私たちの信仰生活の神秘は何よりも聖霊のみわざにあります。初代教会の時代、アポロという雄弁な伝道者がいましたが、彼のことが、「イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」と描かれ、それに対し、パウロのから教えを受けていたプリスキラとアクラが、「彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」と描かれています(使徒18:24-26)。
私たちは聖書知識においてイエスを正確に知ることはできますが、新約聖書の信仰の核心とは、何よりも、聖霊のみわざにあります。そして、聖霊は何よりも、あなたの心の奥底に、イエス・キリストを示し、その救いのすばらしさを体験させてくださる全能の神です。
あなたの信仰生活は聖霊のみわざによって始まりました。それを忘れると、息苦しい信仰生活になってしまいます。
1.ヨハネの福音書のテーマ
ヨハネの福音書1章1節~18節はひとつのまとまりになっています。そこではまず、最初、イエス・キリストは世界の初めの時から父なる神とともにおられた創造主であるという驚くべきことが記されています。
そして、「ことばは人(肉)となって、私たちの間に住まわれた」(14節)と、創造主の受肉のことが記され、その目的が、神を見ることができない人間に、「神を説き明かされる」ということであったというのです(18節)。受肉前のキリストが「ことば」として描かれているのはそのためです。
ことばによって人は真理を知ることができます。神の「ことば」であるキリストご自身が、私たちに天地万物の創造主、この世界の真の支配者がどのような方かを説き明かしてくださいます。
しばしば、「神が愛なら、どうして世界にこんな不条理と痛みがあるのか・・」という疑問が出されます。それに対して、聖書はその疑問に正面から答える代わりに、父なる神とともに世界を創造した方ご自身が、この世界の痛みを引き受けるために、私たちと同じ不自由な肉体を取ってくださったということを描きます。
痛みや苦しみの原因ではなく、創造主ご自身が私たちとともに苦しんでくださり、すべてを益に変えてくださるということがわかるのです。
そして、そのような文脈の中に、6,7節では、ヨハネという人のことが紹介され、「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」(7節)と記されています。
つまり、イエスは「神を説き明かす」方である一方で、このヨハネという人はイエスがキリスト(救い主)であることを「あかし」する方であるというのです。
イエスは人間的には大工のせがれに過ぎないと見られていましたから、人々の信頼をより得ている人の紹介が必要でした。そして、ヨハネは祭司の長男として人々の信頼を集めていました。
そして、19節では、「ヨハネの証言は、こうである」と描かれています。「証言」の原文は、7節の「あかし」と同じことばです。そして彼が、どのようにイエスを紹介したか、その様子が19-34節に描かれており、その結論は、「この方が神の子であると証言している」(34節)ということになります。
そしてまた、この福音書のほとんど最後には、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるため、また、あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:31)と記されています。
しかも、ここに紹介された「ヨハネ」が何をやっていたかについては、28節に至ってようやく、「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」と描かれています。ここで初めて、読者は、「ヨハネ」と呼ばれる人が、他の福音書で「バプテスマのヨハネ」と呼ばれている人のことであるということがわかります。
しばしば、英語の文章は結論を最初に記述する一方で、日本語はなかなか結論が分かりにくいなどと言われますが、少なくともこの福音書は英語のようには記されていません。全体を読んだ上で、丁寧に分析しないと本当の意味は分かりません。
しかも、何度も繰り返されることばに関しても、著者(使徒ヨハネ)自身がどのような意味で使っているかを注意深く考える必要があります。
たとえばここでの「神の子(ヒュイオス)」とは、世界の始まる前から父なる神とともにおられ、ともに世界を創造された方という途方もない意味です。当時の人々は、ローマ皇帝を「神の子」と呼びました。ですからこの福音書では、イエスはローマ皇帝に勝る全世界の真の支配者であるということが強調されているのです。
そして、私たちがイエスを信じることによって「神の子どもとされる」(1:12)というのも、使徒パウロが、「あなたがたは・・奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる(ヒュイオスの立場とする)御霊を受けたのです」(ローマ8:15)というように、イエスとの共同支配者とされるという驚くべき意味が込められているのです。
世界の創造主が私たちと同じ人間になられたのは、このひ弱な、罪に誘惑されるばかりの不自由な私たちが「神の子どもとされる特権」(12節)の豊かさを味わうことができるためなのです。
