2013年2月24日
今も昔も、信仰者たちは、「おまえの神はどこにいるのか」(詩篇42:3,10)という嘲りを受けることがあります。私たちはそこで、「主は私たちの交わりの真ん中にいてくださいます」と答えるべきなのですが、ふと、「主が真ん中におられるなら、なぜ、どこの教会にもこうも面倒なことが起こるのでしょう……」と言いたくなることもあります。
しかし、私たちは「この世の取るに足りない者」(Ⅰコリント1:28)の中から、その欠けだらけのままで「呼び集められた者の集まり(ギリシャ語の教会「エクレシア」の意味)」に過ぎません。神の家族と言いますが、家族ほど怖い集いもありません。
不思議なのは、そんな面倒な集まりに次から次と、人が集まってくることの方ではないでしょうか。私たちの欠けを見るとき、聖霊のみわざは見えなくなります。聖霊のみわざは、「にもかかわらず……」という逆説の中に見られます。私たちは希望によって結ばれた集まりであり、希望を持てること自体が聖霊の圧倒的なみわざです。
なお、ヨエル書のテーマは「主(ヤハウェ)の日」ですが、それは新約では、キリストの再臨の日として描かれます。それが最も印象的に記されているのはペテロ第二の手紙3章3-13節で、そこでは「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」と嘲る者たちに対しての答えが、「当時の世界は……洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は……火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです……
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は……あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます……
その日が来れば……天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と記されています。
この世の人々にとっての「主の日」とは、目に見える世界が滅びるさばきのときですが、私たちにとっての「主の日」とは、「正義の住む新しい天と新しい地」に栄光の復活の身体で入れていただく希望の日です。
1.「主(ヤハウェ)はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」
ヨエル1章ではいなごの大量発生の被害を受けて、主に向かって泣き叫ぶようにとの勧めが記されていました。そして1章15節、2章1,2節では「主(ヤハウェ)の日」が全能者による破壊の日、「やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日」として描かれ、「いなご」の大量発生の中で、「主(ヤハウェ)は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる」(2:11)と恐ろしいことが記されていました。
多くの信仰者は、このような主のさばきを謙遜に頭を下げて静かに受け止めるのが主のみこころかのように誤解しがちですが、ヨエルはそこで、「断食と、涙と、嘆きとをもって……あなたがたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ……主は……わざわいを思い直してくださるからだ……主が立ち返って、思い直し、その後に祝福を残してくださらないと誰が知ろう」と訴えます(2:12-14一部私訳)。
主は、罪に対して自動的なさばきを下す方ではなく、私たちの祈りに応えてご自身のみこころを「思い直し」てくださる方なのです。
そして、そこで主に仕える祭司たちが、「主(ヤハウェ)よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を諸国の民のそしりとしたり、物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょか」(2:17)と泣いて訴えるべきであると記されています。
2章18節では突然、「主(ヤハウェ)はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」と記されます(ESV訳ではThen the LORD became jealous for his land and had pity on his people.)。「ねたむほど愛し」ということばは原文では「ねたまれた」とのみ記されています。
「ねたみ」は自分に属するものにたいする排他的な熱い情熱で、「愛」と表裏一体の感情です。それはここでは、イスラエルの「ゆずりの地」が、「諸国の民のそしり」「物笑いの種」とされていることから生まれています。
そして、「ご自分の民をあわれまれた」とは、主がイスラエルの民の痛みや悲しみに徹底的に共鳴して、彼らの問題をすみやかに解決してくださるという強いご意志の現れです。
そして、「主(ヤハウェ)は民に答えて」、「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたは、それで満足する」と言われます(19節)。これは神による驚くべき逆転で、泣きわめいていた民に「満足」を与えてくださるというのです。
