2013年11月3日
ミカ書5章はキリスト預言として有名です。ただ多くの人が見過ごしていることに、その救いが、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と描かれていることがあります。アッシリヤとは、横暴な支配者の代名詞です。それはイエスの時代はローマ帝国でした。また第二次大戦下の日本では軍閥でした。あなたの身近なところにも、横暴な人間がいるかもしれません。
イエスによる救いは、「今は、辛いけど、やがて天国では・・・」という浮世離れしたものではなく、不条理に満ちた現実の世界に適用できるものです。イエスの時代の人々は、ローマの圧政から解放してくれる救い主を求めていました。イエスはそのような救い主として現れました。イエスの話を非現実的と拒絶したユダヤ人の国はローマ帝国によって滅ぼされました。しかし、浮世離れしていると思われたイエスの福音こそ現実のローマ帝国を変えたのです。
しばしば、目の前の出来事に現実的に対応するという名のもとで、暴力や復讐の連鎖を生みます。現実的な解決は、しばしば、破滅への道となっています。私たちはもっと、この世界に平和を実現すると約束してくださったイエスのことばを、この世の現実に適用することを心がけるべきではないでしょうか。
1.「この方こそが、平和となる・・・彼は、私たちをアッシリヤから救う」
5章の初めでは、「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ。とりでが私たちに対して設けられ、彼らは、イスラエルのさばきつかさの頬を杖で打つ」と記されます。これはたとえば、エルサレムがアッシリヤの軍隊によって包囲され、絶体絶命の危機に瀕する様子を描いたものです。
その際、「今、軍隊の娘よ。勢ぞろいせよ」と呼びかけられるのは、人間的には勝ち目のない娘のようなひ弱な軍隊に呼びかけるしかない状態を示しています。そして、そのような中で、イスラエルの王の頬が杖で打たれるという辱めを受けるというのです。
しかし、そのような中で、4章8節に記されていたように、「以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る」というのです。そして、その王国を導く新しい王の誕生のことが、「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る」(5:2)と預言されます。
このみことばはマタイの福音書2章では東方の博士たちの訪問に驚いたヘロデ大王が学者たちを集めて「キリストはどこで生まれるのかと問いただした」ときに引用されたものです。その際、学者たちは、ヘロデが理解しやすいように若干の言い換えをして引用したのかと思われます。
そこでは、「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者があなたから出るのだから」と記されています。
ミカ書で、「ベツレヘム・エフラテ」とあるのはその当時は二つのベツレヘムがあったためで(ヨシュア19:15では北のゼブルンの支配地にベツレヘムという町があった)、それを区別するためだと思われます。
なお、ダビデの出生に関しては、「ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子であった」(Ⅰサムエル17:12)と記されていました。そこから「エフラテ」という地名が生まれたと思われます。
また、ミカ書で「最も小さい」と記されているのは町のサイズを示し、マタイの引用で、「一番小さくはない」と記されているのは、小さな町であるにもかかわらず、小さな意味しか持たない町ではないという意味だと思われます。
また、ミカでは続けて、「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」と記されているのは、主がダビデに対し、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)と、ダビデ王家の永遠性を約束しておられたことを指していると思われます。
そして、「それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる」(5:3)とは、この救い主の誕生のときまで、イスラエルの民は外国の支配下に置かれるという意味だと思われます。
ただ、同時に「彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる」とあるのは、イスラエルの民が四方に散らされていても、この救い主のもとに集められるという意味です。それと同時に、これは復活したイエスが天に昇られた直後に百二十名ほどの兄弟が集まって、心を合わせ祈っていたという記事がありますが、それから間もなくのペンテコステの日には三千人ほどが弟子に加えられています。これこそ、このミカの預言の成就と解釈することができます。
引き続き、この救い主の働きが、「彼は立って、主(ヤハウェ)の力と、彼の神、主(ヤハウェ)の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ」(5:4)と描かれます。
