マザー・テレサが書いた「からっぽ」という詩があります。
神はいっぱいのものを満たすことはできません。 神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです。 本当の貧しさを、神は 満たすことができるのです。 イエスの呼びかけに「はい」と答えることは、空っぽであること、 あるいは空っぽになることの 始まりです。 与えるためにどれだけ持っているかではなく、 どれだけ空っぽかが問題なのです。 そうすることで、私たちは人生において十分に受け取ることができ、 私たちの中で イエスがご自分の人生を生きられるようになるのです。 今日イエスは、あなたを通して 御父への完全な従順を もう一度生きたいのです。 そうさせてあげてください。 あなたがどう感じるかではなく、あなたの中で イエスがどう感じているかが 問題なのです。 自我から目を離し、あなたが 何も持っていないことを 喜びなさい。 あなたが何者でもないことを、そして 何もできないことを 喜びなさい。
子供の成長は「空っぽ」から始まります。ですから、あらゆる教育や訓練には意味があります。ただ、自分が蓄えた知識や技術を絶対化してそれに囚われ、主の呼びかけに答えられなくなることが大人の悲劇と言えましょう。
神によって与えられたものを、必要ならいつでも捨てられることが大切です。それこそが、知識や技術を身につけながら、同時に「空っぽ」であり続けるという逆説ではないでしょうか。
しかも、しばしば起きるのは、目の前の働きのために今までのキャリアを捨てても、忘れた頃に、主は再びそれを生かし用いてくださるということです。
主は、あなたの様々な意味での成長を望みながら、同時に、主の御前で「空っぽ」であり続けることを喜んでおられます。
1.「海辺よ。おまえは牧場となり・・ユダの家の残りの者の所有となる」
ゼパニア1章では「主の激しい怒りの日」のことが記され、最後に、主の「ねたみの火で、全土は食い尽くされる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす」(18節下線私訳)と書かれ、その上で2章では、「主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに」、主のみもとに立ち返ることが勧められ、「主(ヤハウェ)を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和(謙遜)を尋ね求めよ。そうすれば、主(ヤハウェ)の怒りの日にかくまわれるかもしれない」(3節)と記されていました。
そして、4節からは主の「ねたみの火」でイスラエルの周辺の国々が滅ぼし尽くされることが描かれています。原文では4節の始まりは、「なぜなら」という接続詞が記されています。主の怒りに日に、主ご自身によって「かくまわれ」なければ、とんでもない破滅が待っているということを記すためと言えましょう。
2章4-7節にはペレシテ人へのさばきが宣告されます。まず四つの町の滅亡が描かれますが、「ガザ」は現在のイスラエルの南西部のパレスチナ人居住区で、そこから北に「アシュケロン」、「アシュドテ」と続き、その内陸に「エクロン」がありました。これに加え、「ガテ」を含めた五つの町が、ペリシテの地の中心的な都市国家でしたが、ガテはこのとき既に廃墟になっており、他の四つの町も同じようにされるというのです。
そして改めて、「ああ。海辺に住む者たち。ケレテ人の国」(5節)と呼ばれますが、「ケレテ」とはペリシテ人の別名で、「クレテ島」とつながる名だと思われます。それは彼らも最初からこの地に住んでいたわけではないことを示す呼び名だと思われます。
そして、イスラエル国家滅亡後の希望が、「海辺よ。おまえは牧場となり・・ユダの家の残りの者の所有となる。彼らは海辺で羊を飼い」(6節)と描かれます。これは主ご自身が終わりの時代に、「ユダの家の残りの者」のために国を回復し、そこを豊かな牧草地にしてくださるという約束です。
この「残りの者」とは、イスラエルの救いを理解するための鍵のことばです。主は、「ねたみの火」によって、不敬虔な民にさばきを下されますが、それは彼らを火によって精錬するという意味もあります。
それは、「たといあなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る」(イザヤ10:22、ローマ9:27で引用)と記されている通りに、神の民の一部のみが、主のさばきを通して、真の悔い改めに導かれ、主の祝福を受け継ぐという意味です。
