多くの信仰者にとっての落とし穴とは、主ご自身を仰ぎ見ることよりも、自分の「生き方」に目が向ってしまうことではないでしょうか。また、キリストご自身以前に、他の信仰者の成功例に習いたいという誘惑もあります。多くの人々から尊敬されている神学舎で、カウンセラーでもあるラリー・クラブは自分の失敗談を次のように語っていました。
「私は神学校で、とても献身的な青年に出会い、彼の信仰の歩みがどんなものだったかを聞いてみました。彼は高校時代に放蕩三昧の生活に堕落し、敬虔な両親を傷つけていました。ところがある日のこと、いつものように深夜に帰宅し、そっと自分の部屋に入ろうとしたところ、親の寝室のただならぬ雰囲気に気づきました。母は涙を流しながら自分のために必死に祈っていたのです。彼はその様子を見て、瞬時に自分の愚かさに気づき、神に立ち返ったというのです。
私はそれを聞いて、深く心を動かされ、その模範に習おうとしました。私もその頃、息子のことで悩んでいたからです。私も、息子の帰宅が遅れたときを見計らって、寝室の戸を少し開けながら、彼に聞こえるように大声を出して、「私の息子を救ってください!」と叫びつつ祈ってみました。しかし、何も起きはしませんでした。
私は自分の愚かさを恥じました。その母親は明日の見通しがないまま、ただ必死に神に向かって心を注ぎだしていました。しかし、私はその模範に習おうとしながら、「こうしたら、このような結果が生まれるはず・・・」という方法に身を委ねていただけだったのです。
今回は、「沈黙の祈り」という、昔大切にされ、今は忘れられがちな祈りに目を向けますが、その際、私たちは、「神に向かって」という沈黙の方向を忘れてはなりません。それは救いの時期も方法も「神の自由」に委ねることです。
振り返ってみると、私は何よりも失敗することを恐れて生きてきました。そのため人の行動を予測し、管理したいような思いがあり、予想外の事態に腹を立てることがありました。その態度は神にも向けられていたような気がします。そのため、神から示された道も、また限りないほどの意外な恵みも、数多く見逃してきたような気がします。あなたはどうでしょう?
1.「ただ神に向かって・・沈黙している」
「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」(1節)とダビデは最初に告白しています。彼があれほど大きな神の祝福を体験できた鍵は、何よりも、人間的な打算を超えて神に期待し続けたことにありました。しかも、彼は人間的な意味での成功と思えることも、すべてが神のみわざであることを認めていました。
この「沈黙」は、「黙って・・待ち望む」と意訳されることもあります(新改訳)。それは、「信頼」と「沈黙」は、表裏一体のもので、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。
その心の状態は、「まことに私は、母親の前にいる乳離れした子のように、このたましいを和らげ、静めました。このたましいは乳離れした子のように私の前におります」(詩篇131:2私訳)と告白できる状態です。「和らげる」とは、イエスがガリラヤ湖の嵐を鎮め、大なぎにしたような状態です(マルコ4:39)。また、「静める」とは「安んじる」とも訳せる言葉で、目の前に人生の嵐が吹き荒れ、「神よ、どうして!」と叫びたくなるような状況下でも、天地万物の創造主がともにいてくださるという霊的事実を信じて、待っていられるような状態です。
母親に必要を満たされ続けて、時間をかけて乳離れをした幼児は、多少お腹を空かせても、泣いて叫ばなくても母親が自分を守ってくれるということを感じられるようになります。そして、目の前に母親がいること自体を喜んで、嵐の中でも安らいでいられることがあります。それまでの母親の親身な愛情が、子供の心を安心させてきたのです。ですから神の御前に沈黙できることは、神への最高の愛の表現と言えましょう。それなのに私たちの場合は、神の前でどれだけ沈黙できているでしょうか。
預言者イザヤは「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである」(57:20)と言いました。これは私たちの心の状態に似てはいないでしょうか。
口先では「私は神に信頼している!」と言いながら、行動では、人の目を恐れ、人間的な力や富を頼りにして生きてはいないでしょうか。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。
