2012年12月16日
「『神が、私たちとともにおられる』というなら、なぜこんな不条理が放置されているのでしょう・・」という気持ちの中で、神を礼拝しに来るのが苦痛になっている人がいます。また、「神を信じても何も変わりはしない・・」と思って失望感をつのらせる信仰者がいます。しかし、ユージン・ピーターソンはベストセラーとなった信仰の旅路に関する詩篇の解説書のタイトルを、無神論者フリードリッヒ・ニーチェのことば、A long obedience in the same direction 「この天と地において本質的なことは、同じ方向への長い忠実さが必要だということ、それを通してこそ結果が生まれ、それは常に長い期間を通して実現されることである。それこそ、人生を生きるに値するものにするのである」から引用しました。
牧師の息子として生まれたニーチェは、そのように人生を豊かにする「生きる力」を、キリスト教会の中に見ることができませんでした。教会は幻想を教え、弱さに妥協する傾向を助長しているとしか思えなかったのです。
そして、その本の副題には、「Discipleship in an Instant Society(インスタント社会における主の弟子としての歩み)」と記されていました。私たちは何でも手軽に手に入る時代に住んでいるため、待つことが心理的苦痛を生むようになっています。しかし、本来の信仰とは、忍耐を生み出す力に他なりません。
しかし、イザヤのメッセージは、気の遠くなるような大きなスケールのもので、当時の人々の幻想を破り、あらゆる妥協を退ける強さに満ちていました。ニーチェもこれを理解していたら、聖書の教えを、「怨念を誤魔化すための弱者の道徳・・・」などと非難することはなかったことでしょう。
そのことばは恐ろしいほどに悲観的に見えながら希望に満ちています。破壊的なようでありながら建設的です。争いを助長するようで、平和をもたらします。その逆説を味わってみましょう。
1.「気をつけて、静かにしていなさい…」
イザヤ7章の記事は、紀元前735年頃のことで、北方からアッシリヤ帝国が北王国イスラエル(首都サマリヤ)とアラム(その北東の国、首都はダマスコ)に迫ってくる時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリヤ陥落)。
この危機にイスラエルの王レマルヤの子ペカとアラムの王レツィンは南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いましたが、ユダの王アハズは拒絶しました。それでペカとレツィンはユダに傀儡政権を樹立し、服従させようと攻撃しかけてきました(7:1)。
そのような中で、エルサレムはその攻撃を差し当たり退けたものの、「エフライム(サマリヤが中心)にはアラムがとどまった」(7:2)とあるように、二国連合の攻撃はなお続くという政治状況下で、アハズ王と民の心は、「林の木々が風で揺らぐように」、激しく動揺しました(7:2)。そしてその時、主はイザヤを通してアハズに語ります。
7章4節には、「気をつけて静かにしていなさい。恐れてはなりません・・・心を弱らせてはなりません」という三つの命令が続けられています。それはこの危機的な状況を人間的な知恵で解決しようと動き回る代わりに、まず心を落ち着け、恐れを祈りに変え、心を弱らせずに神の救いを待ち続けるようにとの勧めです。
このときアハズは目先の恐怖に圧倒され、何と北の凶暴な大国アッシリヤに助けを求めていました。それは近隣のチンピラにおびえて広域暴力団に助けを求めるのと同じことでした。一瞬の息をつけても逃げ場のない恐ろしい支配が待っています。
現実を直視するなら、エルサレムに攻めかかってくるふたりの王の燃える怒りなど、「木切れの煙る燃えさし」(7:4)のようなもので、真の脅威こそ、ユダが助けを求めてしまったアッシリヤ帝国でした。
ふたりの王はエルサレムに自分たちに従順な傀儡政権を立てようとして攻めてきていますが、それに対し、「神である主(原文「アドナイ(主人)であるヤハウェ」)」は、「そのことは起こらないし、ありえない」と断言されました(7:7)。
そればかりか、「六五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民でなくなる」(7:8)と、北王国イスラエルの中心の民が消えうせると預言されました。
これはアッシリヤ王がサマリヤを滅ぼしてその住民を遠くに移したばかりか、首都陥落から約50年後の紀元前671年には別の民族をこの地に移住させ、イスラエルの帰還を不可能にしたことを指します。
つまり、ふたりの王の計略など、アッシリヤの脅威に比べれば無視して良いほどのものだというのです。実際、その後、北の十部族は歴史の中から消え去ってしまわざるを得なくなりました。今も、しばしば恐れに捉われた人は、そこから抜け出すことを急ぐあまりに、インスタントな解決を求め、より大きな恐怖を自分で招いてしまいます。
