ゼカリヤ1章〜2章「神の瞳へのさばきといやし」

2014年3月16日

世界の歴史に対するユダヤ人の影響力には驚くべきものがあります。ユダヤ人は世界人口のたった0.2%を占めるに過ぎないのに、全ノーベル賞受賞者の少なくとも2割、経済学賞に至っては4割がユダヤ人だと言われます。その秘訣を巡っていろんなことが言われますが、ユダヤ人は何よりも旧約聖書に親しむ民であるということは誰も否定できない事実です。

そして、ダビデ王国以前と、その後では、記され方に若干の違いがあります。ダビデ以前のテーマでは、主がともにいてくださるからこのような輝かしい勝利を収められたという成功物語が多い反面、後代の預言書では、「このような悲惨が起きたのは、主のさばきによる」と、自分たちの敗北を通して、主を見上げるということが記され、しかも、悲惨のただ中で、「それでも私たちは、主にとってご自身のひとみのようにかけがえのない存在だから、必ず、この苦しみを通して明るい未来が開かれる」という趣旨の事が記されています。

日本人は、「せっかく教会に行ったのに、こんな目に会ってしまった・・・」とぼやくことがありますが、旧約聖書の民は、「この悲惨は、万軍の主の御手の中で起こっている。だから、希望がある」と告白します。

苦難に会うたびに強くされた結果として、旧約聖書の民は、世界をリードすることができているのではないでしょうか。

そして、私たち日本に住むクリスチャンも、今は、聖書の民とされていることを忘れてはなりません。希望こそ信仰の賜物です。 

主は、ご自分の民イスラエルに向かって、ヨルダン川を渡って約束の地に入る前から、やがて彼らがご自身に背いて、自業自得で悲惨に会うことを予期しておられました。

同時に、その放蕩息子のような民に向かって、「あなたは、わたしの目のひとみだ」(申命記32:10参照)と優しく呼びかけつつ、主に立ち返るのを待っておられました。 

1.「わたしに帰れ。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ─そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」

初めの、「ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主(ヤハウェ)のことばがあった」という表現はハガイ書に似ています。これは紀元前520年のハガイへの最初の預言から二か月余りが経過した頃、大贖罪の日や仮庵の祭りが終わった次の月のできごとです。

イスラエルの民はすでにハガイのことばによって悔い改め、また励ましを受けて、長く停滞していた神殿再建工事に既に取りかかっていました。

なお、「ゼカリヤ」という名には、「ヤハウェは覚えておられる」という意味があります。これこそ本書のテーマです。

   2節の主のことばは、原文では、「怒られた」から始まり、「怒り」で終わり、「激しく」という副詞はありません。それを日本語らしくすると、「主(ヤハウェ)はあなたがたの先祖たちを(激しく)怒られた」と訳されるのでしょう。

 3節は預言者ゼカリヤに託された実際の招きのことばです。ここではこの短い箇所に、「万軍の主(ヤハウェ)」ということばが三回も繰り返されながら、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる。わたしに帰れ。─万軍の主(ヤハウェ)の御告げ─そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と記されます。

「帰れ」「帰る」とは「悔い改め」を意味する動詞ですが、それは方向転換、「立ち返る」ことを意味します。自分の過去の悪い行いを反省して心を入れ替えるという以前に、主に背を向けている状態から、主の御前に出ることこそ、主の命令です。

そして主が、「わたしもあなたがたに帰る」と約束しているのは、かつてエルサレム神殿が廃墟となったのは、主ご自身がその場を去ったからですが、今度は、再建中のゼルバベルの神殿に帰って来てくださるというのです。

   4節ではまず、「あなたがたの先祖たちのようであってはならない」と記されます。それは、「先の預言者たちが彼らに叫んで」言ったのにそれに耳を傾けなかったからです。

そして、「万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という内容は、原文では、「立ち返れ、あなたがたの悪い道と悪いわざから」と、心の方向転換が求められています(新改訳での「悔い改めよ」に相当する動詞はない)

そして、それなのに「彼らはわたしに聴かなかった、わたしに耳を傾けもしなかった」と記され、具体的な行動の変化以前に、主のことばへの注目の足りなさが非難されています。

主は私たちがどれだけ善い行いができるか以前に、ご自身のみことばに真剣に聴くことを願っておられるのです。

 そして、彼らへのさばきを思い起こさせるように、「あなたがたの先祖たちは今、どこにいるのか」(5)と問いかけます。同時に、「預言者たちは永遠に生きているだろうか」と問いかけながら、「しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか」と、神のことばがむなしく過ぎ去ることなく、彼らへの「のろい」として「追い迫った」と描かれます。

