しばしば、福音があまりに単純化され、「イエス様を信じたら死んでも天国に行ける…この世界はどうせ火で焼かれるのだから、地上の人間関係に心を煩わせる必要はない」などと誤解されることがあるかもしれません。しかし、イエスは今日の記事で、この地での兄弟に対する対応が、そのまま天に反映されると言われ、「この地で兄弟を赦さないなら、天の父もあなたを赦さない」という趣旨のことまで言っておられます。
聖書は、この世界のゴールを神の平和(シャローム)が全世界を満たす状態と描いています。つまり、「新しい天と新しい地を待ち望む」とは、この地上での民族の和解、傷つけ合った兄弟姉妹との和解と密接に結びついているのです。自分個人の救いだけを考えるのはエゴイズムです。
私たちは、この地上での信仰者の交わりこそ、まさに天国の前味となるように心がける必要があります。そして、それは私たちが「どんな事でも・・・心を一つにして祈る」という交わりに現わされます。
1.「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら・・・あなたとその人だけのところで明らかにしなさい」
18章15節は、「もし、あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、あなたとその人だけのところで明らかにしなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」と訳した方が良いかと思われます。新改訳の脚注にあるように、古い多くの写本にも「あなたに対して」ということばが入っており、最近の多くの英語訳でもそのことばを入れているからです。
確かにエゼキエル3章には、エゼキエルが悪者に向かって「あなたは必ず死ぬ」と警告しないことによって、その血の責任を問われるということが記されますが、その直後には、主ご自身が彼の口を閉ざして語れないようにするとも記されています。つまり、神はエゼキエルに警告の責任を与えながら、同時に、それができない状況をも作られるというのです。
エホバの証人などは、自分たちは、世界の見張り人「ものみの塔」であるという理解で、相手の状況にお構いなく、ただ警告を与え続けること自体に意義を見出しています。しかし、せっかくの真理のみことばも、タイミングが悪ければまったく通じないどころか、反発だけを受けることになります。
確かに、主が語るように命じられているとき、相手が聞いても聞かなくても、とにかく、主のみこころを語るべきというときもあります。ただ私たちは、要らぬお節介ではなく、主ご自身が示されたタイミングに目を開く必要があります。
ただ、この文脈では、ペテロが、「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか」とイエスのお話しを受けて質問したという形になっているので、文脈からしたら、自分が被害者になった場合の対応が記されていると考えられます。
しかも、これを人の悪い行いを正すための、イエスが与えられたマニュアルのように理解してはなりません。残念ながら、ときに、現実の教会では次のようなことが起きます。
たとえば、ある人の行動が明らかに聖書の教えに反しているということに、あなたが心を痛めている場合、あなたはたぶん、気心が知れた人に相談するでしょう。そして、その人の罪を指摘すべきだとの確信に満たされて、その人の罪を個人的に指摘します。しかし、そのような指摘の仕方では気持ちが通じません。
それで、今度は、最初に相談した気心が知れた人を伴って、その人になお強く指摘することになります。しかし、多くの人は圧力を感じれば反発するだけです。それであなたは、そのことを教会の役員会にかけて戒規処分を求めざるを得なくなるなどという結果になります。そうすると、必ずと言ってよいほど、そのような処分に反対する人が生まれて教会が分裂するということになります。
迷い出た一匹の羊のために九十九匹を山に残すという文脈の中で記されている言葉を、最初から、共同体の聖さを守るためという名目での組織防衛や気心の知れた仲間との交わりを優先するようなことになっては本末転倒です。
ここに記されているのは、何よりも、気心の知れた人に問題を分ち合う前に、「あなたとその人だけのところで罪を明らかにする」という第一ステップの大切さです。自分の味方を作ってから、その人の心理的な応援を得て、罪を犯した人に有無を言わせないように体当たりをするなどということは、「兄弟を得る」というプロセスではありません。ここで意図されているのは、たとえば次のようなことでしょう。
あなたがある兄弟の言動によって、深く傷ついたとします。その場合には、まず誰かに、そのことを相談する前に、あなたとその人の間だけで、「あなたは何の悪意もなくそのようなことをしたのでしょうが、それによって私はこのような心理的ダメージを受けてしまいました」と問題を明らかにします。
すると、多くの場合は、傷つけた人は、「そのように言われて初めて、自分の過失に気づきました」と言って謝罪してくるでしょう。それはあなたの側にその人に気づきを与えたいという愛の思いが伝わるからです。そうすると、あなたは、自分にとって最も話が通じないと警戒していた人を、真の兄弟とすることができます。
ただ、もちろんそれでも、「それはあなたが勝手に傷ついただけでは・・」と図々しく反応する人がいるかもしれません。しかし、そこで初めて、気心の知れた人の助けを得て、問題を明らかにするのです。そのことが16節に、「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです」と記されています。これは、あなたが受けた被害の事実を第三者の目で確かめてもらうというプロセスであって、友の助けを受けて、加害者に圧力をかけることでは決してありません。
