Ⅱテサロニケ1章1節〜2章14節「神の国にふさわしい者とされるため」

2014年1月19日

日本の政治の右傾化の問題が議論されています。確かに私たちは政治に目を見張る必要があります。しかし、この世の政治がどれほど私たちの理想に近づいたとしても、信仰者はどこかで必ず、この世の権威と衝突するということをも忘れてはなりません。

聖書は、私たちが迫害と患難に会うことを、当然の前提として記されています。しかも、それは神の国の完成が近づくほど激しくなると記されています。この世の人々にとっての主人はイエス・キリストではないからです。

ただ、その試練は信仰の成長のために益とされることは明らかです。私たちは愚かにも、いろんなことが都合よく行きすぎると、神と教会への感謝を忘れ、知らないうちに自分を神としてしまうからです。

私たちの希望とは、「神の国の完成」、この世界が神の平和(シャローム)で満たされることです。しかし、このままの私たちがその新しい世界に入ってしまっては、再びその世界に混乱をもたらす存在となってしまいます。

ですから、私たちは「神の国にふさわしい者とされるために」、キリストの苦しみにあずかる必要が今ここであるのです。

1.「あなたがたの信仰が目に見えて成長し・・・相互の愛が増し加わっている」

この二つの手紙はパウロ書簡の中でガラテヤ書についで古く、紀元49年から51年にかけて二回目の伝道旅行の際、コリントに一年半滞在したときに続けて記されたもので、第二の手紙は第一の手紙でも正せなかった誤解を解くために、それほど期間を置かずに記されたものと思われます。

パウロは、アジアでの伝道が聖霊によって差し止められ、途方に暮れましたが、「マケドニア(ギリシャ北東部)人の叫び」の幻を見て、神がギリシャ人の地で福音を宣べ伝えさせようとしておられると気づきます。しかし、彼は最初のピリピ激しい迫害に会い、西のテサロニケに向かいました。そこは10万人もの人口を抱えていた大都市でした。彼はユダヤ人の会堂に入って行き「三つの安息日にわたり」イエスこそが救い主であることを証しました(使徒17章)。しかしその後、ユダヤ人の怒りを買って夜のうちにベレヤという次の町に行かざるを得なくなります。

つまり、テサロニケ教会はたった三週間あまりの伝道の働きで生まれたのです。そのため、彼らはすぐに誤った教えの影響を受け、信仰の試練にあっていました。

パウロは最初に、「シルワノ、テモテ」との連名で、「テサロニケ人の教会へ。恵みと平安」を祈っています。この書き方は第一の手紙と基本的に同じですので、この手紙はセットで書かれていると理解できます。

なお、ここでは、「私たちの父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ」へと、「私たち」ということばが追加されています。それは彼らとの連帯感をより強調するためでしょう。

そして、「恵みと平安」のみなもとに関して、「父なる神と主イエス・キリストから」(2節)と重ねて強調しつつ、イエスが父なる神と同格であると示唆されます。

「恵みと平安」が祈られますが、これはパウロの手紙に共通します。「恵み」とは神から与えられるすべての賜物の総計のような重い意味があります。そして、「平安」はヘブル語のシャロームに由来し、心の平安ばかりか、人と人の間の平和をも意味します。最近の訳では、「恵みと平和」と訳される傾向があるとも思われます。

3節では、第一の手紙と同様に、彼らのことで神に感謝をささげていると繰り返していますが、ここでは、「兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりませんそうするのが当然なのです」と、これが単なる社交辞令ではないことが強調されます。

そしてその理由が、「なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです」と描かれます。

これは第一の手紙3章11,12節の祈りを意識した表現です。そこでは、「私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が・・道を開いて・・行かせてくださいますように」と、御父と御子のみわざが合わされて、唯一の神のみわざとして描かれます。その上で、聖霊の御業を意識しつつ、「主が、あなたがたを、愛において満ちあふれるほど豊かにしてくださいますように、互いの間の愛を、またすべての人へとと、愛の交わりの広がりを祈り求めています。しかもその前提として、「私たちがあなたがたを愛しているように」と敢えて付け加えました。

つまり、パウロは、彼らの愛における成長を祈るとき、御父、御子、御霊の三位一体の神の交わりと三人の使徒の交わりを同時に思い起こしているのです。「愛」は、三位一体の神ご自身の愛の交わりから生まれ、人の愛の交わりを通して伝えられ、それは教会の交わりの中で成長し、満ちあふれて行くからです。

