現代の感覚で聖書を読むと誤解が生まれます。今から三千数百年前、民族ごとに異なった神々が礼拝されていました。聖書の神ヤハウェは、奴隷の民「へブル人の神」(5:3)としか見られていませんでした。
一方、世界最強のエジプトの王パロは、太陽神の化身と見られ、ある記録によれば、当時のラムセス2世には、「あなたはまるで太陽のように、全てのことを成し遂げる。あなたの心が望むことは必ず起こる。夜に願いをかければ、明け方すぐに願いは叶う・・私たちはあなたの奇跡を数多く見てきた・・あなたは天地が創造されるところを見たはずだ」という言葉が捧げられています。
このパロが、奴隷民族の神にひざまずくなど、当時の誰が予想できたでしょう?出エジプト記を現代的解釈で脚色したと言われる映画「エクソダス」は、聖書のストーリーを捻じ曲げているという批判もありますが、それが、「“神に選ばれた男”と“神になろうとした男”の葛藤の物語」を描いているという点では、評価できる部分もあるかと思われます。
神に選ばれた男モーセは同胞を助けられない自分の無力さを嘆く一方で、神になろうとしたエジプトの王パロは、人を苦しめることで、また人の苦しみに無関心になることで、自分の権威を示していました。
1. 「主(ヤハウェ)とはいったい何者か。私がその声に聞かなければならないとは・・」
主(ヤハウェ)が、柴の燃える炎の中からモーセに語りかけ、イスラエルの民の指導者として召した時、彼はまだミデアンの祭司イテロに仕える婿に過ぎず、妻と息子たちを連れてエジプトに帰る際には、イテロの承諾を得る必要があるほど弱い立場でした(4:18)。イテロは「安心して行きなさい」と答えますが、そのミデアンの地において主は再びモーセに現れ、「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ」(4:19)と言われます。
これは2章23節のエジプト王の死と同じことを指しているとは限りません。モーセの召命が彼の命を狙っていたエジプト王の死の直後であるならば、王の支配は少なくとも40年間続いていたということになり、出エジプトの出来事が多くの学者が主張するラムセスⅡ世の時ではあり得ないことになります。40年以上の支配が続いた王権はBC1479-1425年在位のトトメスⅢ世か、BC1279-1213のラムセスⅡ世しか可能性はありません。
ただここではモーセのいのちを求めていた王やその家来たちが次々と死んだので、彼は比較的安全にエジプトに帰国できるということが記されているにすぎません。このときモーセは「妻と息子たち」を伴って帰国しますが、それまでに記されている息子はゲルショムだけですが(2:22)、18章4節に登場するエリエゼルもすでに生まれていたのだと思われます。
「モーセは手に神の杖を持って」(4:20)、帰途につきますが、主は彼にパロの前に立つことを命じ、「わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え」と言われながら、同時に、「しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう」(4:21)と言い添えます。
モーセに語らせながら、同時にパロが言うことを聞かないように、その心を主ご自身が「かたくなにする」というのです。ただこれは決して、パロが神のロボットのように行動するという意味ではありません。
パロは自分を神のようにしているのですから、イスラエルの神の権威を見せられるほど、自分の支配力を誇示するような行動をとらざるを得なくなります。パロは自分の意志で行動しているのですが、それは同時に、神がそのように仕向けたという意味のことが言われているのです。
そして、これから起こる十のわざわいの結論が予め知らされるように、主はモーセに、「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である・・わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ・・もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す」(4:22,23)と言わせます。パロは、イスラエルを自分の奴隷、所有物と理解していましたが、彼らは神ご自身に属する自由人であり、地上のすべての民にとっての長子の立場にあるというのです。
ここにイスラエルの民の選びとすべての民族に対する使命が明確にされています。そして、もしパロがそれを認めて、神の初子を行かせないなら、パロの初子も生きることはできないというのです。なお、イスラエルが集合的に一人の初子のように言われていることからすると、パロの初子とは、彼自身の息子であるばかりか、エジプトのすべての初子を指しているとも解釈できます。
