人の過失や気まぐれで「私の時」が左右されるのは辛いことです。しかし、後で「あれは主の時だった」と思えるなら幸いです。
「御手の中で」という賛美は伝道者の書3章11節の、“In His time, He makes all things beautiful”(神が、すべてをご自身の時に美しくしてくださる)から生まれました。たとい今が絶望的な時に思えたとしても、神はご自身の時に、それを感謝へと変えてくださいます。「時」の支配者を知る中に平安があります。
1.「わたしの時がまだ満ちていないからです」
6章でイエスは、五千人のパンの給食の奇跡を行なった後、「わたしはいのちのパンです」と言われたばかりか、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」などと、当時の人に嫌悪感を抱かせるようなことを言われたため、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き・・・」という残念な事態に至りました(6:48,54,66)。
そして7章初めでは、「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである」と描かれます。イエスはご自分が天の父なる神から遣わされた「ひとり子」であることを大胆に証ししておられましたが、それは当時の宗教指導者にとっては、死刑に値する神への冒涜と捉えられていました。
イエスはエルサレムに行って、彼らの敵意の中で福音を語るよりも、貧しいガリラヤ地方で迫害され傷ついた人々に優しく語ることを願っておられました。
そこで、「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた」(7:2)と記されますが、この時期にガリラヤの敬虔なユダヤ人はエルサレム神殿での礼拝のために三日間余りの道のりを旅するのが当然の義務と見られていました。
「仮庵の祭り」は、四十年間の荒野の生活を思い起こすために仮庵生活を一週間続けることから名づけられましたが、これは現在の収穫感謝祭に相当します。ネヘミヤ記8章には、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちが、90年余りたってようやくエルサレムの城壁を再建できて、その上で、約束の地に最初に入ったヨシュア以来初めて、実際に野生のオリーブの木などの枝を取ってきて仮庵を作って、盛大な祝宴を開いた様子が描かれています。
それ以来、この祭りは、救い主がイスラエルに繁栄を回復してくださることを待ち望む機会ともなりました。それは、人間的には、イエスがご自分のことを救い主として紹介する絶好の機会とも言えます。
ですから、イエスの弟たちがユダヤに一緒に上ることを勧めたのはもっともです。ただ、そのことばには棘がありました。彼らはまず神の御子に向かって、「ここを去ってユダヤに行きなさい」(3節)と命じているのです。その上でその理由を、「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように」と付け加えました。そこには、自分たちは弟子ではないという思いが込められています。
しかも、続けて、イエスが宗教指導者の迫害を恐れてガリラヤに潜んでいるかのような軽蔑の思いをも含んで、「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい」(4節)と言いました。
ですから、この解説として、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」(5節)と記されています。イエスは、神のひとり子であり、この祭りを定められた方であられるのに、僭越にも、弟たちはその方に向かって、祭りの時の過ごし方について人間的な意見を述べたばかりか、イエスを臆病者扱いしているのです。
それに対して、イエスはまず、「わたしの時はまだ来ていません」(6節)と答えました。その時とは、十字架を指します(12:23)。それは、秋の仮庵の祭りではなく、ご自身を過越の小羊としてささげる、春の過越の祭りです。そしてここでは、直接的には、まだ捕らえられるべき時ではないとも理解できます。
一方、「あなたがたの時はいつでも来ているのです」とは、彼らが何の障害もなく、自由にエルサレムに上ることができることを指します。そして、「世はあなたがたを憎むことはできません」(7節)と言われたのは、彼らが、ユダヤ人たちと衝突しない生き方をしているからです。
それに対し主はご自身のことに関して、「世はわたしを憎んでいます」と言われました。それは、イエスが世に同調しないばかりか、世の「行いが悪いこと」を告発していたからです。
続けて主は弟たちに向かって、「あなたがたは祭りに上って行きなさい」(8節)と命じつつ、「わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです」と言われました。そして、「こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた」(9節)と解説が加えられます。
ただし、イエスはこの直後エルサレムに上って行きますから、このことばに矛盾があるようにも思われます。しかし、「行きません」という動詞は、話者の視点からの現在進行形的なニュアンスがあります。それはイエスが今この時は、祭りに向かう巡礼者として家族と共に出かけようとはしないという意味です。