ですから、以前、私は、沈黙が恐怖で、敵意さへ感じました。心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じたからです。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきたのかもしれません。
しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、私を動かし続けたのです。その結果、さして重要ではないことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。
しかし、幸いにも、徐々に沈黙することが苦痛ではなくなりました。それは一時的な混乱を通り越しさえするなら、沈黙を通して、神への信頼が、たましいの奥底に根を張ることができるという期待が実感できるようになってきたからです。そして、そこから、もはや口先だけの信仰ではなく、神に焦点を合わせた行動が生まれるようになるという希望が見えて来ました。
その際、「ただ神に向かって」という沈黙の方向性こそが鍵になります。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、目の前に主(ヤーウェ)を置く」(16:10)のです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ神に集中します。なぜなら「私の救い」は、この世の人や物の背後におられる「この方から・・来る」からです。
私たちはしばしば、解決の「方法」にばかり目が向って、神がどのような方かを忘れてはいないでしょうか。聖書を読んで不思議に感じるのは、神の奇跡は毎回ユニークで、同じことの繰り返しがないということです。しかも、ひとつのひとつの不思議な神のみわざには、驚くほど多くの人の生き方自体を変える力がありました。
神の御前に静まりながら、自分の人生を神の救いの大きな物語の一部としてとらえ直してみてはいかがでしょう。二度と体験したくないと思えるような悲劇さえ、より大きな救いの喜びの物語の一部とされます。
実際、ダビデは不当な苦しみを受け続けましたが、それを通して多くの詩篇が生み出され、苦しむ人々に今も消えることのない希望を与え続けています。
2.「神から、私の望み が来るからだ」
ところが、私たちは「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は決して揺るがされない」(2節)と告白しても、すぐに周りの状況に心が揺すぶられます。ダビデ自身も自分を攻撃する人々のことに心が奪われました。
なお、神が「私の岩・・砦の塔」と呼ばれるのは、敵の手の届かない高い所に、神が私を守っておられると信頼しているからです。
しかし、人々の目には、その土台が、「傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように」(3節)しか見えないというのです。ダビデもサウル王のもとで最初は輝かしい栄誉を受けていましたが、サウルから追われる立場になったとたんに、自分の同族であるユダの人々からさえも裏切られました。
彼らは自分の身の安全ばかりを考えている偽善者で、「人の尊厳を貶めることばかりを計り、偽りを喜び、口では祝福しながら内側ではのろっている」(4節)ような人たちでした。
私たちもダビデと同じように神に選ばれた者としての「尊厳」を与えられています。しかし、そのことを喜んで証ししようとすると、それを見る周りの人々は、かえってねたみに駆られ、私たちを「おとしめることばかりを計る」というようなことが現実に起きてはいないでしょうか。
それでダビデは、自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました(5節)。その際、1節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、多くの翻訳は命令形と解釈しています。
たましいはいつも何かに固着しようとしますから、黙っていると勝手な方向に走り出してしまいます。ですから、様々な思いが湧き起こっても、川の流れを見るように右から左に次々とただ流しながら、「ただ神に向かって・・沈黙せよ」と、自分のたましいに穏やかに優しく語りかけることが大切だと思われます。
その際、分散した心を神に向ける鍵の言葉を持っていると助けになると言われます。それは、「主よ!」のひとことでも良いですし、「主よ。あわれんでください」と繰り返すことでも結構です。自分にあったパターンがあることでしょう。
そしてここでは、1節にあった「私の救い」ということばの代わりに「私の望み」(5節)が、「この方から・・来る」と告白されます。それは、この沈黙の中で、たましいは、自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられるからです。
