2013年2月17日
私たちはときに、「取り返しのつかない失敗を犯してしまった」という後悔に苛まれることがあります。しかも、その失敗から生まれたわざわいの背後に神のさばきを見るときに、絶望感が深まることがあります。
しかし、どんな状態からでも私たちは主に立ち返ることができます。主に赦すことができないほどの罪はありません。そこで求められているのは、何よりも、主に「立ち返る」ことです。わざわいの中で、なお泣いて主にすがることです。私たちはどこかで悔い改めを、自分の意志で自分の行動を変えることと誤解していないでしょうか。
ヨエル書はホセア書とアモス書の間に置かれていることからその同じ時代に記されたという見方がある一方で、その黙示的な文体や諸国の描き方のゆえにマラキよりも後の時代の、旧約聖書でもっとも新しい書であるという見方があります。
なお、本書の構成はバビロン捕囚のさばきを告げたゼパニア書と非常に似ている面がありますが、最近の学者は捕囚帰還後の第二神殿回復後の紀元前500年頃という見方も増えています。
どちらにしても明確な時代を特定できない以上、時代を超えたメッセージをここから読み取ることが大切ではないかと思わされます。
1.「これをあなたがたの子どもたちに伝え・・・その子どもたちは後の世代に伝えよ」
この書の始まりは、「ことば、ヤハウェの、それはヨエルにあった、ベトエルの子の」と記されています。とにかく、ここに記されているのは「主(ヤハウェ)のことば」であり、それが「ベトエルの子」という以外には素性のわからない「ヨエル」という預言者に示されたということです。彼の名には、「ヤハウェは神」という意味が込められていました。
その上で、「聞きなさい、これを、長老たちよ」と命じられます。「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)という原点を決して忘れてはなりません。続けて、同じ意味を込め、「耳を貸せ、この地に住む者もみな」と記されます。
そして、「このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか」と、これが前代未聞の事であることが強調されながら、「これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ」と記されます(1:3)。
イスラエルを襲った悲劇が、時代を超えて子々孫々まで伝えられる必要があるというのです。これは、たとえば日本でいえば、広島、長崎の原爆悲劇と同時に、東日本大震災の悲劇とともに福島第一原子力発電所メルトダウンの悲劇を子々孫々まで伝え続けることを意味します。
そして4節には「いなご」に関する四種類の名前が記されます(なお、ヘブル語には「いなご」に関して九つの呼び名がある)。第一の「かみつくいなご」というのは「ガザム」と記されます。つぎに「いなご」とのみしるされていることばは「アルベ」と記され、最も一般的な呼び名です。次の「バッタ」と訳されている原文は、「イェレク」で「飛びいなご」と訳すこともできます。最後の「食い荒らすいなご」は「ハシール」の訳です。
ですからここは、「ガザムが残した物はアルベが食い、アルベが残した物はイェレクが食い、イェレクが残した物はハシールが食った」と記されているのです。
なおこれは異なった昆虫と言うより、同じいなごの成長段階によって呼び名が、イェレク、ハシール、ガザムと変わるとも言われます。
2章25節ではこの4種類のいなごの順番が変えられながら、神が送った「大軍勢」として描かれます(2:25)。どちらにしても、ここでは「いなご」が少しずつ姿を変えながら、四回にわたってイスラエルの民が大切に育てた作物を絶滅させる様子が描かれています。
申命記28章には、イスラエルの民が他の神々を拝んでしまったときに彼らを襲う「のろい」が多岐にわたって詳しく描かれますが、その38節では、「畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである」と記されます。
またソロモンは神殿を建てたとき、「もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合・・・この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいのところである天で聞いて、赦し、またかなえてください」と祈っています(Ⅰ列王8:37-39)。それは「いなご」の発生の背後に、悔い改めを迫る神の招きを見るという意味です。
そして、このいなごの被害に関して5~7節では、「酔っぱらいよ。目をさまして、泣け・・・泣きわめけ。甘いぶどう酒があなたがたの口から断たれたからだ。一つの国民がわたしの国に攻め上った・・・その歯は雄獅子の歯・・きばがある。それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し・・」と描かれます。
ここには、いなごの大量発生によりぶどうの木が「まる裸」にされ、当時の人々にとっての喜びの源であった「ぶどう酒」が飲めなくなったことを劇的に描いています。
「ひとつの国民」とは、いなごの大集団を指すと思われます。それは「いなごには王がないが、みな隊を組んで出て行く」(箴言30:27)と言われる通りです。