主はご自身の契約に従って、「残りの者」に祝福をもたらしてくださいます(2:9,3:13)。そして7節の三番目の文章では原文で、「なぜなら」という接続詞と共に、「彼らの神、主(ヤハウェ)が、彼らを訪れ、彼らの繁栄を元どおりにするからだ」と歌われます。
なお、現在のイスラエルの領域をパレスチナと呼ぶようになったのは紀元135年にローマ帝国がユダヤの最後の独立運動バル・コクバの乱を鎮圧した後に、この地の名をユダヤ属州からその先住民族ペリシテの名を用いてシリヤ・パレスチナと呼ぶようになったのがきっかけと言われています。
主の導きのもとにイスラエルの民は、この地からペリシテ人を海辺の地にまで追いやりましたが、彼らはなおもイスラエルの神、主(ヤハウェ)に逆らい続け、主のさばきを受けて歴史から消えました。
なお現在のパレスチナ人と昔のペリシテ人との間には何のつながりもありません。土地の支配の預言は、新約の時代には全世界に広がっており、神の目に真のイスラエルの民とされたユダヤ人を含むすべてのキリスト者が、この預言も含め、世界を平和のうちに治めるようになると解釈できます。
2.「これが、安らかに過ごし、心の中で、『私だけは特別だ』と言ったあのおごった町なのか」
8-11節にはモアブとアモンに対するさばきが記されます。彼らはアブラハムの甥のロトがソドムから逃れ、二人の娘たちとともに孤立した中から生まれた民で、ヨルダン川の東側を支配し、繰り返しイスラエルに攻撃を仕掛けていました。
そこではまず主が、「わたしはモアブのそしりと、アモン人のののしりを聞いた・・」と彼らの罪が指摘されます。その上で9節冒頭の原文では「それゆえ、わたしは生きているので」と「わたし」という代名詞が敢えて強調されながら、「万軍の主(ヤハウェ)の御告げ」と続きます。
そして彼らの対するさばきが、その出生を皮肉るように、「モアブは必ずソドムのようになり、アモン人はゴモラのようになり・・」と宣告されます。
そして、ここでもイスラエルの「残りの者」への慰めが、「わたしの民の残りの者が・・わたしの国民の生き残りの者が、そこを受け継ぐ」(9節)と約束されます。「残りの者」も「生き残りの者」も、基本的に同じことを言い表しています。
現代の異邦人クリスチャンは、生き残りの神の民に「つぎ合わされた」(ローマ11:19)存在です。イスラエルの民は神にとって大切な「台木」(同11:21)です。決して彼らに対して高ぶってはなりません。
10,11節は預言者ゼパニア自身の解説で、モアブとアモンのさばきの理由が「高慢」と「高ぶり」にあると描かれながら、さばきが全地に及ぶ様子が、「主(ヤハウェ)は彼らを脅かし、地のすべての神々を消し去る」と記されます。
同時に「そのとき」ということばと共に、そこに実現する救いが、「人々はみな、自分のいる所で主を礼拝し、国々のすべての島々も主を礼拝する」と描かれます(11節)。この預言がキリストによって実現しました。今、世界中で、イスラエル神、主(ヤハウェ)が礼拝されています。
同時にイザヤ書の最後では、主が創造される「新しい天と新しい地」において実現することが、全世界の民が主の聖なる山エルサレムに集められて、「すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と約束されます(66:20-23)。それこそ、この世界のゴール「新しいエルサレム」の姿です。
12節では「あなたがた、クシュ人も、わたしの剣で刺し殺される」と預言されます。クシュはエチオピアを指しますが、この当時のエジプトは南のエチオピアを中心とした王国の支配下にありました。
そして、このエジプトはこの後、主が立てたペルシャ帝国によって滅ぼされます。ペルシャはそれに先立ちユダヤ人の帰還を支援します。
13-15節にはアッシリヤに対する徹底したさばきが、「主は手を北に差し伸べ、アッシリヤを滅ぼし、ニネベを荒れ果てた地とし、荒野のようにし・・」(13,14節)と描かれます。
その対比で、かつての愚かな安心を皮肉るように、「これが、安らかに過ごし、心の中で、『私だけは特別だ』と言ったあのおごった町なのか。ああ、その町は荒れ果てて、獣の伏す所となる・・」と描かれます。
下線部は新改訳の脚注にもあるように「私だけで、ほかにはいない」と原文で記され、自分を神とすることです。奢った民は、最も悲惨な最期を遂げることになるというのです。
3.「全地はわたしのねたみの火によって、焼き(食い)尽くされる」
3章1-5節ではエルサレムに対するさばきが描かれます。そこではまず神の平和を意味する町が、「ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町」と呼ばれます。