4章の初めでは、主(ヤハウェ)ご自身が全地に平和を実現すると約束され、その7節では、「主(ヤハウェ)はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と記されていましたが、ここでは救い主として誕生する方が、主(ヤハウェ)の支配をこの地上に目に見える形で現すと記され、主(ヤハウェ)と一体となっている王であられると描かれています。
そして、不思議にもここでは救い主が実現する平和のことが、「平和は次のようにして来る。アッシリヤが私たちの国に来て、私たちの宮殿を踏みにじるとき、私たちはこれに対して七人の牧者と八人の指導者を立てる。彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす。アッシリヤが私たちの国に来、私たちの領土に踏み込んで来たとき、彼は、私たちをアッシリヤから救う」(5:5,6)と描かれます。
ここで、最初のことばは、「この方こそが平和となる」とも訳すことができ、その方が一般的な訳です。そして、そのことが6節の終わりで、「彼は、私たちをアッシリヤから救う」と言い換えられています。
つまり、救い主は、預言者ミカの時代にとっての最大の脅威であったアッシリヤ帝国の攻撃から民を救いだし、平和を実現する者として描かれているのです。
現代の誰も、イエス・キリストをアッシリヤ帝国の支配からの解放者としては理解していません。なぜならイエスはアッシリヤ帝国滅亡後600年余りたって誕生しているからです。
しかも、ここでは、そのプロセスで、「七人の牧者と八人の指導者」という地上の指導者が、救い主のもとで立てられ、アッシリヤの地とニムロデの地を軍事的な剣の力で治めるというのです。なお、ニムロデの地とはバビロン帝国の中心地を指します。
ただし、詩篇2篇では、救い主の働きが、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」(9節)と描かれていました。とにかく、この時代の預言では、救い主は軍事的な指導者として明確に描かれているのです。
そして、黙示録では「ハルマゲドン」(16:16)での戦いに勝利する方が、「神のことば」と呼ばれ、その「口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は鉄の杖をもって彼らを牧される」と描かれます(19:13-15)。
つまり、ミカが預言した救い主は、最初は剣も鉄の杖も用いない方として現れながら、世の終わりになって預言を成就するということなのです。
救い主は、一度目は、人の罪を負って十字架にかかる方として現れ、二度目は、鉄の杖で神の敵を踏みにじる方として現れるのです。
それが示すことは、イエス・キリストは単に柔和で優しい方というのではなく、地上的な力をもって、この地の敵を従える方であるということです。
旧約聖書を読まず、黙示録以外の新約聖書しか読まない多くのクリスチャンは、その点で救い主のイメージを大きく誤解しています。
とにかく、救い主は、この世の悲惨や争いを、ただ涙を流しながら途方に暮れている方ではありません。事実、このミカの預言から数十年後に、アッシリヤ帝国がエルサレムを包囲した時、ミカの預言を信じたヒゼキヤ王は、主に従うことアッシリヤの攻撃を奇跡的に退けました。
ここに描かれた「この方こそが、平和となる・・・彼は、私たちをアッシリヤから救う」というみことばは、この地上の横暴な権力者すべてに対する勝利として適用することができます。
イエスが十字架で息を引き取ったとき、それを見ていたローマの百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と告白しました。それは十字架で死んだイエスに、ローマ皇帝と同じ権威を認めたことを意味します。
そして、イエスは死の力を打ち破って復活されました。そして、その後のキリスト者に剣の脅しが通じなくなったとき、ローマ皇帝自らがキリストを真の王と告白するようになりました。
私たちはどこかで、救い主のご支配をあまりにも浮世離れしたことと理解してはいないでしょうか。
2.「ヤコブの残りの者は・・・人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない」
5章7,8節は諸外国の攻撃や圧政の中を生き延びた子孫に関しての約束です。
その第一は、「そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、主(ヤハウェ)から降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みをおかず、人の子らに期待をかけない」と描かれます。
それは、神の民が世界中に潤いをもたらす者となるという意味です。彼らは、肉なる人間にではなく、神に望みをかける者として世界の希望となります。これは、新約の時代においては、私たちが「世界の光」「地の塩」として生きることを意味します。
そして第二は、「ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない」(5:8)と記され、苦難を潜り抜けた神の民がライオンのように強くされることを意味します。
そして、9節はその彼らの勝利を、「あなた」という呼びかけによって、「あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる」と、主にある勝利が約束されています。