イエスが言われた、「わたしの時」とは「神の時」であり、神からの使命を自覚することから生まれます。私たちは小さい時から、いつでもどこでも、人の期待に答えられるような生き方を訓練され、そうできないことを恥じます。しかし、世と調子を合わせた生き方は、神の目からみたら決して好ましいことではありません。
伝道者の書の3章では、「天の下」という神の視点から、「すべてには季節があり、天の下のすべての営みには時がある」と言われ、その上で、七つの大枠によって人生全体を包括する神の時が描かれ、それぞれに二対の対比が見られます。
それは、「生まれるのに時があり、死ぬのに時があり。植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある」から始まり、「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙るのに時があり、話すのに時がある」と述べられ、最後に、「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、平和になるのに時がある」と締めくくられます(3:1-8抜粋私訳)。
子育てでも、援助の働きでも、助けを求められても、助けない方が良い時があります。「良い人に見られたい」という誘惑に負ける人は、結局、人を真に生かすことができなくなるのです。
私たちも、「わたしの時がまだ満ちていないからです」と言うべき時があるかも知れません。もっとゆっくり、神との交わりの中で、「時が満ちる」のを待つ必要、そのような時の理解を持ちたいものです。
なお、この伝道者の書では続けて、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(3:11)と記されています。これはとっても美しい日本語ですが、愛する人を失ったときや、突然の病に襲われた時には、「そう簡単に言って欲しくない」と反発した気持ちになるかもしれません。
しかし、そこの原文は、そのような気持ちにも寄り添うように、極めて注意深く、「私は見た。神が人の子らに労させようと与えた仕事を、神が、すべてをご自身の時に美しくしておられるのを、また、彼らの心に永遠を与えておられるのを。それでも。人は、神のなさるみわざを、初めから終わりまで見極めることはできない」(3:10,11私訳)と記されています。
残念ながら、しばしば、神のなさることは、人の目には「神のいじわる」としか思えないことがあります。神のなさることは、「時にかなって美しい」とは感じられないような今のこの時を、天の神の永遠の時の観点から、「私は見た」と言えるようになるのです。
イエスの弟たちはこの時、イエスに棘のある意地悪なことばをかけました。それに対するイエスの言葉も、彼らにはその時は、意地悪なものに聞こえたかもしれません。実際、「わたしは行かない」と言いながら、その直後に、エルサレムに向かっているのですから。
しかし、イエスの弟たちはこのときのイエスのことばを鮮明に記憶し、イエスの復活の後に、このことばの意味を理解したことでしょう。
私たちにもそれぞれ、神の視点から見た「わたしの時」と言われる時があります。それが私たちの霊の目にもわかるように、日々、祈り求める必要があります。
2.「自分を遣わした方の栄光を求める者は真実」
7章10節からはその後の事が、「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは、祭りのとき、『あの方はどこにおられるのか』と言って、イエスを捜していた。そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。『良い人だ』と言う者もあり、『違う。群衆を惑わしているのだ』と言う者もいた」と記されています。
イエスは、家族とは別に、「ひそかに」エルサレムに上って行かれました。そこにいる人々は、イエスが仮庵の祭りの際に、エルサレムに礼拝に来ないということはあり得ないという確信のもとに、イエスを捜していました。
それと同時に、イエスに関しての評価が、両極端に分かれてなされていました。「良い人」の「良い」とは最も一般的な意味での「善」を現わすことばで、イエスの働きもことばも、信頼できるという評価です。ただし、イエスはご自分のことを、公然と、天の神から遣わされた救い主であると紹介しておられるのですから、イエスの評価が極端に分かれるのは当然です。イエスの言われることは、本当に善なのか、それとも、群衆を惑わす妄言であるかのどちらかとしか評価のしようがありません。
しかも、当時の感覚では、イエスが救い主であるなら、目の前には、ローマからの独立を目指す大きな戦いが迫っているように思われました。解放者に従うのには、命がけの覚悟が求められます。イエスに関しての評価が分かれるのは当然です。そして、イエスの話しを聞く現代の人々も、どちらかの判断が迫られています。
ところが当時のエルサレムでは、「しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった」(13節)という状況に陥っていました。当時の宗教指導者たちはイエスを、神を冒涜する者、民衆を惑わす者として確信し、イエスを殺すことを神のみこころと信じていました。
ですから、イエスを支持すると思われることばを発することには身の危険がありました。それほどに、イエスは人々の注目を集めていたのです。