神はこの世界の痛みをすぐになくす代わりに、痛みのただ中に、いのちの豊かさを与えてくださるためでした。チェルノブイリ原発事故で多くの人々が生活の場を失いましたが、それ以上に悲惨なのは、その多くの方々が、政府の援助金を頼りにして生きるようになってしまい、働く気力を無くしてしまったことだと言われています。
残念ながら、フクシマにも同じことが起きているとのことです。被害を受けた方に補償を与えるのは、政府や東電の当然の責任です。しかし、希望と気力を政府は与えることができるでしょうか。そこに私たちキリストの教会の使命があるのではないでしょうか。
2.「私は声です。荒野で叫んでいる者の・・・預言者イザヤが言ったように」
19節の「ヨハネの証言」の内容が説明されるプロセスとしてまず、「ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、『あなたはどなたですか』と尋ねさせた」と記されます。何と神殿に仕える「祭司とレビ人」自らが、ヨハネに質問をしにやってきたばかりか、その背後にはエルサレムに住むユダヤ人たち全体の問いかけがあったというのです。
この質問は、厳密には、「あなたは何か」と記され、「あなたには、どのような立場や資格を神から与えられて、ヨルダン川でバプテスマを授けているのか・・」と尋ねたという意味です。
当時のユダヤ人たちは、ヨハネが祭司ザカリヤの長男であり、ザカリヤがヨハネの誕生の不思議を語っていたということもうわさで聞いていたことでしょう。その意味で、彼らはヨハネについての情報を持ってはいました。しかし、彼らを当惑させていたのは、あまりに多くの人々が、ヨルダン川に下ってヨハネからバプテスマを受けていたということでした。それは、祭司やレビ人にとっての生活の基盤であるエルサレム神殿の権威に対する挑戦に他なりませんでした。
当時の人々が、ヨハネが授けていた「バプテスマ」からイメージしたのは、レビ記14章に描かれているもの、ツァラアト(らい病とも訳されたことば)に犯された人の癒しを神殿の祭司が確認し、小鳥をいけにえとしてささげさせ、その血をその人に振りかけ、七日間を隔てて二回にわたって水を浴びてもらうという儀式であったと思われます。
事実、イエスはツァラアトの人を癒した後、「人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい」と言われました(マタイ8:4)。つまり、バプテスマは、今まで汚れた者と見られていた者が、再び神の民の交わりの中に受け入れられるためのしるしと見られました。
そしてヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマと呼ばれていました。それも基本は同じで、自分が神の前に汚れた者であることを認め、水で洗ってもらうことによって、再び神の民として受け入れられ、神の民として歩み出すという意味がありました。
それこそ、エルサレム神殿が人々に提供する人生の再出発のシステムでした。それをヨルダン川に下って行って、水を浴びれば用が足りるというのは、神殿システムへの挑戦、祭司やレビ人の収入源を奪うことにも通じます。
ヨハネの答えの様子は、「彼は告白して否まなかった」(20節)でまず区切った方が良いと思われます。そこには、彼は質問した人々の心のうちにある問いを察して、先回りして答えたという意味と同時に、23節までの応答を予想して自分の立場を語っているからです。
その上で、彼はまず、「私はキリストではありません」と「告白した」と記されますが、それは先の「告白して」とまったく同じ動詞です。ユダヤ人たちの中に、バプテスマのヨハネを救い主キリストと見る人々がいたことに対し、彼は明確な「告白をした」というのです。
それに対し使者たちは、「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか」と、今度は具体的に聞きます(21節)。旧約の最後の預言者マラキでは、主ご自身が、「見よ。わたしは、主(ヤハウェ)の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす」と記されていたからです。
不思議にも、まず、「大いなる恐ろしい日」を実現するのは、救い主キリストであるというのです。そして、そのキリストによるさばきへの備えとして、神は預言者エリヤを遣わして、人々の心を回心に導くというのです。
イエスは後に、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした・・・あなたがたが進んで受け入れるなら、実は、この人こそ、きたるべきエリヤなのです」(マタイ11:11,14)と言われました。ですからヨハネが自分のことを「私こそエリヤです」と答えても良さそうなものですが、彼は、自分はエリヤでも預言者でもないと答えます。
それは当時の人々が、自分の都合に合わせた、自分にとって分かりやすいエリヤや預言者のイメージを膨らませていたからではないでしょうか。少なくとも彼らが描いていた救い主キリストのイメージは、ユダヤをローマ帝国の支配から解放する軍事的指導者のような存在でした。それに合わせて、彼らにとってのエリヤや預言者のイメージもできていたことでしょう。
ヨハネはそのような彼らの既成概念を崩すためにも、ヨルダン川でバプテスマを授けていたのですから、彼らに考えさせるために、期待通りの答えを言わないのも当然でした。
