ゼカリヤ3章〜5章「奇跡の人として生かされる」

2014年3月23日

わざわい会っている方のことを、「あの人は、何か隠された罪のゆえに、サタンの攻撃を受けているのでは・・・」などと、傷口に塩を塗るような評価をする人がいるかもしれません。しかし、そのような人は、ヨブ記によるとサタンの味方になっているのかもしれません。

「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない・・・わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(哀歌3:33,38)という告白こそ、主に喜ばれるものです。

私たちがわざわいに会うのは、サタンに対する神の勝利を証するためです。神によって選ばれた私たちは、汚れた服を脱がされ、礼服を着せられて神の祝宴に招かれています。私たちの最終的な勝利は約束されています。

ただ、この地の生活では、目の前に、乗り越えられないような山が立ちはだかっているように思えることがあります。しかし、そのとき主は、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という力を与えてくださいます。

私たちは主の霊を受けることによって、主にある勝利の「しるし」また「奇跡の人」として選ばれているのです。

 1.「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」

3章全体が四番目の「幻」です。まず、預言者ゼカリヤは「主は私に、主(ヤハウェ)の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた」と描きます。ここで、「主の使い」は天の法廷の裁判官、サタンは告訴人の立場として描かれています。

新約聖書だけを見ると、「サタン」は私たちにわざわいをもたらす者というイメージがあり、悪霊に憑かれることと正気を失うことが同列に見られることがありますが、サタンの中心的な意味は、「告発者、敵対者」で、この裁判の席のイメージがサタンの本質を最もよく現しています。同じヘブル語が詩篇1096,20節では「なじる者」と訳されています(新改訳脚注参照)

そこで、何と主(ヤハウェ)ご自身が、サタンに向かって語っておられます。そのことばは原文では、「主(ヤハウェ)がおまえをとがめている。サタンよ。主(ヤハウェ)が、おまえをとがめている」と同じことばが繰り返され、その上で、「主がエルサレムを選んだ。これは、火から取り出した燃えさしではないか」記されています。

つまり、主は大祭司ヨシュアの弁護をなさる代わりに、彼を訴えようとするサタン自身を繰り返し「とがめ」ながら、その理由を、エルサレムは主の選びのうちにあるということと、主ご自身がヨシュアの汚れを、「火から取り出したもえさし」として見ているということです。アモス411節では、主がイスラエルを、「あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった」と呼んでいます。

これは、次に描くヨシュアの衣服の汚れは、主ご自身による懲らしめと救いのみわざの中から起こっていることであり、主の前に聖別される途上にあるということを描いたものです。

 そして、ここで初めて、「サタン」が「ヨシュア」を告発している理由が、「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた」(3:3)と描かれます。この「よごれた」とは申命記2313節では、人間の排泄物で汚れた状態を指し、主の陣営を排泄物で汚してはならないことが強調されていました。とにかく、この時の大祭司ヨシュアの衣服は汚れており、そのままでは大祭司としての働きをすることはできませんでした。

このヨシュアは大祭司としてイスラエルの民を代表していました。そして、サタンが彼を訴えていることの基本とは、イスラエルは神の民と呼ばれる資格がないということでした。サタンは今も、あなたを、神の子と呼ばれる資格はないと訴えています。 

4節では、それに対して、「御使いは、自分の前に立っている者たちに答えて」、「彼のよごれた服を脱がせよ」と言ったと描かれます。

そして、御使いはヨシュアに、「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」と言われます。それは、主ご自身がヨシュアを聖別してくださるという意味です。「礼服」と訳されているのは、これが大祭司の衣服というよりは主の宴会に招かれているという意味を込めたのだと思われます。

そこで不思議にも、この幻に示されている会話の中にゼカリヤが加わって、「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません」と言ったというのです。これは大祭司特有の衣装というよりも「かぶり物」と訳されていることばです(ヨブ29:14イザヤ62:3)

ゼカリヤはある意味で、その情景に感動して分を超えたことを言っただけなのですが、御使いたちは、何とその要請に従うかのように、「彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた」というのです。

なお、ここでの「礼服」も「ターバン」も、サタンの訴えを退けて、大祭司の勤めを果たさせるための衣装ではなく、主ご自身が「火から取り出した燃えさし」のようなヨシュアを労り、ご自身の天の食卓に招くための衣装とされているのが興味深いことです。