そればかりか、主は、「わたしは、二度とあなたがたを、諸国の民の間で、そしりとしない」と言われます。それは17節にあったような「あなたの神はどこにいるのか」という嘲りを受けることが「二度と……ない」という力強い保障です。
そして、イスラエルに壊滅的な被害を与えた「いなご」の大集団に関して、「わたしは北から来るものを、あなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやり、その前衛を東の海に、その後衛を西の海に追いやる。その悪臭が立ち上り、その腐ったにおいが立ち上る」と言われます(20節)。
なお、当地の「いなご」の襲撃は東か南から来るのが一般的ですから、それを「北から来るもの」と呼ぶのはあり得ないという解釈もありますが、いなごの襲撃が敵国の大軍隊に重ねられていることを思えば、この記述は不思議ではありません。イスラエルを滅ぼす敵は、アッシリヤ帝国にしてもバビロン帝国にしても必ず、北から来るからです。
2.「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り……」
21-23節は「恐れるな」ということばが文頭で二回繰り返され、「楽しみ喜べ」ということばが「地」に対してと同時に「シオンの子ら」に向けて重ねて語りかけらますが、原文の語順を生かすと次のように訳すことができます。
「恐れるな。地よ。楽しめ。喜べ。主(ヤハウェ)が大いなることをされたからだ。
恐れるな。野の獣たちよ。荒野の牧草はもえ出る……
シオンの子らよ。楽しめ。あなたがたの神、主(ヤハウェ)にあって喜べ。
主は、あなたがたを義とするために初めの雨を与え、以前のように、初めの雨と後の雨という大雨を降らせてくださるからだ。」
イスラエルには短い二度の雨季の他にはほとんど雨が降りません。「初めの雨」とは、秋の雨とも呼ばれ、10月末から12月初めの間に降り、夏の日照りを潤します。また「後の雨」とは「春の雨」とも呼ばれ3月から4月にかけて降り、蒔かれた種が渇くことがないようにします。
主はかつて、「主(ヤハウェ)を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨とを与えよう』」と言われる一方で、「ほかの神々に仕え、それを拝む」ときには、「主(ヤハウェ)の怒りが……燃え上がり、主が天を閉ざされ……雨が降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは……その良い地から、すぐに滅び去ってしまおう」(申命記11:13-17)と警告しておられました。
神ののろいと祝福は、この二回の短い雨季に最も分かりやすく現されていました。
そして、神がいなごを追いやり、雨を降らせる結果が、24-26節では、「打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった(飛びいなご)、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し……あなたがたの神、主(ヤハウェ)の名をほめたたえよう」と描かれます。
ここでは1章4節での四種類のいなごが別の順番で記されながら、いなごによって失われた「穀物、ぶどう酒、油」に関して、「わたしはあなたがたに償おう」と言ってくださいます。
「償う」とはシャローム(平和、平安)の動詞形で、完成の状態を創造するという意味があります。神がいなごを送ったのはイスラエルの罪をさばくためでしたが、終わりの日には、ご自身が、まるで彼らに悪い事をしたかのように、彼らの苦しみに対する「償い」をしてくださるというのです。
あなたが神に立ち返り続けるなら、あなたの人生は、一時的に不幸な状態に陥ったとしても、必ず帳尻があった状態へと回復されます。
そしてそれを受けて、「わたしの民は永遠に恥を見ることはない」ということばが二度繰り返されながら、それに挟まれるようにして、「あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であり、ほかにはないことを知る」と記されます(2:26,27)。
これは、「彼らの神はどこにいるのか」(2:17)という嘲りに対する神の答えです。そして、今、神は私たちキリストの教会の交わりの真ん中にいてくださいます。
3.「しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」
そして、2章28~32節のみことばを使徒ペテロはペンテコステの日に引用しながら、聖霊が弟子たちの上に、「炎のような分かれた舌」として現れ、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」という不思議な現象が、ヨエル書の預言の成就であると語りました(使徒2:1-21)。つまり、キリスト教会の誕生は、ヨエル書を抜きに語ることはできないのです。
