2013年4月21日
しばしば、私たちは、わざわいに会ったとき、「バチが当たった」という解釈をします。聖書を読むときに気を付けなければならないのは、すべてのわざわいは、神の御手にあって、神の御許しの中で起こっているという霊的な現実を知ることと、それに対する解釈を区別することです。
わざわいをすべて、神のさばきと捉えるのは大きな間違いです。なぜなら、黙示録のテーマは、終わりの時代には様々なわざわいが起こるけれども、それらすべてを神が支配しておられ、神はご自身を礼拝し続ける者の霊的ないのちを守りとおすことができるということにあるからです。
イエスご自身も、「あなたがたは、世にあっては患難があります」と不気味な断定をした上で、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と最終的な勝利を保障してくださったからです (ヨハネ16:33)。
わざわいの原因は、多くの場合、神のはかりしれない計画の中で、私たちの目からは隠されています。しかし、そこで常に求められているのは、人間の知恵や力の限界を素直に認めて、創造主に立ち返り、主との交わりを第一として生きるということです。
わざわいは避けられません。しかし、神は、どのようなわざわいをも、「益に変える」ことができます。わざわいを避けることよりも、いつでもどこでも神を慕い求めることこそが祝福の秘訣です。
1.「神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」
3章1でアモスは、「聞け。このことばを」と訴えつつ、主がかつてイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出したことを思い起こさせながら、「イスラエルの子らよ。主 (ヤハウェ) があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った」と語りかけます。
その上で、2節では、それ以降に続く主のことばの結論がまず、「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」と記されます。「選び出す」ということばは厳密には、「知った」と記され、この文章は原文ではまず最初に、「あなたがただけを、わたしは知った」と記されています。
主 (ヤハウェ) がイスラエルの民を「恋い慕って……選ばれたのは」、彼らが、「すべての国々の民のうちで最も数が少なかったから」でした (申命記7:7)。そしてその目的は、彼らを主ご自身にとっての「祭司の王国、聖なる国民」として、ご自身のことを世界に証するためでした。これは、私たち自身にもそのまま適用できる原則です。
そして、恵みの選びと責任は表裏一体です。イエスも、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(ルカ12:48) と言われるように「貴族の責任」(ノブレス・オブリージュ)を忘れてはなりません。
そして七つの文章で、私たちの世界にある原因結果の密接な関係を描きます。それぞれが原文では、次のような順番で描かれます。
第一は、「ふたりの者がいっしょに歩いている」とは、彼らが「仲が良い」または、「打ち合わせをした」結果であるということです。
第二は、「獅子」が「森の中でほえ」ているのは「獲物」があるから、第三は、「若い獅子」が「ほら穴から叫ぶ」のは何かを「捕ら」たから、第四は、「鳥」が「地の鳥網にかかる」のは「わながかけられ」たから、第五は、「鳥網」が「地からはね上がる」のは何かを「捕らえ」たからだと描かれます。
なお、第六番目 (6節) は、それまでとは違って原文でも、「町で角笛が鳴ったら、民は驚かないだろうか」と記されています。それは直接的な原因結果の関係を描くためです。
そして、最後の第七番目では、「町にわざわいが起これば、それは、主 (ヤハウェ) が下されるのではないだろうか」と描かれます。それは、町の命運を主ご自身が握っておられるということを語るためです。
彼らは、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) がすべてのことを支配しておられるということを忘れて、他の神々を拝んでいました。それを告発するのが、この箇所の目的です。
その上でアモスは、「なぜなら、主、ヤハウェは、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらないから」と語ります (3:7)。
これは、主がイスラエルの罪をさばくに当たって、その前に悔い改めの機会を与えようとしてモーセのとき以来、繰り返し預言者を通して語って来たことを思い起こさせるためです。
8節では、それまでとは逆に、原因から結果を見るという論理で、「獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」と記されます。
それは、ライオンの雄たけびを恐れるのが人間の必然であるのと同じように、「主、ヤハウェ」が語ることを預言しないではいられないという意味です。それはまるで、地震や津波の警報を耳にした者が、そのことを他の人に伝えないではいられないというのと同じです。