どちらにしても、「わたしの初子」と「あなたの初子」という対比に、主(ヤハウェ)が、エジプトの王パロに、誰が真の支配者であるかを明らかにするという意図が見られます。
そこで、「さて、途中、一夜を明かす場所で・・・主(ヤハウェ)は彼に会われ、彼を殺そうとされた」(4:24私訳)と記されますが、これがモーセなのか、彼の「初子」であるのかは分かりません。神がモーセを殺そうとしたと解釈するのは文章の流れからすると極めて自然ですが、あまりにも突拍子がないとも思われます。
ただどちらにしても、アブラハムの子孫としての割礼の儀式がモーセの息子に施されていなかったのでしょう。ですからモーセの妻でミデアンの祭司の娘であるチッポラが、「火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足(性器)につけ」、「まことにあなたは私にとっての血の花婿です」と言います。
モーセは異教徒の婿になっていましたから、息子には神の民のしるしとしての割礼が施されていませんでしたが、それは神の民の指導者にはふさわしくない不誠実でした。幸い、そのことにモーセの妻はすぐに気づき、自分の子に割礼を施したのですが、ここに一家の長としての不甲斐なさが描かれているようにも思えます。聖書に登場する家長は誰も欠けだらけなのでしょうか。
その上で、主(ヤハウェ)はアロンを弟モーセのもとに遣わし、アロンは、主がモーセに授けられたことばをイスラエルの長老たちに告げ、民の目の前でしるしを行ないました。すると、「彼らは、主(ヤハウェ)がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した」(4:31)というのです。
この場面は何とも不思議です。モーセは四十年間もエジプトを離れており、その前もイスラエルの民から拒絶された様子が記されていたのですから、何よりもアロンに、イスラエルの長老たちを集めるだけの指導力があったと考えることができます。またイスラエルの民も、アブラハムの契約を神の民として覚えており、それが受け継がれていたということが明らかです。
その後、モーセとアロンはパロに主のことばを告げますが、神を自認するパロが、「主(ヤハウェ)とはいったい何者か。私がその声に聞かなければならないとは」(5:2)と答えたのは当然でしょう。それで、彼らは、「へブル人の神が私たちにお会いくださったのです・・・荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主(ヤハウェ)にいけにえをささげさせてください」(5:3)と言い変えます。
これは嘘ではありません。「三日」とは象徴的に長い道のりを指し、当面の目標は、約束の地に入る前にシナイ山で主を礼拝することでした(3:12)。それは律法を受けて名実ともに神の民として整えられるためでした。
出エジプトの目的は、約束の地に導き入れられること以前に、律法が授与されることにあったということを決して忘れてはなりません。最終ゴール以前に、その途上で、神の民として整えられることに意味があるのです。
それは私たち自身にも当てはまることです。「新しい天と新しい地」に入れられること以前に、今ここで、主の御教えを受け、新しい天と新しい地に住むのにふさわしい民へと整えられることこそが大切だからです。
ただし、それは同時に、イスラエル人の神(支配者)はパロではなく、主(ヤハウェ)であることを認めさせるという意味がありました。それに対しパロは、苦役をさらに重くすることによって、パロこそ真に恐れられなければならない神であることを思い知らせようとします。
それはイスラエルの民に「れんがを作るわら」(5:7)を与えずに、エジプト全土から自分たちで刈り株を集めるようにさせて(5:12)、それまでと同じ分量のれんがを作らせるという命令でした。
この「定められた分」(5:14)ということばをロシア語にすると「ノルマ」になるのかもしれません。そこには、労働者は基本的に「なまけ者」(5:8、17)なので、自主性に任せずに厳しい達成基準を課す必要があるという発想です。利益誘導を否定した共産主義はノルマで労働者を管理しました。
ここでは、「わら」を取り上げられた民は、ノルマを果たせなくなり、「イスラエルの人夫がしらたちは」厳しく打ちたたかれました(5:14)。彼らがパロに訴えると、パロはモーセの願いのせいでこのようになったと告げます。これはモーセとイスラエルの人夫がしらの間を離間させるための策略でもありました。
