マタイ1章17〜25節「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」

2014年12月21日

「親の因果が子に報い・・」というのは、とっても嫌な表現ですが、私たちの生きにくさの一面を言い当てているのかもしれません。たとえば、親から虐待を受けて育った子供は、親になった時、「私は親のようには絶対にならない・・」と願っているのに、同じ過ちを繰り返してしまう・・・ということがあります。

依存症も、隔世遺伝すると言われることがあります。しばしばすべての依存症には、「問題と、それに伴う苦しみを何としても避けて安易に道を見つけようとし、当然の正しい生き方から離れ、入念に幻想の世界を作り上げて、現実を排除してしまう」という構造が見られます。

それに対して、聖書が語る「罪からの救い」とは、そのようなのろい」の現実に真正面から向き合い、連鎖から解放されることです。人はだれも、親を初めとして、自分の人生の基本的な部分を選ぶことはできませんが、神はそれらすべてを「祝福の基」とすることができる方です。

1.「のろい」を「祝福」に変える救い主

聖書では、私たちの仕事で思い通りの結果を出せず、しばしば徒労に終わり、仕事に生きがいよりも苦しみを感じるようになったのは、アダムが神に背いた結果であると記されています。

また、女性の出産の苦しみが厳しくなり、また夫を恋い慕いながら支配されてしまうのは、エバが神に背いたせいであると記されています。

残念ながら、人は、多かれ少なかれ、アダムとエバが犯した罪の影響を受け継いでいると言えましょう。

マタイの福音書の最初には、長い系図が記されますが、イスラエルの民の歴史が苦難に満ちたものとなったのは、自分で「のろい」を選び取ってしまったからです。

神はかつてモーセを通して「いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く、あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と語りましたが、ダビデの後継者は「のろい」を選び取ってしまいました。

しかし、この系図には、不思議な逆転が示唆されています。ここには、明確な血筋の関係を表す四人の女性の名が登場しますが、それはみな忌まわしい過去を持っています。

ダビデはヤコブの第四男のユダの子孫ですが、その系図で「タマル」(3節)は遊女の姿をして義父のユダを欺き、子を設けました。しかし、神は彼女の信仰を見られて、その子を祝福してくださいました。

「ラハブ」(5節)は、ヨシュアがエリコ攻撃の前に遣わしたスパイを、命がけで逃したエリコの遊女です。神は彼女の信仰を喜ばれイスラエル人に嫁がせました。

「ルツ」(5節)はモアブの女でしたが、その民は十代の子孫さえイスラエルの民の交わりに入れられないはずでした。しかし、神は、彼女の信仰を喜ばれ、ボアズの嫁にしました。そして、その孫としてダビデの父エッサイが生まれます。

そして、ダビデの跡継ぎとなったのはソロモンですが、その母はここでは敢えて「ウリヤの妻」(6節)と記されます。ウリヤはユダヤ人ではありませんでしたが、ダビデの忠実な家来になりました。この記し方は、ダビデがその信頼を裏切って、忠実な家来の妻を奪い取ったという罪を明確にしています。しかし、神は、この「のろわれた関係」さえも「祝福」に変え、その関係から生まれたソロモンに最高の知恵と力、富と名誉とを与えてくださいました。

この四人の女性に共通するのは、「のろい」が「祝福」に変えられたということです。血筋の上では「のろい」でしかありませんでしたが、彼女たちはアブラハム契約の中に身を寄せてきた結果として、祝福の基と変えられたのです。キリストが「のろい」を「祝福」に変える「救い主」であるということが、彼女たちの名を通して明らかに示されているのです。

2.「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」

マタイの福音書では、「預言が成就するため」ということばが繰り返されますが、様々な預言書に記されていることの中心は、簡単言うと、目の前にはとてつもない悲惨が見えるけれども、それは神の約束が反故にされたということを意味はしない、この苦しみの後には、すばらしい祝福の世界が広がっているから、それを待ち続けるようにという励ましです。

1章18節では「イエス・キリストの誕生の次第は…」とありますが、ここにはベツレヘムへの旅も、飼い葉おけも、羊飼いも、天の軍勢の賛美もありません。これは誕生の様子を報告する記事ではなく、預言の成就、つまり神の救いの計画が実現したことを描こうとしたものだからです。

しかも、「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが」と、マリヤの人柄も信仰も何も述べられずに、ヨセフとの結婚を約束した女性であったことだけが記されます。