しかし、そのヨハネの意図を知る気のなかった「祭司とレビ人」たちは、自分の質問の動機をあまりにも御用聞き的な感じで、「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが」と表現しました。
彼らは民の指導者でありながら、真理を知りたいのではなく、どのように報告すべきかだけを考えていただけなのです。
そして、改めて彼らはヨハネに、「あなたは自分を何だと言われるのですか」(22節)と尋ねます。それに対し、ヨハネは、人々の心を自分のイメージではなく、みことば自体に立ち返らせるために、「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」と答えます(23節)。
これはイザヤ40章3節からの引用です。そこでは、「主の道を整えよ・・」と荒野で呼ばわって、人々に主の栄光が戻ってくる備えを促す呼びかけの声です。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することを意味しました。
エルサレム神殿が廃墟とされ、その後も外国の支配下に置かれていたのは、主の栄光が立ち去ったからと描かれていますが、今や、主の栄光がイスラエルの地に戻って来るというのです。
その備えをするというのは、自分たちのアジェンダを横において、主のみことばに謙遜に耳を傾けることです。
それは具体的には、イザヤ40章以降に記された主の御声に耳を傾けるということです。そこには当時の常識とはまったくかけ離れた神の救いのご計画が描かれていました。特に、イザヤ53章に至っては、主のしもべが、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(5節)と、彼らが期待した救い主とは正反対の働きが記されていました。
とにかく、ヨハネは自分を、「私は声です」とまず「告白」した後に、「荒野で叫んでいる者」と付け加えています。ヨハネは自分の働きを、イザヤの預言に従って、「主をお迎えする道を整えるように荒野で叫んでいる声」と、聖書のみことばの中に具体的に見いだしています。
それは当時の人々が描いたエリヤや預言者のイメージではありません。あくまでも愚直に、聖書のストーリーを人々に紹介する「声」としての働きです。
この世は、いつも明確な答えを求めます。しかし、分かりやすい答えというのは、その人の問いかけの動機自体を問い直させはしません。聖書は私たちの問いかけの動機自体を正させようとします。
みことばに聴くことの基本は、あなたの問いかけではなく、神が聖書を通してあなたに問いかけていることに心の耳を開くことなのです。
3.「私は・・水でバプテスマを授け・・・その方は、聖霊によってバプテスマを授ける」
24節に至って初めて、「彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった」と描かれます。「パリサイ人」は、イスラエルの信仰復興をリードするような改革者を意識していた人々で、彼らは聖書の教えを民衆の生活に具体的に適用することに熱くなっている宗教指導者のグループでした。
そして彼らは改めて、「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか」(25節)と尋ねます。
それに対しヨハネは、「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」(26,27節)と答えます。
ヨハネは自分のバプテスマの意味を語る代わりに、自分はあくまでも「主の道をまっすぐにせよ」と叫んでいる「声」に過ぎないということを、この表現で明確にしたのだと言えましょう。
私たちは自分の立場の弁明しようとしますが、彼は人々の心を、主から与えられた具体的な働きへと向けさせようとしています。
そして、ここに至って初めて、「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」と記されます(28節)。それは、次の出来事に読者の目を向けさせるためです。
そして、「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った」(29節)という場面描写と共に、ヨハネの声が、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と描かれます。
それは、まさにイザヤ53章を思い起こさせることばです。そこではいけにえとしてほふられる羊のことも記されていました(7節)。それと同時に、「罪を取り除く子羊」とは、イスラエルの民をバビロン捕囚以降の奴隷状態から解放する犠牲の子羊という意味がありました。
イスラエルの民はエジプトの奴隷状態から解放されたことを覚えるために過越しの祭りを毎年祝い、そこでは子羊を屠って、その血を二本の門柱とかもいに塗りました。主のさばきはその戸口を過ぎ去る一方、エジプトのすべての初子は主のさばきを受け、イスラエルは奴隷状態から解放されたというのです。
そして今、同じように、イスラエルはバビロン捕囚以降の奴隷状態からイエスの血によって解放されるということをヨハネは示唆したのだと思われます。
そしてヨハネは引き続き、「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです」(30,31節)と述べています。
イエスは人間的にはヨハネよりあとに生まれており、社会的な立場もヨハネの方がはるかに上でした。しかし、ヨハネは、イエスはマリヤから生まれる前から世におられた神の御子という意味で、自分より先におられ、はるかに勝る存在であるということを様々な表現で語っています。