そして旧約と新約の違いは何よりも聖霊が与えられることです。そのことがここでは「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」と描かれます。旧約では、初代の王サウルの上に「神の霊が激しく下って預言をした」(Ⅰサムエル10:10)などと記述があるように、神がある特定の人を選んで、聖霊を注ぎ、ご自身の働きに用いられるということがありましたが、約束の地の祝福の回復の「その後」という「終わりの日」(使徒2:17)には、老若男女ばりか奴隷を含めたすべての種類の人々に聖霊を注いでくださるというのです。
「預言し」「夢を見」「幻を見る」とは、すべて神の救いのご計画の全体像が把握できるという聖霊のみわざのことを語っています。
パウロは後に、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12:3)と記しましたが、それこそ聖霊の働きの核心です。
そして、その聖霊は何よりも恐怖に満ちた主の日のさばきから、人々を救うためのものであるという意味で、「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。血と火と煙の柱である。主(ヤハウェ)の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」と記されます。
なお使徒パウロは、26,27節の「わたしの民は永遠に恥を見ることがない」ということばを意識しつつ、「彼に信頼する者は失望させられる(恥を見る)ことがない」と言いながら、「ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」と述べ、その根拠にこの箇所を引用して、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と言いました(ローマ10:11-13)。
つまり、主の最後の審判から救い出されるのは、私たちが主の一方的な恵みによる聖霊を受けて主の名を呼び求めることによるのですが、パウロがそこで「主」と呼んだのは、父なる神であるよりもイエスを指します。なぜなら、その直前に、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」とあるからです(同10:9,10)。救いを語る基本にヨエル書の引用があります。
また救いを神の一方的な選びとして説明する背景に、この32節の記述があります。そこでは、「主(ヤハウェ)が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主(ヤハウェ)が呼ばれる者がいる」と、「のがれ」「生き残った者」たちとは「主が呼ばれる者」であると記されます。
使徒パウロはイスラエルの救いに関して、「今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11:5)と語っています。
「主(ヤハウェ)が呼ばれる」とは、具体的には、聖霊が私たちの心のうちに語りかけてくださることを意味すると思われます。その結果として私たちは「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」という恵みに預かったのです。
私たちは、「主に呼ばれ」て、「主を呼ぶ者」となったのです。しかも私たちはみな、外からの強制によってではなく、自分の意志で主を礼拝するために集まっていますが、その私たちの意志に働きかけるのが聖霊です。
そして、私たちが聖書を読んで感動し、主の教会の一部として奉仕に加わっているのは、神の霊が注がれた結果です。
4.「主(ヤハウェ)の日がさばきの谷に近いから」
3章初めでは、「見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく」と記されます。
「ヨシャパテの谷」とは、具体的な地名と言うよりは主の最後の審判の場を指すと思われます。なぜなら「ヨシャパテ」とは「ヤハウェは裁かれた」という意味であり、3章12節では「さばきの座」と言い換えられ、3章14節では「さばき(審判)の谷(the valley of decision)と呼ばれるからです。
つまり、神の民にとっての救いの時とは、その敵の国々へのさばきのときでもあるというのです。
そして3節では、その理由が、「彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。彼らはわたしの民をくじ引きにし、子ども(少年)を遊女のために与え、酒のために少女を売って飲んだ」と描かれ、4-6節では、「ツロとシドン」、また「ペリシテの全地域」という地中海岸の国々に対するさばきが宣告されますが、そこでは特に、「ユダの人々とエルサレムの人々を、ギリシヤ人に売って、彼らの国から遠く離れさせたからだ」と、神の民を奴隷に売ったことが非難されます。
そして、それに対する主の報復が、「見よ。わたしは、おまえたちが彼らを売ったその所から、彼らを呼び戻して、おまえたちの報いを、おまえたちの頭上に返し、おまえたちの息子、娘たちを、ユダの人々に売り渡そう。彼らはこれを、遠くの民、シェバ人に売る」(3:7、8)と宣告されます。
奴隷として売られた神の民は約束の地に戻されるばかりか、彼らを売った張本人の子ともたちが神の民の奴隷とされ、また海の民がアラビア砂漠の南に住むシェバ人にまで売られてしまうという逆転が記されます。