とにかく、期待とは反対に苦役が増し加わったイスラエルの民は、モーセとアロンに、「主(ヤハウェ)があなたがたを見て、さばかれますように・・」(5:21)と不信を顕にします。
またモーセも主に向かって、何と「主よ、なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってから、彼はこの民に害を与えています」と、主の命令に従ったせいで状況が悪くなったと訴え、「それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません」(5:23)と言います。
モーセは神に失望しているようでありながら、そのただ中で必死に神に訴えています。私たちも、「神に従ったせいで、こんなひどい目に会っている・・・」と嘆きたくなることがあるかもしれません。
私自身も学生時代の最後に信仰に導かれ、いくつもの内定先の中から真剣に神の導きを求めて、就職を決めました。ところが、入社してみたら、配属先は札幌支店での個人営業職でした。私はとんでもない仕事に導かれたと、深く失望しました。しかし、幸い、神にすがる祈りを教えられていたおかげで、厳しいノルマを果たし続けることができました。
ノムラでのノルマが、何よりも、全能の主に祈ることの幸いを教えてくれました。厳しい営業目標に駆り立てられながら、切羽詰った祈りをささげ、道が開かれて行くことを実際に体験できたのです。
そして振り返ってみると、神のみこころが分からないと思っていたただ中で、自分は神のみこころの中で守られ、導かれていたのだと思えます。神のご支配は、あなたの日常生活のただなかに現されます。主(ヤハウェ)は、世界中の人々が自分の弱さを知り、祈るのを待っておられるのです。
2.「わたしは主(ヤハウェ)である」
主(ヤハウェ)は、「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる」(6:1)とモーセをたしなめます。私たちも、物事が期待はずれに進んでいるように見える時、「今は分からなくても、今に分かる」と言うことができます。
そして、主は、「すなわち強い手で、彼(パロ)は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう」と言われますが、「強い手」とは、この文章からすると「パロの手」と理解することもできますが3章19、20節では神がご自身の手を伸ばして、エジプトの王を強いると記されていました。
英語のNIV訳では、「わたしの強い手で」と、これが神の手であることを明記しますが、それは解釈を入れ過ぎとも言えましょう。ここは敢えて、「パロの強い手」を思い浮かべさせるようにしながら、やがてパロ自身がイスラエルの民を追い出したいと願うようになるとイメージさせながら、そのような状況は、主ご自身の「強い手」がパロの「強い手」を動かしていると考えるべきでしょう。
そして、神はモーセに「わたしは主(ヤハウェ)である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、主(ヤハウェ)という名では、わたしを彼らに知らせなかった」(6:3)と言われます。
それは、「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)という現実以上に、この地のすべての権力者の前で、イスラエルの神だけが、「わたしはある」と言える権威を持っていることを明らかにする啓示です。パロを動かすのはモーセのことばでも民の独立運動でもなく、神ご自身なのです。
しかもそこには神ご自身がアブラハムの子孫と立てた「契約」がありました。なお、ここで「今わたしは…イスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした」(6:5)とあるのは2章24節にあったと同様に、神がご自身の契約を忘れたことがあったという意味ではなく、今これから神の契約の通りに歴史が動き始めることを強調するための表現で、そのことをモーセに明確に思い起こさせるためでもありました。
今、様々な支配力を行使してあなたを苦しめる人がいたとしても、あなたは自分でその人と戦う必要はありません。神こそが真の支配者であられるからです。あなたの主、あなたの王は誰なのかが、日々問われています。
今回の協議会総会の分科会の中で、「旧約聖書の面白さ」というセミナーを導きました。小学校の教員として長く勤められた方が、「神のご支配は、異教徒の支配者を動かすこととして現される」という話を聞かれて、「日本の現首相には腹が立つことばかりだけれど、首相のために祈ることの大切さが良くわかりました」と言ってくれました。