私たちの問題は、恐れるべきことを恐れず、恐れなくて良いことを恐れることにあります。恐れに向き合う必要があります。ナチス・ドイツと戦ったカール・バルトというスイスの神学者は、「勇気とは、祈りの中で述べられた恐れである」(Courage is fear that has said it’s prayers)という逆説を述べました。つまり、「恐れ」は恥ずべきことではなく、祈りを通して真の「勇気」の源泉となるというのです。
私たちの生活にも、激しく動揺せざるを得ない危機がおとずれることがあります。そのとき、全能の神に祈り求めることさえ忘れてしまうかも知れません。しかしそれこそ、神が私たちに「祈り」を教えるための学校です。なぜなら私たちが、「もう自分の力では解決できない・・・」と思ったときこそ、祈りが真実になるからです。そこでは幼子が親に訴えるように、自分の葛藤や不安や怒りを、正直に神に訴えることが許されています。
そのとき、「神があなたがたのことを心配してくださる」と約束されています(Ⅰペテロ5:7)。私たちは、お祈りの後はぐっすりと眠って、明日の新しい展開を待つだけでよいのです。
詩篇46篇10節では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(文語訳は、「なんじらしづまりて、われの神たるを知れ。」)と記されています。パニックに陥ったとき、動き回るのを「やめる」ことが、しばしば何よりも大切だからです。
2.「インマヌエル預言」
このとき、主はアハズに、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」(7:9)と言われました。これは、「信じるか滅びるか、ふたつにひとつだ」という信仰の決断への招きです。
ただし、同時に主は、信じることができないアハズに驚くべきあわれみを示されました。それは、ご自身を、「あなたの神、主(ヤハウェ)である」と紹介されながら、「しるしを求めよ」と招かれたことでした(7:11)。
しかも、そのしるしは、「よみの深み、あるいは、上の高いところから」の、超自然的なものだというのです。その目的は、不信仰な彼に信仰を生み出させることにあります。それは、アハズの子ヒゼキヤが日時計におりた時計の影を十度あとに戻してもらったような奇跡(イザヤ38:3)によって約束が保証されることを指します。
しかし、アハズは、「私は求めません。主(ヤハウェ)を試みません」(7:12)と答えました。これは、一見、敬虔なようでありながら、文脈を無視してみことば引用するサタンの態度です(サタンは、イエスの荒野の誘惑に見られるように、みことばを用いて人を信仰の破船に合わせます)。
しかし、「主を試みる」とは、「しるしを見せてくれなければ信じない」という態度を指します。それに対してここでは、主ご自身が、「しるしを見せてあげるから、信じる者になりなさい」と招かれたのです。
ところがアハズの心の声は、「主を信じたら、今までの生き方を変えなければならない。しかし、それは嫌だ。もうすでに手がけていることがあるのだから・・」と語っていたのではないでしょうか。彼は、何よりも、「信じたくない!」という思いで一杯だったのです。これは、私たちの場合も同様です。
「信じます!」とは、「私は自分の生き方を変えます」と同じ意味を持つからです。多くの人の真の問題は、「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということではないでしょうか。もし、「私は信じたい!」と心から願うなら、神は、不思議なかたちで、信仰を与えてくださることでしょう。
アハズが神ご自身による信仰への招きを拒絶したとき、イザヤは、「あなたがたは…私の神まで煩わすのか」(7:13)という表現で彼を非難しました。
ここには、神は、イザヤの神ではあっても、もはやアハズの神ではないという意味が込められています。それは、アハズが、預言者たちの忍耐を軽蔑するばかりか、神の忍耐までも軽蔑したからです。
そしてここでの、「それゆえ…」(7:14)とは、信仰への招きを拒絶したということを前提としてという意味で、「あなたがたにひとつのしるしを与えられる」とは、ダビデの家(アハズの子孫たちを含む)に見せられるものですが、意外にもそれは、もはや信仰を生み出すしるしではありません。
「見よ。処女がみごもっている…」と言われても、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。これは反対に、世の人々をつまずかせるためのしるしです。
それにしても、今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに・・」という人が後を断ちませんが、すでに永遠の神の御子である方が人間の身体を取るためには処女を通して生まれる必要があるというのは論理的な必然でもあります。
しかも、そこには、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられたことによって、神が悩む者の仲間となってくださったという意味が込められています。
