ゼパニヤ1章1節〜2章3節「主を尋ね求めない者たちへの主の怒り」

2014年1月26日

私たちはみな、自分が無視されることに腹を立てます。しばしば、多くの妻たちは、経済的な不安以前に、夫の目が自分に向けられていないことに心を痛めています。実は、私たちの創造主も、何よりも私たちの心が主に向けられていないことに悲しみと怒りを覚えておられるのです。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(捜しなさい)(マタイ6:33)というみことばの背後には、ゼパニア書があるのではないでしょうか。

多くの人々は、その意味を誤解しているのかもしれません。パリサイ人は誰よりも「神の国とその義とを求めて」いたはずです。しかし、イエスは彼らを誰よりも非難しました。それは彼らが、自分を正当化できる「神の義」を求めていたからではないでしょうか。

 1.「わたしは悪者ども(霊的な浮気者、主への無関心者)・・断ち滅ぼす」

この書の原文での書き出しは、「ことば、主(ヤハウェ)の、ゼパニヤにあった、彼はクシの子、クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。それは、ヨシヤの時代のことであり、彼はアモンの子、ユダの王である」と記されています。

最初に、この書があくまでも「主(ヤハウェ)のことば」であると強調され、その著者が「ゼパニヤ」であり、彼はエルサレムをアッシリヤの攻撃から奇跡的に守った「ヒゼキヤ」の子孫であることが強調されています。

これほど長い預言者の系図が記されることは極めて珍しいことですが、「ヒゼキヤの子マナセ」が最悪の背教者であった時代に、ヒゼキヤの信仰が別の血筋によって受け継がれたことが描かれていると言えましょう。

 マナセの時代に、預言者イザヤが残酷な「のこ引き」の刑で殺されたという伝承がありますが、その時代は、預言者の家系にとっては厳しい受難のときでした。

そして「ゼパニヤ」という名には「ヤハウェが隠してくださった」という意味がありますが、これは主自身が預言者の家系を守ってくださったことを思い起こすと同時に、「イスラエルの残りの者」(3:13)を、主ご自身が「主の怒りの日にかくまわれる」(2:3)という意味が込められているのかと思われます。

 ちなみに、ゼパニヤの預言活動があった時代の王ヨシヤは八歳で王となりましたが、それはマナセの子のアモンが家来に殺されたためでした。王も死の危険にさらされていたのです。

なお、この預言が記された時代はハバククとほぼ同時代だと思われます。また、「主(ヤハウェ)の日」の記述においてヨエル書との共通点が際立っています。

 2節から始まる主のことばでは、「(わたしは)必ず取り除く」という宣言がなされますが、そこではヘブル語特有の強調表現が用いられており、主が「必ず」または「徹底的に」、「地の面から、すべてのものを取り除く」と記されています。

また3節でも、「取り除く」ということばが繰り返され、「わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く」と記されます。それは主が、この地の生き物を、ノアの洪水の時のように「取り除いて」しまうことを意味します。

 ペテロの手紙第二では、「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです…しかし、私たちは神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(3:6,7,13)と記されています。

ノアのときの大洪水では箱舟に乗ったものたち以外はすべて滅びました。しかし、世界の終わりにすべての生き物が「取り除かれ」るのは、「不敬虔な者どものさばき」のためであって、イエスを主と告白する者たちはすべて、復活のキリストの似姿に変えられ、新しい天と新しい地に生きることができます。そして、パウロによれば全被造物もその時を待っているというのです(ローマ8:19-21)

つまり、ここに記された「取り除く」とは、滅亡とは限りません。新しい天と新しい地への入れられるために、この地から取り除かれると解釈することもできるからです。

 ただし続けて主は、「わたしは、悪者どもをつまずかせ」と、それは、神を神とも思わない「悪者」に向けてのさばきであるということを明確にしながら、「取り除く」とはまったく異なった表現で、「人を地の面から断ち滅ぼす」と言われます。

そして、「地の面から、すべてのものを取り除く」こと、また、「人(悪者ども)を地の面から断ち滅ぼす」という途方もないことが、事実であることを、「主(ヤハウェ)の御告げ」ということばを重ねることによって強調します。