そして、「アシュドデの宮殿と、エジプトの地の宮殿に告げて言え」と不思議な語りかけがあります。アシュドデとはイスラエルの南西の地中海岸のペリシテの中心都市ですが、アシュドデにとってもエジプトにとっても北からアッシリヤが攻めてきたときにサマリヤが防波堤になるからだと思われます。彼らはサマリヤに起こることを見ることによって、その後、自分たちを襲う危険を知ることができました。
それで、主は彼らに向かってサマリヤに関して、「サマリヤの山々の上に集まり、そのうちの大恐慌と、その中のしいたげを見よ。彼らは正しいことを行うことを知らない。─主 (ヤハウェ) の御告げ─彼らは自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている」と語られます (3:9、10)。
11節で、「主、ヤハウェ」は、サマリヤの罪に対するさばきとして、アッシリヤ帝国を動かして襲わせることを、「敵だ。この国を取り囲んでいる。彼はあなたの権威を地に落とし、あなたの宮殿はかすめ奪われる」と描きます。
そして、12節は、主のことばとして、「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから(とともに)救い出される」記されますが、これは羊飼いが、羊の死骸の一部を取り返して、それが雄獅子による被害であることを証明するように、イスラエルの子らは、昔使っていた豪華な家具の一部「とともに救い出される」という希望が語られます。
これは神がイスラエルを完全に滅ぼし尽くしはしないという意味です。
そして、主は13-15節で、「ヤコブの家に証言せよ」と注意を促しながら、イスラエルにたいするさばきを、第一に、彼らが勝手に作ったベテルの祭壇を徹底的に破壊するということ、第二には、「冬の家と夏と家」とを住み分けるような贅沢な生活を滅ぼすということとして警告されます。
これは、繁栄を誇っていた北王国イスラエルに対するさばきです。私たちも、神を忘れて自分たちの繁栄を誇っていると、同じような悲惨を味わうことになります。
すべてを滅ぼすことができる全能の神を忘れて、はかない富に望みを賭けてしまうことは恐ろしいことです。
イスラエルの民は、モーセ以来の預言者たちを通して繰り返し、主の警告を聞き続けていながら、自業自得でわざわいを引き寄せてしまいました。すべてのことを原因結果で解釈することは危険ですが、目先の損得勘定で生きるのか、それとも、いつでもどこでも、主のみこころを第一にして生きるのかということから生まれる因果関係は明確です。
明確な主のみこころに反して、主の祝福を受けられるということはあり得ません。たとえば、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8) という教えは、聖書の中で最もユニークな教えです。安息日の教えを破って、主の安息を体験することなど不可能であるというのは、明確な因果関係の中にあります。
2.「それでもあなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」
4章の初めは3章と同じように、「聞け。このことばを」から始まります。1-3節ではサマリヤの貴婦人たちにたいするさばきが記されます。その最初は、「サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども」という呼びかけですが、それは彼女たちが脂肪に満ちた「バシャンの雌牛」のように肥え太っていたことを嘲ったものです。
「彼女らは弱い者たちをしいたげ、貧しい者たちを迫害し」ながら、「自分の主人たちに」に向かって、アルコール依存症の女のように、「何か持って来て、飲ませよ」と言っていました。
それに対し、「主ヤハウェ」は、「ご自分の聖にかけて誓われ」ながら、「その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く。あなたがたはみな、城壁の破れ口からまっすぐ出て行き、ハルモンは投げ出される」と言われます。
最後のことばは、「ハルモン」を「ヘルモン」と読み替えて、「ヘルモンに追いやられる」(フラシスコ会訳) と訳す場合もあります。とにかく、これはサマリヤの貴婦人たちがアッシリヤの奴隷として引っ張って行かれることを指しています。
「ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ……イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる」(4、5節) とは、北王国イスラエルの礼拝の場を神ご自身があざけって、皮肉を込めて言われたことばです。
彼らは神の好意を得ようとして熱心にいけにえを初めとする様々なささげものをささげていますが、それがかえって、神を怒らせることになっていることを理解できずにいます。
それで神は、彼らが早く行き着く所まで行って、行き詰まることを願われたのです。これはアルコール依存症の方に、なるべく早い「底つき体験」(絶望を自覚する)ことを願うようなものです。