実際、たとえば人間関係で悩みながらも、イエスの誕生物語を思い巡らす人は、人々の嘲りに耐えたマリヤやヨセフの姿に慰めを受けることでしょう。
生まれた子は、「インマヌエル」と名づけられますが、それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。ここには神が悩む者、不安に耐える者の友であるという思いが込められています。
実際、これから七百年後に処女マリヤから生まれたイエスを救い主として信じたのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、社会の底辺の羊飼いたちでした。彼らは現代のワーキングプアーと呼ばれるような人々で、神の真実により頼む以外に救いがないと思われる人でした。
なお、7章15-17節には、意外にも、インマヌエルと呼ばれる方の誕生が遅れることが三つの観点から示唆されています。その第一は、その子が「悪を退け、善を選ぶことを知る」という年齢に成長するまで、「凝乳と蜂蜜」という貧しい砂漠の食物で育つということです(7:15)。つまり、ダビデの子孫である救い主は、王家が廃れた後の、貧しさの中に生まれるというのです。
そして、第二に、「まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らない」という、赤ちゃんになりもしないうちに、「あなたが恐れているふたりの王の土地は捨てられる」ということ(7:16)、つまり、救い主は、アハズの危急に間に合うようには現れないという意味です。
そして、第三に、主は、「エフライムがユダから離れた日(イスラエル王国が分裂しとき)以来、まだ来たこともない日」、つまり、国ができて以来の最大の「恐怖の日」として、アッシリヤ王の攻撃をもたらす(7:17)ということです。アハズが頼みとしたアッシリヤは、自分たちを救うどころか、エルサレムに最大の恐怖をもたらす者に変わるというのです。
神の信仰への招きを拒絶したアハズに与えられたしるし、それは、希望ではなく、さらに大きな悲惨を迎えるというさばきの宣言でした。自分の知恵や力で問題を解決しようと思っている人は、救い主を求めることができません。
そのため、神は、しばしば、その人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、その傲慢を砕かれます。事実、イエスを身ごもったマリヤは、大頌栄(マニフィカート)で、「主は・・心の思い高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし・・低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせる」(ルカ1:51-53)と歌っています。
それは、もし、人が傲慢になるなら、主ご自身から裁かれ、私たちがへりくだるなら、主ご自身が引き上げてくだるということです。
3.「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を」
7章18節~25節には、「その日」という名のもとに、アッシリア帝国がもたらす災いが述べられます。これはアッシリヤの救いを求めるアハズの過ちを正すためです。
そして、8章1,3節に記された「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」というイザヤの次男の名には、「略奪は速やかに起こる」という意味が込められています。これは彼が女預言者を通して生んだ子が、「お父さん、お母さん」という単純なことばを覚えるその前の赤ちゃんのうちに、アッシリヤ帝国がダマスコとサマリヤを滅ぼし、その宝を持ち去ることを預言する名前となります。それは滅びが目の前に迫っているということの警告です。
8章6節の「この民・・・」とは、ユダではなく北王国イスラエルの民を指すと思われます。彼らは、「シロアハの水」として表現されるエルサレムをないがしろにして自分たちの礼拝の場を作り、そして今は、アラムとの連合によって北の脅威に対抗しようとしています。彼らは自分たちの国を守ろうとしてかえって神の怒りを買い、墓穴を掘ったのです。
その結果、北の大河ユーフラテスを支配するアッシリヤ帝国からの洪水が北王国イスラエルの地を呑み込み、ついには南王国の「ユダにまで流れ込み、押し流して進み、首にまで達する」(8:8)、つまり、ユダも溺死寸前になるというというのです。
しかし、そのとき「インマヌエル。その広げた翼は、あなたの国の幅いっぱいに広がる」とあるように、ユダはインマヌエルの国、つまり、神がともにおられる国として、広げられた神の御翼の下で生き延びることができるという希望が記されます。
つまり、ここには北王国が滅亡することと、南王国ユダが、ぎりぎりのところで守られることの二つが預言されています。
8章9節の「国々の民」とはイスラエルの神ヤハウェを知らない人々を指しています。彼らは自分の力を誇り、ヤハウェを侮り、神の国を滅ぼそうとしますが、そのはかりごとは成功しません。なぜなら、「神が、私たちとともにおられるから」(8:10)です。これはヘブル語で「インマヌエル」と記されています。
