北大の学生が、テロ集団イスラム国の兵士になるためにシリヤに渡ろうとしたとのことですが、彼はただ、自分の絶望的な状況から逃げ出したいと思っていただけらしいとも報道されています。昔から、そのような現状逃避型の人は周りに見られました。
残念ながら、ときに教会においても、「イエスを信じても、何も変わりはしない・・」と絶望感を味わう人がいるかもしれません。しかし、イエスは人生に絶望していたひとりのサマリヤの女に個人的に向き合うことによって、彼女の町の驚くほど多くの人々を救いへと導きました。悩みが深かった分だけ、救いの実は多くなっています。それがあなたの人生においても起きるのです。
イエスは彼女に、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言われました。そして、この救いは既に、いまここにおいて実現しています。私たちもすでに起きている救い、また目の前の小さな変化に心の目を開いて行くべきでしょう。
1.「女は、自分の水がめを置いて町に行き・・・」
イエスはイスラエルの民全体にとって大切なシェケムのそばにあるヤコブの井戸でひとりのサマリヤの女に語りかけ、彼女が五人もの夫から次々と見放された人であることを言い当てながら、彼女に真の礼拝について教えます。それはこの女に、生ける水が与えられ、聖書の預言が成就することを明らかにするためです。
「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」(23節)とは、エゼキエル36:23ー28などにあるように、神ご自身が、新しい心、新しい霊を授けて、神と人との交わりを完成させてくださるという預言の成就です。
ですから、「渇くことがなく・・永遠のいのちへの水がわき出ます」(14節)とは、もう水を汲みに来なくてもよいとか、ひとりだけでも平安に満ちた生活を過ごせるようになるという意味ではありません。
たとえ渇きを覚えても、あなたのうちにおられる御霊ご自身が、いつでもどこでも、あなたの隠された願いまでも、父なる神にとりついでくださるので、あなたの渇きは、父なる神との永遠の愛の交わりで癒されるという意味なのです。
この女性は、聖霊についての説き明かしを、この時には理解はできなかったでしょうが、イエスの愛は分かりました。彼は、彼女の惨めな過去をすべてご存じでありながら、「あなたは人間関係の作り方に問題があるから、それを正したら幸せになれる」などと見離したようなアドバイスを与える代わりに、心の渇きに深く共感して、真剣に向き合ってくださったからです。彼女は、それによって、イエスこそ、真の礼拝、真の神との交わりを完成してくださる救い主であると分かりました。
彼女は、感動のあまり、せっかく運んできた「自分の水がめを置いて町へ行き」ました(28節)。彼女は熱い日中に水を汲むという目的のためにここまで来たのに、その働きを中断して、水がめをそこに置いたまま、すぐ町に戻ってイエスとの出会いを語りたくてたまらなくなりました。
そしてここでは、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです」(29節)とだけ人々に証ししました。
その上で彼女は、厳密には、「この方がキリストではないですよね・・・」と、逆説的表現で人々の興味を惹くように問いかけています。
ここで注目されるのは、彼女が、「私の問題は解決された」とか「私はこんなふうに変えられた」と言っているわけではないということです。彼女は、イエスが彼女の惨めな過去を全部知りながら、それを軽蔑せずに、真剣に向き合ってくれたことを、ただ紹介しただけなのです。
そして、その結果、「そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た」(30節)ということになりました。そればかりか、何と、「その町のサマリヤ人の多くの者が・・・その女のことばによってイエスを信じた」(39節)という偉大な奇跡が起こりました。彼女こそ世界最高の伝道者と言えましょう。
では、彼女に起こった変化とはどのようなことでしょうか。彼女は、かつて、自分の過去を恥じて、人目を避けて、暑い最中に水を汲みにきていました。しかし、これからは、たぶん、町の他の女性たちと手を携えて、この井戸にやって来て、そのたびごとに、喜びにあふれてイエスとの出会いを証しできるようになったことでしょう。
それによって、それまでの最もつらかった場が、最も喜びに満ちた場に変えられます。しかも、彼女は、これから、真の礼拝者たちの交わりの真ん中に生きる者とされます。愛に渇いた彼女に起こった変化とは、「交わり」だったのです。
2.「それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」