そのような中で、「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた」(14節)と記されます。イエスはこの一週間続く祭りの中頃になって、宮の中で公然とご自分を現わし、教え始められたのです。
そしてそれに対する反応が、「この人は正規に学んだことがないのに、この人はどうして学問があるのか」(15節と描かれています。これは、「どうしてみことばを知っているのか」と訳すこともできます。当時の教師は、パウロがガマリエルのもとで聖書を学んだように、有名な学者のもとに弟子入りしました。ところがイエスは、「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです」(16節)と、ご自分の教師は父なる神ご自身であると答えました。
ただ、異端者も皆、同じように言いますから、その見分け方を続けて話されます。
見分け方の第一は、「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」(17節)というものです。
それは、主の祈りで、「みこころが行なわれますように。天のように地の上にも」と祈られるように、神のご意志を自分の意志として委ねる生き方です。
私たちは無意識のうちに、自分の願いを神のご意志に優先するために、イエスのことばが理解できなくなります。当時の宗教指導者たちは、自分たちが民衆から尊敬されること、また自分たちの立場が守られることを、無意識にせよ第一に求めていたので、イエスの存在を脅威に感じ、イエスを憎むようになったというのです。
そして見分け方の第二は、「自分から語る者は自分の栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」(18節)というものです。「自分から語る」という表現に、先の、伝道者の書の、「黙るのに時があり、話すのに時がある」ということばが思い起こされます。
しばしば、求められてもいないのに、教えたがるという人がいます。その人は、心の底で、感謝されることばかりを求めています。それは自分の栄光を求めているに過ぎません。私たちはいつでもどこでも、「神の時」、また「神のご意志」を見分ける知恵が必要です。
先のことばとセットに、「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある」とありましたが、イエスのことばには、ときに、その人の心の底にある偽善を顕にするような、「引き裂く」力がありました。イエスは人の好意を得るためではなく、ご自分を遣わされた方の栄光のみを求めておられました。
そして何よりも、イエスの教えの真実は、辱めに耐えながら、徹底的に神と人とに仕える生き方に表されていました。
ところで、イエスはユダヤ人に向かって、「モーセが・・律法を与えた・・それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません」(19節)と断罪しました。彼らがモーセの律法を口では尊重しているようで、律法の根本を忘れていました。
イエスは、このことばとセットに「あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか」と言われましたが、神から遣わされた方を殺そうとすることが何よりも、律法違反になるということをイエスは指摘しておられるのです。私たちは時に、とんでもない過ちを犯すことがあるかもしれません。しかし、何よりも恐ろしい罪は、心の中でイエスを殺すことです。
どんな悪人でも、イエスを自分の人生の主と告白し、自分の中でイエスに生きていただくなら変わることができます。私たちはあまりにも目に見える行動の善悪ばかりを見て、イエスに対する心の姿勢を忘れてはいないでしょうか。実は、それこそが、信仰生活における最大の本末転倒なのです。
群衆はイエスのことばの意味が分からず、「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか」(20節)と質問しましたが、イエスはそれに正面から答える代わりに、「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています」(21節)と話題を転換して、彼らに考えませます。
それはイエスが当時の宗教指導者の憎しみを買ったきっかけの出来事、38年間もの間、ベテスダの池のほとりで伏せっていた人を、安息日に癒したみわざのことです。
38年間も伏せっていた人をなぜ、わざわざ安息日に癒して、人々の反発を招く必要があったのかと思いますが、しかし、安息日の誤解を正すことこそ、イエスの狙いだったのです。
そしてイエスは割礼のことを例に、「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。─ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです─それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」(22-24節)と言われました。
イエスはここで、彼らの本末転倒の発想を指摘されました。「割礼」は、神が、彼らの信仰の父アブラハムに命じたもので、神の民とされたしるしとして、「生まれて八日目に」、男子の包皮の肉を切り捨てることです(創世記17:12)。それは、モーセの律法に先立つ命令ですから、安息日の教えに優先されます。ですから、彼らは、生まれて八日目が安息日に当たっても、割礼は施されるという例外を認めました。
