ヨハネ5章19〜47節「すでに始まっている救いの時」

2014年12月28日

クリスマスのたびごとに、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:6)と読まれながら、闇の中で救いを待ち望んでいた人々のために救い主が誕生してくださったことを喜びます。

しかし、ふと、「私の周りはなお暗やみばかりだ。仕事は大変なばかりで、いつまで続けられるかもわからない。景気の良いのは株を持っているような金持ちばかりだ。放射能汚染の解決の目処もなく、国の借金は増すばかり、年金の期待もできない。どこに夢があるのか・・・」とつぶやきたくなるかもしれません。

イエスの時代の人々が望んでいた「救い」とは、ローマ帝国の圧政から解放され、神の民ユダヤ人のための独立国家が生まれることに他なりませんでした。救い主は、神の敵をたちどころに滅ぼす方として現れるはずでした。ところが、救い主は、何もできない赤ちゃんとして現れたというのです。

しかも、救い主の誕生を聞いたヘロデ王はベツレヘム近辺の幼児を虐殺しました。何も変わらないどころか、かえって時代が悪くなったように思えました。

ところが、イエスの説いた福音は、ローマ帝国を滅ぼすどころか、その全域の社会の底辺に広がり続け、やがてローマ皇帝自身がイエスを救い主と告白し、カレンダーをキリストの降誕の年を「主の年」の始まりとするようになりました。ローマ帝国を滅ぼす代わりに、ローマ帝国をイエスの前にひざまずかせるような不思議な力が福音にあったのです。

私たちは既に、主の救いを受けています。私たちは既に新しいエルサレムの市民とされています。二千年余り前のイエスの誕生によって、どのような新しい時代が到来しているのか、その意味をともに考えてみましょう。

1.「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです」

ヨハネ5章は、イエスがベテスダの池で三十八年間もの間、病気にかかっている人に、「よくなりたいか」と聞いたうえで、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という一言で癒してくださった記事から始まります(6,8節)。

しかし、「その日は安息日であった」ということで、この癒された人は、ユダヤ人たちから、「床を取り上げて歩いてはいけない」と責められ、この人は、自分の身を守るためなのか、「自分を直してくれた方はイエスだと告げ」ます(9,10,15節)。それによってイエスは安息日律法違反で迫害を受けます。

それに対して、イエスは何と、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(17節)と答え、ご自分を神と等しくされました。

19節でイエスは、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません」と、ご自分の癒しのみわざが、安息日を定めた父なる神に由来することを大胆に語りました。そればかりか続けて、「父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」と言われ、敢えて彼らの疑念を肯定するかのようにご自身を「神と等しく」(18節)されました。これは、彼らにはとうてい受け入れられません。イエスは敢えて、神への冒涜罪を自分で招きよせています。

そればかりかイエスは、「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです」(20節)と言われました。「さらに大きなわざ」とは、次の21、22節のことを指していると思われます。

まず、イエスは、「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(21節)と言われました。38年間、死んでいたも同然の生き方をしていた男を歩けるようにしたのは、この男の信仰以前に、イエスの一方的なみわざでした。私たちの場合も、イエスがいのちを一方的に「与えたいと思って」くださった結果として「いのち」が与えられました。私たちは不信仰を卑下する必要などありません。神とその御子ご自身が私たちを選び、「いのち」を与えてくださったのです。

そればかりか、イエスは、「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました」(22節)と言われましたが、イエスに対してどのような態度をとるかが、私たちの「いのち」にとって何よりも大切なことです。そこで問われているのは私たちの所まで降りて、私たちと同じ弱い肉体を持ってくださった「不思議な助言者」(イザヤ9:6)である方の導きに従う気持ちがあるかどうかということです。

そして、さばきが子に委ねられた理由が、「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」(23節)と述べられます。当時のユダヤ人たちは、イエスを、「神を冒涜する者」と非難しましたが、イエスによるとそのようにご自身を迫害する者たちこそが、神を冒涜していたというのです。