また反対にエレミヤ5章15-17節ではバビロン軍による襲撃がいなごの集団発生にたとえられます。そして、黙示録9章1-11節では世界を襲う壊滅的な苦しみがいなごの襲撃にたとえられます。
つまり、このいなごの襲撃は、バビロン軍の襲撃を現しているとも、自然現象とも言えるいなごの襲撃を他国の軍隊の襲撃にたとえているとも言えます。どちらにしても、その背後に、天地万物の創造主であるヤハウェがおられるのです。
2.「いたみ悲しめ、泣きわめけ・・主(ヤハウェ)に向かって叫べ」
8節では「若い時の夫のために、荒布をまとったおとめのように、泣き悲しめ」と記されますが、これは正式の婚約をして嫁入り支度を整えた「おとめ」が、突然、婚約者に死なれてしまう悲劇を描いたものです。
これは喜びに満ちた収穫のときを目前に控えながら、すべての収穫物をいなごに食われてしまう空しさと同じ悲しみです。
9,10節では、「穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒は主(ヤハウェ)の宮から断たれ、主(ヤハウェ)に仕える祭司たちは喪に服する。畑は荒らされ、地も喪に服する・・」と同じ言葉が重ねて記されます。
祭司は主に聖別された存在であり、また土地も主のものと見なされていましたが、それらが「主を喜ぶ」ことの代わりに「喪に服する」というのです。なお、ここで「穀物」「新しいぶどう酒」「油」はすべて神殿にささげるものの象徴として描かれています。
11,12節ではヘブル語の語呂合わせを用いながら、「農夫たちよ。恥を見よ・・・ぶどうの木は枯れ・・・あらゆる野の木々は枯れた。人の子らから喜びが消えうせた」と描かれます。
ここで、「恥を見よ」と「枯れ」「消え失せた」は同じ響きのことばで、いなごの被害による失望と悲しみが劇的に記されます。
そして、13,14節では、「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ。祭壇に仕える者たちよ。泣きわめけ。神に仕える者たちよ。宮に行き、荒布をまとって夜を過ごせ」と、三種類の表現で祭司たちに悲しみを表現することが命じられます。
そしてその理由が、「穀物のささげ物も注ぎのぶどう酒もあなたがたの神の宮から退けられたからだ」と、「神の宮」における喪失感が強調されます。
その上で、彼らが取るべき行動が、「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ・・・この国に住むすべての者を・・・主(ヤハウェ)の宮に集め、主(ヤハウェ)に向かって叫べ」と、すべての者を、主への礼拝に集め、主に向かって叫ぶようにと人々の心を動かすことが命じられます。
私たちが何かの大きなわざわいに直面した時、その原因を冷静に分析することも大切ですが、すべてに先立ってなすべきことは、主の宮にともに集まり、主に向かってともに泣き叫ぶことではないでしょうか。
「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。生きている人間は、なぜつぶやくのか」(哀歌3:38,39)と記されているように、わざわいに会ったとき、主に向かって「つぶやき」、「むなしく思い巡らす」(詩篇2:1)代わりに、主に向かって嘆き悲しみ、泣きわめき、自分の気持ちを注ぎだして主に祈ることが大切です。
なぜなら、ある特定のわざわいが起きるのを許される神のみこころは多くの場合、はかり知ることができないからです。
私たちの祈りの生活は、あまりにもお行儀が良すぎるのではないでしょうか。私たちは小さいころから、自分で自分の心に収まりをつけるようにと訓練されてきていますが、そのような自制の訓練が、私たちの祈りの生活を貧しくしてはいないでしょうか。
15節では、「ああ、その日よ。主(ヤハウエ)の日は近い」と記されます。これこそヨエル書の中心テーマです。「主の日」という表現は預言書全体で18回出て来ますが(イザヤ13:6,9、エレミヤ46:10、エゼキエル13:5,30:3、アモス5:18-20、オバデヤ15、ゼパニヤ1:7,14、マラキ4:5)、そのうちの五回がこの書に出て来ます(1:15,2:1,11,31,3:14)。
この「近い」ということばは「at hand」、「目の前にある」と訳すこともできます。これは、最終的な世の終わりの日が近いという意味よりも、いなごの大量発生という悲劇を、「主の日の現れ」の一部として見るようにという招きだと思われます。
そして、「全能者からの破壊のように、(その日)が来る」と記されますが、「破壊」(ショッド)と「全能者(シャダイ)」はヘブル語の語呂合わせが見られ、「全能の神(エル・シャダイ)」が、「破壊の神」として描かれているのです。
私たちは、「神は愛です」という表現に慣れ親しんでいますが(Ⅰヨハネ4:16)、同時に、神は全能であり、破壊者でもあるということを決して忘れてはなりません。「神は愛」であるとともに「破壊者」であるなら、わざわいに直面したときに何よりも大切なのは、主のふところに飛び込むということです。
なぜなら、「主の日」とは、神の敵にとっては恐ろしいわざわいの日ですが、神の民にとっては、「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32、使徒2:21、ローマ10:13)という恵みの日でもあります。