その上で、そのときの情景が改めて、「主(ヤハウェ)の使いはそばに立っていた」と描かれます。これは主の使いが、裁判官としてではなく、弁護者として立っているというイメージです。

そこで、「主(ヤハウェ)の使いはヨシュアをさとして」、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする」と述べます(3:6,7)

これは彼に特別に難しい生き方を命じて、それが達成できたら、大祭司としての特別な権利を与えるという目標ではなく、彼が日々を主との交わりのうちに過ごし、主の戒めを注目し続けるなら、主が彼に主の宮を治める特権を与えるばかりか、御使いの仲間入りをして、天の主の宮に出入りする特権を与えるという、主からの途方もない恩恵の約束です。

8節は、「聞け。大祭司ヨシュアよ」という呼びかけから始まり、「あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ」と言われます。これは、「奇跡(wonder) の人々」とも訳されることばで、そこに大祭司の同僚たちまで含まれるというのは驚くべきことです。

なおこれが「しるし」と訳されるのは、来たるべき救い主の前兆となっているからで、そのことが、「見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる」と言われます。これは、イザヤ53章に描かれたような「主のしもべ」「若枝」としての救い主を生まれさせるという希望です。 

  9節では引き続き、主ご自身が、「見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む」と言っておられますが、この「石」が何を意味するかは解釈が困難です。「七つの目」とは、410節での「これらの七つは、全地を行き巡る主(ヤハウェ)の目」とあるのと同じではないかと思われます。また「彫り物を刻む」とは、出エジ288-12節に記された大祭司の装束の胸当てにつけられた宝石にイスラエルの部族の名を刻むことを思い起こさせるものだと思われます。

とにかくこれらはすべて神がイスラエルをいつも覚えておられ、全世界の歴史を支配しておられることを意味することは確かです。

そして、ここで何よりもここで大切なのは、「わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く」という「万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」です。

これは、サタンがイスラエルの不義を訴えるのに対する主の答えです。

10節では、「その日には・・あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう」と描かれます。これは、イスラエルに真の平和が回復されるということの象徴的な表現です。

2.「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる」

 41-14節は五つ目の幻です。最初に、「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった」と記されるのは、この幻には、イスラエルの対する主のご計画を「目を覚まして見張る」という意味があるからだと思われます。

そこで御使いが「あなたは何を見ているのか」と問い、ゼカリヤはまず第一に、「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています」と答えます。

これは出エジ2531-40節に描かれた神の幕屋におかれた金の燭台を思い浮かべさせる情景です。

そして第二に彼は、「そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります」と答えます。そこでゼカリヤは御使いに、「主よ。これらは何ですか」と尋ねますが、「これら」とは、「二本のオリーブの木」を指します。

それに対し、御使いはすぐに答えを出す代わりに、「あなたは、これらが何か知らないのか」と答え、ゼカリヤはまた、「主よ。知りません」と簡潔に応えます。これは、ゼカリヤの注意を呼び覚ますための会話と言えましょう。

これらの会話は、オリーブの木から生まれる油に目を向けさせるためのものです。

そこで御使いは、「これは、ゼルバベルへの主(ヤハウェ)のことばだ」と、ユダヤ人のエルサレム帰還を導き、エルサレム神殿の再建工事の責任者であるユダの総督ゼルバベルに向かってのことばを述べます(6)

それは、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」というものでした。これは、ゼルバベルの働きが、軍隊を動かすような「権力」でもなく、また、人間の「能力」によるものではなく、主ご自身の「霊」によって成し遂げられるというものですが、そこには、「万軍の主」ご自身による保証があるというのです。

   7節の、「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」とは、神殿再建工事に関する目の前の様々な障害が、主ご自身によって取り除かれるという意味だと思われます。

ここで、「ゼルバベルの前で」と言われているのは感動的です。そこにご自身の働きのために彼を選んで立ててくださった主の保証があります。

そして、彼に対する約束の内容が、「彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう」と、主への賛美のうちに、神殿工事の最後に設置する「かしら石」が運び出されて設置される様子が記されます。 

それに続いて、ゼカリヤに対して、「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する」と、神殿再建工事の完成が保障され、同時に預言者ゼカリヤ自身の告白が、「このとき、あなたは、万軍の主(ヤハウェ)が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう」という記述と共に、預言の成就が確実であることが保障されます。

  10節では、「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか」と、工事の最初に、期待外れの小さな神殿の再建を蔑む声があったことを思い起こさせます(ハガイ2:3)。それと同時に、「これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主(ヤハウェ)の目である」と記されます。