ところで、このサマリヤの女の伝道の記事に挟まるようにしてイエスと弟子たちとの会話が記されています。弟子たちはイエスをここで「ラビ」と呼びながら「何か、召し上がってください」と願います(31節)。それに対し、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物があります」と不思議な応答をします(32節)。
これだけを見ると、弟子の気遣いにイエスがきちんと応答していないようにも思えますが、このサマリヤの女の態度に比較すると弟子たちこそが見るべきものを見ていないということが分かります。
27節にあるように、弟子たちはスカルの町から食べ物を買って帰ってきたとき、イエスが女の人と話しておられるのを見て、「驚いて」いたのですが、イエスに敢えてそのことを聞こうとはしませんでした。しかも、弟子たちはこの女が、「自分の水がめ」を置いて町に帰って行ったという不思議な行動を見ていたのです。イエスはこの女に、ご自分が「救い主」であることを証しました。
それを聞いた彼女は、水を飲むのも忘れるようにして、自分の町に証しに帰って行きました。ところが弟子たちはそれを見ながら、ここでどれだけ大きなことが起きたかを知ろうともせずに、このサマリヤの女が「救い主」と認めた方を、人間としての「ラビ」と呼びながら、自分たちの指導者に食べさせることばかりに夢中になっているのです。
これはマリヤの姉のマルタと同じような態度です。イエスは彼らが食べ物のことばかりに目が向かって、ここに起きていた偉大な出来事を知ろうともしないことを寂しく思っていたからこそ、このように弟子たちを困惑させるようなことを敢えて言ったのでしょう。
弟子たちは、「だれか食べるものを持ってきたのだろうか」と現実的な会話を続けます。それに対し、イエスは、「わたしを遣わした方のみこころ(ご意志)を行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(34節)と言われます。
「わたしを遣わした方」という表現にはこの福音書のテーマが隠されています。この世の人間は、「食べるために働く」という観念に流されがちですが、イエスが私たちと同じ不自由な身体を取られたのは、御父のご意志をこの地で行うために他なりません。食べることや飲むことを後まわしにしてでも成し遂げることがあるのです。
ところが弟子たちはイエスと女との不思議な光景を見ても、敢えてその理由を聞くのを恐れるかのように、日常生活の事で心が一杯になっています。その意味では、「自分の水がめ」を置いて、救い主の現れを知らせに行ったサマリヤの女の方が、はるかに神の視点から世界を見ています。
それで主は弟子たちの「のんき」さをたしなめるように、「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月がある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」(35、36節)と言われました。
この文脈での、「種を蒔く」とは「永遠のいのち」に関する福音を告げることであり、「刈り入れ」とは福音を聞いた者の応答の時です。
ここでは、イエスがサマリヤの女を通して福音の種を蒔いたところ、すぐにサマリヤの人々が、主と弟子たちのもとに大挙して押し寄せ、「永遠のいのち」に入れられようとしているという現実を指します。弟子たちの目の前にはサマリヤ人のたましいの刈り入れ時、回心を導くべき喜びの時が迫っているのです。
なお、イエスはここで、「種を蒔く時期」と「刈り入れの時期」が普通だったら最低でも四か月間はあるはずのところが、種蒔きの直後に刈り入れの時がすぐに来るというアモスの預言の成就を意識しながら語っておられます。
アモス9章13節では、「見よ。その日が来る」ということばとともにイスラエルの繁栄の約束が美しく描かれ、「その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」と記されています。そこでの「近寄る」とは「追いつく」とも訳されることばで、原文では最初に一度だけ記されます。当地では、年に二回の雨季に合わせて耕して種を蒔くのが普通ですが、水分が豊富な土地に変わることで、刈り入れの直後に土地を耕して種を植えることができるというのです。
また、「ぶどうを踏む者が種蒔く者に追いつく」とは、ぶどうの成長があまりにも早いので、種を蒔くかたわらから収穫され、酒ぶねの中でぶどうを踏むという作業がなされるというのです。主はここでひとりのサマリヤの女の回心から、このサマリヤの地に神の国の祝福が訪れているということを感動的に語っておられます。