 ただ、主ご自身の怒りが何よりもご自分の国「ユダ」とご自分の町「エルサレム」に向けられていることが、「わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす」と記されます。
 その上で先と同じことばを用いて、「わたしはこの場所から・・断ち滅ぼす」と宣告されます。そして主が「断ち滅ぼす」対象が五つ描かれます。

 第一は「バアルの残りの者」です。預言者エリヤはバアル礼拝を持ち込んだ北王国イスラエルの王アハブと対決し、その後に現れた王エフーはバアルの祭司たちを滅ぼしましたが、バアル礼拝は、アハブの娘アタルヤがエルサレムの王に嫁いだことで南王国に持ち込まれ生き残っていました。

第二はエルサレムにいた異教の「偶像に仕える祭司たち」です。マナセの時代には、アッシリヤ帝国の宗教政策によってアッシュル神が公然と礼拝されるようになっており、その異教の祭司たちがエルサレム神殿の中にもいました。

そして第三は、「屋上で天の万象を拝む者ども」(5)でした。天文学は天体礼拝と手を携えて盛んになって行きました。

そして第四は、「主(ヤハウェ)に誓いを立てて礼拝しながら、ミルコムに誓いを立てる者ども」です。ミルコムはアモン人の神ですが、幼児をいけにえとしてささげるという野蛮で残酷な宗教で、(ヤハウェ)への礼拝とミルコムへの礼拝が同じ人によってなされていたことを指します。

そして、第五に、「主(ヤハウェ)に従うことをやめ、主(ヤハウェ)を尋ね求めず、主を求めない者ども(を断ち滅ぼす)」と記されますが、これはそれまでの四つをまとめたような意味があります。主への無関心がさばきの対象となるのです。原文では、「断ち滅ぼす」という動詞は、五つのさばきの対象の最初にだけ記されます。

日本では、多くの神々を分け隔てなく礼拝することが宗教的な寛容と言われることがありますが、聖書の神はそれを霊的な浮気として最も嫌われます。

これは男女の結婚に似ています。キリスト教式の結婚式では、浮気をしないと誓わなければ結婚が成立しません。同じように、洗礼式では、他の神々を慕い求めないという約束をします。

なお第五の「主(ヤハウェ)に従うことをやめる」ですが、これは一時期、信仰に熱くなりながら、その後、冷めてしまうこと以前に、具体的な背教の姿勢が問われています。夫婦関係でも、年月を経るとともに、愛を表現することばが減ったとしても、一緒にいることがますます心地よくなるということもあります。それとともに、相手のことを分かっているようで、実は最も肝心なことが分かっていなかったと気づかされるかも知れません。

信仰にも似た面があります。ですからここでは続けて、「主(ヤハウェ)を尋ね求め(seek)、尋ねる(inquire)ことを止めること」がさばきの対象とされています。一時の熱が冷めているようでも、主を礼拝することが身に着く中で、神について分かっていたと思うことが、実はまったくわかっていなかったと気づくことがあります。しかし、それこそが成長なのです。

信仰に新たな発見がなくなることは恐ろしいことです。そこから他の刺激的な神々を慕い求めるという偶像礼拝が始まるからです。

とにかく、主が「断ち滅ぼす」対象とされるのは、主を礼拝しながら、同時に別の神を求めるような霊的な浮気なのです。

かつての日本は、日本的キリスト教と称して、神社参拝と主への礼拝を混合しました。私たち日本のキリスト教会は、様々な政治的な見解の差を超えて、このことにおいて真の悔い改めの必要があります。

 2.『主(ヤハウェ)は良いことも、悪いこともしない』と心の中で言っている者どもを罰する」

7節の始まりのことばは、「静まれ」というよりも、日本語で「シーッ!」と言うような擬音語です。「シーッ!主であるヤハウェの前に」と、恐れおののいて、主の語りかけを待つようにという思いを込めた強い呼びかけです。

 そして、最初に語られたことばは、「主(ヤハウェ)の日は近い」というものです。そしてそれに対する備えがなされたことが、「主(ヤハウェ)がいけにえを備え、ご自身の客を聖別されたから」(7節私訳)と言われます。