そして、6-11節では、最初の二回は神ご自身の「わたしはまた」ということばとともに、五回にわたって神のさばきのみわざが描かれながら「それでもあなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」ということばが繰り返されています。
第一は、「わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」と、飢えても神のもとに帰らなかったという訴えです。
第二は、「わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」(7、8節) と、干ばつの被害に遭っても神を求めなかったことが非難されています。
第三は、「わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」(9節) と、悲惨な病虫害の被害にあっても、神に立ち返らなかったことが非難されます。
第四は、「わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」(10節) と疫病や戦争の中でも神に立ち返らなかったことが非難されます。
そして、第五は、「わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」(11節) と、神ご自身が町全部を滅ぼしたのに、神に立ち返らなかったことが非難されます。これはソドムとゴモラのように天からの火で焼き尽くしたというよりは、敵の攻撃で町を滅ぼしつくすという意味だと思われます。
そして、12節は上記の結論として、「それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ」と告げられます。
「神に会う備え」とは、出エジプト19章11、15、17節にあるような、シナイ山に神が降りて来られることへの「備え」を思い起こさせる表現ですが、神は、今度は彼らの想像を超える形でご自身の栄光を現されるというのです。
そして13節では神の栄光が、人間のあらゆる想像を超えた偉大なものであることが、「見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主 (ヤハウェ)」と告げられます。
私たちはわざわいに会わなければ、自分の行動を変えようという動機はなかなか働きません。わざわいをすべて神の罰と捉えるのは大きな誤りですが、それでも、神が私たちにわざわいを許す理由に、私たちが神に立ち返るのを待っておられるからという意味があります。
わざわいが起きるのは、私たちの神が無力だからではありません。わざわいは神の御手の中で起きていると心から信じるなら、そのとき同時に、神はわざわいを支配し、それを益に変えられると信じられます。
わざわいの中で、神の招きの声を聞くことができる者は幸いです。
「神に会う備えをせよ」ということばは、最後の審判に対する備えとして理解することもできます。「この世に地獄があるのに、どうして、来るべき世界に地獄がないと言えよう」と言われることがありますが、確かにその通りです。わざわいの因果関係以前に、わざわいの中で、神に出会うことができないことこそ最大の悲劇なのです。
3.「わたしを求めて生きよ」「主 (ヤハウェ) を求めて生きよ」
5章の初めでは再び、「聞け。このことばを」という表現から始まり、「イスラエルの家よ……私があなたがたについて哀歌を唱える」と続きます。そして、2節から17節は、興味深い構造になっています。
まず第一に、2、3節と16、17節が対応し、イスラエルに対する哀歌として描かれます。
そして第二に、4-6節と14、15節が対応し、イスラエルに悔い改めを迫っています。
さらに、第三として7節と10-13節がイスラエルの具体的な罪が叱責されています。
そして、第四に、これらの中心に、8、9節では、主の全能の力が賛美されています。
第一に彼らを襲う悲劇が、「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない……イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう」(2、3節)と、彼らの人口が十分の一に激減することが預言されます。
第二に、その恐怖をぎりぎりのところで避けることができるための勧めが、主ご自身のことばとして、「わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな……ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ」(5節)と、彼らが主のみこころを退けて、勝手に作った礼拝の場が廃墟とされることを警告するともに、アモスのことばとして、「主 (ヤハウェ) を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる」と記されます。
彼らは主が最初に示してくださった礼拝の原点に立ち返るべきなのです。ここでは、「わたしを求めて生きよ」「主 (ヤハウェ) を求めて生きよ」と繰り返されます。