そればかりかイエスはここで、「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る」ということわざが、「まさにここに当てはまる」(フランシスコ会訳)と言っています(37節)。これは本来、「あなたがたは種を蒔いても、刈ることがなく・・新しいぶどう酒を造っても、ぶどう酒を飲むことができない」(ミカ6:15)などとあるように、労苦の実を他人に奪われるという「のろい」のことばですが、イエスはそれを祝福の実現として再解釈しました。
そのことをイエスは、「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたがその労苦の実を得ているのです」(38節)と語られました。「のろい」の時代には、労苦の実を他人に奪われていたのに、今は、他人の労苦の実を自分で食べることができるというのです。
しかもそれは、人の労苦の実を奪い取る代わりに、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶ」という祝福の時です。イエスはサマリヤの女を通して種を蒔き、そのひとりの女のことばによって、驚くほど多くのサマリヤの人々が「永遠のいのち」へと招き入れられました。
このサマリヤの女はスカルの町において誰よりも苦しんできました。彼女は五人もの夫から裏切られ続けて来ました。それが町では悪評になっていました。しかし、だからこそ、イエスのことばがこの人の心の底に届きました。彼女は誰よりも深く苦しんだ分だけ、誰よりもイエスのすばらしさを体験しました。
彼女はそこでただ、「来て、見てください」と言っただけなのです。それは私たちにとっては、ただ、「祈ってみたら・・・」「教会に来てみたら」「聖書を読んでみたら」という招きに他なりません。そして、それが驚くほど速く実を結ぶ時が来るのです。
3.「私たちは・・・自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」
そして、その後のことが、「そこでサマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくれるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた」(40,41節)と描かれています。
ここには何の「しるしと不思議」のことも書いてありません。彼らはひたすら神のみことばの解き明かしを聞いたことでしょう。それは、イエスがサマリヤの女に話した、「真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来ます」(4:23)という、新しい時代の礼拝がイエスによって実現するという話であったことでしょう。
彼らは、イエスがこのひとりの女性に起こした変化以外の何の「しるしと不思議」(48節)を見ることもなく、イエスを救い主として信じたのです。それは、彼らがそれまでずっと真の礼拝について答えを求めていたから起きた恵みと言えましょう。彼らは二日間、食い下がるように次々とイエスに質問をぶつけ納得したことでしょう。
そしてそこに起こった変化を、彼らはその女に、感謝の気持ちを込めて、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」(47節)と言っています。
この女性の謙遜な証しなしには、彼らはイエスのもとに来ることはできませんでした。しかし、彼らは今、自分で直接、イエスご自身のことばを聞いて、自分で納得できたことを心より感謝しています。
人々から軽蔑されていたひとりのサマリヤの女の回心によって、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリア人の、しかもその中心的な町の多くの人々が、イエスを民族の枠を超えた全世界の救い主であることを信じるようになったということは、途方もない奇跡です。それは、彼女のそれまでの苦しみが深かったからこそ起こった奇跡と言えましょう。その意味で、私たちの労苦は決して無駄にはなりません。
私は先週、東北地方のある田舎の小さな伝道所に招かれて、二回の伝道説教を取りついで来ました。牧師夫妻は15年間そこで開拓伝道をしながら、教会が自立できないので悩んでおられました。それを知っていたので、私は珍しく緊張しながら、万全のそなえをして臨んだつもりでした。
私としては期待に沿えなかったように思えましたが、牧師夫妻は、驚くほど喜んでくださいました。私は例によって、自分の数々の失敗の中で受けたイエスの慰めを語ったのですが、それを契機に、おふたり自分たちの悩みを正直に分ち合うことができたからです。