その上で、「(ヤハウェ)のいけにえの日に、わたしは首長たちや王子たち、外国の服をまとったすべての者を罰する。その日、わたしは、神殿の敷居によじのぼるすべての者、自分の主人の家を暴虐と欺きで満たす者どもを罰する」(89節、最初のみ私訳)と記されます。

つまり、ここには、主が神の民の指導者たちを客として招いてくださったと思ったら、皮肉にも、彼ら自身がいけにえとして屠られることになってしまっているというのです。それは彼らが、「外国の服をまとう」ような偶像礼拝の祭司たちと結託して、主の神殿を「暴虐と欺きで満たす」ようなことをしているからです。

 10節では「その日には─主(ヤハウェ)の御告げ─魚の門から叫び声が、第二区から嘆き声が、丘からは大いなる破滅の響きが起こる」と記されます。「魚の門」とはエルサレムの城壁の北の中心的な門(Ⅱ歴代誌33:14)、「第二区」とは当時のエルサレムの神殿の北に作られていた新しい地区です(Ⅱ列王22:14)。「丘」はどこを指すかは分かりませんが同じように町の北部にある丘だったと思われます。

当時のエルサレムは東から西にかけては急こう配の崖になっていましたが、北にはそのような自然の要害はなく、攻撃に弱い構造でした。

 続けて「泣きわめけ。マクテシュ区に住む者どもよ」(11)とありますが、「マクテシュ」とは、モルタルとかしっくいという意味があり、どこを指すかは分かりませんが、先の流れからすると第二区の南にあった市場であったと思われます。なぜなら「商人はみな滅びうせ、銀を量る者もみな断ち滅ぼされるから」と記されているからです。

 そして、12節では、主ご自身がさばくべき対象をくまなく捜し出し、罰する様子が、「その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、『主(ヤハウェ)は良いことも、悪いこともしない』と心の中で言っている者どもを罰する」と記されます。

「ぶどう酒のかすの上によどんでいる」とは、ワインのいのちの発酵のプロセスに入らないで濁ったまま放置され、役立たずにもかかわらず自己満足をしている状態を指します。

彼らは自分の心の中で、「主(ヤハウェ)は幸いをも、わざわいもくだされない」(新共同訳)と言っているというのです。つまり、何の成長も願いもしない者は、自分の将来に対しても無関心で、主にすがることも、また主を恐れることもしないまま、主(ヤハウエ)はいてもいなくてもどうでも良い存在であると思い込んで、心の赴くままのその日暮らしをしているのですが、主は誰よりもそのような怠惰で不誠実な人間を捜しだし、罰を加えると言われるのです。

 主は繰り返し、出エジプト以来のご自身のみわざを思い起こすように命じておられました。しかし彼らは、主(ヤハウェ)はいてもいなくても同じ、礼拝する必要もない存在と、徹底的な無関心を示すようになりました。

そのような彼らを襲う悲惨が13節で、「彼らの財産は略奪され、彼らの家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、それに住めず、ぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲めない」と描かれます。これは主が申命記2815-68節で、主の御声に聴くことを止め、主の命令を忘れる者に対して下すと警告された「のろい」の要約です。

主はご自身のことばを曲げることはできません。主は確かにイスラエルの民と「のろいの誓いを」結ばれたからです(29:12)

そこで主の「のろい」を受けるのは、何かとんでもない罪を犯すこと以前に、「主の御声を聴こうとしない者」、また「主のみことばに注意を向けなくなった者」(28:15)で、主への無関心こそがさばきの対象となっているのを忘れてはなりません。

3.「主(ヤハウェ)の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る」

14節からは7節にあった「主(ヤハウェ)の日は近い」というテーマが繰り返されます。しかも、ここでは、「主(ヤハウェ)の大いなる日」と強調され、ヨエル331節の「主(ヤハウェ)の大いなる恐るべき日」を思い起こさせます。

そしてその切迫感が、「主(ヤハウェ)の大いなる日は近い。それは近く非常に早く来る」と繰り返されます。

そしてこの後半部分は「聞け」というよりも、「主(ヤハウェ)の日の声は苦い。勇士も激しく叫ぶ」と訳すことができます。「聞け」と言われなくても、「主の日の声」は、勇士の耳にも必然的な恐怖をもたらし、彼らに悲鳴を上げさせるというのです。

