聖書が描く歴史のゴールは「平和(シャローム)」の完成です。「平安」と訳されている言葉は、多くの場合「平和」と訳した方が良いとも言われます。そして、「平和」とは、人間の罪を真正面から見据えながら、しかも、それを赦すことから生まれます。
先週、私たちは広島、長崎の原爆のことを覚えました。僕は昨年、広島に初めて行って一番衝撃的だったのは、アメリカは明らかに広島を人体実験の場に使ったということでした。京都が空襲を免れていたのは当初、歴史遺産保護以前に、そこが地理的な形状が原爆投下の第一候補地としてふさわしかったからであると言われます。同じように広島にも空襲は行われませんでした。それはウラン型原爆の威力を正確に測るためでした。その三日後に、敢えて長崎にも原爆が投下されたのは、もう一つのプルトニウム型の威力を実験するためであったと言われます。そこには人を人とも思わない態度が見られます。
ただ、日本はアメリカを責める資格はありません。日本も中国や朝鮮半島の方々を人間扱いせずに、家畜以下に酷使する強制労働に徴用したり、従軍慰安婦として動員しました。今週の終戦記念日は、中国や朝鮮半島の方々の視点から戦争を振り返って見るべきかもしれません。
ピレモンの手紙の主題は、キリストの救いのみわざが、加害者と被害者、恩知らずと裏切られた人を、真の和解に導くという話です。平和は、赦しがたい人を赦すことから広がるものです。
1.「オネシモは、前にはあなたにとって役に立たないものでしたが・・・」
これはパウロがピレモンに宛てた個人的な手紙であり、コロサイ人への手紙と一緒にテキコによって届けられたと思われます。そのときパウロは、ローマ皇帝のもとでの裁判を受けるため囚われの身でした。
ピレモンはコロサイ教会の指導者のひとりで、彼の家は教会として用いられていました。そこにオネシモという奴隷がいましたが、あるとき主人の財産を盗んで(18節)、逃亡したのだと思われます。
しかし、不思議にも、獄中にいるパウロに出会ってキリスト者になりました。それをパウロは、「キリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのこと」(9,10節)と言っています。
彼はしばらくパウロの身の回りの世話などをしていましたが、パウロは彼をその主人であるピレモンのもとに送り返すことに決め、この手紙を記しました(12,13節)。
逃亡前のオネシモのことについては、推測するしかありません。パウロは、「彼は、前にはあなたには役に立たない者でしたが・・」(11節)と言っていますが、これは、人格を否定し、奴隷としての有用性を論じているように見えますが、ことばの遊びがあります。
まず、「オネシモ」という名のギリシャ語には「有益な」という意味があります。パウロは、その類語を用いて、「あなたに迷惑をかけた「有益な」という皮肉な名を持っている奴隷がいました。彼は本当に「役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています」と、彼がその名にふさわしい者に変えられたと冗談を言っているのだと思われます。
しかも、「役に立つ」とか「役に立たない」ということばには、キリスト(クリストス)と似た発音のクレストスということばが用いられており、そこにはキリストに敵対する者がキリストに喜ばれる者となったという響きが持たされております。
当時は、家の主人が回心したら、その家族や奴隷もいっしょに福音を聞くというのが一般的でした。したがって、ピレモンは、オネシモを他の家の奴隷と比較できないほどに暖かく扱ったであろうことは間違いありません。そして、オネシモも、福音を知的には理解していたのだと思われます。そうでなければ、逃亡先で、囚人とされているパウロをわざわざ訪ねるということはなかったと思われます。それは逃亡奴隷にとってはいのちがけの冒険だからです。
つまり、オネシモは、圧倒的な恵みを受け、それを理解しながら、なおそれを軽蔑して堕落して行ったのだと思われます。彼を安易に受け入れることは、その家の他の奴隷に示しがつかないことです。しかも、それは家の教会における互いのわがままを助長する恐れがあります。
ですから、この手紙は、教会の愛の交わりを傷つけ、群れ全体にとって悪い模範になるとしか見えない人を、どのように扱うかという今日的な課題でもあると思われます。
2.「あなたの愛と信仰を聞いて、神に感謝しています」
これはパウロがピレモンに宛てた個人的な手紙でありながら、差し出し人は「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから・・」(1節)という複数であり、また受取人は、彼の妻だと思われる「アピア」と、エパフラスの不在中の牧師だと思われる「アルキポ」になっています(2節)。
そればかりか、パウロはピレモンの「家にある教会」全体でこの手紙が読まれることを期待しています。それはオネシモの起こした問題は、ピレモンの家族ばかりか、その家の教会に集うすべての信仰の家族の問題になっていたからです。
その上で、パウロは何よりも「恵みと平安(平和)」(3節)のために祈っています。「恵み」とは神からのすべてのあわれみや賜物を含む豊かな言葉です。そしてそれは、互いの「平和」を生み出す力になります。