二日間で驚くほど多くの時間にわたって個人的な会話をすることができました。そして、今、何となく嬉しい予感が湧いています。あの教会は、これから大きな成長を遂げることでしょう。変化はひとりかふたりから始まります。それまでの葛藤が深ければ深いほど、多くの収穫の実が期待できます。
4.王室の役人の息子のいやし
「さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤに行かれた」(43節)とありますが、その理由が「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたから(44節)と付け加えられます。
つまり、イエスは、ご自身が尊ばれないところでこそ少しでも長いときを過ごすべきだと思われてガリラヤへの道を急がれたのではないでしょうか。
「そういうわけで・・ガリラヤ人はイエスを歓迎した」(45節)とあるのも奇妙ですが、彼らの歓迎は、サマリヤ人の歓迎とは異なります。それは、彼らが「イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていた」からでした。言わば、彼らは、同郷人が都で成功をおさめたという事実から、イエスを故郷に錦を飾った人として歓迎したのでしょう。決して、サマリヤ人のようにイエスを「世の救い主」と認めようという気はありませんでした。
なお、「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた」(46節)と記されていますが、そこは主の生まれ故郷のナザレから北方に十数キロの地です。そこでイエスは、水をぶどう酒にされるという最初のしるしを行なわれました。
そこに、カナから30㎞あまり離れた、ガリラヤ湖北方の町カペナウムから「王室の役人」がかけつけて来ました。息子が死にかかっているというので、家まで来て息子をいやしてくださるようにイエスに願うためでした。
ところが、イエスは彼に、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(48節)と拒絶とも思われる応答をしました。
彼はその地の王ヘロデ・アンティパスに仕えている役人でした。王といっても、ローマ帝国から委ねられた範囲でしか支配権を行使できません。ですから王も、王に仕える役人も、自分の身の安全と富を何よりも優先する傾向がありました。つまりご利益宗教に一番流れやすいタイプです。
この役人も、イエスを単に不思議ないやしの奇跡を行なう人としか見ていなかったかもしれません。そして、王の役人である自分が頭を下げたら、イエスは自分の家まで来て、息子に手を置いていやしてくださると期待していたことでしょう。しかも、彼は自分の息子が癒されさえしたら、イエスが誰であるかなどについては、問いはしなかったでしょう。
彼にはイエスから拒絶される十分な理由がありました。しかし、イエスの表面的なことばとは裏腹に、そのまなざしは、あわれみが満ちていました。この役人は、そこにイエスの招きを感じたことでしょう。
彼はイエスに向かって「主よ・・・」と、その絶対的権威を認めるような呼びかけをします。イエスは、彼の願いをかなえてくれる助け人ではなく、彼の主人だと言うのです。その上で、謙遜になりながらも必死になって、「どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください」と、食い下がります(49節)。
それに対しイエスは、断固として、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と言いました(50節)。それは、役人が期待したいやしの方法をはるかに超えたもので、普通だったらとうてい受け入れられないことばです。
しかし、彼は、イエスとの対話によって、イエスのことばには、自分の常識を超えた真実があることを実感していました。それで、彼は、「イエスが言われたことばを信じ」、たぶん、安心して「帰途についた」のだと思われます。
イエスはご自身を単に、しるしと不思議を行なう人と見られることを拒絶されました。なぜなら、人間の堕落は、神を神としてあがめる代わりに、単に自分の願いをかなえてくれる方という地位に引き下げたことに始まるからです。神は、私たちの創造主であって、便利屋さんではありません。ですからイエスも、私たちが彼を、「主よ」と呼び求めるのを待っておられます。
主は、私たちの期待に添う以前に、ご自身の時と方法によって、私たちに答えて下さる方なのです。しかし、一見、拒絶と見られることばに、人をさらに深い信仰に導く「あわれみ」が隠されています。