  1516節は原文で「の日」と六回も繰り返され、世界の初めの六日間の創造のみわざを思い起こさせます。「見よ。それは非常に良かった」と呼ばれた世界に破滅が来るというのです。

それは第一に「その日は激しい怒りの日と定義づけられます。

そしてそれは第二に人間の心に「苦難と苦悩の日」となります。

そして第三にそれは目に見える世界の「荒廃と滅亡の日」です。

そしてそれは第四に「やみと暗黒の日」と暗さが強調され、

第五では「雲と暗やみ(暗雲)の日」と「雲」の類語が重ねられています。

そして第六は「角笛とときの声の日」(16)と描かれながら、その日のことが「城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日」として、エルサレムの滅亡が宣告されます。

 アモス書では、「主(ヤハウェ)の日は・・やみであって、光ではない・・・暗やみであって、輝きではない」(5:18,20)と記されていました。

またヨエル212節でも、「主(ヤハウェ)の日・・近い。やみと、暗黒の日。雲と暗やみの日」と記され、「数多く強い民」の攻撃が描かれながら、最後に「主の日は偉大で、非常に恐ろしい」と描かれていました。

  17節では恐ろしいことに、主ご自身が「わたしは人を苦しめる」と言われます。その結果として「人々は盲人のように歩く」という希望の見えない状態が生まれ、またその理由が、「彼らは(ヤハウェ)罪を犯したからだ」と簡潔に記されます。

私たちは主に対して罪を犯すことの悲惨を軽く見すぎてはいないでしょうか。彼らを襲う悲惨は、「彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる」と描かれます。これは、人間の「血」とか「はらわた」といういのちのシンボルが驚くほど無価値で、忌まわしいものに見られることを意味します。

   18節では、「彼らの銀も、彼らの金も、(ヤハウェ)の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす」と描かれます。

イスラエルの指導者たちは、周辺の強い国々の神々を拝むことによって、自分たちの平和を実現できると愚かにも思っていました。しかし、それはかえって主の「ねたみ」を買って、自分たちを滅ぼすことになるというのです。

彼らは皮肉にも自分の身を自分で守ろうとするあまり、「(ヤハウェ)の激しい怒りの日」を「近くに」招き寄せたのです。

そして最後に主の「ねたみの火」は、「全土」を焼くばかりか、「地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす」と、厳しく警告されます。

私たちも、この世の権力者の怒りを宥めようとするあまり、「激しい怒り日」を近くに引き寄せ、早めてはなりません。

4.「主(ヤハウェ)を尋ね求めよ・・そうすれば、主(ヤハウェ)の怒りの日にかくまわれるかもしれない」

2章初めでは、主の怒りの日に対して取るべき対応が、「恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ」と呼び掛けられます。これは、主がいてもいなくても同じだと思っていた恥知らずな国民に向かって、主の御前に急いで集まるようにという招きとして解釈できます。

そしてその緊急性が三回の「しないうちに」ということばとともに、第一に「昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに」と記されます。これは脱穀してもみ殻を吹き飛ばすときのように、主の目に役に立たない無価値な者として分類されないうちに、主の前に立ち返ることの勧めです。

第二に、「主(ヤハウェ)の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに」と、主の燃える怒りに襲われる前に、主の前に立ち返ることが勧められます。

そして第三は第二と同じ「怒り」の言葉を用いて「主(ヤハウェ)の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに」と記されます。

先の1章15節では「激しい怒りの日」、18節では「主の激しい怒りの日」と記されましたが、ここでは「主の怒りの日」と異なった「怒り」の一般的な形容詞を用いて描かれます。 

  3節では三回に渡って「尋ね求めよ(捜しなさいseek)」と繰り返されます。第一は「主(ヤハウェ)を尋ね求めよ。主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ」という呼びかけです。

イエスは、「貧しい者は幸いです」(ルカ6:20)、「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3)と言われました。それは主のあわれみを慕い求める者こそが、主のあわれみを受けるという意味が込められていました。 