17節では、「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい」と記されていますが、教会とは何らかの組織ではなく、単に、信仰者の交わりの中で、それが共同体を傷つける行為であることを明らかにするという意味です。
ですから続けて、「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」と記されます。これはあくまでも、癌細胞の広がりを阻止するという共同体の責任として描かれています。
あなたが誰かの言動で傷ついたとしたら、その人に直接に訴えるのは非常に勇気のいることです。しかし、最も話しにくい人と最初に話すという勇気がなければ、真の和解などは生まれないということを忘れてはなりません。
2.「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており」
18節の「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです」ということばは、先の「異邦人か取税人のように扱う」という文脈の中で理解される必要があります。新改訳の脚注にあるように、「つなぐ」を「禁ずる」、「解く」を「許す」と理解する場合もありますが、それでは文脈と合わなくなります。
「つなぐ」の中心的な意味は「結びつける」ことですから、ここでは地上の教会に結びつけるなら、天の御国につながっており、地上の教会との結びつきが解かれるなら、天の御国との結びつきもなくなるという意味と理解すべきでしょう。
伝統的に、カトリック教会では、「教会の外に救いはない」と言い切られ、それが破門の脅しとして神聖ローマ皇帝さえ屈服させる力になったことがあり、言い方には気を付ける必要があります。
しかし、現実には確かに、このイエスのことばから明確なように、目に見える兄弟姉妹との交わりが全くないまま、天の御国に入るという人はいないことでしょう。
なお、これと同じ表現が、マタイ16章19節では、イエスがペテロに向かって、「わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます」と言われた後に出て来ます。それで、ペテロの後継者であるローマカトリック教会が人々を天国に入れるか地獄に落とすかの鍵を握っており、その執行手段として洗礼、ミサ、告解の儀式などが定められていますが、同じことばがこの18章に記されていることからすると、そのような解釈に無理があることが明らかです。
この文脈から極めて明らかなのは、教会の権威などということ以前に、地上の兄弟姉妹の交わりと、天上の交わりには、連続性があるということです。
たとえば、しばしば福音的な教会では、クリスチャンに回心した人に向かって「あなたは救われました。もう天国が保障されました!」と宣言し、だから、「今後のあなたの責任は、より多くの教会の外にいる人に福音を伝え、回心させることである」と言われることがあります。それは確かに一面の真理を現わしていますが、現実の教会ではしばしば、「だから教会の第一の使命は伝道だ!」と言いながら、多くの信徒が伝道プログラムへの参加に忙しくなります。
そのうちに、「私は、実は、教会の自己増殖のためのひとつの駒に過ぎないのでは・・」などと疑い初めることになります。それは自分の人生全体を神のみことばの視点から見ることができずに、天国行きか地獄落ちかという両極端でしか福音を理解していないことの悲劇から生まれる結果です。
私たちに「永遠のいのち」が与えられているということは、この地上の教会の兄弟姉妹の交わりが、永遠に続くということです。今、兄弟姉妹を赦すことができていないなら、あなたは新しいエルサレムに入った時、深く後悔せざるを得なくなります。愛の交わりは成長し、より豊かになるものなのです。
私たちの教会のビジョンの最初が。「キリストの愛に安らぎ、いやされ、成長する」となっているのは、教会が伝道を効果的にするための組織である前に、福音を味わい、過去の人間関係で傷ついた人が癒され、キリストの共同体としてともに成長できるというプロセスを現わしたものです。
人は肉の家族関係に始まって傷ついてきています。ですから福音の何より実は、目に見える人との関係に現わされるはずなのです。ヨハネはその手紙の中で、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Ⅰヨハネ4:20)と記していますが、兄弟姉妹を愛することと神を愛することは切り離せない関係にあるのです。ですから、互いに愛し合うことこそが、神への愛の最高の証し、つまり伝道になります。
教会の働きで、伝道と交わりが対立的に言われることがありますが、つねに、互いに赦し合うことができる交わりこそがすべての出発点です。そのことをイエスは弟子たちに向かって、「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13:35)と言われました。
なお、ヨハネ福音書では復活のイエスが弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われた上で、「息を吹きかけて」、「聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」と、弟子たちを通してご自身の罪の赦しの福音を世界に広めると宣言されました。
私たちはイエスの御霊を受けて、主の代理として世に遣わされたばかりか、「人を赦さないなら、その人の罪は赦されない」とまで、途方もない責任を委託されています。なお、これは、人々の回心を促すために一生懸命、神学的な論証をして、人々を説得するというよりは、神がイエスによって、世の罪を赦してくださったという神のみわざを「宣言する」ことではないでしょうか。