なお、旧約聖書が語っているのは、人が、すばらしい教えを神から受けながら、それを守ることができなかったという人間の罪の深刻さです。しかし、神は終わりの日に、人の心を根本から造りなおすために救い主を遣わすと約束しておられました。

ですから、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる」(24節)とは、自分の罪の現実を受けとめ、父なる神がイエスを通してなして下さろうとすることにお任せすることなのです。

しかもここでは、イエスのことばを聞いて御父を信じる者は、すでに「永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている」(24節)と断言されます。「永遠のいのち」とは、「新しいエルサレム」のいのちの交わりを今から体験していることです。主は私たちが呼ばないうちから答え、語っている先から既に聞いていてくださいます(イザヤ65:24)。

また、「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです」(25節)とは、私たちも霊的には死人と同然だったのに、イエスの御声を聞いて、生きる者とされたという意味です。

私たちの中には、「もう生きる力が湧かない。死にたい」という絶望の中で祈りながら、不思議な神の光に包まれ、新しい歩みに入ることができた方が何人もおられます。そのようなお証しを聞かれるのは何という幸いでしょう。

私たちのいのちは、自分で獲得したものではなく、イエスによって与えられたイエスのいのちです。ですから、このいのちをだれも奪うことはできません。しかもここでは、「それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです」(26節)と記されています。

それは、イエスとの交わりに生きる者がすべて、イエスのいのち」にあずかっていることを指しています。

そればかりか、「また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです」(27節)とあるのは、ダニエル7章13,14節を思い起こさせる表現です。イエスはご自分をダニエルが預言した人の子として神の前に導かれ「主権と光栄と国が与えられ」ることを語ったのです。

イエスが後にユダヤの最高議会で死刑判決が下されたのは、ご自分が預言された「力ある方の右の座に着」く「人の子であると宣言したからです(マタイ26:64)。

その上でイエスは、「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(28節)と言われました。それはすべての人が、やがて墓の中に葬られるからです。

そして、すべての人はやがて「子の声を聞いて」、復活にあずかるのですが、それが恵みではなく、永遠の苦しみの始まりでもあり得るという意味で、「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」(29節)と記されています。これはダニエル12章2,3節に記されているその書の結論でもあります。

なお、イエスは先に、38年間、臥せっていた人を見つけて癒し、その後も宮で彼を見つけて、「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」(14節)と、その生き方を変えるようにと警告されました。彼が受けたこのすばらしい癒しは、健康な体で永遠に苦しみ続けることの始まりにもなり得るからです。

ところが彼は、神の御名をたたえる代わりに、イエスが迫害される道を開いてしまいました。残念ながら、彼はイエスに身体を癒されながら、心が癒される機会を自分で閉じたのです。

もし彼がイエスに向かって、「私の罪とは何ですか」とか「安息日律法違反で非難され、怖くてたまりません」などと、正直にイエスに訴えるなら、まったく違った人生が待っていたのかもしれません。なぜなら、それこそがイエスに信頼して「いのち」を受ける始まりだからです。

イスラエルの民にとっての38年間とは、本来、荒野で信仰の訓練を受け、ゼレデの谷を通過した後(民数記21:12)、エモリ人の王シホン、バシャンの王オグなどに連戦連勝するように変えられるという勝利の生活への転換点でした。逃亡奴隷の集団が、連戦連勝の主の民へと変えられたのです。

同じように、本来、イエスのことばを聞いて御父に信頼して「永遠のいのち」に入れられるとは、「死んでも天国に行ける」ということ以前に、この世の様々な困難に立ち向かいながら、最終的な勝利を体験することができる人生の始まりなのです。

しかし残念ながら、この38年間臥せっていた男は、この時は主の力を受けながら、この世の戦いを避けてしまいました。それは私たちの問題にもなり得るかもしれませんが、恐れる必要はありません。旧約の歴史を見ると、イスラエルの民は何度も主の恵みを忘れて、さばきを受けてしまいますが、最終的に、主は彼らのために救い主を送って、彼らを心の底から造り替えようとしてくださいました。

