創造主の恵みの御手に静まる

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2014年冬号より

詩篇19篇の最初は、「もろもろの天は神の栄光を語っている。大空は御手のわざを告げている」という表現から始まります。天は「語り」、大空は「告げている」というのです。また続けて、「昼は昼へと話を取り次ぎ、夜は夜へ知識を伝える」と記されていますが、聖書によると、昼と夜の繰り返しは、自然ではなく、神の命令が今日から明日へと語り継がれているしるしなのです。このことを預言者エレミヤは、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる。もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られる」(エレミヤ書33章20、21節) と書き記しました。

つまり、昼と夜の繰り返しや季節の規則的な移り変わりは、神が、ご自身の契約を真実に守り通しておられることのしるしだというのです。そのことを人が、「それは地球の自転によって起こっているだけでしょう……」と説明したとしても、その規則性自体が驚異ではないでしょうか。それは「自ら回転して」というより、創造主によって丁度良いスピードで「回転させられている」ということなのです。

たとえば、私はエルサレムでイエスの十字架の道を歩んだとき、そこにある石畳や町並みに二千年前の姿を思い浮かべることはまったくできませんでした。しかし、イエスが歩んだかもしれない海辺で、地中海に沈む夕日を見ながら、主もまったく同じ風景を見ていたのだろうかと思い不思議な感動に包まれました。多くの人はそれを単なる自然現象と見るでしょうが、私たちの日常生活で、何の力も加えずに動き続けるものがどこにあるでしょう。これこそ、神の御手にある不思議と言えましょう。

その上で、「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれないのに、その響きは全地を覆い、そのことばは世界の果てに及ぶ」と記されますが、これも何と不思議な表現でしょう。創造主の栄光を語る声、大空に見える主のみわざを告げる「声」は、人間の肉の耳には聞こえませんが、その響きは全地を満たし、主の創造のみわざを喜び伝える「ことば」は世界の果てに及んでいるというのです。

ただ、日本人の場合、それを味わおうとしても別の価値観に縛られていて、神の「ことばにならないことば」を聞くことの邪魔をしているかもしれません。たとえば、自然ということばがあります。これは仏教用語で本来、「自然(じねん)」とも読まれ、「おのずから、しからしむ」という意味があり、人間の働きを超えた宇宙全体の法則の世界、因果的、必然的世界を指しています。しかし、聖書は、すべては神の「御手のわざ」であると語っています。ときに非情とも感じられる冷たい因果律の現実から世界を見て、それを自然として諦めの境地のもとに受け止めることを目指すのではなく、この目に見える世界を通して、神はご自身の創造主としての栄光と愛を知らせようとしていると考えるのです。

またこの詩篇の最初に記される「神」とは、ヘブル語のエロヒームの簡略形「エル」の訳で、「神々」とも訳されることばではありますが、元来、超越的で人格的な支配者を指す表現です。しかし、日本語の「神」ということばは、本来、人々に畏敬や畏怖の念を起こさせるすべての存在を指し、それぞれの血縁や地縁ごとに異なった神々が祭られるのは自然なことでした。ですから、天皇を「神」と呼ぶことは日本語からすると自然とも言えましょう。敢えて言うと、日本語の聖書が、God を「神」と訳したことが、明治以降の日本人すべてに驚くほどの混乱をもたらしたと言えましょう。戦前の日本には「神道的キリスト教」と呼ばれるような神学が大きな力を持ち、当時の軍国主義に協力しました。

韓国では聖書の「神」を「ハナニム(最初の方)」と訳しましたが、そこには超越者、支配者という意味があります。ですから最初から、天皇崇拝や神社参拝と聖書の教えが矛盾するということは誰の目にも明らかでした。韓国ではその葛藤を通して、聖書の教えが普及する一方で、日本では日本古来の信仰との混同が起きたのは、この訳語の問題も大きいのかもしれません。最近はこの「神」ということばを「創造主」と読み替えるべきだという新しい聖書翻訳の話もあります。ただそれは、言語学的に問題がありますので、お勧めできない面もありますが、その気持ちも分からないではありません。

そして、この「神」は、私たちの「こころ」の創造主でもあられます。ですから、「こころ」は、創造主のみことばによって導かれる必要があるのです。詩篇19篇ではそのことが主のみことばを表す六つの観点から述べられます。人の「こころ」は不思議なものです。私たちはときに、神の最高傑作ともいえる人間の「こころ」をあまりにも自虐的に見すぎているのかもしれません。「こころ」は、とんでもない罪深い傾向に流れるものでもありますが、その罪を自覚することができるということ自体が、何とも不思議です。しかも、美しいものに感動し、何とも言えない優しいことを考えたりもします。「こころ」は、驚くほど繊細で、傷つき易く、同時に、とてつもない強さをも秘めています。その不思議を感じながら、その「こころ」がみことばによって生かされ、方向付けられることの驚異を改めて覚えさせられます。

ところでイザヤ30章15節には、「神である主(主なるヤハウエ)、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る』」と記されています。主は、地上の権力者ではなく、創造主なる神に「立ち返る」ことを命じます。それは、放蕩息子の帰還を待つ父親の気持ちに通じます。

「静まる」とは、「休む、憩う」とも訳せることばで、全能の神の御翼の陰に安らぐことの勧めであり、放蕩息子が父親の抱擁に身を委ねる姿でもあります。そして、そうすることによって、彼らの神が、彼らを救ってくださるというのです。また、「落ち着いて」とは、まわりの状況に振り回されずに気持ちを鎮めることであり、「信頼する」とは、信仰というより望みをかけるという意味です。そうすると、「あなたがたは力を得」て、地上のどんな横暴な者にも立ち向かえるというのです。

私たちも日々の忙しさのただ中で、創造主の前に静まることを第一として生きて行きたいものです。すべてのことは「自然」ではなく、創造主なる神の「御手のわざ」です。また、私たちの神は単に恐れ敬うべき方ということ以上に、この世のすべての権威の源である方です。ですから、当然、この世の権威との衝突もときに避けることはできません。ただその際、民主主義の名のもとにこの世の権威を声高に批判する前に、史上最悪とも呼ばれるローマ皇帝ネロの時代に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1) と勧めたパウロのように、権威を重んじつつも、賢く振る舞うべきでしょう。