ですから、パウロはここで何よりも、第一の手紙での彼の祈りが、神に聴き届けられていることを強調していると言えましょう。

2.「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるし」

そればかりかパウロは、「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で・・(あなたがたのことを)誇りとしています」と不思議な表現を用いながら、その誇る内容を、「あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順(忍耐)と信仰とを保っていることを」と述べます(4節)。つまり、パウロは彼らが苦難のキリストの足跡に従っていることを、何よりも誇っているのです。

私たちはしばしば、自分の教えを受けた者が、何らかの目に見える成果を出すことを期待し、輝かしい結果が出たこと自体を誇りたい気持ちになりがちですが、パウロは、彼らが迫害と患難のただ中で、主への変わることのない姿勢(従順、忍耐)と信仰(真実)に留まっていること自体を誇っているのです。

周囲の状況がどんどん不利になって行く中で、神と人とに変わらない誠実を保ち続けることこそ神に喜ばれることです。

そして、この背後にある神のご計画を、「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この(神の国の)ためです」(5節)と述べます。

ここでは、「神の正しいさばきを示すしるし」という表現が最初に記されます。私たちは「さばき」というと、すぐに裁判の席を思い起こしますが、旧約の伝統で、それは何よりも神の正しいご支配を意味します。つまり、神は彼らを「神の国にふさわしい者」へと成長させるために敢えて「苦しみ」を与えているというのです。

それは、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3,4)からです。

しかもそれは、6、7節で、「それは、神にとって正しいことだからです」という書き出しのもとで、「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは」という神にある逆転が明らかにされます。

つまり、神の正しいさばき」とは、神にある逆転を明らかにすること、それこそが「神にとって正しいことだというのです。

日本ではしばしば、何らかの「苦しみ」に会ったとき、「バチが当たった」などと言われるときがあります。するとたいてい何か、後悔すべき原因が見えてきますが、それがその人の生き方をますます委縮させ、暗くするということになりがちです。

しかし、パウロはここで、テサロニケの信徒たちが苦しみに会っている理由は、神の罰どころか、神にある希望のしるし、神にある逆転が明らかにされるためであると語っています。

つまり、テサロニケの人々が苦しみを受けているのは、この世の因果律を超えた「神の国」の原則を現すためであり、彼らの苦しみはそのために用いられるものであるというのです。

キリスト者にとっての「苦しみ」はすべて、神の栄光が現されるための契機とされます。イエスの弟子たちが生まれつきの盲人を見て、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯しかからですか」と心ない質問をしたときに、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と答えられました(ヨハネ9:3)。

イエスは、苦しみに会っている人に、過去の原因ではなく、将来の希望を見させてくださったのです。

なお、私たちは権力者の横暴などによって、不当な苦しみに会ってしまうようなときに、「怒り心頭に発する」などということがありますが、神の正しいさばき」とは、加害者にその罪にふさわしい報いが与えられるとともに、今、ここで不当な苦しみに会っている者には正反対の「報い」としての「安息」が与えられるということなのです。この「安息」とは、「解放」とか「安らぎ」とも訳されることばで、神が困難を取り去ってくださることを意味します。

3.「そのとき主は、神を知らない人々・・・に報復されます」

ただ、ここでは、それが実現するときが、「そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります」(7節)と描かれています。

この「現れ」ということばは、パルーシアではなく、啓示とも訳される言葉で、今まで隠されていたキリストのご支配が明らかにされるときを意味します。つまり、キリストの支配がすでに今すでに天においては存在し、それがこの地にも明らかにされることを意味します。

そして、かつてご自分の権威と力を隠しておられた主は、「炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れる」というのです。

しかもそのときのことが、「主が報復(罰)を割り当てられる」(私訳)という書き出しで、「神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に」(9節)と記されます。神の罰を割り当てられる対象が、何かの具体的な悪い行いをした人という以前に、「神を知らない人々というのは衝撃的です。

聖書では、「知る」ということばは単なる知識ではなく「愛する」という意味が込められており、この背後には、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(申命記6:5)という命令があります。

親を忘れることが最大の親不孝であるように、あなたの創造主を忘れることが最高の罪なのです。

また次に、「主イエスの福音に従わない」ことが罰の理由とされています。これは、イエスがあなたの罪のために十字架にかかってくださったということを受け入れないことを意味します。