これはあくまでも希望的観測ですが、この男はイエスが十字架にかけられた場面を見ながら、自分の罪がイエスを十字架に追いやったことを自覚し、真に悔い改めることができたのではないでしょうか。

2.「父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになった・・・わざそのものが・・証言している」

なお、イエスは引き続きご自分と父との関係を述べ、「わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころ(望むこと)を求めるからです」(30節)と言われました。

イエスはご自分のこころを父なる神に明け渡しておられました。イエスはご自分の望みではなく、父のみこころ(望み)を第一にしておられました。

そしてイエスは、「もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです」(31,32節)と、突然話題を変えるようなことを言われました。

そして、「その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました」(32,33節)と言われますが、これはバプテスマのヨハネがイエスご自身のことを証ししていることを指しています。

それは、申命記19章15節では、「ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって・・立証されなければならない」と記されているからです。

そして、引き続き、ヨハネについて、「といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです」(34,35節)と言っています。

この福音書では最初からヨハネの働きについて、「この人はあかしのために来た・・・彼は光ではなかった。ただ、光についてあかしするために来たのである」(1:6,7)と記されていますが、ヨハネは「光」ではなく、消えてゆく「ともしび」でした。

彼はエルサレム神殿の祭司の息子であり、その質素で権力を恐れない力強いメッセージによって多くの人々をまことの神に立ち返らせていました。そのヨハネが、「ともしび」のように自分のいのちを削りながら、イエスを「神の子」として紹介していました(1:34)。

ただイエスは同時に、「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです」(36節)と語りました。

それはたとえば、イエスがこの38年間の病であった人をたった一言で癒したことに現されています。ニコデモも、イエスに向かって、「神がともにおられるのでなければ、あなたのなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」(3:2)と語っていました。

イエスはここで何よりも、ご自身が行なう特別な「わざ」は、すべて父なる神から与えられ、神から遣わされたという証言であると言われました。

続けてイエスは、「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません」(37節)と言われました。これはイエスがバプテスマを受けたとき、天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と言われたような事実を指すと思われます。

イエスは地上で私たちと同じような肉体の限界を持っておられましたが、神の御声を聞き、御姿を拝することができました。イエスの肉体も精神も私たちと同じように傷つきやすいものでしたが、全能の父なる神との交わりの中で支えられていました。

たとえば、イエスが生まれたばかりの乳飲み子であるときは、ことばも話せず、歩くこともできず、ただ泣いて自分の空腹を知らせることしかできなかったことでしょう。しかし、父なる神がマリヤとヨセフを用いてイエスを支え育てました。信仰は決してスーパーマンのようになる道ではないのです。

マザー・テレサは「神はいっぱいのものを満たすことはできません。神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。本当の貧しさを、神は満たすことができるのです・・・与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なのです・・自我から目を離し、あなたが何も持っていないこと・・・何もできないことを喜びなさい」と言っています。

3.もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです

またイエスは当時の人々の聖書の読み方を非難して、主がこれまで語ってくださった「そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません」(38節)と言われました。

それは聖書を何かの規範、ルールブックかのように読んで、そこに記された神の救いのご計画の全体像に思いを馳せることがなかったからではないでしょうか。

そしてイエスは続けて、「父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(39節)と言われました。これは聖書全体に描かれたイスラエルの物語を指しています。

彼らは、理想的な神の国をカナンの地に実現するために神の御教えを与えられました。しかし、彼らはそれを守る代わりに人間的な知恵によって国を運営し、ついには神が最も嫌われる偶像礼拝に走り、自業自得で国を滅ぼしました。ただ神は様々な預言者を遣わし、神が「救い主」を遣わしてこの地に神の国を実現してくださると繰り返し語っていたことを指します。

ところが、彼らはイエスのもとに来ようとはしませんでした。40節は、「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようと決して望みはしていません」と、彼らに救いを求める意志自体がないということを責めたものです。