最初の主語のこれら」とは「七つの目」を意味し、「下げ振り」と訳されている言葉は、原文では「すずの石」とも訳され、工事の完了の際に据えられる「すずのプレート」を指したと解釈するのが一般的になっています。

とにかく、ここでは、「七つの目」としての主ご自身が、この人間的にはちっぽけな神殿再建工事の完成を喜んでくださるというのです。 

  11節では4節の質問を繰り返すように、ゼカリヤは御使いに、「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか」と尋ねます。

そして、その様子をさらに詳しく描くように、「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか」と尋ねます。これは、燭台の左右のオリーブの木から、金の管によって、油が尽きることなく供給され続けることを意味するのだと思われます。

この油は、6節の「主の霊」を思い起こさせます。

それに対して、13節で、御使いは再び、「あなたは、これらが何か知らないのか」とゼカリヤに尋ね、彼はまた簡潔に、「主よ。知りません」と答えます。これによって、主からの答えへの期待が増し加わります。

そして、御使いはここで初めて、「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ」(14)と答えます。これは、ここに登場する大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルを指すと思われます。

ひとりは宗教指導者、もうひとりは政治的な指導者です。そして、イエス・キリストこそは、大祭司と王としてのこのふたつの働きを完成させた救い主です。

  黙示録120節では、「七つの燭台は七つの教会である」と記され、また、イエス・キリストは「七つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)と描かれています。

キリストの教会は「世界の光」として機能します(マタイ5:14)。そして、教会を生かしているのは、二本のオリーブの木を統合するイエス・キリストであり、主の聖霊です。

ゼルバベルが立てた神殿は人間的にはみすぼらしいものに見えましたが、そこに主の働きがありました。

改革、長老派の教会では、ふたりの長老が立てられるのが一般的です。それは、「宣教長老」と「治会長老」と呼ばれます。宣教長老はここでの大祭司ヨシュアの働きで、これは「牧師」の働き、治会長老とは総督ゼルバベルの働きで、信徒の代表者として立てられます。

このふたりの間には緊張関係が生まれがちで、それが教会を混乱に陥れることがある一方、この協力関係がうまく行く時、教会は活力を持って成長できます。

今も主は、複数の指導者を地域教会に立てて、それぞれに油としての聖霊を与え、燭台としての教会が光を放つようにしてくださいます。

自由教会では明確な職制の区別をつけません。それは一人ひとりの主体性を重んじるからです。私たちの会堂建設が順調に進んだのは不明確ながら主にあってこのふたつの機能がうまく調和していたからと言えましょう。

3.「巻き物が飛んでいた・・・これは、全地の面に出て行くのろいだ」

51-4節には第六の幻が記されます。まずゼカリヤが、「私が再び目を上げて見ると、なんと、巻き物が飛んでいた」とのその幻を述べます。それに対し、御使いは彼に「何を見ているのか」と述べます。

ゼカリヤは、「飛んでいる巻き物を見ています」と言いながら、その大きさを「その長さは二十キュビト、その幅は十キュビトです」と述べます。これは長さ、9.1m、幅4.6mぐらいの巻物が広げられた状態で空を飛んでいたものです。

なお、この幅10キュビットは、幕屋の中の至聖所の上下左右の長さでした(出エジ26:1-25)。契約の箱は長さが2.5ビュト、幅が1.5キュビットで、この巻物はそれにも収まりきらないほどに大きなものでした。それは、遠くから見ても読み取ることができるほどに契約のことばが大きく記されていたからでした。

申命記2912節には「のろいの誓い」ということばがあるように、主の「十のことば」にはそれを破る者への「のろい」が明確に記されていました。 

そのことが、「これは、全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はだれでも、これに照らし合わせて取り除かれる」(5:3)と描かれます。

この「取り除かれる」ということばは、神の民の共同体の外に追い出されるということを意味しました。

  4節の、「わたしが、それを出て行かせる」とは、万軍の主ご自身がこの「のろいのことば」を全地に送り込むという意味です。そして、そのことばは、「盗人の家に入り、また、わたしの名を使って偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまり、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす」というのです。

これは主のことばを擬人化したもので、主もみことば自身が盗人や偽証者の家に入り、その家を徹底的に断ち滅ぼしてしまうというのです。 

4.「その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた」

  5511節では第七の幻が描かれています。まず「御使いが出て来て」、ゼカリヤに「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ」と命じ、ゼカリヤが、「それは何ですか」と尋ね、御使いが「これは、出て行くエパ枡だ」と述べる様子が描かれます。エパ枡とは、穀物20リットルぐらいを測ることができる大きな枡です。