またその結果として起きたことが、「そこで彼らは立ち返った」という心の方向転換と、「万軍の主(ヤハウェ)は、私たちの行いとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた」という主のみわざの一貫性と公平さに関しての「告白」でした。

わざわいに会う中で、主に立ち返り、反省できたのは、主が事前に預言者を通して語っておられたからです。

 2.「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰った。そこにわたしの宮が建て直される」

7節では、先と同じ「ダリヨスの第二年」でありながら、「シェバテの月である第十一の月の二十四日」にと具体的な日付が記されます。これは太陽暦では、紀元前519215日に相当します。

そしてゼカリヤに対する不思議な「幻」のかたちによる啓示が続けて記されます。17節から615節まで、八つの幻が示されます。

 第一の「幻」は、8-17節に記され、その様子が、「夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた」と描かれます。ヘブル語で「赤い馬」というときは、馬としては普通の色で、「濃い栗色」を指します。「栗毛」と訳されている色は、淡い茶色、「白い馬」は勝利のしるしでしょう。「ミルトスの木」は、常緑樹で多くの葉っぱをつけています。

 ゼカリヤが、「主よ。これらは何ですか」と尋ねると、御使いが、「これらが何か、あなたに示そう」と答えます。ところが、そこに不思議にも、その御使いとは別の、「ミルトスの木の間に立っていた人」が答える様子が描かれます(910)

その上で彼は、「これらは、地を行き巡るために主(ヤハウェ)が遣わされたものだ」と述べます。

   そこに今度は、馬たち?が答える様子が、「すると、これらは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えて言った」と記されます。その内容は、「私たちは地を行き巡りましたが、まさに、全地は安らかで、穏やかでした」というものでした。

それを聞いた、「主(ヤハウェ)の使い」は、エルサレムがなおも廃墟のままの状態で世界が安定していることに心を痛めます。そして、何と御使いがイスラエルの民のための取り成しの祈りをささげるかのように、「万軍の主(ヤハウェ)よ。いつまで、あなたは、あわれんでくださらないのですか、エルサレムとユダの町々に。あなたが激怒して、もう七十年になります」(12節私訳)と問いかけます。それはエレミヤが、この国がバビロンに踏みにじられる期間を七十年と預言していたからです(25:11,1229:10)

私たちは、御使いをいつもは神の代理としてとらえますが、ここでは何と、イスラエルの民の代理かのように、主に向かって大胆に訴えているのです。

 それに対し、「すると主(ヤハウェ)は、私と話していた御使いに、良いことば、慰めのことばで答えられた」(13)というのです。そして、そこで御使いからゼカリヤへのことばとして、「叫んで言え。万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」(14)と記されます。

その上でゼカリヤに委ねられた主のことばが、原文では、「わたしはねたんだ。エルサレムとシオンを、激しいねたみをもって」と記されています(新改訳の「激しく愛した」というのは原文にはない解説)

 その上で2節の「怒り」という言葉を重ねて、「激しい(大いなる)怒りをもって、わたしは、怒った」と、あえて「わたし」という主語を強調しつつ、ご自身の怒りを明確に記されます。

その理由は、「安逸をむさぼっている諸国の民」は、「わたし」が「少ししか怒らない」ことをいいことに、「ほしいままに悪事を行なった」からであるというのです。 

ここでは、神の民への「怒り」は、愛の裏面にある情熱の「ねたみとして表現される一方、神の「怒り」を軽く見る「諸国の民」に対しての神の「怒り」は、彼らを滅ぼし尽くすほどに激しいものになると描かれているのです。

16節の原文は、主のことばが、「わたしはあわれみをもって、エルサレムに帰った」と完了形で断言されつつ、「そこにわたしの宮が建て直される」という約束が未完了形で強調されています。それは、時制というよりは、物事を外側から見るか内側から見るかという視点の違いです。

今、主はエルサレムに戻って来ておられるという新しい時代の幕開けの中で、神殿の再建というが内側から着々と進んでゆくというのです。

その上で、「万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」とともに、「測りなわはエルサレムの上に張られる」と、エルサレムが整えられると約束されます。

そればかりか、「もう一度叫んで言え。万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」(17)と記されつつ、「わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる」というエルサレムの驚くべき祝福の回復の様子が描かれます。

その上で、改めて、「主(ヤハウェ)は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ」と強調されます。これは何と感動的な預言でしょう。