神は私たちが「生きる」ことを望んでおられますが、そのために私たちの側からまず、「主を求める」ことが何よりも大切なのです。イエスご自身も、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33) と言われました。
第三にイスラエルの罪が、「彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている」と、彼らが不当な裁判によって貧しい人を虐げ、弱肉強食の原則を国の中に持ち込んでいることが非難されます。
第四として、神の全能のみわざが、「すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主 (ヤハウェ)。主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する」(8、9節) と述べられます。私たちは、目の前の人間ではなく、すべてを支配する神を恐れて生きるべきなのです。
そして、第三として簡潔に述べていたイスラエルの罪が、10、12節で、「彼らは門で戒めを与える者を憎み、正しく語る者を忌みきらう。あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている……あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける」と描かれます。
「門」とは、裁判がなされる場ですが、彼らは門で正義を語るものを退け、門で不当な判決を下します。そしてそのようなことが続く中で、「賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ」(13節) と、賢い者も沈黙を守らざるを得なくなり、町の退廃が進む様子が描かれます。
そのような中では、「切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない」(11節) という、私たちの努力が報われない現実が広がり、経済が疲弊して行く状況が進みます。
そして、先の第二に対応する勧めとして、「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主 (ヤハウェ) が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主 (ヤハウェ) は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」と描かれます (14、15節)。
これは今彼らが悔い改めて、「善を求め」「善を愛する」ようになるなら、最終的な滅亡は避けられるかもしれないという意味です。
「ヨセフの残りの者」という表現に、イスラエルに対する神のさばきは避けられない段階に入っているものの、今、悔い改めるなら、一部の民は神のあわれみを受けて、滅亡を免れることができるという意味が込められています。私たちは、どんな絶望的な状況下でも、希望をもって神に立ち返ることができます。
そして、先の第一の哀歌に対応する悲劇を預言することばとして、16、17節では、主のことばが、「すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ」と描かれます。
最後のことばは、4章12節の「神に会う」ということを指していると思われます。イスラエルの民は、神に会う備えを怠ることによって、悲しみに打ちひしがれることになるというのです。
主は、私たちひとりひとりに、「わたしを求めて生きよ」と語りかけておられます。この不条理に満ちた世の中で、神のご支配を探し求めて、主を礼拝し続けるということは非常に困難なことです。サタンは常に、「神を礼拝してもしなくても、お前の生活は変わりはしない」と、主を求めることの空しさを語り続けます。
しかし、イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい……捜しなさい、そうすれば見つかります」(マタイ6:33、7:7) と言われました。それは、神への奉仕に励むということ以前に、空の鳥を見たり、野の花を観察して、そこにある神のご支配を見つけ出すようにという勧めでした。
神はすべてのわざわいをも支配しておられます。わざわいは、神がおられないとか、神が無能であるというしるしでは決してありません。聖書の時代のわざわいは、預言されているとおりに起きていますが、現代のわざわいの原因は、私たちにははかりしれないことです。
しかし、神を愛する者にとっては、すべてのわざわいが益となり、あなたがたの労苦は決して無駄にはならないということは、すべての信仰者にとって、常識中の常識なのです(ローマ8:28、Ⅰコリント15:58)。
そして、聖書が語る罪とは、何よりも、神を慕い求めなくなることなのです。また、聖書が語る「善を求め、善を愛する」とは、パリサイ人のように義務を忠実に果たすということ以前に、あなたの身近なところで、悩み苦しんでいる人に、どのような気持ちで接しているかという心の姿勢を問うことなのです。
神のあわれみを知り、神のあわれみに応答して生きることこそが、信仰生活のすべてです。