そして、あり得ないようなこと、「ふたりがまだいっしょにならないうちに・・・身重になったことがわかった」と記されます。厳密には、「聖霊によるものを腹に宿していることがわかった」と記されていますが、「聖霊による子」であることはマリヤにはわかっていてもヨセフにはわかりません。

そこで、「ヨセフは正しい人であって」と描かれますが(19節)、それは神の御教えに忠実な人という意味ですから、自分との関係以外の人の子を宿しているような女性との結婚はあきらめざるを得ないと考えるのが当然でした。そして、当時の正当な手続きとしては、彼女の浮気を祭司に訴え出るという手続きがとられるはずでした。なぜなら、当時の婚約は現在の結婚と同じ拘束力を持っていたからです。

律法によればそのような女性は石打ちの刑に処せられるはずですが、当時の慣習としてはふしだらな女として村八分にされるということがありました。

ただし、ヨセフは、そのように「彼女をさらしものにはしたくなかったので、内密に去らせようと決め(切望し)た」というのです。この趣旨は、杓子定規にマリヤの罪を裁こうとするのではなく、彼女が今後もどうにかして生きて行かれることを真剣に「望んだという意味だと思われます。

ところが、「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れ」ます(20節)。御使いの最初のことばは、「ダビデの子のヨセフ」というものです。

当時、普通の人に名字はありませんでしたから、「ヤコブの子のヨセフ」などと、父親の名前をつけて似たような名前を区別しましたが、一介の大工に過ぎないヨセフを「ダビデの子」と呼ぶのは途方もないことです。天使が現れ、ヨセフを「ダビデの子」と呼んだということ自体が、ヨセフにとっては驚きであり、恐れ多いことでした。

その上で御使いは、「恐れないで、あなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」(20節)と言います。つまり、マリヤの胎に子が宿ったのは、神が人智の超えた救いのみわざを実行に移されたからなのです。

そして、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(21節)と言われますが、生まれる前から名を与えられるというのは、神の特別の選びの器であることの証明です。

なお「イエス」という名は、当時の結構ありふれた名前でした。それは、へブル語読みにすると「ヨシュア」、モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地に導いた指導者です。

つまり、この場面を通して、マリヤから生まれた子が、見たところごく普通の子として生まれながら、なお、普通の人間にはできない途方もない働き、神の民を導いて、神の地を平和のうちに治めるという働きを担ってくださるというのです。

その際、ここで御使いはヨセフに、イエスに与えられた使命をもっと具体的に、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と言いました。「罪からの救い」は、抽象的な概念ではなく、イスラエルをバビロン捕囚の「のろい」から解放するというものでした。それは神が再びイスラエルの民の真ん中に住み、彼らをこの地がもたらす飢えや渇き、周辺の国々の攻撃から守り、あらゆる祝福に満ちた平和な国を作ってくださるという約束です。

しかも、それは、イスラエルの民ばかりか、全世界に及び、そこではイザヤ11章に記されていたような神の平和(シャローム)が全地に満ちることになります。

つまり、「罪からの救い」とは、私たちのために「新しい天と新しい地」への道が開かれたことを意味するのです。そしてまた、「罪からの救い」とは、人生の方向が、「のろい」から「祝福」へと決定的に変化することを意味します。

3.「その名はインマヌエルと呼ばれる」

そして、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった」(22節)と記されます。つまり、「救い」とは、イスラエルの民に与えられた預言の成就という観点から見る必要があるのです。

そのことばが、「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ7章14節のみことばでした。これは、エルサレムの王アハズが預言者イザヤの勧めを退けて、人間的な解決を図ろうとして神の招きを拒絶したときに、神が語られたことばです。

それは、神の救いは、人間の期待や想像をはるかに超えているということを現すことばです。

イザヤ7章の記事は、紀元前735年頃のことで、北方からアッシリヤ帝国が北王国イスラエル(首都サマリヤ)とアラム(その北東の国、首都はダマスコ)に迫ってくる時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリヤ陥落)。

この危機にイスラエルの王レマルヤの子ペカとアラムの王レツィンは南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いましたが、ユダの王アハズは拒絶しました。それでペカとレツィンはユダに傀儡政権を樹立し、服従させようと攻撃しかけてきました(7:1)。そのような中で、アハズはより恐ろしい敵であるアッシリヤと同盟を結ぼうとしました。

それに対し、主はイザヤを通して、右往左往せずに、ただ主の救いを待つようにと勧められ、信じることができないアハズにしるしを求めるように言われました。

ところが、アハズは、「私は求めません。主(ヤハウェ)を試みません」(7:12)と答えました。これは、一見、敬虔なようでありながら、文脈を無視してみことば引用するサタンの態度です。しかし、「主を試みる」とは、「しるしを見せてくれなければ信じない」という態度を指します。

