主(ヤハウェ)が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2013年春号より

待望の新会堂が間もなく完成しようとしています。私たちはそのような中で、いろんなことに気遣いながら、様々な人々の必要や様々な危険にも目を向けながら、すべてのことを誤りなく、誠実に成し遂げようと必死になります。

そこで気を付けなければならないのは、いろんなことに心を配りすぎて、主の前に静まり、主のみこころを慕い求めることを忘れてしまうことです。

私たちは、あくまでも、主の召しによって、主の導きに信頼して、この会堂建設のわざに着手しました。主の御前に静まることを忘れて、人間的な思いが先行したままに働きが完成したとしても、主の圧倒的な恵みのみわざを忘れてしまうなら、いつか、その働きはむなしいものと記憶されることになってしまいます。

詩篇46篇には次のように記されています。

「静まれ。そして、知れ。『わたしこそ神。 国々の上におり、地のはるか上に在る』
全能の主が、私たちの生活のすべてを支配しておられます。

私たちは、主の御前に静まり、主の御声を聞くためのスペースを建てようとしています。会堂建設や引っ越しなどの様々な必要に駆り立てられながら、主の前に静まることを忘れてしまっては、本末転倒ではないでしょうか。「今、ここで、主の前に静まる」ことの連続として、新会堂を意識してゆきたいと改めて教えられています。

私たちの礼拝堂は、神の平和(シャローム)が完成する「新しい天と新しい地」を待ち望むための「やさしい音と光の空間」です。私たちのこころが、それを実現しようと騒いでしまうなら本末転倒です。私たちのこころが、目の前の様々な忙しさにも関わらず、神にある希望に満たされてやさしくなることができるように互いのために祈りましょう。