モーセがイスラエルの民に語りかける最初のことばは、6章2節と同様に、「わたしは主(ヤハウェ)である」(6:6)という宣言です。私たちはそれを聞く中で、聖書の神以外の誰をも恐れる必要のないことが示されます。主こそが歴史の支配者です。
あなたは自分の人生のゴールを知っているでしょうか。そして主はここで、イスラエルの民を「エジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す」と約束しつつ、それを言い換えるように、「伸ばした腕と大いなるさばき(ご支配)によってあなたがたを贖う」と言われます。
ここに「贖う」(ガアル)という用語が登場します。これは、主ご自身がイスラエルの民の見受け保証人となり、奴隷状態から代価を払って買い戻すという意味があります。
そればかりか主は、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放する目的を、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(6:7)と述べられます。
同じように今、神ご自身があなたをサタンの奴隷状態、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なう」状態から救い出してくださったこと(エペソ2:2,3)、その目的は、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(黙示21:3)という状態にあるのです。
神は、さらにイスラエルに約束の地で平和と繁栄を与えると約束され、モーセはそのことをイスラエルの民に話しましたが、「彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった」(6:9)と描かれます。彼らは遠い将来の約束よりも、目の前の問題解決だけを願っていました。
神がイスラエルの民を約束の地に導くのは、神との親密な交わりを味わう舞台設定に過ぎません。神は、あなたの目の前から苦しみを除き、平和と繁栄を与えることができますが、それ自体が目的ではなく、神との親密な交わりの回復こそが救いのゴールなのです。
私も、若いときは、目の前の目標を達成することに集中してきましたが、目標が達成されても心の渇きは癒されませんでした。そして、ようやく、私の心のそこにある渇きは、神との親密な交わりへの渇きだと分かってきました。
3.「わたしはパロの心をかたくなにし・・・」
主(ヤハウェ)は、民がモーセのことばにまったく耳を貸さなくなったのを見ながら、なおも彼に、「エジプトの王パロのもとに行って・・・告げよ」(6:11)と命じます。彼が、「イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう」と答えるのももっともです。
その際、モーセは、「私は口べたなのです」と付け加えますが、これは厳密には、新改訳の脚注にあるように、「くちびるに割礼がない」という意味です。
なお、「そこで主(ヤハウェ)はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため・・・彼らに命令された」(6:13)と記されますが、これとほとんど同じ表現が26,27節に繰り返されます。
そして、それにはさまれるようにしてモーセとアロンに至る系図が描かれます。そこではまず年の順にルベン、シメオン、レビの家系が描かれます。そして、そのレビ族からアロンとモーセが生まれたことが記され、またその後のアロンの系図が描かれます。
その上で再び、主はエジプトの地においてモーセに告げますが、ここでもその始まりのことばは、「わたしは主(ヤハウェ)である」というものです。つまり、主ご自身がモーセやアロン以上に、彼らのことを良く知っておられ、彼らの家系を導いておられるという意味になります。
主はさらにモーセに、「わたしがあなたに話すことを、みなエジプトの王パロに告げよ」と命じますが、ここでもモーセは、「ご覧ください。私は口べたなのです」と自分に資格がないことを訴えます(6:30)。モーセにとっては、自分のくちびるに割礼がないとは、唇の働きが覆われているという意味なのかもしれませんが、本来の割礼をアブラハムの子孫に命じられた神は、それによって彼らに神の契約の真実を繰り返し思い起こさせるという意味がありました。
モーセは自分の唇の無割礼を嘆いていましたが、神ご自身は割礼の民をしっかりと導いておられたのです。実は、神はモーセ以上にモーセのことを知っておられるのです。