たとえば、あなたが膨大な負債に苦しんでいたときに、その借金を肩代わりしてくれた人がいたとします。そのときに、「私はそんなこと頼んだ覚えはない!」などと言うことは、その人の気持ちをどれだけ傷つけることでしょう。どんなに社会的な成功を収めていても、イエスの救いのみわざを軽蔑する人は、神の罰を免れることはできません

私たちの存在はすべて関係性の中で守られています。ですから、私たちが最終的に問われるのは、どれだけの成果を出したか以前に、創造主と救い主をどれだけ愛していたかが問われるのです。

御父と御子に対する愛の伴わないすべての働きは、砂上の楼閣です。神はあなたの愛の応答を何よりも求めておられます。

そして、彼らに対するさばきが、「そのような人々は・・永遠の滅びの刑罰を受けるのです」(9節)と記されますが、その滅びとは、「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられ」という神との交わりを永遠に失うことを意味します。つまり、神と神の救いの御業を軽蔑した者へのさばきとは。神の御前から永遠に退けられることなのです。

一方でイエスを信じる者に起こることが10節では、「主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の感嘆の的となられます」と記され、その「信じたすべての者」の中にテサロニケの信者がいることが、「そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです」と描かれ、パウロたちの証言がテサロニケの人々に受け入れられたことの感動が記されています。

主イエスの栄光は今、私たちの目から隠されています。しかし、「その日」には、信じていたすべての人が、イエスの偉大さ、不思議さに圧倒されるのです。

なお、この原文では、「その日に」ということばが敢えて文末に記されていますが、このことばは、5節以降のすべてを支配し、特に7節後半の「主イエスが天から現れる」という「その日」のことを指します。

つまり、その日」とは神の正しいさばきが執行される日であって、それは再臨の主イエスご自身によって行われるというのです。

4.「どうか、私たちの神が・・善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように」

11節では、「神の正しいさばき」が行なわれる「その日」に向けて一人一人が整えられるように祈ることが、「そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にしてくださいますように」と祈られます。

それは彼らが、自分の意志以前に神の召しによって神の民とされましたが、それに「ふさわい者」へと成長する必要があるという意味で、5節の「神の国にふさわしい者にする」と似た表現です。

そして、その内容がここではもっと具体的に、「御力によって、すべての善をもたらすみこころと信仰の働きとを完成すること」(私訳)と描かれます。神は私たちに最善をなしてくださり、信仰は私たちの中に働きを生み出してくれるからです。

それは私たちにとって、キリストの似姿にまで変えられるという聖化の完成を意味します。ただ、それは私たち自身の人間的な努力によってではなく、神の御力によって完成されることです。

「その日」のことが、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3章21節)と、力強く約束されています。

そして、この信仰者に起こる聖化の目的が、「それは・・主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです」(12節)と記され、主イエスの栄光を生み出すのは、私たちの行い以前に、「私たちの神と主イエス・キリストの恵みによって」(私訳)と敢えて説明されます。

その上で2章初めからは、「その日」の理解に対するテサロニケの信徒たちの誤解を正す勧めが、「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります」と記されます。

「再び来られる」は、原語でパルーシアと記され、「王としての現れ」を意味します。これは何よりも、第一の手紙4章15-17節の追加説明です。そこでは、主の現れ(パルーシア)のときに、死者が復活するとともに、生き残っている者たちも栄光のからだに変えられ、「空中で主と出会う」ということが記されていました。

それは同時に、イエスご自身が言っておられたようにエルサレム神殿の崩壊を初め(マルコ13:2)として、目に見える世界の秩序が過ぎ去る、世界の終わり時と思われていました。

彼らは自分たちが気づかないうちに、「主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて・・落ち着きを失ったり、心を騒がせたり」していました(2節)。現在も、「大地震や放射能汚染で世界の終わりが来るかもしれない、こんなことをしていて良いのだろうか・・」と思う人がいるかもしれません。

それに対し3節の原文では、「主の日」ということばが省かれながら、「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい・・・それは起こりえないからです。まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ」と記されます。

そして続けて、「滅びの子」に関する説明が、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」(4節)と説明されます。

つまり、私たちが注意を向けるべきことは、主の再臨がいつになるかということよりも、今ここで、私たちの信仰を揺るがそうとする悪の力に目を開くことなのです。

この「背教」とか「滅びの子の現れ」は、既にダニエル11章32-37節に記されており、第一義的には紀元前168年にエルサレム神殿にゼウス像を建てたシリヤの王アンティオコス・エピファネスを当時は思い起こさせました。ユダ・マカベオスは武力闘争を展開しましたが、アンティオコスは戦いによってではなく、突然の病で倒れました