互いの争いは不満から生まれますが、それは「恵み」が十分に理解されていない結果に過ぎません。そして、この手紙のテーマは、「交わり(コイノニア)」の回復です。ここに福音が生きて働いた証しがあります。
この手紙の本文は、「感謝しています、私の神に。祈りのうちにあなたのことを覚えるたびに」(4節)という順番で記されています。パウロは祈りの中で人を覚える時、何よりも感謝から始めます。それは問題に満ちたコリントの教会の場合もそうでした。
あなたの場合はどうでしょう。感謝すべき理由は探せば見つかります。
パウロの感謝の根拠は、「それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているから」(4,5節)でした。
原文では、「あなたの愛と信仰を聞いている」と記された上でそれぞれの説明が続きます。「愛」ということばが最初に来て、その後、彼の「信仰」に関して述べ、その上で再び「愛」に戻るという形で、ピレモンの「愛」に信頼して訴えようとしています。
どちらにしても、この世では、能力や性格で人の価値が計られますが、神はその人の「愛と信仰」を見られます。パウロは、主イエスに対するピレモンの信仰は、すべての聖徒への愛として現わされていると認めて喜んでいるのです。
その上でパウロは、「あなたの信仰に基づく交わり(コイノニア)が生きて働くものとなりますように」(6節)と祈っています。
「交わり」(コイノニア)とは、人の痛みや喜びを自分の痛みや喜びとするような共有の関係を意味します。しかも、その前にある「キリストのために」とは「キリストある完成に向かって」という意味が込められているとも解釈できます。また、「すべての良い行いを知る」とは、「生きて働く」ことの現れを意味し、知的な知識ではなくて、それによって「すべての良いことが体験される」ということを意味していると思われます。
彼は、ピレモンの「信仰に基づく交わり」を感謝しつつ、それがなお豊かに、御国の愛の交わりをこの地で表わすほどの良い行いとして「知られ(体験され)る」までに「生きて働くものとなる」ことを祈っているのです。
その上で、彼は続けて、「あなたの愛から多くの喜びと慰めを受けました。それは、聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたから。兄弟よ」(7節)と言っています。
「心」ということばは、厳密には「内臓」「はらわた」とも訳され人間の深い感情の座を意味します。
また、「力づけられる」は英語ではほとんどの場合「リフレッシュされる」と訳され、本来、行軍中の軍隊がしばし休息を取って、力を回復するようなことを意味します。
つまり、パウロはピレモンの愛の行為が、教会全体に活力を与えていると称賛しているのです。
ここでパウロはピレモンの愛が既に実を結んでいることを喜びつつ、オネシモを受け入れることで、天上の愛をこの地で表わすことになると示唆しているのだと思われます。
私たちも、既に実を結んでいる愛をまず感謝し、やがて花となるつぼみと認めて、なおそれが完成に向かって成長するようにと祈るべきでしょう。
ここには、オネシモに対するピレモンの態度を責めている雰囲気はまったく見られません。その反対に、ピレモンがオネシモに対して抱いている苦々しい気持ちに共感しているとも言えましょう。なぜなら、そのようなピレモンの愛をオネシモは裏切って、信仰の交わり(コイノニア)を破壊したということが示唆されているからです。
3.「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが・・・」
8節からは、具体的にパウロの願いの内容が記されて行きます。まず、パウロは、「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからずに命じることができるのですが」と、回りくどい言い方がされているのは、ピレモンにとってオネシモが、いかに赦し難い存在かを、示唆しているのではないでしょうか。
なお原文で8節は、「こういうわけですから」で始まります。これは、原文での7節が「兄弟」で終わっていることを受けています。つまり、パウロは、「あなたをキリストにあって一体の者として見ているので、使徒としての権威を用いて命じる代わりに」、「愛によって・・お願いします」(9節)と言ったのです。
しかも、自分を「キリスト・イエスの大使(「年老いて」の別訳)であり囚人として」と改めて位置付けました。それは、自分の権威を主張する代わりに、キリストのために苦しみや痛みを選び取る生き方を指し示すためです。
キリストは「神の御姿」であられ、すべてのことを上から命じる権威を持っておられましたが、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・十字架の死にまで従いました」(ピリピ2:6-8)。そしてパウロが「キリスト・イエスの囚人」となっているのは、そのキリストの姿に習っていることなのです。
ここでパウロはこの「キリスト・イエスの大使」として、その姿に習いながら、「愛によって」ピレモンにお願いすると書いています。そこには、言外の強い訴えが感じられます。それは、ピレモンがオネシモにどれだけ苦々しい感情を抱いていたかを知っていたからでしょう。