神の民に対する神の怒りには、驚くべき希望があります。それは、最愛の子を躾ける理想的な父の姿と言えましょう。

3.「ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来た」

18-21節は第二の幻です。まず、ゼカリヤは、「私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった」と述べ、彼は自分と話していた御使いに、「これらは何ですか」と尋ねます。すると彼はゼカリヤに、「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だ」と答えます(19)

「角」とは、イスラルの民を虐げた軍事的な力を指します。ヘブル語の「四つ」には、すべてを包含するという象徴的な意味がありますが、それは具体的に、北王国を滅ぼしたアッシリヤ帝国、エルサレムを滅ぼしたバビロン帝国、また、当時の支配者であったペルシャ帝国、そして、アレキサンダー大王のギリシャ帝国を指すとも解釈されます。

しかし、次の「四人の職人」との関係を見ると、具体的な国名を上げない方が良いと思われます。実際、当時のペルシャ帝国は、ユダの民にとって解放者として位置付けられているからです。しかも、「四つの角」は一匹の獣の上に生えていたと考えることもできます。

なお、レビ2614節以降には、主の御教えを聴こうとしない者へのさばきが記されますが、その33節では、主のさばきのことばが、「わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたが他の地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる」と記されていました。まさに神の民にそのとおりのさばきが下されたのです。 

2021節では逆転の希望が記されます。まず、「そのとき、主(ヤハウェ)は四人の職人を私に見せてくださった」と描かれ、ゼカリヤが、「この者たちは、何をしに来たのですか」と尋ねます。

それに対し、主は、「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかった角だ。この者たちは、これらの角を恐れさせ、また、ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来たのだ」と言われます。「この者たち」とは「四人の職人」ですが、彼らはユダを散らした四つの角を「恐れさせ」、また「打ち滅ぼすためにやってきた」というのです。

 ここに、「四つの角」を圧倒する「四人の職人」のことが描かれています。それは、「職人」が重いハンマーで「角」を砕くことができるからです。この「職人」が具体的に何を意味するかは記されていませんが、バビロン帝国を滅ぼし、ユダの民を解放したペルシャ帝国を指すという解釈もあり得ます。

神はご自身の民をさばくために「角」を用いはしますが、それと同時に、」が自分の力を誇って傲慢になってゆくときには、新たな「職人」というさばき人を用いて「角」をさばくのです。

神はアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と言われましたが(創世記12:3)、それがアブラハムの子孫であるイスラエルの民にも成就するのです。

神の民に復讐する力はありませんが、神は別の器を用いて神の民のための復讐を遂げられます。 

4.「シオンの娘よ。喜び歌え、楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む」

21-13節は三つ目の幻です。まず、「私が目を上げて見ると、なんと、ひとりの人がいて、その手に一本の測り綱があった」と描かれます。ゼカリヤがその人に、「あなたはどこへ行かれるのですか」と尋ねると、彼は、「エルサレムを測りに行く。その幅と長さがどれほどあるかを見るために」と答えます。

そしてその後、「私と話していた御使いが出て行くと、すぐ、もうひとりの御使いが、彼に会うために出て行った」と記されます。

ここでゼカリヤ自身も、エルサレムを見るために駈け出したのでしょう。そこで「もうひとりの御使い」が、ゼカリヤと話していた御使いに向かって、「走って行って、あの若者にこう告げなさい」と告げます。

ここでゼカリヤのことが「若者」と呼ばれるのは、死ぬことのない御使いの目からの呼び方なのかもしれません。御使いどうしの対話は興味深いものです。

 そして、ゼカリヤに伝えられた約束が、「エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう」(2:4)というものでした。当時のエルサレムは、その約75年後に城壁修復の工事が、ネヘミヤの指導で行われるように、城壁のない無防備な町でした。それはユダヤ人にとって大きな屈辱でしかありませんでした。

ところが、ここで御使いはゼカリヤに向かって、将来的なエルサレムのあまりの繁栄のゆえに、城壁を作ることができないほどに広くなってしまうと言ったのです。

その上で、町の守りに関して主は、「しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる・・・わたしがその中の栄光となる」(2:5)と約束してくださいました。主ご自身が「火の城壁」となって敵の攻撃から町を守るばかりか、かつてエルサレムを去った「主の栄光」が町に戻ってきて、その真ん中に住んでくださるというのです。

その上で、なおペルシャ帝国の中心地に住んでいるユダヤ人に向かっての「主(ヤハウェ)の御告げ」が、「さあ、さあ。北の国から逃げよ・・・天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ・・・さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ」と訴えられます(2:6,7)