そして、ここでもすぐにその意味が、「これは、全地にある彼らの罪だ」と説明されます。しばしば「エパを小さくし、シェケルを重くし」(アモス8:5)などとあるように、秤を誤魔化して暴利をむさぼるという罪がありましたが、ここでは引き続き、「見よ。鉛のふたが持ち上げられ、エパ枡の中にひとりの女がすわっていた」(5:7)と描かれます。

そのエパ枡は先の巻物と同様に巨大なもので、その中に罪の象徴としての「ひとり女」が隠されていました。 

罪の根本はしばしば隠されていますが、聖書では「女」はしばしば、人々を偶像礼拝に導く存在の象徴として描かれます。

そこで続けて、御使いが、「これは罪悪だ」と言って、「その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた」という不思議な情景が描かれます。これは、その罪の誘惑の力を、御使いが閉じ込めてくれたということを意味します。

私たちを誘惑する罪も、神の支配下にあります。ですから、私たちは主の祈りで、「私たちを誘惑に陥らせないで、悪い者からお救いください」(マタイ6:1私訳)と祈るように教えられています。 

  そして、その後の情景が、ゼカリヤに示され、そのことが、「それから、私が目を上げて見ると、なんと、ふたりの女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、彼女たちは、あのエパ枡を地と天との間に持ち上げた」(5:9)と描かれます。

ここに描かれる「ふたりの女」は罪の象徴ではなく、御使いの現れです。御使いが女性形で現されるのは珍しいことですが、「こうのとりの翼のような翼」をもって、このエパ枡を運んでいるというのです。

そこでゼカリヤは、御使いに、「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか」(5:10)と尋ねますが、それに対し御使いは、「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ」(5:11)と答えます。

シヌアルの地とは、かつてバベルの塔が建てられたバビロンの地ですが、そこに再び、罪の神殿が建てられるのですが、それはエルサレムからはるかに話された地です。

ただ同時に、これは、終わりの日に再び、悪の力が解き放たれるとも解釈される場合がありますが、どちらにしても、悪の力も神の御許しの中でしか働くことができないということを象徴的に現しています。 

黙示録12章ではキリストの十字架と復活で実現したことが、「今や・・キリストの権威が現れた。私たちの兄弟の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばゆえに彼に打ち勝った」(1011)と記されています。

サタンは私たちを神の御前で告発する者でしたが、彼はこの地に投げ落とされました。そして、この地においては、人々が互いを告発し合うという争いを引き起こしています。しばしばこの地の教会は、そのような告発合戦によって混乱を繰り返してきました。

私たちは、サタンの働きが、何よりも互いの罪を告発し合う者であるということを忘れてはなりません。ですから、人の罪に気づいたときには、「ふたりだけのところで」、「責める」というよりは「隠された事実を確かめる」という節度が必要です(マタイ18:15)

私たちは無意識のうちに意見の違う者を失脚させたいという方向に動きますが、そこにサタンの巧みな惑わしがあるということを忘れてはなりません。

キリストは兄弟のために十字架にかかってくださいました。私たちが自分の正義によってではなく、「小羊の血」によって、勝利をおさめることができるのです。 

バビロン捕囚から帰還した人々は、自分たちの無力さに失望しながらも、主の助けを得てエルサレム神殿を再建するようにと動かされました。彼らには大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルという信仰と政治的な指導者が与えられていました。彼らを選びその罪をきよめたのは主ご自身でした。そして、そのふたりはこの約五百年後に現れる救い主イエスの予表でもありました。

そして今、私たちのうちにも創造主なる御霊が与えられ、同じように奇跡の人とされているのです。私たちはみな、「しるしとなる人々」、「奇跡の人」とされています。

確かに、この地には様々な悪の力が働いていますが、それらはすべて神の御手の中に支配されている存在に過ぎません。そこで、「主のみことば」自身が、力を持ってこの世界の悪を最終的に滅ぼしてくれます。なぜなら、死の力の打ち勝ったイエス・キリストご自身が「主のことば」だからです。

私たちは人を動かす権力とか、人間的な能力に目を奪われがちですが、私たちが自分の弱さを認め、自身を主に明け渡すとき、そこに不思議な神の御わざが現されます。

創造主なる聖霊があなたのうちにおられます。