9-11節は神の民の敵たちに対する皮肉に満ちた呼びかけで、「聖戦をふれよ」とは「戦いに専念せよ」というような意味で、「あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ」とは、神の民の敵は自分たちの農民たちに農耕の道具を武器に造り変えさせていることで、「弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ」というのも皮肉に満ちた呼びかけです。
そして、「回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ」というのも、神の民の敵に対する呼びかけです。なお、11節終わりの「主(ヤハウェ)よ。あなたの勇士たちを下してください」という訴えは意味が良くわかりませんが、これは、神の民の敵たちの終結を見た神の民の叫びだと思われます。
そして、12節では、「諸国の民」を、神の最後のさばきが下される「ヨシャパテの谷」に集め、主はそこで、「回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着く」と言われます。
そして、「かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ」(13節)という表現は、黙示録14章19節では、「御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きなさかぶねに投げ入れた」と描かれます。
そしてヨエルは続けて、「さばきの谷には、群集また群集。主(ヤハウェ)の日がさばきの谷に近いからだ(For the day of the LORD is near in the valley of decision.)」(14節)と記しますが、これは機が熟した結果として、神の民の敵たちが皮肉にも、自分から進んで主のさばき(審判)の谷に近づいてくるという意味です。
この終わりの日の「さばき(審判)の谷」のことに関しては、黙示録では「ハルマゲドン」として描かれていると思われます。終わりの日に、悪霊どもは全世界の王たちを、愚かにも神との戦いに動員しますが、その最後の戦いの場がハルマゲドンと呼ばれます(16:13-16)。
しかし、そこに「王の王、主の主」であるキリストが白い馬に乗って天の軍勢と共に下って来られ、たちどころに神の民の敵を滅ぼしてくださいます(19:11-21)。
一時的には、神の敵が全世界を支配するように見える中で、神の民に求められることは、富にも権力にも惑わされずに、キリストに忠誠を誓い、主を賛美し、礼拝し続けることだけです。私たちはそのときに決して、武器を手に取る必要はありません。
15,16節では、再び世界の終わりと思われるしるしとして、「太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」と描かれながら、「主(ヤハウェ)はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主(ヤハウェ)は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである」と、主に身を避ける者への平安が約束されています。
17,18節では、イスラエルの民の希望が、「あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であり、わたしの聖なる山、シオンに住むことを知ろう。エルサレムは聖地となり、他国人はもう、そこを通らない。その日、山々には甘いぶどう酒がしたたり、丘々には乳が流れ、ユダのすべての谷川には水が流れ、主(ヤハウェ)の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤す」と記されます。
「シティム」とはアカシヤの木々で、契約の箱を作る材料に用いられました(出エジ25:10)。この「シティムの渓流」は、終わりの日にエルサレム神殿から水が湧き出て死海に注ぎ、その川の岸にはあらゆる果樹が実をならせるというエゼキエル47章、黙示録22章の記述に結びつきます。
最後に、神の民に敵対した国々へのさばきと、エルサレムの祝福が告げられます。いなごの大量発生から始まった本書は神の民の敵に対する「血の復讐」(3:21)で終わるように見えますが、その最後のことばは、「主(ヤハウェ)はシオンに住む」です。
これこそ、「国々の民」が、「彼らの神はどこにいるのか」と嘲ったことに対する答えです。
イエスは今、私たち信仰者の交わりのただ中に住んでいてくださいます。それは、主ご自身が、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と言われたとおりです。
またヘブル10章23-25節では、迫害を恐れ、自分たちだけの閉ざされた礼拝を守ろうとする人への警告として、「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と記されます。
私たちはともに集まって、共通の希望を告白し、愛と善行を促し合う必要があります。信仰生活は、一人で神に召されることから始まりますが、それは共同体的な営みであることを決して忘れてはなりません。
そして、希望が真の意味で共有されるとき、そこにはキリストにある真のコイノニア(愛の交わり)が自然に生まれます。