マルティン・ルターは、「神はご自身の善意と好意を、怒りと刑罰との下に隠された」と言っていますが、神の愛は、まさに神の怒りの破壊の下に隠されているのです。つまり、主の日の破壊の宣言の背後に、神のふところに飛び込み、御翼の下に隠れる以外に救いはないという招きがあるのです。
16-18節では「私たちの目の前で食物が断たれたではないか・・神の宮から喜びも楽しみも消えうせたではないか。穀物の種は・・干からび、倉は荒れすたれ・・た。穀物がしなびたからだ。ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。牛の群れはさまよう。それに牧場がないからだ。羊の群れも滅びる」と悲劇が生々しく描かれます。
それはいなごの大量発生によってもたらされた悲惨ですが、その背後に神のさばきを見るようにと招かれています。
そのような中、ヨエルは19節で、「主(ヤハウェ)よ。私はあなたに呼び求めます」と告白します。これは、「To you, O LORD, I call」(あなたに向かって、主(ヤハウェ)よ、私は叫びます)と訳すことができます。
そしてその理由が、「火が荒野の牧草地を焼き尽くし、炎が野のすべての木をなめ尽くしました。野の獣も、あなたにあえぎ求めています。水の流れがかれ、火が荒野の牧草地を焼き尽くしたからです」と描かれます。
それはいなごの大量発生と、日照りの中での火災が重なって起こることがしばしばあったからですが、同時に、「火」や「炎」は神のさばきの象徴だからです。
どちらにしてもヨエルはこのような自然災害の背後に神の怒りを見て、必死に神にすがろうとしています。
また「野の獣も、あなたにあえぎ求めています」という表現に、獣でさえも神の救いを求めているのに、神の民は神を求めようとしないという嘆きが隠されています。
詩篇42篇1節では同じ動詞が用いられながら「鹿が深い谷底の水をしたいあえぐように、神よ、私のたましいは、あなたを慕いあえぎます」と告白されていました。
3.「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」
2章の1節では、三行の並行法で「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ」と、主の到来に備えるようにと訴えられ、その上で、「主(ヤハウェ)の日が来るからだ。その日は近い」と、「主の日」が目の前にあることを訴えます。
そして、2節では「主(ヤハウェ)の日」について、「やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日」と描かれながら、軍隊の襲来が、「山々に広がる暁の光のように数多く強い民・・・彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる」と描かれます。
興味深いのは、「エデンの園」のような国が「荒れ果てた荒野」になってしまうという表現です。エゼキエル36章35節ではこの逆の将来的な主の祝福の約束が、「荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった」と人々が感謝するようになると記されています。つまり、主の「祝福」か「のろい」かによって、国の状況はまったく変わるというのです。
そして、約束の地に荒廃をもたらすいなごの大群の様子が、2章4、5節で「その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る・・彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである」と描かれます。軍隊の攻撃といなごの大群の襲来は非常に似ているというのです。
そして、それに対する人々の反応が、6節では「その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる」と描かれます。
また7-9節ではいなごの大群の進路をいかなるものも妨げることができない様子が、「それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓から入り込む」と描かれます。
軍隊の攻撃はより強い軍隊によって阻むことができますが、いなごの大群の来襲を止める手段はどこにもありません。
そして、10節では、このいなごの大群の来襲が、世界の終わりを示す描写として、「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う」と描かれます。
主イエスはこの箇所やイザヤ13:9-13の表現を用いながら、人の子の現れの時の様子を、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます」(マタイ24:29)と言われました。
それは確かに主イエスの再臨のときを示しますが、同時にそれはご自身の十字架の際に三時間にわたって全地が暗くなったとき、またローマ軍によってエルサレム神殿が破壊されるときと同時に、人の子の栄光が現されるすべてのときを指すと思われます。「主の日」には広い意味があります。
11節では、「主(ヤハウェ)は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い」と描かれます。詩篇148篇8節には、「火よ、雹よ、雪よ、煙よ、みことばを行うあらしよ」という表現がありますが、この地を襲うすべての自然災害は、神のことばによって起こされているのです。
