかりに、攻撃的なことばを投げかける人もいます。
しかし、イエスはただ、「わたしのもとに来て飲みなさい」と命じられました。あとは、イエスご自身がしてくださることです。自分の力で神の敵と戦うのではなく、自分の不安を、また弱さを正直に認め、イエスにすがればよいのです。
4.「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」
ところでイエスのあまりにも大胆な発言は、両極端の反応をしました。まず好意的な反応のことが、「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、『あの方は、確かにあの預言者なのだ』と言い、またある者は、『この方はキリストだ』と言った」と記されています(40,41節)。「あの預言者」「キリスト」とは、どのような意味でしょう。
当時の人々はエゼキエル37章の預言を待ち望んでいました。主は預言者エゼキエルを、非常に多くの干からびた骨がある谷間の真ん中に立たせ、「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主(ヤハウェ)のことばを聞け」と命じます(1-4節)。
そして、エゼキエルが命じられたとおりに預言すると、「息が彼らの中に入った。そして、彼らは生き返り、自分の足で立ちあがった」というのですが、その意味を主は、「これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている・・・見よ。わたしはあなたがたの墓を開き…イスラエルの地へ連れて行く・・・わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる」(11-14節)、
また「わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し・・・イスラエルの山々で、一つの国にするとき、ひとりの王が全体の王となる」(21,22節)と説明されました。
つまり、預言によって神の霊が授けられ、イスラエルの民が生き返り、約束の地に戻り、新しいダビデのもとで国が復興するというのです。そして、そこにいた一部の人は、イエスこそが息に預言する者、国を復興させるキリスト、油注がれた王であると信じました。
一方、ある者は、「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか」(41,42節)と言います。それは彼らが人間的な意味でイエスの出生を知っていると思い込んでいたために起こった悲劇です。
そして、「そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった」(43節)と記されます。イエスへの評価はいつも両極端に分かれます。
そして引き続き、「その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た」と描かれます。彼らは役人たちに、「なぜあの人を連れて来なかったのか」と詰め寄りますが、役人たちは、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と答えました(44-46節)。
イエスを「群衆を惑わしている」偽預言者と思いながらも(7:12)、イエスの権威ある話し方に圧倒されて、役人もイエスを捕らえることができなかったというのです。イエスはこのとき、神殿の外庭の真ん中に立って、ご自分をエゼキエルが預言した救い主として紹介しておられます。
当時の神殿には、本来の神殿の心臓部であるはずの契約の箱すらなく、神の栄光がその宮を包むということもありませんでしたが、エゼキエルは新しい神殿に主の栄光が戻って来ることを、「主(ヤハウェ)の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た・・・なんと、主(ヤハウェ)の栄光は宮に満ちていた」(43:4,5)と預言していました。神の御子が神殿に立つということはそのように途方もない預言の成就なのです。
役人たちはそれを信じたわけではありませんが、イエスがご自分のうちに隠しておられた主(ヤハウェ)の栄光を垣間見て、何の手出しもできなくなったのでしょう。
それに対して、「すると、パリサイ人が答え」て、「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている」と群衆を軽蔑するようなことを言います(47-49節)。
パリサイ人たちは自分たちこそが聖書に精通していると誇っていましたが、実は自分自身の偏見に囚われて、真に見るべきものを見ることができていませんでした。
そのような中で、「彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが」、彼らの偏見を指摘するように、「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか」と、勇気をもって問いかけます。
彼らはイエスを、安息日律法を公然と破る偽預言者として捕らえようとしていましたが、彼ら自身がその手続きにおいて、皮肉にも律法違反をしているというのです。人はいつも、自分の問題は棚に上げて、人が自分の枠にはまっていないことを指摘してしまいがちです。
ところが、それに対してパリサイ人たちは、「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない」と答えたというのです(50-52節)。彼らはイエスご自身の話しを直接に聞こうともしませんでした。
私たちは自分の枠にはまらない人の話を聞こうとはしないものです。しかも、その際、その人の話を聞く必要のない理由を自分で探しだし正当化します。その際に利用されるのが、「どうせ、彼の主張は、・・・主義のものでしょう・・・彼は・・・という教派に属ししているのでしょう」というレッテル張りです。
そして、そのようにすることによって、私の貴重な時間を余計なものに惑わされる必要がないと自分を正当化します。
それにしても不思議なのは、この福音書においては、マタイやルカのようにダビデの町ベツレヘムでの誕生を述べる代わりに、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:14)と語りました。そして、イエスご自身も、「わたしを遣わした方」という表現を繰り返しました。
しかもイエスは、「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです」(5:19)と、働きのすべてが父なる神に依存していること証しました。
そして、私たちもイエスに頼るように招かれています。イエスは、「だれでも渇いているなら」と言われましたが、私たちの問題は、能力の不足でも信念の弱さでもなく、イエスとの愛の交わりへの渇きを感じないことにあるのではないでしょうか。
人は、イエスとの交わりなしに多くの働きをすることができます。人を慰め、助けることばかりか、神のみことばを語ることだって可能です。礼拝を休み続け、かえって解放感を味わったという人さえいます。しかし、そこにはイエスにある平安はありません。
私たちは、イエスがすべてをご自身を遣わされた方との交わりのうちで行なっていたと同じように、すべての働きを、私たちを遣わされたイエスとの交わりのうちで行なう必要があります。そのためのもっとも大切なステップは、『だれでも渇いているなら』という招きを味わい、自分の心の奥底にある「渇き」に気づき、イエスに向かって口を大きく開くことです。
私たちは静まりの祈りの中で、生ける水の川が心の奥底から流れ出るのを体験し、そして、流れ出た川が人に向かうことで、まわりの人を生かすことができるのです。
私たちはしばしば、世界の出来事をあまりにも自分の狭い価値観から推し量ってしまいます。自分の期待通りに、いろんなことが動くことを期待し、そのようにならない現実に腹を立てます。
しかし、自分の期待通りに世界が動くことを期待するとは、世の友となろうとして、神に敵対することです。神はあなたを敢えて、不条理な現実のただ中に置かれながら、あなたのうちにご自身の栄光を現わそうとしておられます。
使徒ヤコブは、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほど慕っておられる」(4:5)と、新約の時代に成就した救いを表現しています。
神はあなたのうちに住まわせた御霊によって、今、この世界を造り変えようとしておられるのです。私たちはもっと、イザヤやエゼキエルが預言していた途方もない救い主のイメージをイエスに見る必要があります。
イエスの復活は、「干からびた骨」が生き返ったというしるしでした。そして、それが今、あなたにも起きています。