それに対してここでは、主ご自身が、「しるしを見せてあげるから、信じる者になりなさい」と招かれたのです。ところがアハズの心の声は、「主を信じたら、今までの生き方を変えなければならない。しかし、それは嫌だ。もうすでに手がけていることがあるのだから・・」と語っていたのではないでしょうか。彼は、何よりも、「信じたくない!」という思いで一杯だったのです。

これは、私たちの場合も同様です。「信じます!」とは、「私は自分の生き方を変えます」と同じ意味を持つからです。多くの人の真の問題は、「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということではないでしょうか。もし、「私は信じたい!」と心から願うなら、神は、不思議なかたちで、信仰を与えてくださることでしょう。

「それゆえ…」(7:14)とは、信仰への招きを拒絶したということを前提としてという意味で、「あなたがたにひとつのしるしを与えられる」とは、ダビデの家(アハズの子孫たちを含む)に見せられるものですが、意外にもそれは、もはや信仰を生み出すしるしではありません

「見よ。処女がみごもっている…」と言われても、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。これは反対に、世の人々をつまずかせるためのしるしです。今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに・・」という人が後を断ちませんが、すでに永遠の神の御子である方が人間の身体を取るためには処女を通して生まれる必要があるというのは論理的な必然でもあります。

しかも、そこには、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられたことによって、神が悩む者の仲間となってくださったという意味が込められています。

たとえば人間関係で悩みながらも、イエスの誕生物語を思い巡らす人は、人々の嘲りに耐えたマリヤやヨセフの姿に慰めを受けることでしょう。生まれた子は、「インマヌエル」と名づけられますが、それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。ここには神が悩む者、不安に耐える者の友であるという思いが込められています。

実際、これから七百年後に処女マリヤから生まれたイエスを救い主として信じたのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、社会の底辺の羊飼いたちでした。彼らは現代のワーキングプアーと呼ばれるような人々で、神の真実により頼む以外に救いがないと思われる人でした。

4.神の不在の中で感じられる神の臨在

なお、イザヤ7章15-17節には、意外にも、インマヌエルと呼ばれる方の誕生が遅れることが三つの観点から示唆されます。

その第一は、その子が「悪を退け、善を選ぶことを知る」という年齢に成長するまで、「凝乳と蜂蜜」という貧しい砂漠の食物で育つということです(7:15)。つまり、ダビデの子孫である救い主は、王家が廃れた後の、貧しさの中に生まれるというのです。

そして、第二に、「まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らない」という、赤ちゃんになりもしないうちに、「あなたが恐れているふたりの王の土地は捨てられる」ということ(7:16)、つまり、救い主は、アハズの危急に間に合うようには現れないという意味です。

そして、第三に、主は、「エフライムがユダから離れた日(イスラエル王国が分裂しとき)以来、まだ来たこともない日」、つまり、国ができて以来の最大の「恐怖の日」として、アッシリヤ王の攻撃をもたらす(7:17)ということです。アハズが頼みとしたアッシリヤは、自分たちを救うどころか、エルサレムに最大の恐怖をもたらすというのです。

神の信仰への招きを拒絶したアハズに与えられたしるし、それは、希望ではなく、さらに大きな悲惨を迎えるというさばきの宣言でした。自分の知恵や力で問題を解決しようと思っている人は、救い主を求めることができません。そのため、神は、しばしば、その人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、その傲慢を砕かれます

つまり、「インマヌエル」という名の意味は、困窮と不安と敗北の中で理解できるものです。実際、イザヤ8章8節では、アッシリヤの攻撃がユダ王国を呑み込みそうになるところで初めて「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」と記され、また、8章10節では、ユダ王国を攻める国々の「はかりごと・・は破られる」ことの理由が、「神が、私たちとともにおられるからだ」と記されます。

つまり、目に見える現実が、期待通りにはならなくても失望する必要がないということこそが、インマヌエル預言の核心なのです。そのことが8章17節では、「私は主(ヤハウェ)を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける」と告白されます。

そして、イザヤ書ではその後、「あなたの神が王となる」(52:7)と、神の救いが目に見える現実として表されると宣言されながら、その道が、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(53:4)という苦難のしもべの姿が描かれます。つまり、神が与えてくださった「インマヌエル」というしるしは、この世的な成功の観念とはかけ離れているのです。