そして、彼らが救いようのない状態になっていることが、「呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主(ヤハウェ)に信頼せず、神に近づこうともしない」(2節)と四つの否定形で描かれます。
主がまず何よりも問題としているのが、彼らが主の助けを自分で拒絶しているということです。主は繰り返し彼らに預言者を遣わしてくださったのに、彼らはそれに耳を傾けませんでした。私たちが主のために何かの大きな働きをすること以前に、主は私たちが自分を変えるために心を開くことを待っておられます。
そして指導者たちの横暴さが「その首長たちは・・ほえたける雄獅子。そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。朝まで骨をかじってはいない」(3節)と記されます。それは彼らが自分の獲物を日暮れの狼のようにたちまちのうちに食べつくしてしまうからです。
しかも宗教指導者たちに関しても、「その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す」(4節)と非難されます。預言者は民の歓心を得るために主のことばを曲げ、祭司たちは、民のささげるいけにえをも、自分の腹を満たすために汚し、主の律法(御教え)の根本を曲げてしまっていました。
神から責任を委ねられた者たちが、民を食い物にしていたのです。
その一方で、主はご自身の誠実さを、「主(ヤハウェ)は、その町の中にあって正しく、不正を行わない。朝ごとに、ご自分の公義を残らず明るみに示す」(5節)と述べます。
その対比で「しかし、不正をする者は恥を知らない」と述べられます。「恥」とは、人々を過ちから守る最後の心理的な砦ですが、彼らはその感覚を失っていました。
6節で主は、諸国に対するご自身のさばきが、主の目にはすでに実現が決まっているという意味で告げられながら、7節ではエルサレムに対する主の呼びかけが、「あなたはただ、わたしを恐れ、懲らしめを受けよ。そうすれば、わたしがこの町を罰したにもかかわらず、その住まいは断ち滅ぼされまい」と希望が述べられます。
主はなおもエルサレムの悔い改めを待っておられます。その際、「確かに、彼らは、くり返してあらゆる悪事を行ったが」と追記されますが、それは主がご自身の民に対する誠実さのゆえに、彼らの罪に耐えておられるという意味です。
そして8節では、「それゆえ、わたしを待て」と、最初に強調されます。その上でこれが「主(ヤハウェ)の御告げ」であると敢えて描かれ、「わたしが立つ日を」と記されます。
「証人として」という訳は、原文が不確かですが、その目的は何よりも「さばき」を下すことにあります。5節では「公義」と訳されていたことばが、ここでは「わたしのさばき」と記されます。
そして、その日に主がなさることが、「わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ」と言われます。
その上で、改めて「まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き(食い)尽くされる」と述べられ、「主のねたみの火」の恐ろしさが強調されます。イスラエルの神ヤハウェは全世界の創造主であり、すべての人間が、神のかたちに創造されています。それはすべての人が主を礼拝するために創造されたという意味です。
主のねたみは、主を忘れていることに対して向けられているということを忘れてはなりません。どれほど高潔な生き方を全うしても、創造主を忘れていること自体が、主の「ねたみの火」を招き寄せるというのです。
主のねたみとは、主が人との交わりを求めておられることと表裏一体なのです。
4.「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す」
ただ9節の原文は「なぜなら」という接続詞で始まり、主の「ねたみの火」が、全世界の人々を燃やし尽くすというより「食い尽く」して、造り変える「火」であるということが、「なぜならそのとき、わたしは国々の民のくちびるをきよいものへと変えるからだ。彼らはみな主(ヤハウェ)の御名によって祈り、一つになって主に仕える」(一部私訳)と記されます。
つまり、主の「ねたみの火」は鉄を精錬するように人の心を根本から造り変える「聖めの火」なのです。
そして10節では、「クシュの川の向こうから」とは、エジプトの向こうの地の果てから、主に「願い事をする者(または「主を礼拝する者」)・・・が贈り物を持って来る」ようになると記されますが、彼らは主ご自身によって「散らされた者たち」であるというのです。