たとえば、「あなたがイエスを救い主として信じ受け入れるなら、あなたは救われます」と言うのは、説得になります。たちまち、あなたは「信じ受け入れる」とは、また「救われる」とはどういう意味ですか、と質問を受けるでしょう。
しかし、あなたの目の前で罪責感に悩んでいる人に、慈しみの眼差しと同時に心からの尊敬を込めて、「神はイエスの十字架によって、あなたの罪を赦してくださった」と宣言するなら、その人の目は、イエスに向かうことでしょう。
その人の信仰心に訴えるのではなく、その人にイエスのみわざを見せるのです。それが真のことばとして伝わるためには、そのことが単なるキャッチコピーではなく、キリスト者の交わりの中で現実となっている必要があります。多くの場合、罪の赦しを伝える人が、互いの赦しを確信していなければ、赦しの福音は伝わらないのです。
3.「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら・・・」
イエスは教会に与えられた崇高な責任について語った後に、19節ではまず最初に、「もう一度」というより、話しを展開するという意味を込めて「さらに」と言いつつ、18節と同じ「まことにあなたがたに告げます」と繰り返して、「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」と言われました。
この場合の、「もし」とは仮定法ですから、「地上で心を一つにする」ということがいつでも簡単に起きるわけではないことが示唆されています。それは、今までの「もし、聞きいれたら、あなたは兄弟を得た」(15節)とか、「地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており」(18節)という、兄弟との和解を前提として、「天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」と言われているからです。
しかも、ここはさらに、「どんなことでも祈る(求める)なら」という条件文が重ねられています。それは主がかつて、「求めなさい。そうすれば与えられます」(7:7)と言われたことを思い起こさせるものです。
つまり、私たちの心の願いがかなえられるための条件が、「心をひとつにする」ということと、熱心に「求める」ということが重なっているのです。
私たちはその点で、祈りにおいて、兄弟と心をひとつにするということと、熱心に求めるということに欠けていることが多いのかもしれません。
しかもイエスは続けて20節で、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と言われましたが、これは「もし」という仮定法ではなく、「まさにその通りだ」という強調を伴って、イエスの御名によって集まる所には、たといそれが「ふたりでも三人でも」という驚くべき少人数であっても、イエスはその交わりの真ん中にいてくださるという意味です。
そこで問われているのは、私たちの心の状態ではなく、イエスが主としてあがめられているという、主の御名に中心が置かれているかということです。イエスはあなたの罪を赦すために十字架にかかってくださいました。それならば、真の意味で、イエスの御名において集まるところには、本来、赦しがないということ自体が自己矛盾、あり得ないはずだからです。
そのような中で、ペテロがイエスに向かって、自分の寛大さを誇るかのように、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」(18:21)と尋ねたことが描かれます。たとえばアモス書には、主ご自身が、「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」(2:6)と記されています。それで当時の人々は、「三度までは赦しても良い・・」という言い方をするようになったとも言われます。それに対して。ペテロは、「私は七度まで赦します」と言ったのだと思われます。
それにイエスは、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」(18:22)と言われました。それは無限の赦しの命令です。その根拠を示すために、次のようなたとえを話されました(18:23-34)。
そこでは、「天の御国」が、「地上の王にたとえ」られます。まず王は、一万タラントの借りのあるしもべが、「どうかご猶予ください」と必死にすがったことに対し、「かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除して」やりました。ところが、そのしもべは、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会ったとき、その人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ」と迫り、その人の懇願を受け入れず、仲間を投獄したとのことです。
それを伝え聞いた王は、そのしもべを呼びつけ、「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言って彼を投獄しました。
そしてイエスは、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」と厳しく言われました。つまり、神から赦された者は、兄弟を赦すのが当然の責任なのです。