マリヤは御使いから受胎告知を受けたとき、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と祈りました。それは、「神の望み」を「私の望み」とすることでした。
私は自分の願望に縛られ続けてきたように思います。そして、しばしば、この世的な成功体験は、その構えをかえって強化させることになります。しかし、期待が強過ぎると、その通りにならない現実の中で失望し、疲れることも多くなります。しかも、自分の期待に縛られていると、その枠を外れたところに注がれている数多くの神の恵みに気づくことができなくなります。
そして不満ばかりに目が向かうと、神からの恵みに心がますます鈍感になり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。ところが、沈黙の祈りはそれを逆転させ、日常生活の中に驚くほど多くの神の恵みのみわざを発見させる助けになるように思われます。
なお、ダビデは徐々に力を抜いて、「この方だけが私の岩、救い、また砦の塔。私は揺るがされない」(6節)と、受動態で希望を告白できるようになってきました。これは2節の繰り返しのようですが、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。
彼は、心が大きく揺るがされることを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていると実感することができたのではないでしょうか。
そのことを受けて、「私の救いと私の栄光」は、自分の努力以前に、すべて「神のもとにある」と告白しています(7節)。そして「私の力の岩と避け所」は、自分の信仰以前に、「神のうちにある」と安心して告白しています。
3.「あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ」
ダビデは、そのような体験を踏まえて、「民よ。いかなるときにも、この方に信頼せよ」(8節)と勧めます。しかも、その上で、「あなたがたの心を、御前に注ぎ出せ」と、一見、沈黙の反対とも思えることを勧めています。それは心の内側にある様々な混乱した思いを「私たちの避け所」である神に、正直に打ち明けることです。
サムエルの母のハンナは不妊の女と蔑まれていたときに必死に主(ヤハウェ)にすがって祈っていました。その様子を見た祭司エリは彼女が酔っているように見えたので、「いつまで酔っているのか」と叱責しましたが、それに対しハンナは、「いいえ祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主(ヤハウェ)の前に、私の心を注ぎ出していたのです…私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」と答えました(Ⅰサムエル1:14-16)。その結果として、サムエルが誕生しました。
つまり、「心を注ぎ出す」とは、そのように自分の内側にある悩みや憂いやいらだちを隠すことなく正直に主に訴えることなのです。
神への沈黙は、感情に蓋をすることではありません。実際、「注ぎ出す」とは、「空にする」とも訳される言葉で、沈黙とは矛盾することではありません。湧きあがった不安や怒りや悲しみを、優しく受けとめた上で、たとえば「主よ。私は不安です・・・」と言いつつ、その気持ちを主にささげることができます。すると、感情の嵐は、しだいに落ち着くものです。
それは、目の前のハエを追い払おうと必死になるならかえってハエは暴れますが、がまんして無視し続けるなら、ハエはやがて静かに立ち去るようなものです。
まお、9、10節は翻訳が困難な表現です。ただ、どのような翻訳においても、人の力に頼ることのむなしさが語られていることは共通しています。
神は現在、天からパンを降らせる代わりに、人との協力から成り立つ仕事の場を備えることによって、私たちにパンを与えてくださいます。しかし、そのような霊的現実を忘れ、眼に見える現実ばかりに心が奪われてしまい、神の前に静まることを素通りするなら、人の顔色ばかりを窺うような、人間の奴隷になってしまう可能性があります。
「まことに(ただ)、人間の子らは息のようなもの」とあるように、いざとなったら頼りにならないという面があることを忘れてはなりません。ほとんどの人は所詮、自分の身を守ることに夢中です。自分に被害が及びそうになると、良い人と思われる人でも、「人の子らは欺くもの」とあるように、「欺く」ことがあります。