その上で、逃亡奴隷のオネシモを「獄中で生んだわが子」と紹介し、彼を「あなたにお願いしたい」(10節)と言いました。彼は「お願いする」ということばを、9節と10節で繰り返しています。
なお、パウロはすぐ前で自分を「囚人」と呼び、ここでは「獄中で生んだ」と強調しています。私たちはどこかで、クリスチャンとしての歩みを、順風満帆な人生と期待しているかもしれませんが、少なくともオネシモは、自由を求めてピレモンのもとから逃亡しましたが、結果的には、囚われの身となっているパウロのもとで、人間的には不自由な人生の中に真のいのちを発見したのです。
どこの世界に、「あなたは神に従うことで、囚人となりますが、それでもそこに自由がありますから、信じましょう」と言われて信じることができる人がいるでしょう。しかし、オネシモはその前に、自由を目指すことの行き詰まりを徹底的に体験したからこそ、パウロにある自由を理解できたのでしょう。
最初に書いたように、「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つものとなっています」(11節)という表現にはことば遊びが見られます。
その上で驚くべきことに、「そのオネシモを、あなたのもとに送り返します」と言いながら、「彼は私の心そのものです」(12節)と呼びました。ここの「心」も7節と同様に「内臓」「はらわた」と同じ言葉です。
それにしても、ローマ市民(貴族)であるパウロが、逃亡奴隷のオネシモを送り返すに当たって、このような表現を用いたということは、当時の常識をひっくり返すようなことでした。オネシモもこの手紙が読み上げられた時に涙を流して感動したことでしょう。
しかもパウロは、「私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私に仕えてもらいたいとも考えました」と言っています。これは、あのオネシモが、ピレモンの代理の働きさえできるという意味です。
パウロは、ピレモンにとって腹立たしい裏切り者でしかなかったような逃亡奴隷が、パウロ自身にとっての、ピレモンからの最高の愛の贈り物へと変えられたことを示したのです。
しかも、ここで再び、「福音のために獄中にいる」と、先の「キリスト・イエスの囚人」「獄中で生んだ」につながる表現を用いています。パウロの身体は人間的に見たら、まさに束縛の中にあるのですが、彼の心は自由です。自分の身は不自由でも、人の自由を犯そうとはしていません。そのことが「あなたの同意なしには何一つすまいと思いました」ということばに現れています。
そして、その自由をピレモンにも体験するように勧める思いで、「あなたがしてくれる親切(善)は強制されてではなく、自発的でなければならない」(14節)と言っています。これは、彼が先に「愛によってお願いする」と言ったことを更に説明したことです。
あらゆる善い行ない(「親切」14節)は自発的でなければなりませんが、それは同時に、励まされ、教えられる必要もあります。ここにパウロの繊細な心遣いをみることができます。
彼は、ピレモンが持っていたに違いないオネシモへの苦々しい気持ちを、ユーモアを用いて優しく受け止め、その上で、ピレモンがキリストとその使徒であるパウロをどのように喜ばせることができるかを示し、彼のうちにある愛の心が「生きて働き」やすいように導いたのです。
強制でも放任でもない、人の心に寄り添った真の同伴者の姿勢がパウロのことばに見られます。
4.「あなたが私を親しい友と思うなら・・私を元気づけてください」
「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです」(15,16節)という表現に「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)の影を見ることができます。
私たちはしばしば、人の裏切りに傷つきます。しかし、それはキリストにある真の「愛する兄弟」の関係への成長のプロセスだと言うのです。失敗しなければ見られない世界があるからです。
奴隷はその主人にとって便利な存在と思えるかもしれませんが、基本的に命じられたことだけを黙々と行うロボットのような存在です。それに比べて、真の信仰のパートナーは、あなたへの批判もするかもしれませんが、そこには、必要ならば相手のために命さえもかけるという熱い信頼関係があります。
そのことを、パウロは「特に私にとってはそうです」と彼の変化を保証しながら、オネシモに傷つけられたピレモンに、「あなたにとってはなおさらのこと」と勇気づけています。
しかも、パウロは「肉においても、主にあってもそうではありませんか」と付け加えます。「肉において」とは、失われたはずの家族が戻ってきた喜びを、「主にあって」というのは、オネシモをキリストにある新しい人と見るという意味です。
ここには、「奴隷と自由人というような区別はありません」(コロサイ3:11)という福音が生きて働くことの実を見ることができます。
パウロは、最初に自分にとってのピレモンのことを述べ、その上でオネシモを「私の心そのもの」として紹介し、ピレモンとオネシモを「愛する兄弟」として結びつけようとしています。
それを再確認するのが、「もしあなたが私を親しい友と思うなら」(17節)です。「親しい友」はコイノニアと同じ語源で、大切なものを共有する関係です。オネシモは両者にとっての宝となるのです。