幸い、これはイエスの父となるヨセフにとって信仰を生み出すことばになりました。なぜなら、ヨセフはこの世の成功者とは程遠い生き方をしていたからです。彼は、御使いが自分を「ダビデの子」と呼んでくれた語りかけに信頼することができました。

かつてのエルサレムの王であったダビデの子アハズはこのことばを退けましたが、人間的には悲惨な生活をしている大工のヨセフはこのことばを受け入れることができました。それは自分の弱さを知っていたからです。

そのことが、「ヨセフは・・・主の使いに命じられたとおりにした」ということばで記されています。ヨセフはこれから自分の人生がどうなるかをわからないままに、神の真実に対して真実に応答しました。ヨセフの態度は、イザヤの預言を聞いた当時のアハズ王とは対照的でした。それは、彼が心から主のご計画の実現を期待していたからではないでしょうか。

バビロン捕囚直前の王たちは、神に信頼することに失敗し、国を滅亡に追いやりました。しかし、同じダビデの子孫であるヨセフは、葛藤を味わいながらも、神の計画を実現する器になることができました。これこそ、私たちに求められている信仰の応答です。

ここで「インマヌエル」と呼ばれている方は、その後、十字架にかけられ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエスは十字架で七つのことばを発せられましたが、マタイは人を困惑させるこの不思議なことばしか記録していません。それは、「神は今、ともにおられない・・・」という意味の叫びにほかなりません。

しかし、神は三日目にイエスを死者の中からよみがえられました。つまり、「神がともにおられる」という確信は、「神がともにおられない・・・」と思われるような苦しみとあざけりに耐えることを通してこそ、理解されるという霊的事実なのです。

かつてイスラエルの民が、ヨシュアに導かれてヨルダン川を渡り、約束の地を占領することができましたが、そこにはいつも全能の主がともにいてくださいました。

私たちは今、新しいヨシュアであるイエスを先頭に世界へと派遣されます。その際、かつてのような武力によってではなく、神の愛の力によってこの地に神の平和を広げるようにと召されています。

マタイ福音書の系図こそ、神がご自身の約束を守り通してくださったということの証です。のろいを祝福に変えてくださったということの証です。旧約の預言がひとつひとつ成就したということの証です。私たちは、これを味わうとき、神はこれからの私たちの人生を確実に守り通してくださるということがわかります。

インマヌエル「神が私たちとともにおられる」という霊的事実は、様々な苦しみの中でこそ味わうことができるもの、この世の暗闇の中で見ることができる「光」です。

マザー・テレサは明確な神の招きの声を聞いて、最も貧しい人々に仕える働きを一人で始めました。しかし、働きが軌道に乗ると、イエスの語りかけが聞けなくなりました。マザーは、「神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか・・私が求めても、あなたは答えてくださらない・・・私の信仰はどこに行ったのでしょう・・・ここにあるのは暗闇と空虚さだけ」と嘆くようになりました。

しかし、やがて、彼女の中に神への渇きを起こしているのが、神ご自身であるということに、孤独を通して、神に見捨てられたと嘆かれたイエスのみ跡に従わせていただいているという霊的な事実に気づきます。

そればかりか彼女はその暗やみの中で最も貧しい人々の気持ちと一つになることができました。ついに彼女は、「悲しみ、苦しみ、寂しさは、イエス様からの口づけに他ならない。それは、主の口づけを受けられるほど、十字架に近づいたのだから」と言うようになりました。

しばしば、多くの人々は、「わざわいの中で、神はどこにいるのか・・・」という問いかけをしながら、神を見失ってしまうことがあります。しかし、神は、わざわいのただ中に、ともにいてくださるのです。

そして、神の助けが必要ないと思われる人々の中で必死に神にすがって生きる人を通して、神はご自身の力を現してくださいます。何よりも、神は、私たちのこころの中に生きて働き、悲惨の中に希望を生み出し、また悲惨の中に愛の交わりを作り出してくださいます。

「罪からの救い」とは、どんな悲惨の中にも希望を生み出す力、どんな悲劇の中にも愛の交わりを生み出す力です。「罪からの救い」とは、私たちの罪が赦されて天国に行けるということ以前に、この世の悲惨の中に私たちを送り出す力になります。

復活のイエスは弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。クリスマスは、世界の創造主が、私たちと同じ弱い肉体を持つ人となって、この世の痛みや悲しみを背負ってくださったことを思いおこすときです。

神はイエスを私たちのもとに遣わし、そして今、イエスは私たちを暗やみの世界に遣わしてくださいます。私たちはそれによって、罪が支配する世の中で、「祝福の基」となることができるのです。