使徒パウロも、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい」(エペソ6:10,11)と記しています。
「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)というのは決して敗北主義の教えではなく、悪の力に勝利するための秘訣を語ったものです。それは神のご支配を信じているからこそできる勇気ある行為です。
そして、10,11節では、「その日」ということばとともに、4章1節の「終わりの日」、4章6節の「その日」で約束されていた神の平和を、神ご自身が神の民の戦いの道具である「馬」や「戦車」やなくすことによって実現するというのです。
それはまた、驚くべきことに「あなたの国の町々を断ち滅ぼし、要塞をみなくつがえす」とあるように、人間的な力を誇る神の民を内側からきよめる神のさばきでもありました。
神の平和は、人間的な力により頼む者へのさばきから始まるというのは。恐ろしいこことでもあります。
しかしダビデ自身も詩篇20篇7節で、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主(ヤハウェ)の御名を誇ろう」と告白していたのです。
この三、四十年後、南王国ユダのヒゼキヤ王はアッシリヤに包囲された絶望的な状況の中で、ただイスラエルの神、主(ヤハウェ)に信頼して、救いを願いました。
すると、「主(ヤハウェ)の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した」と記されています(イザヤ37:36)。 神の民は、戦う必要がなかったのです。
そればかりか、主はイスラエルの中から、「呪術師を断ち、占い師を・・なくする・・・刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす」と言われ、その結果、「あなたはもう、自分の手の造った物を拝まない」と、偶像礼拝から無縁にされる状態を作り出してくださいます(5:12,13)。
そればかりか、イスラエルの中であがめられていたカナンの豊穣の女神の「アシュラ像」をねこぎにするばかりか、そのような像を拝んでいた「あなたの町々を滅ぼし尽くす」と言われます。
そして神のさばきは世界に広がるということが、「わたしは怒りと憤りをもって、わたしに聞き従わなかった国々に復讐する」(5:15)と描かれます。神は最終的に、すべてのご自身の敵を滅ぼされます。
預言者ミカの時代から百数十年後に預言者エレミヤは、イスラエルに対する主のさばきは、新しい世界を作り出す神のみわざであるということを強調しながら、次のような主のみことばを記しました(エレミヤ17:5-8)。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主(ヤハウェ)から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
主(ヤハウェ)に信頼し、主(ヤハウェ)を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」
ここには、のろいと祝福の対照が美しく描かれています。人間的な力により頼んだイスラエルは自滅しました。しかし、私たちクリスチャンは真の「ヤコブの残りの者」として、人ではなく神に信頼して、祝福に満たされるのです。
3.「人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。」
6章は、1章2節、3章1節にあったように「さあ、聞け」という言葉から始まります。最初の呼びかけは8節までのすべてを支配します。
その上で、主はまず預言者ミカに向かって、「立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ」と命じています。
そして今度は、ミカ自身が、「山々よ。聞け。主(ヤハウェ)の訴えを。地の変わることのない基よ。主(ヤハウェ)はその民を訴え、イスラエルと討論される」と訴えます。
主はミカ書の初めで、「地と、それに満ちるものよ。耳を傾けよ」と語っておられましたが、ここでも被造物全体への語りかけられます。それはそのような神に反抗する意思を持たないものを証人に立てて、イスラエルの不従順の罪を訴えるという構図です。
そして3節からは主ご自身がイスラエルに向かって「何」「どのように」ということばを繰り返しながら、「わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ」と訴えられます。そこには、イスラエルの反抗の責任は神の側にはないという悲痛な訴えがあります。
その上で主は、イスラエルの歴史を振り返りながら、まず、「わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを買い戻し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリヤムを送った」(6:4)と言われます。
神ご自身が一方的な愛を持ってイスラエルを奴隷の家から解放し、彼らにモーセなどの指導者を送ってくださいました。