これはバビロン帝国によって国を奪われ、世界中に散らされた人々が、再び主の御前に集められることを意味します。彼らは強制ではなく、自分の意志で主のもとに帰って来るというのです。
11節では「その日には」と記され、1章15、16節で六回にわたって「その日は・・」と恐ろしいことが描かれた「主の日」と正反対の描写がここから始まり、最初に「あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない」と描かれます。
これは、主に逆らった者たちが、主の「ねたみの火」によってきよめられ、主ご自身も彼らのそむきの罪を赦してくださるという意味です。
またその際のことが、「そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない」と、主が何よりもおごり高ぶる者を「取り去る」と描かれます。
預言者イザヤはエルサレムの女たちの高ぶりの姿を、「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている」(3:16)などと描いています。それは自分の魅力を宣伝して人々の気を惹くような姿勢ですが、それは同時に偶像礼拝に走る姿でもありました。
そして主は12節で「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す」と言われます。つまり、主のさばきを経て残されるのは、「へりくだった、寄るべのない民」(a people humble and lowly)だというのです。
その上で、そのような人々のことを、「彼らはただ主(ヤハウェ)の御名に身を避ける」(詩篇91:2、46:1参照)と描きます。これは人間的には、「彼らは自分で自分の身を守ることができない弱い者」と嘲りの対象となりますが、そのように神の助けなしには生きて行けないことを知っている人々こそが、神に喜ばれる信仰者なのです。
13節で 「イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを言わない」と記されるのは、試練を経た「残りの者」に実現する救いです。
彼らは、貧しく、弱い者ですが、被害者意識に流される代わりに、ひたすら主に信頼し、「不正」や「偽り」から自由になっているというのです。
そして、「彼らの口の中には欺きの舌はない」と再び繰り返されながら、「まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない」と描かれます。それは「狼が小羊と共に伏す・・・」(イザヤ11:6)という弱肉強食のない世界が人間の間にも実現するという、神の救いの完成の姿です。
14節からは「その日」を待ち望む者たちへの呼びかけが、「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ」と記されます。
ここには喜びを表現する四つの単語が重ねられながら、エルサレムの民に対する三つ異なった呼び名が愛を込めて用いられています。
ESVでは、Sing aloud, O daughter of Zion; shout, O Israel! Rejoiceand exult with all your heart, O daughter of Jerusalem!」と訳されています。
そして、喜ぶべき内容が、「主(ヤハウェ)はあなたへの宣告(さばき)を取り除いた(取り去った)」(15節)と記されます。この動詞は11節での主ご自身がエルサレムから「おごり高ぶる者を取り去り」(11節)と記されていたのと同じで、主ご自身がイスラエルへの当然のさばきのみわざを「取り去った」という意味です。そこには謙遜にされた者しか残っていないからです。
聖書では繰り返し、主がさばきを「思い直された」ということが記されていますが、主はこのときも、そこに残された謙遜な者にあわれみを注いでくださるというのです。
そしてその具体的な現れとして、主ご自身が、「あなたの敵を追い払われた」と記されます。主のさばきはイスラエルの敵を動かして行われましたが、今、主ご自身が敵を追い払ってくださいます。地上のどんな国も、主のご支配の中にあるからです。
そして、彼らに起こる根本的な変化が、「イスラエルの王、主(ヤハウェ)は、あなたのただ中におられる」と記されます。エルサレム神殿が滅ぼされるのは、主がその家を立ち去ったからですが、主は再び彼らの真ん中に戻って来てくださるというのです。
その結果、「あなたはもう、わざわいを恐れない」という恵みが実現します。詩篇46篇5節前後に描かれているように、主が真ん中に住んでくださるとき、どんな敵をも恐れる必要がないからです。
