主を喜ぶことはあなた方の力であるから

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2014年秋号より

ネヘミヤ記には、バビロン捕囚から解放され、エルサレムへの最初の帰還を果たしてから約90年余り後の城壁完成へのプロセスが描かれています。城壁完成後、「イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はみな、いっせいに……集まって来た」(7:72、8:1) と描かれますが、これはエルサレム城壁の完成を祝うためです。過越しから第七番目の月の第一日は「ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合」の日で (レビ23:24)、後のイスラエルではそれが一年の始まりの日、元旦とされました。そして、その十日は民全体のための大贖罪の日、十五日から仮庵の祭りが始まり一週間続きます(今年のユダヤ暦では10月9日から16日に相当)。つまり第七の月はイスラエルにとって再出発を記念する月だったのです。

そしてここでは、「そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた」(8:2、3)と描かれます。そのような中で、「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって」、「きょうは、あなたがたの神、主(ヤハウェ)のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない」と言いました (8:9)。それは「民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたから」だと言うのです。律法の終わりの部分には、神の御教えを軽蔑した者に対する恐ろしい「のろい」のさばきが記されています。それがバビロン捕囚として成就しました。民はその歴史を思い起こしながら泣いていたのでしょう。

ネヘミヤはさらに、「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない」と言いました (8:10)。何も用意できなかった者に対する配慮までが記されていることは、まさにネヘミヤらしいことばです。

そしてその最後のことばは、新改訳の別訳のように「主(ヤハウェ)を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」と訳す方が一般的です。レビ記でも申命記でも、主ののろいが実現した後に、主の祝福のときが始まると記されていました。過去の反省も大切なのですが、それ以上に大切なのは、主が私たちの罪にも関わらず、私たちを赦し、回復させてくださったということを覚えることです。深く反省して行動を改めるというのは、この世の道徳律です。しかし、聖書の教えの核心は、人間の教えを超えた神のみわざに目を留めることです。彼らはこのとき新しい神の民の共同体として再出発するときでした。ですから、彼らに必要なのは、何よりも、主を喜ぶことだったのです。

そして、その結果が、「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」(8:12) と記されます。ここでは、何よりも「理解した」ということばが感動的です。このときの民は、真剣に律法の朗読と解き明かしに耳を傾けました。そして、「心から聞く」ことこそが律法の核心だからです。

その中で彼らは、「主(ヤハウェ)がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない」と書かれているのを見つけ出します (8:14)。

なお、仮庵の祭りを祝うことに関しては、ソロモンの神殿が完成したときにも、また最初のエルサレム帰還の民も大々的に祝ったと記されています (Ⅱ歴代8:13、エズラ3:4)。しかし、実際に仮庵を作って住むということは忘れられていたのでしょう。それで、民の指導者たちは、「山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、なつめやし、また、枝の茂った木などの枝を取って来て、書かれているとおりに仮庵を作りなさい」というおふれを出しました (8:15)。

仮庵を作る材料はすべて土地の豊かさを現す植物です。それはレビ記23章39-43節に記されていますが、そこでは何よりも、「七日間、あなたがたの神、主(ヤハウェ)の前で喜ぶ」ことが命じられています。申命記でも、「あなたは大いに喜びなさい」(16:15) と命じられています。

そこで「民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った」というのです (8:16)。そして、「捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった」(8:17) と、これがヨシュアに導かれて約束の地に入ってきて以来の大きな出来事であると描かれます。

「主(ヤハウェ)を喜ぶことは、あなたがたの力である」(8:10別訳) とありますが、「主を喜ぶ」とは、何よりも、主の恵みのみわざを思い起こすことと同時に、主が約束しておられる将来への「夢」を思い描くことから生まれるものです。聖書を読むことによって、神がこの世界の歴史を完成へと導いておられることが見えてきます。

そして、それはひとりひとりの人生に関しても適用できることです。あなたの人生に現された神の恵みの歴史を繰り返し思い起こしましょう。そしてそこから将来への夢を思い描きましょう。それこそ神の民の「力」の源泉です。自分の無力さに圧倒されるような時こそ、「主を喜ぶ」という信仰の原点に立ち返り、将来に対する主の約束を生き生きと思い描いてみましょう。現実に根差した夢を持っている人は、閉塞感に満ちた世界を変える力を持っています。

この世の常識は、いつも何か反省点を捜し出して、それを正すことによって成長するという論理です。知らないうちにキリスト教会にも、そのようなハウ・ツー式の発想が入ってきています。しかし、それではいつまでたっても、「もっと、もっと」と駆り立てられる生き方になってしまいます。

信仰においては、何よりも、主の恵みを思い起こすことが礼拝の中心にあります。どの教会も正すべき欠点に満ちています。どの人も、正すべき欠点を持っています。しかし、主はそのように欠点だらけのあなたを、また教会を喜んでいてくださいます。もちろん、私たちは常に最善を目指して成長を心がけるべきですが、その出発点に、主を喜び、また、主がこのままの私たちを喜んでいてくださるという「喜び」がなければ、成長の「力」自体が生まれません。

そのことをゼパニア書は救い主がもたらす新しい時代を次のように描いています。「シオンの娘よ。喜び歌え……シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのただ中におられる、救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパニア3:14、16、17)。