そればかりか、イスラエルの民が40年の荒野の生活の最後に至った時に、主ご自身が敵の策略を打ち砕いてくださったことを、「わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか」と言います(5節)。
主ご自身が何と、敵の王に仕えようとした占い師のバラムを用いて、敵への呪いとイスラエルの民への祝福のことばを言わせました。
また、「シティムからギルガルまでに何があったか」とありますが、シティムはヨルダン川の東側にあるイスラエルの民のキャンプ地でした。彼らはそこでモアブの娘とみだらなことをして、主の怒りを買いました。その背後にはバラムの策略がありました。
しかし主は彼らをあわれみ、ヨシュアのもとで、ヨルダン川をせき止めてイスラエルの民を渡らせてくださいました。そして、ヨルダン川西側のギルガルにおいて主の契約を再確認しました。
これらの圧倒的なみわざの目的は、「それは主(ヤハウェ)の正しいみわざを知るためであった」と記されています(6:5)。
そして、ミカは6,7節でイスラエルの民の愚かな犠牲のいけにえを非難して、「私は何をもって主(ヤハウェ)の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主(ヤハウェ)は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか」と言います。
預言者ミカの時代は、北王国イスラエルも南王国ユダも経済的繁栄をまだ享受できていた時代です。彼らはその豊かさを用いて、高価な一歳の子牛や幾千の雄羊、幾万の油を、エルサレム神殿でいけにえとしてささげていましたが、それは社会的な弱者から搾取したものでもありました。
また彼らはカナンの豊穣の神々のバアルや世界で最も古い女神の一つであるアシュラに多くのいけにえをささげていました。
また、そればかりか、彼らはモレクという偶像に幼児をいけにえとしてささげるということまでしていました。
そして今、日本でも伊勢神宮の式年遷宮に550億円が使われたと言いますが、経済的な繁栄は偶像礼拝をも盛んにします。
そして、ミカはこの書の核心として、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(6:8)と告げます。
「公義を行なう」とは、神の正しいさばきの基準に従ってこの世界を治めることです。
「誠実を愛する」の誠実とはヘブル語のヘセド、真実な変わらない愛を愛するという不思議な表現です。それは人や周りの反応に左右されずに神の眼差しを意識しながら神と人とに誠実を尽くすことです。
また「へりくだってあなたの神とともに歩む」とは、神との対話の中で神の意志を自分の意志としながら日々を過ごすということです。
イエスは、几帳面な生活ばかりに気を取られているパリサイ人を非難して、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」(マタイ23:13)と言われましたが、その背後にはこのミカのことばがあったと思われます。
この預言書では、「さあ、聞きなさい」「耳を傾けよ」ということばが繰り返されています。
私たちはつい自分の価値観に従って、自分の目の正しいと思うことに熱心になりがちですが、それよりもはるかに大切なのは、神の前にへりくだり、神のみことばに耳を傾け、神の御思いに自分の心を向けながら、何が神の目に良いことなのかを慕い求めることなのです。
神への最高の愛の表現は、神の御言葉に耳を傾けることです。
もちろん、イエスが十分の一もおろそかにしてはいけないと言われたように、私たちの犠牲のささげものや奉仕は大切ですが、「私は自分の責任を果たすために日夜頑張っています」などと言いながら、もっとも身近にいる人々の心の声やいっしょに礼拝に集っている人々の心の声にまったく耳が向いていない人がいます。
パリサイ人たちは、自分たちは神の前に誠実を尽くしているという思いの中で、イエスを十字架にかけるように叫んだのです。
私たちはこの世界で多くの成功物語を聞きます。私も、「お金と信仰」などという連載記事の中で、この世の経済活動を軽蔑することなく、自分の心の中に湧いてきた思いや、迷っている中での「ひらめき」のようなことに自分自身の将来を賭けてみる大胆さが大切であると説いてきました。周りに気遣いながら自分の情熱を殺すなど愚かなことだからです。
しかし、それと同時に、私たちは目的のために手段を選ばない生き方や、または目先の成果に一喜一憂するような近視眼的な生き方から自由になる必要があります。結果を出すことが何よりの証しになるなどという発想を、主は決して喜ばれません。
主に創造された者としての個性を生かすことと、いつでもどこでも、主のみこころを第一として生きることには何の矛盾もありません。
イエスはこの世界を平和の完成へと導いてくださる救い主です。そのために今求められている生き方は、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(6:8)ということにまとめられます。
主のみこころとは、あなたがどんな仕事をするか、何に情熱を燃やすか、ということよりも、日々、このような主の御心に沿った生き方を目指しているかに現されます。