そして主(ヤハウェ)は、「見よ。わたしはあなたをパロに対し神と・・する」(7:1)と言われ、「あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない」(7:2)とただ命じ、同時に、「わたしはパロの心をかたくなにし・・」と言われます。つまり、神は、パロの心の耳を閉じさせながら、なおもモーセに語らせようとしておられるのです。
ただし、そこには、「エジプトはわたしが主(ヤハウェ)であることを知るようになる」(7:5)という目的がありました。彼らの使命は、成果を出すことではなく、従うことです。ですからその後、「モーセとアロンは・・主(ヤハウェ)が彼らに命じたとおりにした」(7:6,10、20)と繰り返されます。
ところで、彼らはパロの前で、杖を蛇に変える不思議を行ないますが、パロに属する呪法師たちも自分の杖を投げて蛇にすることができました。エジプト王のミイラは、頭に立ちあがったコブラの記章をつけています。イスラエルでは忌み嫌われた蛇は、エジプトでは人を毒で殺すことができる神聖な動物と見られていました。
しかし、ここでは、「アロンの杖は彼らの杖をのみこんだ」(7:12)というのです。これによって、主(ヤハウェ)はエジプトをも支配する神であることを示されます。
ただ、それでも「パロのこころはかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった」(7:13)と描かれていますが、それはまさに、「主(ヤハウェ)が仰せられたとおり」のことでした。
そのつぎから、十のわざわいがエジプトに下されますが、その第一は、ナイルの水が血に変わるというものでした。ナイルはエジプトにとっていのちの源でしたが、主はその水を死の象徴でもある血に変えることによって、主こそがいのちの源であることを示されました。
モーセがパロの目の前で杖を上げナイルの水を打つと、「ナイルの水はことごとく血に変わった」と記されます(7:20)。その結果、「ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった」(7:21)のですが、何と「エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それでパロの心はかたくなになり・・」と記されます。
本来なら、呪法師たちは血を水に戻すことに心を傾けるべきでしたし、パロもそれを願うべきでした。しかし、「パロは身を返して自分の家にはいり、これに心を留めなかった」(7:23)というのです。
ここに皮肉が見られます。パロが神としてあがめられていた第一の理由は、ナイルの治水にありましたが、彼にはその自覚が見られません。パロを被害者と見ることはできません。神は、パロの心をかたくなにすることで、彼が自己中心な罪人の代表に過ぎないことを、権力を恐れるすべての人の前に示されたのです。
パロもパロの家臣も、秘術を使って民に災いを下す力は持っていましたが、災いを除く力はありませんでした。それはサタンの本質を表しています。多くの人は、災いに会う事を恐れて自分の世界を狭くします。しかし、神だけが、どんな状況下でもいのちの喜びを与えることができる方です。
サタンは災いをもって人を脅すことができます。実際、教会に来たての人が、信仰者が直面している様々な試練の様子を聞き、それに怯えて教会に来なくなるという現実さえあります。しかし、目の前に問題が起きはしないかと怯えながら生きる人は、自分の世界を狭くし、いのちの喜びを味わうことがますますできなくなります。
しばしば、いのちの喜びは、使命を自覚し苦しみに飛び込む中で味わうことができます。出エジプトの記事は、現代の私たちの現実にもそのまま当てはめることができるのです。
ルターの名曲「神はわれらが堅き砦」では一番の後半では、「古き悪魔、知恵を尽くし、責め来れば、地の誰もが、かなうこと得じ」とサタンの勝利とも言える状況が歌われます。これはルター自身が体験した絶望感でした。
そして続けて二番では、「私たちの力をもっては何も成し遂げられず、負けるしかない」と歌われた上で、ようやく、「私たちに代わって戦う方を、神ご自身が選ばれた」と逆転が生まれます。
これをもとにバッハがカンタータを記した時、「私たちの力をもっては・・負けるしかない」という歌詞をソプラノが歌うのに並行して、「神によって生まれた者はすべて、勝利へと選ばれている・・」とバスが力強く歌います。私たちも人生の中で、この二重の歌を聴き続けることができるのです。
「私は弱い」と言うモーセを通して、神はご自身の勝利を宣言されました。それはあなたにも実現します。世の力に翻弄され、神に選ばれた自分を見失っている時、「わたしはある」という方の御声を聞きましょう。