そしてまた、パウロがこの手紙を書く約10年前、ローマ皇帝カリグラは自分を神格化し、ついには紀元40年にエルサレム神殿に自分の像を置くようにと命じました。幸いユダヤの王ヘロデ・アグリッパがそれはユダヤ人の激しい独立運動を起こすと必死に助言し、実現はしませんでしたが、間もなく、カリグラは部下によって暗殺されるというようなことが起きていました。

そればかりか、この手紙の十数年後には皇帝ネロが現れます。紀元64年にローマに大きな火災が起きますが、ネロはそれを起こしたのが自分であるとのうわさを消すために、その責任をクリスチャンに負わせます。そして、その迫害の中で、間もなく、ペテロが捕らえられて逆さ十字架で殉教し、またパウロ自身も捕らえられて首をはねられた記録されています。その後、ネロの狂気はますます進み、各地で内乱が続き、ユダヤでも反乱が広がります。その後、ネロは68年に自殺に追い込まれます。

その後、一年の間に四人が皇帝を名乗るようになります。そして、最終的に勝利を収めたヴェスパシアヌスは紀元70年にエルサレム神殿を滅ぼします。それは、当時の人々にとっては、まさに旧約が繰り返し語ってきた「主の日」が実現したことを意味します。

パウロはそのような大迫害が起きることを御霊によって示されながら、迫害への心備えをさせたのだと思われます。

6-8節で彼はまず、個人的に、「私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいた」と彼らの記憶を呼び起こしつつ、「不法の人」の現れを、「いま引き止めているものがある」と言いながら、同時に、「その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」と、「不法の人」のあっけない滅亡を予告します。

それは上に記したすべての横暴な独裁者たちに当てはまります。ダニエル書でも黙示録でも、信仰者への厳しい迫害の時期は、驚くほど短期間のうちに過ぎ去ると描かれています(しばしばその期間は「三年半」に相当)。

たとえば、第二次大戦下の日本でもホーリネス教会に対する激しい弾圧が起きましたが、その三年数か月後には終戦になり、反対に、キリスト教ブームに変わりました。

ですからここに記されていることの中心は、「不法の人の現れ」から、「主の日」がいつになるかを予測できるなどという未来予測の話しではなく、信仰者への迫害や惑わしは、いつも繰り返し起きることの覚悟を求めることにあると言えましょう。

キリスト者がこの世に誘惑や迫害に会うことは決して想定外ではありません。そのことが、9-12節に記されています。そして、その趣旨は、それを通して私たちの信仰が練りなおされ、神への愛が成長させられ、信仰の完成へと導かれることにあります。

どの家族においても、どの共同体においても、苦難を共有することによって愛の交わりが成長するものです。残念ながら、順風満帆の人生の中では、ひとりひとりが自分の力や能力を誇るようになってしまい、神の助けや神の家族のありがたさが見えなくなってしまいがちです。

第二次大戦中の迫害を潜り抜けた前・太田キリスト教会牧師の小澤薫先生は、口癖のように、「困難は祈りの母、試練は信仰の父」と語っておられたとのことです。残念ながら、試練を経ずにキリストに似た者へと変えられる人は誰もいません。

ただ同時に、試練の中でも、神ご自身が私たちを守り通してくださるということが13,14節で、「神は、あなたがたを救いのみわざの初穂としてお選びになれました。それは御霊による聖め(聖化)と、真理への信仰を通してです。そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召してくださいました。それは、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださるためです」(2:13,14私訳)と描かれます。

彼らは自分の意志以前に、神によって選ばれ、聖霊のみわざによって聖められ、真理を信じ、キリストの栄光にあずかるようにと、既に召されているのです。

多くの人々は平穏な人生を求めて、結局、自分の世界を狭いままに留めています。わざわいに会うことを恐れるあまり、イエス・キリストにも、また目に見えるキリストのからだである教会にも、適度な距離感を保とうなどと思ってしまうことすらあります。

しかし、キリストのうちにあるいのちの喜び、愛の交わりの豊かさは、試練を通してこそ豊かに味わうことができるものです。

キリストに似た者と変えられることのすばらしさを日々思い浮かべて歩みましょう。