ただ、それはある地域に地震や津波が起こったことを、神がその特定の地域の罪をさばくために、それを起こしたなどと言う理由にしてはなりません。
イエスが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われたように、この地のすべてのことは、神のご支配のもとにあるということです。
その上でヨエルは、「主(ヤハウェ)の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう」と結論づけます。
私たちは様々な自然災害への備えをするように心がけますが、主の日の苦難を人間的な知恵で避けたり、それに耐える方法は一切ありません。私たちにできる唯一のことは、主のあわれみにすがるということです。
そのような主のさばきを前提に12節では、「しかし、今、─主(ヤハウェ)の御告げ─心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ」という訴えがなされます。この中心は「立ち返れ」ということばです。
これは、回心を訴える最も頻繁に用いられる動詞で、その中心は「向きを変える」ことにあります。心の方向を神に向けることですが、ここでは「心を尽くし、断食と、涙と、嘆きをもって」と描かれます。それは、自分の心が神から離れていたことを心から反省するという意味です。
それは、心を入れ替えて立派な行いをするというような決断ではなく、自分が神のあわれみなしには一瞬たりとも生きることができない存在であるという、自分の根本的な弱さと限界とを知る自己認識です。この世的な「悔い改め」の場合は、自分の意志を強く持って行動を変えてゆくというニュアンスがありますが、ここでの回心とは、自分の無力さを認め、泣きながら必死に神におすがりするという心の姿です。
そのことが13節では、「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ」と命じられます。それはすべてのプライドを捨てて、乞食のような気持で主にすがるということの勧めです。
そして、その理由が、「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」と描かれます。
主はかつてモーセの前を通り過ぎてご自身を啓示されたとき、「主(ヤハウェ)は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」(出エジ34:6,7)と言われましたが、その原点は、金の子牛を造って拝んだ民を滅ぼす代わりに、「その民に下すと仰せられたわざわいを思い直された」(同32:14)ためでした。
主は罰すべき者を罰すると言われながら、「わざわいを思い直される」方であるというのです。ですから、私たちはいつでもどこでも、繰り返し、神に立ち返って、神にすがることができます。
そのような期待が、14節では原文では、「主が立ち返って、思い直し、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主(ヤハウェ)への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう」と記されます。
ここでは、主ご自身が「回心」して「思い直してくださる」と期待することは無理ではないと、不思議な表現が用いられています。
主のさばきは、私たちの行いに従って、自動的に下されるのではありません。主はご自身に向かってへりくだり、すがって来るものに対して豊かなあわれみを注ぎ、「のろい」を「祝福」に変えてくださる方なのです。
そして、15-17節では、「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ」と命じられながら、「主(ヤハウェ)に仕える祭司たち」が「泣いて言」うべきことばが、「主(ヤハウェ)よ。あなたの民をあわれんでください。あなたのゆずりの地を・・物笑いの種としたりしないでください。国々の民の間に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておいてよいのでしょうか」と描かれます。
これは、イスラエルの民を滅ぼすことは、主ご自身にとって損なことですと説教するかのような乱暴な表現ですが、これはモーセが主に「わざわいの思い直し」を訴えたことばと基本的に同じです。主は、そのような率直な訴えを喜んでくださいます。
「悔い改め」を意味することばには「思い直す」ということばと「立ち返る」ということばがあります。不思議にも、神が「悔いる」とか「思い直す」いうことばがある一方で、人間の悔い改めは、ほとんどの場合、「立ち返る」ということばが悔い改めに用いられます。
神はご自身のさばきの決断を「思い直す」ことがあります。それは私たちが自分の傲慢さを悟り、また弱さに気づき、真心から神に立ち返る時に、神が示してくださるあわれみです。
私たちがなすべき悔い改めとは、自分の意志力に頼ることから、神に「立ち返って」、神のあわれみにすがるということです。
私たちは無意識のうちに、自分を神として、神にしかできないような「思い直し」を目指してはいないでしょうか。信仰とは、わざわいの原因を冷静に分析することではなく、泣いて神にすがり、神に向かって叫び続けることです。