なお、ここでは借金の額の差が大きな意味を持っています。王が免除した借金の金額は一万タラントと記されています。一タラントは六千デナリ、一デナリは当時の労働者の一日分の給与です。ですから一タラントは一年間の労働日数を300日として計算すると、20年分の給与に相当し、一万タラントとは、20万年分の給与に相当します。これは一日の給与を五千円と計算するなら、3,000億円に相当します。
一方、このしもべがあくまでも借金を取り立てようとしたのはたった百日分の給与、同じ計算をするなら、50万円に過ぎません。多くの人にとって、50万円というのは大きな金額かもしれませんが、3,000億円との比較では、ほんとうにわずかな金額に過ぎません。
主の祈りでは、「罪の赦し」というよりは、「借金の免除」を願うということばになっており、「私たちの負い目をお赦しください」と願った後に、「ちょうど、私たちが私たちに負い目ある人を赦すように」という告白が追加されます(マタイ6:12)。あくまでも、「借金を帳消しにしてください」と図々しく嘆願してから、その後に、このようなたとえを思い起こしつつ、「私たちも兄弟の負債を免除します」と告白する形になっています。
私たちが人の負い目を赦すことができないのは、自分がどれだけ多くの負い目を、神に対して、また神から与えられた親や教師や様々な恩人に負っているかを理解していないからです。
聖書の世界では、親の財産を子供がそのまま受け継ぐということは当然のこととは記されていません。五十年ごとに蓄えも負債も帳消しになるというヨベルの年の教えがある通りです。
多くの日本人は、水と空気と安全は、無料であるかのように誤解しますが、世界を見わたすと、明日の生活の心配がないということがどれだけ大きな恵みであるかが分かるのではないでしょうか。
パウロは自分のことを誇っているコリント教会の人々に、「あなたには、何か、もらっていないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と叱責しました。神は私たちに負い目の請求をなさらないばかりか、受けたものを自由に使うことを許していてくださいます。
私たちは自分がどれだけの負い目が赦されているかを理解できれば、ごくごく自然に、人の負い目を赦すことができるようになります。問題は、私たちが神を見上げることを忘れて、人と自分を比べて、どんぐりの背比べのような愚かな競争をやっていることにあります。
このたとえは何よりも、先の、「地上で心を一つにして祈る」ということに結びつきます。兄弟愛の最大の妨げは、自分がどれだけの負い目を赦されている存在であるか忘れているということにあります。
ただし、それは説得されてわかることではなく、聖霊のみわざです。「赦しなさい」と命じられて、赦すことができるぐらいなら、イエスは十字架にかかる必要はありませんでした。
そして、十字架のことばとは、何よりも、私たちが自分の罪を意識する前から、私たちのために赦しの道を開いてくださったということです。パウロは、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです」(Ⅱコリント5:20)と、神がご自身の赦しを受け入れるように懇願しておられるようだと言いました。
「心を一つにして祈る」ことこそ、最大の伝道になります。以前、末期がんの方をお見舞いしました。その方は、いろんな新興宗教を転々としたあげく、「あなたの信心が足りないから、このような病になった」と言われ、絶望しておられました。その方の友人の信者は、その葛藤を良く理解し私に伝えてくださいました。それで彼女の気持ちに寄り添うような祈りをあらかじめ書いて備えることができました。
そこには彼女の葛藤と同時に祈りの中に福音を書きました。それは、神の御子ご自身が身動きのできない癌患者のような苦しみをともに味わうため、人となってくださったこと、そして、三日目に死人の中からよみがえることによって、死に打ち勝たれたことです。彼女もその友人も私も、その祈りに本当に真心から、気持ちを合わせることができました。「病気になって初めてぐっすり眠ることができた。また自分がどれだけ大きな恵みの中に生かされてきたかが分かった」と心から感謝してくださいました。
それ以来、病人に信仰の決心を促す代わりに、その人の気持ちになった祈りを、その人の傍らで祈るということを心がけて来ました。多くの日本人は「宗教に入る?」ことに警戒心を抱きますが、「祈ってもらう」ことには心を開きます。しかし、クリスチャン生活の核心とは、イエスの御名によって、主の父なる神に祈ることに他なりません。祈りを導くことこそ最も効果的な伝道なのです。
先日、ある姉妹のお父様が天に召されました。その方は、数百年続いたお寺の家系で、戦死されたお兄様の代わりに住職になるべき立場だったのに、「教師になりたいから」と断ったため、お寺の跡継ぎは、まだ幼かった甥御さんに委ねられることになってしまいました。その負い目を感じているお父様に宗旨替えを促すことはできないと思われました。
それで私は彼女に、お父様の心の奥底にある思いを受け止め、それにイエスの救いのみわざを重ねて、彼に代わって祈るようにお勧めしました。やがて、その祈りが習慣化され、お父様は、まさに彼女に祈りに自分の心をぴったりと合わせられるようになりました。
そして、詳細は省きますが、最後にまさに、イエスが彼を迎えに来られたということを確信させるような仕草を彼女に示しながら、平安のうちに息を引き取られたとのことです。
必要なのは、説得ではなく、イエスの救いのみわざを宣言することであり、神の御子イエスが私たちの痛みを担うため人となり、罪の身代わりとして十字架にかかり、三日目によみがえって死の力に打ち勝ったことを覚えて、心を一つにして祈ることなのです。
イエスのみ名による交わりの祝福は、何よりも、「どんな事でも・・心を一つにして祈る」ことにあります。そこにこそ、教会のいのちが現わされます。