第二は「義を尋ね求めよ」です。「義」とは「正義」とも訳されますが、私たちが考える正義ではなく、神にとっての正義であり、神がご自身の約束を守り通してくださるという意味です。

イザヤ51章では、「主を尋ね求める」ことと「義を追い求めること」が並行して記され、「義を追い求める者、(ヤハウェ)を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ・・父アブラハム・・のことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。まことに主(ヤハウェ)はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主(ヤハウェ)の園のようにする・・・わたしの義は近い」(1-4)と記されます。

主の義とは、主の救いのご計画全体を指す言葉なのです。それは新約では、罪人のためにご自分のいのちを犠牲にするキリストの真実に現された神の義として描かれます(ローマ3:21-26) 

イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(尋ね求めなさい、捜しなさい。seek)と言われました。それは「私は神の義に従っています」と言えることを求めるのではなく、神の真実、神のあわれみにすがることの勧めであり、具体的には、それは空の鳥を見たり、野のゆりを観察したりすることから発見できるものでした。

そしてここでは第三に、「柔和を(尋ね)求めよ」と命じられます。「柔和」とは、「この国のへりくだる者よ」と記されたことばの類語で、「謙遜」とも訳されます。箴言1533節では、「主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」と記されています。

 そしてこれら三つの「尋ね求めよ」との命令に続き、「そうすれば、主(ヤハウェ)の怒りの日にかくまわれるかもしれない」と記されます。つまり、これらは「私は正しい」「私は謙遜だ」という状態を求めることではなく、主ご自身によってかくまっていただけるける状態を尋ね求めることなのです。

しかも、ここでは「かもしれない」という不確定さが敢えて強調されます。それこそ「謙遜を尋ね求め」た結果です。赦すか赦さないかは、主のご主権に属することだからです。それは、これまで主に背く者への明確な罰が記されていた中での精一杯の表現と言えましょう。

なお、このときのイスラエルは悔い改めるのが遅すぎ、バビロン帝国によってエルサレム神殿を廃墟とされましたが、その「残りの者」(3:13)にはあわれみが注がれ、「主の怒りに日にかくまわれ」たのです。

そして私たちは今、神の御子の十字架を見上げる時に、どんな罪をも赦していただけるという確信に導かれます。

詩篇91篇には「いと高き方の保護(隠れ場)のもとに座る者は、全能者の陰に宿っている・・主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。その翼の下にあなたは身を避けている・・・わざわいは、あなたにふりかからず、伝染病も、あなたの天幕に迫りはしない」(91:14,6)と記されています。「隠れ場」とは「かくまわれる」の名詞形です。

本日の箇所を読みながら、日々の労苦や不安の中で自分の心が主から離れてしまっていることがいかに多く、自分も主の激し怒りを免れることはできないのではと不安になられた方もいるかもしれません。

しかし、私たちにとっての真の隠れ場とは、イエスの十字架の陰です。自分の罪深さを認め、その陰に隠れる者には、主の怒りを受けることはありません

十字架は忌まわしい苦しみ、辱めの象徴でした。しかしこの世の心地よさ、富、誉よりも、そのもとに敢えて留まろうとする者に不思議な祝福が約束されています。

Beneath the Cross of Jesus 「十字架のもとに」という讃美歌262番の原歌詞には次のように記されています。

1.イエスの十字架の下に、敢えて立ち続けよう。
  それは、つらい日々の中での揺るがない巌の陰、
  荒野の隠れ家、日中の熱い日ざしや労苦からの安らぎの場だ。

2.イエスの十字架の上に、この目で見ることができる。
  そこで私のために苦しんでくださった方の死の姿を。
  そして、この砕かれた心から、涙と共に二つの不思議を告白しよう。
  それは主の栄光に満ちた愛の不思議と、私の無価値さだ。

3.私は十字架を、あなたの陰を、私の住まいとしよう。
  私は主の御顔の輝き以外の輝きを求めはしない。
  この世のものを過ぎ去らせ、その損得にとらわれはしない。
  罪深さは私の恥であるが、十字架には私のすべての栄光があるから