そして16節では、再び、「その日」ということばが用いられながら、「エルサレムはこう言われる。
シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(16,17節)と驚くべきことが記されています。
「シオンよ。恐れるな。気力を失うな」と最初に記されるのは、人間的には彼らは無力な何もできない民とされているからです。
ただそれでも、勇気をもって希望に生きられる理由が、主ご自身がシオンの「ただ中におられる」からと再び描かれます。私たちがどんなに無力でも、ただ中に住んでくださる方は「救いの勇士」であられます。
そして主は、自分の無力さを知っている者を「楽しみ、その愛によって安らぎを与え」てくださるというのです。
なお17節の四行目は厳密には、「その愛によって静かにさせてくださる」と訳すことができます。これは、主ご自身が私たちのことを大いに喜んでくださるという中に挟まれて、私たちがまさに平安な静けさに満たされるという対比が描かれています。これは1章14節に記されていた「勇士が(恐怖で)激しく叫ぶ」という姿と対照的です。
また最後の行の、「主は高らかに歌って・・喜ばれる」という「喜び」の二つのことばは14節とは異なったことばです。ヘブル語には驚くほど多くの感情表現のことばがあり、訳しにくいのですが、ここでは放蕩息子の帰還を待っていた父親の喜びのように、「イスラエルの残りの者」(13節)を喜ぶ様子が描かれています。
18節は翻訳困難ですが、主の例祭を守ることができなくなった者がそれを悲しんでいることに対し、主ご自身が残りの者を「集めて」、再び例祭を祝うことができるようにしてくださるという意味で、また「残りの者」が、エルサレムの子孫であり、彼らに対する「そしり」に主ご自身が報いてくださるという意味で記されているのだと思われます。
19,20節では「その時」ということばが三度繰り返されながら、恐怖に満ちた「主の日」の逆転が描かれます。「足のなえた者を救い」とは、主が虐げられている者を救うことの象徴です。また「散らされた者を集める」とは、申命記30章1-4などにも描かれているバビロン捕囚後の救いを現すものです。
そして、その目的が、「恥を栄誉に変え、全地でその名を上げさせよう・・・名誉と栄誉を与えよう」と、「名」と「栄誉」がそれぞれ二回繰り返されるかたちで「救い」が表現されることが印象的です。
「栄誉」とは人間にとっての最高の地上的な財宝と言われます(Bart KD12-56-3)。人は自分の「栄誉」を守るためには、ときに命さえ捨てることができます。しかし、忘れてはならないのは、その栄誉の源は、人を「神のかたち」に創造された創造主ご自身にあるということです。
ですからイエスは、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)と言われました。そして、十字架とは、究極の辱めのシンボルでしたが、イエスは私たちに自分の十字架を負って従えと命じられました。
村瀬俊夫先生は、ガラテヤ3章1節の文語訳の「愚かなるかな哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたるに、誰が汝らをたぶらかししぞ」という表現を見て、キリスト理解が変わったと言っておられました。
それは、既に復活されたキリストが、同時に今も、「十字架につけられたままである」という途方もない逆説です。私たちはあまりにも働きの成果のようなもの(栄誉)に目が向かって、弱さや苦しみ(十字架)の中にある恵みを忘れてしまいがちです。
しかし、キリストの苦しみは今も続いており、それによって世界が平和の完成へと導かれているのです。ですから私たちも、キリストとともに十字架につけられたままでいるべきなのです。それは、この世的には恥と敗北ですが、そこに真の神の力が働きます。
パウロはキリストについて、「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」(Ⅱ13:4)という不思議なことを言っています。
十字架につけられたままのキリストの「弱さ」こそが、弱肉強食の世界秩序を変える鍵なのです。私たちも自分の能力や力を誇るのではなく、私の中に生きておられるその方によって生きるのです。
「全能の神を信じているのに、どうして、こんな目に会ってしまうの・・・」というのは人情としてはわかりますが、聖書の物語からしたら「愚問」です。私たちはキリストとも共に苦しむために召されたのだからです。
私たちはその中で、自分の弱さや無能さに嘆くかもしれません。しかし、そのようなただ中で、ゼパニア3章16,17節が心の底に響いて来くるのです。