つまり、イエスは、モーセの律法以前の神のご計画の原点に彼らの思いを向けさせたのです。律法は、神が彼らを価なしに選ばれたことを覚え(割礼)、その神の愛への応答を教えるための命令でした。
アブラハムへの命令が、モーセに優先するなら、それ以前に、神がアブラハムを何のために選ばれたのかという原点に立ち返る必要があります。それはアブラハムの子孫を通して、ご自身の栄光を現わし、世界の人々を神のみもとに招くためでした。
ところが彼らは、世界の人々をご自身のもとに招くという神のみこころの根本を忘れて、自分たちの民族の特権を主張し、自分たちの枠にはまらない人々を排除しました。
しかも、イエスのみわざは、包皮の肉を切り取るわざにはるかにまさる「全身をすこやかにする」という偉大なものでした。それなのに、彼らは、彼らの基準による「安息日律法違反」という「うわべ」の「さばき」によって神の御子を「さばいた」のです。
イエスの目から見た当時のユダヤ人たちは「自分の栄光を求め」(18節)、自分の正しさを主張し、人を軽蔑するために律法を利用し、人を生かすための安息日の教えを、人を殺すための教えに変えてしまいました。
あなたの行動が、自分の名誉ではなく、本当に人を生かすものになっているかを、改めて、イエスの視点から問いなおす必要があります。それは、「自分を遣わした方の栄光を求める」(18節)という真実な生き方にありました。たとえば、人のため労した「私の時」が、誰にも覚えられていない時、あなたはそれをどう感じるでしょう。
3.「だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来てなかったから」
7章25節からはエルサレムの人々の中に湧き起こった声が、「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ」(25-27節)と描かれています。
彼らは、エルサレムの権力者たちが沈黙を守っていることをいぶかしく思い、ひょっとして、議員たちさえもイエスが救い主であることを認めたのかもしれないとさえ思ったというのです。
しかし同時に、イエスがガリラヤのど田舎の無学な生まれであることを知っており、それは当時の人々が抱いていた救い主のイメージとあまりにもかけ離れていました。ラビたちは、救い主は、人々の目に隠された形で、突然現れると語り合っていたからです。
そのような疑問に対して、「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて」、「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです」(28,29節)と言われました。
イエスは最初ご自分を隠しておられました。ところが今や「宮で・・大声をあげ」(28節)、ご自身が、天の神から遣わされた救い主であることを証しされ、彼らが天の神のことを知ってはいないと非難しました。これは彼らを怒り狂わせる発言です。
ユダヤ人たちは、自分たちこそが真の神を知っている民だと誇っていましたが、「知る」とは単なる知識ではなく、いのちの交わりです。イエスは神の真実を知っておられ、それを証しされました。
たとえば、イエスは弟子の足を洗いましたが、それこそが神のあり方でした。彼らは、自分のイメージで作り上げた神を拝み、人を裁いていました。しかし、神はイエスを人に仕えるしもべの姿で遣わし、ご自身の真実を現されたのです。
ところで、イエスは「わたしを遣わした方は真実です」(28節)ということを、不思議な形で証しされました。彼は公然と語り出し、捕らえられても当然だったのに、「だれもイエスに手をかけた者はなかった」のです。
それは「イエスの時が、まだ来ていなかった」(30節)からでした。そのような中で、「群衆のうちの多くの者がイエスを信じて」、「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」と言うようになりました(31節)。
迫害の中で、「イエスの時」が御手の中で守られていることを通して、ご自身を遣わされた方の真実を証しされたのです。先には多くの人々がイエスのことばにつまずいて離れましたが、その逆転が起きたのです。
同じように、私たちも、イエスに遣わされた者としてこの世で生きます。様々な困難に出会いますが、その中で、「私を遣わした方は真実です」(28節)と告白することができます。私たちが苦しみにあったとしても、それが無駄に、無意味に起こることはありません。
神の御許しなしには、だれも私たちを傷つけることはできません。すべては神の時に、神の御手の中で起こるのです。私たちが神の時を知るなら、「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が私に対して何ができましょう」(ヘブル13:6)と告白し、真の自由を味わうことができるのです。
私たちは、しばしば、待つことができずに動き出し、問題を大きくします。そんな時、「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は、御手の中にあります」(詩篇31:14、15)と繰り返し告白してみてはいかがでしょう?
あなたのすべての時は、神の御手の中にあります。神の御許しなしには、一羽の雀さえ地に落ちることはないからです。
自分の都合から神のみわざを見る時には不安と不満が生まれます。しかし、「天の下」という神の視点から見る時に、すべてが美しいと言える時が来るのです。