ただ同時に、ご自身の側には彼らの賛同を得る必要が全くないことを、「わたしは人からの栄誉は受けません」(41節)と言われました。続けてイエスは、「ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません」(42節)と言われました。「神の愛」が「神への愛」なのか、「神に由来する愛」なのかは大差はありません。私たちは神からの愛を受けることなくして神への愛を持つことができないからです。

またイエスが、「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです」(43節)と言われたのは、彼らが人間的な基準で、世的な血筋や影響力によって人を判断しているからです。

イエスの時代の前後には、救い主を自称する人々が現れ、人々もローマ帝国からの独立運動を指導してくれるような軍事指導者を望んでいました。

それを前提に主は、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」(44節)と言われました。人は一人で生きることができません。何かをするには仲間が必要です。だからこそ高い理想を掲げる人は、人々の栄誉を受ける必要があります。

しかし、多くの場合、栄誉を求める心自体が独り歩きしてしまいます。本当に大切なのは、いつでもどこでも、神の眼差しを意識して生きることなのです。

そしてイエスは続けて、「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです」(45節)と言われました。これはモーセが、申命記18章15節で、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような(ひとりの)預言者をあなたのために起こされる。彼に従わなければならない」と言われたことを指しています。

ここで「預言者」ということばは単数形ではありますが、唯一の救い主を指すというよりも、その時代時代に、必要な一人の預言者を神が起こしてくださるというようにも解釈できます。

とにかくモーセは、自分のような預言者の現れを告げ知らせており、その方に従うようにと命じていたのに、人々は多くの預言者たちを退けたように、イエスを拒絶しようとしています。

そして、最後に、「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう」(46,47節)と言われました。これは、申命記に記されているモーセのような預言者というよりも、モーセが記した神の救いのご計画全体を指していると理解すべきかと思われます。

イエスの時代の人々は、ローマ帝国との戦いに勝利できるような救い主を求めていましたが、モーセの書に記されている救いの物語は決して、そのように誰の目にもすぐに明らかになる救いではありませんでした。

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、モーセすべてに共通することは、神は彼らをまず徹底的に砕き、彼らが自分の力では何もできないということを思い知らせて、その上で、神のみわざを示すという物語です。

そして、それはイスラエルのバビロン捕囚という民族の悲劇にも共通します。申命記32章のモーセの歌にも、バビロン捕囚のさばきが預言されるとともに、そこからの回復の事が記されています。そして、ルカ15章の有名な放蕩息子のたとえはそこから必然的に生まれる物語です。

聖書には繰り返し、苦しみを通して栄光に入れられるという物語が記されています。しかし、暖かなクリスチャンホームで育てられ、大きな挫折体験もなく、順調に育っている人もいます。それも素晴らしいことです。あえて挫折など選ぶ必要はありませんから・・・。

それでも、そのような人も、神に従う歩みのどこかで必ず、自分の弱さに圧倒され、すべてが恵みであり、自分は神の恵みによって生かされてきたということを心の底で味わうときがあります。

当時のユダヤ人たちは、安息日律法を守ることに熱心でした。それは、自分たちが律法を守らなかったことによって国を失ったという反省がありました。しかし、それがやがて、「みんなが律法を守るなら国は栄えるはずなのに、律法違反者がいるから他国に虐げられている」などと非難し合うようになり、せっかくの神の御教えが互いをさばく基準になってしまいました。

私たちも知らないうちに、神が既にもたらしてくださった救いを味わう前に、もっと熱心に信心すれば、すべてが変わるはずという、ここに既にある救いを無視して、夢ばかりを追いかけてはいないでしょうか

ローマ帝国がイエスの前にひざまずくようになったのは、キリストに従う者たちが、肉体の命も健康も、財産も失うことを恐れなくなり、剣の脅しが何の効果も持たなくなったからです。

「なぜ彼らはそのように失うことを恐れなくなったのか」、それは自分たちが既に、「死からいのちに移って」おり、日々の生活の中に神がもたらしてくださった救いを発見し、また、聖書を読む中で、神の民の物語が、常に、苦難を通しての勝利であることを確信したからです。この世の人々が期待する救いではなく、イエスが実現してくださった「救い」を今ここで味わっていたからです。