かつて、主はユダの民を世界に散らしましたが、今度は、主ご自身が彼らのエルサレムへの帰還を励まし、導いておられるというのです。

   28節の、「主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という意味は解釈が困難です。これはこの少し前、バビロン帝国の滅亡の前の時を指していると思われます。

とにかく、ここでは、エルサレムを略奪した国々に対する神のさばきが、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」と告げられます。

これは申命記3210節を思い起こさせつつ、イスラエルの民をご自分の「目のひとみ」と呼びつつ、イスラエルに害を与えようとする者は、主ご自身の目のひとみを攻撃するような自滅行為であると述べたものです。

そして、主はご自分の「目のひとみ」を守るために、「見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる」と言われます。その結果、「彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる」と、自分たちが虐げた民のとりこにされるという逆転が描かれます。

その上で、ゼカリヤ自身が主によってイスラエルに派遣された預言者であることを民が認めるということが、「このとき、あなたがたは、万軍の主(ヤハウェ)私を遣わされたことを知ろう」と描かれます。

 そして再び、神の民に対する慰めのことばが、「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む」(2:10)と描かれます。

これこそ、イスラエルの民にとっての夢が実現する状態です。主の栄光が、エルサレムに戻ってきて、人々はそれを喜び、歌い、また楽しむというのです。エルサレムは再び、名実ともに、「主の都」として繁栄します。

そればかりか、「その日、多くの国々が主(ヤハウェ)につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む(2:11)というのです。これは、主の民の枠が、イスラエルから全世界の人々に広がることを意味します。

イエスがエルサレムに入城した時、人々は、イスラエルのローマ帝国からの解放を期待して、喜び歌いました。しかし、それは、神の民の枠がユダヤ人を超えて世界に広がることの始まりだったのです。

 そのことがゼカリヤに知らされているのは驚くべきことです。11節の最後は、「シオンの娘」に向かってゼカリヤが、「あなたは、万軍の主(ヤハウェ)が私をあなたに遣わされたことを知ろう」と、その成就を喜ぶ姿が描かれます。

これまで、「主が私を遣わす」と三度も繰り返されるのは、この預言が必ず成就すると強調するためでしょう。

  そして、「主(ヤハウェ)は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる」(2:12)と記されますが、この「聖なる地」とは、現在のパレスチナとは限りません。それはここで最初にエルサレム自身が、あまりの広さのゆえに城壁のない町とされていると描かれているからです。

そして、ユダの「割り当て地」とは、現在、私たち神の民全体にとっての「割り当て地」であるこの世界全体になっています。

そして、そのとき、主は天の聖なる住まいから降りてきて、すべての肉なる者の真ん中に住んでくださるということが、「すべての肉なる者よ。主(ヤハウェ)の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」(2:13)と描かれています。 

ゼカリヤ書には「万軍の主(ヤハウェ)」ということばが何度も繰り返されます。それは、目に見える現実が、まるで神がいないような悲惨な状況だからです。

神の家と呼ばれたエルサレム神殿はバビロン帝国によって滅ぼされ、ようやく再建が始まった神殿は、あまりにも小さなものでした。それは、異教徒のペルシャ帝国の王のあわれみでようやく再建が許されているに過ぎません。人間的に考えると、ペルシャの王こそが、ユダヤ人の保護者、救い主です。彼らは目に見える政治状況の中で、彼らの神が、どんな王国を凌駕する「万軍の主であることを、繰り返し語れる必要がありました。

主は、預言者ゼカリヤを通して、神の民にとっての将来が、どれほど栄光に満ちたものであるかを様々な幻を用いて解き明かします。この栄光に満ちた幻こそが、ユダヤ人共同体を築き上げたのです。

「喜び歌え、楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたがたのただ中に住む」ということばは、この日本で吹けば飛ぶようなひ弱な存在であるクリスチャンにも適用できます。

私たちの目にその栄光は見えなくても、全宇宙の創造主が私たちの真ん中におられるのです。その祝福は、今、徐々に広がり続け、全ての人に明らかになります。

私たちは、無意識のうちに無神論的な因果律の概念に支配されています。しかし、悪いことが起こるたびに、過去に原因があると反省はしても、人はまた同じ過ちを繰り返してしまい、最後には絶望に追いやられます。

しかし、聖書の神は、因果律を超えて、ご自身の一方的な祝福を約束してくださいました。

すべての災いの中に、「わたしに帰れ」という主の招きがあります。それに応じる者には、人智を超えた祝福の世界が約束されているのです。