そして、「私を迎えるように、彼を迎えてやってください」(17節)とは、改めて自分とオネシモを一体化したものです。
しかもその際、「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください」(18節)とまで言いました。
真の和解のためには過去の罪の現実を認めた上で、それが精算される必要があるからです。これは、パウロがオネシモに対してキリストの役割を演じていることです。
そして、「この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います」と保障します(19節)。ただその上で、「あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません」と不思議な付け加えをします。
これはピレモンがパウロの宣教の働きで永遠のいのちを受けることができたことを思い起こさせたもので、まるで恩着せがましく債務の取り消しを強制しているようにも聞こえます。
しかし、パウロはこれまで繰り返し、自分が福音のために「囚人」となり「獄中にいる」と語りながら、それがキリストに習う道であると示しました。パウロはピレモンに、自分がキリストの大使であるように、彼もそう行動できることを励ましているのです。
しかも、パウロは、自分が負債を肩代わりするということを保証しながらも、同時に、「兄弟よ。この私はあなたからの益(オナイメン)を(「受けたい」は原文にはない)、主にあって」と言いました。
これも、オネシモということばにかけたジョークと言えましょう。パウロは、ピレモンが自分に感謝の気持ちを表わしたいと思っていることを知っているので、オネシモを受け入れることでそうできると言ったのです。
そして、最後に、「私の心(はらわた)をキリストにあって元気づけ(力づけ)てください」(20節)と言いました。これは、パウロが、ピレモンが聖徒たちの心を「力づけ(元気づけ)ている」(7節)ことで「喜びと慰め」を受けていると言い、そして、オネシモを「私の心(はらわた)そのもの」(12節)と説明したことの結論としてのことばです。
「交わりが生きて働く」とは、このように互いを元気づけ(力づけ)る交わりが広がることだというのです。
私たちは福音を述べ伝えるとともに、他の人の痛みを自分の痛みとして負うような、交わりを築くように遣わされています。
明らかに社会の常識や秩序を乱した人が、その交わりに受け入れられるためには、「彼は私の心そのものです・・彼がかけた負債は私が負います」とまで言って、傍らに立ってくれる人が必要です。
それは、担い切れない重荷かも知れません。しかし、それがキリストの代理としての働きであれば、主ご自身が力を与えてくださいます。そして、そこにはキリストにある本当の心の交わりが生まれ、孤独への真の癒しがあります。
私たちの「信仰の交わりが生きて働く」(6節)とは、このように人と人とを和解に導くことができることです。パウロはピレモンに対し、オネシモを「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟として・・永久に取り戻す」(16節)ことができると勇気づけました。
キリストにある真の友は、友のために進んで命を賭けることができます。それこそ最高の宝です。人は心の底で何よりも、心からの誠実な友を求めているからです。
当時、真っ向から奴隷制度を崩そうとするなら、かえって失業者の大群を生み出すだけだったでしょう。しかし、キリストの福音が、ピレモンとオネシモの関係を変えたとき、キリストにある新しい人には、「奴隷と自由人というような区別はありません」(コロサイ3:11)との事実が全世界に証しされ、歴史を変えました。
この極めて個人的な手紙が聖書の一部とされているのは、この手紙がもたらした革命的な結果のゆえでしょう。
宗教改革者マルティン・ルターは、パウロはこの手紙でオネシモに対してキリストの役割を演じていると言いました。オネシモはピレモンからの怒りとさばきを受けるべき存在でした。
私たちもオネシモのような存在でした。しかし、キリストが罪人である私たちと一体化してくださいました。それに習ってパウロはここでオネシモを「私の心そのものです」と呼ぶことによって、ピレモンにとりなしをしています。
私たちは自分がオネシモであったこと、またそんな私たちにキリストが、目に見える人を通して近づいてくださったことを決して忘れてはなりません。キリストはご自身の愛を目に見える代理を通して示してくださいます。私たちもその姿に習うように召されています。
使徒信条では、「われは・・聖徒の交わり(コイノニア)を信ず」と告白されます。現実の交わりに失望を味わったとしても、そこに働く聖霊の導きを信じるのです。
私たちの教会も、互いに安らぎを与え、元気づける交わりとして成長させていただきましょう。なお、この50年余り後のある手紙にエペソの監督オネシモという名が出てきます。もし、彼がこの手紙と同一人物だったら、それは何と夢のある話でしょう。
それは証明はできませんが、どちらにしても、この手紙が残ったのは、オネシモがすばらしい働きをする者となったからではないでしょうか。