そして、ヨハネ自身もそのことを知らなかったと告白しながら、自分もイザヤ書を通して救い主の働きを理解し、そのことをイスラエルの民に今あかしをしているのだと説明しました。
なお、ヨハネがヨルダン川の東側でバプテスマを授けていたのは、イスラエルの民が出エジプトの後、ヨシュアによって導かれてヨルダン川を渡り、約束の地に侵入したことを思い起こさせるという意味もありました。
イエスのヘブル語名はヨシュアでした。ヨハネは、イエスこそが神の民を奴隷状態から解放し、新しい神のご支配の中に導き入れる新しいヨシュアであると述べたのです。それこそ旧約のイスラエルの預言を成就する救い主の姿でした。
32節は、「またヨハネは証言して言った」から始まりますが、「証言」とは、7節の「あかし」、19節の「証言」と同じ言葉です。ヨハネはあくまでも、救い主を紹介するために自分は来ていると言っており、ここでの証言の内容が、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」(32-34節)と記されています。
御霊が鳩のように天から下ったのは、ヨハネがバプテスマを授けた直後の事ですが、彼は自分がイエスにバプテスマを授けたということを述べることなく、その出来事をあかししています。しかも、それは、「私を遣わされた方」の命令によるというのです。
そして、「御霊がある方の上に下って、その上にとどまられる」とは、イザヤ42章1節のことばを思い起こさせるものです。そこには、「見よ。わたしのしもべ、わたしがささえる者を。わたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者を。彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきをもたらす」(私訳)と記されていました。
そして、主の御霊に導かれた救い主の働きが、「聖霊によってバプテスマを授ける」と描かれています。先にヨハネは自分の働きを、「私は・・水で(によって)バプテスマを授けている」と紹介しましたが、ここでは救い主の働きを、「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方」と紹介しており、「水で」と「聖霊によって」が同じギリシャ語の「エン」(英語のin)という前置詞で対比されています。
それは、バプテスマのヨハネの働きが、イスラエルの原点に立ち返らせる古いヨシュアに導かれたヨルダン渡河にあったとすると、新しいヨシュアの働きが新しい天と新しい地に導き入れる働きであり、そのために主は聖霊をイエスに従う者に与えてくださるということになります。
なお、エゼキエル36章25~27節には、水のバプテスマと聖霊のバプテスマとの関連が描かれています。そこでは、主が不敬虔なイスラエルを敢えて救ってくださることが、「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(36:24)と説明され、その際、彼らが再び神が聖別された土地を汚すことがないよう、それに先立ってなされることが、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」と記されます。
これは、自分の身を汚してしまった人が宿営に入るためのきよめの儀式です。ヨハネのバプテスマはその原点に立ち返るものであり、これは現代の洗礼式に結びつきます。
その上で、原文では26節から新しい文章が始まり、そこで主ご自身が、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と断言されます。神は彼らに肉のような柔軟な「心」を与えるばかりか、「新しい霊」を授けてくださることが、「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と説明されます。
イスラエルの民は、モーセとその後継者の預言者たちを通して、神のみこころを聞き続けてきました。それは約束の地にエデンの園のようなすばらしい国を建てることができるためでした。ところが、彼らは、そのせっかくの尊い教えに感動することも、それを守ることもできませんでした。それで主は、主の御教えを実行できるようにご自身の「霊」を授けてくださるというのです。
聖霊は創造主ご自身です。主は私たちを上から指導する代わりに、何と私たちの内側に住んでくださるのです。
神の御教えは旧約から新約まで一貫していますが、新約の時代には、神はご自身の教えを「彼らの心に書き記す」(エレミヤ31:33)と記されています。
バプテスマのヨハネは、私たちの罪を指摘して悔い改めのバプテスマを授けることはできましたが、イエスは私たちの内側に聖霊を授けてくださいました。人は自分の罪ばかりを指摘されると委縮することがあります。力を抜いて自分を神に差し出し、聖霊にある自由によって生かしていただきましょう。
ただし、聖霊のみわざは、自分で自分を奮い立たせるようなことではなく、神がお造りになれたはずの世界にある「うめき」を自分の「うめき」とし、自分の限界を心から味わいつつ、「うめく」ということから始まることを忘れてはなりません。
「どのように祈ったらよいか分からない」ような中に、聖霊のみわざは始まるからです(ローマ8:22-26)。