しかも、この世の権力者が人の目にどんなに重く見えても、神の目からは「息よりも軽い」存在に過ぎません。
そして、「暴力に信頼するな」(10節)とは、8節の「この方に信頼せよ」との対比表現です。10節は「信頼するな」、8節は「信頼せよ」ということばからそれぞれ始まり、対比が明らかになっています。
人は「暴力」または「力による強制」に動かされがちですから、「力に」頼ることで短期的には効果的が生まれる場合が多いことでしょう。しかし、そこに落とし穴があります。
それが、「強さが結果を生んでも、それに心を留めるな」という勧めです。なぜなら、富や力を基にした「強さ」は、麻薬のように人を依存させ、目に見えない神を忘れさせるからです。
「力は、神のもの」(11節)とあるように、私たちは、目に見える力の背後におられる神にこそ目を向けるべきです。そして、王であるダビデは、神を自分の主人という意味を込めて、「主(「アドナイ」主人)よ」と呼びかけます。
その際、「慈愛(ヘセッド)も、あなたのもの」(12節)と、主がご自身の契約を守り通してくださるという真実さを賛美します。「神を知る」という黙想の目的は、何よりも「神は真実です」(Ⅰコリント10:13)ということを腹の底に据えることです。
そして最後に、主を「あなた」と呼びつつ、この世の因果律や方法論を越えて、ただ神だけが私たちの労苦に公平に「報いてくださる」方であると告白します。
確かに、人はみな、誤解を受け非難されることで傷つきます。しかし、肉なる人間は誰も、あなたを完全に理解し、正しく評価することはできないのではないでしょうか。
それなのに私たちは、「この人にだけは分ってもらいたい・・・」などと忙しく動き回ったあげく、主の御前に静まるという時間を亡くしてしまう場合が多いように思われます。
私自身、人から誤解されたくないという思いに駆り立てられて、無駄な時間を過ごしたばかりか、問題を広げてしまったことすらあったことを反省しています。この世の不条理は常に目の前から消えないことを受け止め、この世の尺度を越えた神の視点にすがるべきなのです。
私たちは常に神に向かって生きるべきです。その始まりは、神の御前に心を注ぎ出し「空」にすることです。黙想の第一の目的は、霊的な恍惚状態を体験することではありません。
光は、ちりに反射することで見られるのですから、心のちりに驚く必要はありません。こころを透明に、空にすることで、「キリストの心」(Ⅰコリント2:16)が、「土の器」を通して生きることが可能になります。そのきっかけが神の前に沈黙することです。
そしてその「実」は、しばしば黙想の中ではなく、日常生活に知らないうちに表わされます。ですから、黙想の「実」が、すぐに見えないことに失望する必要はありません。
なお、この詩篇では、「アッハ」という副詞が六つの節の冒頭で繰り返されています。それは1節の「ただ」、2節の「だけ」、4節の「ばかり」、5節の「ただ」、6節の「だけ」、9節の「まことに(ただ)」です。
その他の節のはじまりも「ア」という発音で始まります。それは、3節の「いつまで」、7節の「のもとに」、10節の「するな」、11節の「一度」ということばです。
例外は、8節の冒頭の「ビットゥフー」(信頼せよ)という書き出しと、12節の「ウレハー」(あなたのもの)という書きだしです。
ですからここでは、「ただ主に」「この方だけ」という主への信頼を訴えた言葉と、人間のわざの空しさが同じ音のはじまりで対比されながら、8節の「信頼せよ、この方に」という呼びかけが心に残るように記されています。そして最後に「あなたのものです。主よ」という呼びかけで終わります。
私たちはあまりにも目の前の出来事や人々の反応に心が揺らされます。しかし、この詩篇では、自分の心を徹底的に主に向けるということが強調されています。
ある人が、「私たちは富を失っても、何も失わない。健康を失うと、何かを失う。しかし、品格を失うと、全てを失う」と言っていました。ですから、品格を自分で損なうような生き方をしている人に腹を立てる必要はありません。彼らはすでに自分を滅びに向けているだけです。私たちはそのような人をあわれむとともに、力に対して力で対抗することで彼らと同じ生き方に流されないように自分のたましいを見張る必要があります。
私たちのたましいは、主の息を吹きいれられて生きた者となりました。ですから、私たちの心もたましいも、主に向けられているときに、本当の意味で自分らしく輝くことができるのです。
私たちは自分の心を、いつでもどこでも、主のご臨在の前に開いている必要があります。沈黙の祈りは、自分の中に生まれる様々な思いを主に委ねながら、自分のこころとたましいを主に開き、主の前に心を透明にして行く最高の祈りのときなのです。