この役人が自分の家に帰る途中で、しもべたちから息子が直ったことを聞きました。しかも、癒された時刻を尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました」というのです。それは、イエスが彼に語りかけられた時と同じでした。これは現在の午後1時に相当し、彼が急げばその日のうちにカペナウムに戻ることもできたはずですから、彼の落ち着きが想像できます。
彼は今、イエスが「あなたの息子は直っています」と言われた瞬間に、息子の熱がひいたことを確かめ、イエスが多くの人々が期待する「しるしと不思議」以上のことを行なう「世の救い主」であると信じました。
イエスは「このことを第二のしるしとして行なわれた」とありますが、しるしとは、イエスが預言者以上の救い主であることを証しするものです。この役人は、まずイエスのいやしの力を信じてみもとにかけつけ、イエスのことばを信じて安心し、そしてイエスのみわざの偉大さを目撃してイエスを「救い主」として信じたのです。
信仰の三段跳びのような成長ですが、それを起こしてくださったのはイエスご自身です。
しかも、イエスが「あなたの息子は直っています」と言われたのは、厳密には、「生きている」と記されています。そして、その同じことばが、51節と53節で繰り返されています。
「癒された」とか「直った」という意味なら別のことばを用いるのが一般的なのに、ヨハネは敢えて、「生きている」ということばを三回も繰り返しました。それは、イエスこそが死人にいのちを与える救い主であることを強調するためでした。
なお、第一のしるしはカナの婚礼で、「弟子たちはイエスを信じた」(2:11)と記されていました。ここでは「彼自身と彼の家の者がみな信じた」とあり、イエスのみわざが、役人の家族全員を真の信仰に導くためであったことが明らかにされています。
父親がイエスと話しているときに、おそらく母親が、息子の熱がひくのを目撃しました。息子は急に痛みが消えたのを身体で感じました。しもべはそれを知らせることで、父親と母親の体験を結びつけました。それぞれの人が、互いの情報によって全体像を把握したのです。
つまり、この第二のしるしは、価値観がまったく違うはずの王室の役人の家の者全員を信仰に導くものでした。それは、イエスが単に奇跡を行なう霊能者ではなく、世界全体の救い主であることを証しするものでした。
イエスは、「しるしと不思議」ばかりを求めるひとりの人の問題に正面から向き合いつつ真実を尽くされ、その背後にいる人すべてに届いてくださいました。
私たちが心を開きさえすれば、イエスはどんな心理的障害をも超えて、ひとりひとりの必要に寄り添いつつ、心の奥底にまで届いてくださいます。そして、そのとき味わったイエスの愛と御力への感動は、私たちの思いを超えて、私たちの背後にいる人へ確実に届きます。
証しのことばの巧みさよりも、どれだけ深く主との出会いを味わっているかが問われています。
サマリヤの女を通してのサマリヤの町の多くの人々の驚くべき回心の記録と、王室の役人の息子の癒しには、共通点があります。それは、それまでのそれぞれの絶望の深さと、救いのみわざが驚くほど短期間に起きたということです。しかし、それこそイザヤ書のテーマと言えましょう。
イザヤは、伝道者としての召しを受けたとき、自分のメッセージがまったく実を結ばないことを覚悟するようにと言われました(6章)。しかし、その中で同時に、「新しい天と新しい地」において実現する救いを、主のことばとして、「彼らは無駄に労することがない・・・彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」(65:23,24)と記しています。
イエスのサマリヤにおけるみわざでも王室の役人の息子の癒しでも、労苦が無駄にならず、願いがすぐにかなえられるという世界が実現した様子が描かれています。それはイエスにおいて、「神の国」がこの地にすでに実現したということのしるしです。
私たちの毎日の生活でも、なかなか祈りが聞かれないと思える葛藤の時がきます。しかし、失望する必要はありません。それはすべてイエスとの出会いの恵みをより深く味わうための備えに過ぎないのです。それまでの悩みが深い分だけ、慰めも深くなります。
そして、神は瞬時にあなたの世界を変えることがおできになります。そしてそれは、この不条理に満ちた現代の時代にも起こることです。私たちは長いトンネルの後に、急に光に満ちた世界が訪れることを期待して良いのです。
大切なのは、イエスが弟子たちに言われたように、そのときに、自分の目の前の生活のできごとに夢中になりすぎないことです。私たちが何のためにこの地に置かれているかを忘れてはなりません。
イエスはこの福音書の最後で弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(20:21)と言われました。私たちもイエスによってこの矛盾に満ちた世界のただ中に遣わされているのです。