つまり、7:14,8:8,8:10で三回、「インマヌエル」が用いられながら、神の救いはこの世の人々が理解できない形で実現するということが預言されているのです。
これらの不思議な、いつ実現するかもわからない気の遠くなるような約束に対するイザヤの応答が、「私は主(ヤハウェ)を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける」(8:17)です。
それは、主が今、イスラエルにわざわいをもたらそうとしていることを知っていながら、なお、この方に望みをかけるという意味です。
そして続けてイザヤ自身が、「私と・・私の子たちは・・・しるしとなり、不思議となっている」と告白します。これは、主が信じることを拒絶したアハズや同じ立場をとる人々にとって、イザヤとその子の生き方こそが証しになるという意味です。
不思議にもヘブル2章11-15では、このイザヤの告白がイエスの告白となっています。イエスご自身が、死の苦しみに向かう中で父なる神への信仰を証しながら、「わたしは彼に信頼する」と告白し、神であるのに私たちと同じ不自由な「血と肉とを」持つ身体となりながら、ご自身に従う弟子たちのことを、「神がわたしに賜った子たち」と愛おしんでくださいました。
イザヤは救い主の先駆けとして、人々から拒絶され、あざけられました。また、救い主ご自身も、孤独な歩みをする者の仲間となるために、「ひとりの処女」から敢えて誕生されました。
それに思いを馳せるとき、主が「御顔を隠しておられる」としか思えないような苦しみと孤独の中でも、なお、「この方に望みをかける」ことができます。
そして、そのような信仰者の歩みの後には、なお多くの神の子たちが従うようになります。つまり、キリストにあっては、絶望が望みに、孤独が交わりに、苦しみが喜びに変えられるのです。それは幻想ではなくキリスト者の確信です。
4.「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる」
ヘブル語聖書では8章21節から9章1節はひとつのまとまりとして記されており、それはアッシリヤ帝国によってもたらされる苦しみの時代を指します。
「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、イズレエル平原からガリラヤ湖西岸に広がる肥沃な地で、ガリラヤ地方と呼ばれます。つまり、ここはアッシリヤによって異邦人の地とされてしまった絶望の地も、「光栄を受ける」という約束なのです。救い主は自業自得で苦しみ希望を失った人々に光を見させるために現れてくださいました。
そのことが、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(9:2)と美しく表現されます。それは、「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられた」という繁栄の時代の登場を予告するものです。
その上で、そのような解放と平和をもたらす救い主の出現が、「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる」(9:6)として預言されます。これは、7章14節の「インマヌエル」の誕生のことを指します。
両者に共通するのは、救い主は赤ちゃんとして生まれるので、救いの実現には時間がかかるということです。当時の人々は、救い主の登場と共に、すべての問題が解決すると期待していましたが、神のご計画はそうではありませんでした。
そして救い主の名はここでは、「不思議、助言者(カウンセラー)、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。最初の「不思議」は独立した名詞としても解釈できます。かつてサムソンの父に対し、主の使いはご自身の名を「わたしの名は不思議という」と言われ(士師13:18)、8:18でも「不思議となる」と言われました。
また救い主は私たちにとって最高のカウンセラーであると同時に「力ある神」です。さらに、「永遠の父」とは、心から信頼することができる権威者であるという意味です。
「平和の君」とは、救い主がこの世界に最終的な平和をもたらすという意味です。それはイザヤ書11章に記されているように、狼と子羊、雌牛と熊、乳飲み子とコブラがともに生きるという(6-8節)、完全な平和をこの方が実現してくださるからです。
私たちは、救い主のみわざをあまりにも小さくとらえているのではないでしょうか。イエスによって世界はすでに変わりました。そして、主のみわざは今も続いています。そして、それは「神の平和」という完成に向かっているのです。
その神の国の成長の様子が、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく」(9:7)と描かれます。そして、それをもたらす救い主は、「ダビデの王座について」と、今滅亡しようとしているダビデ王国を再興する方として描かれます。
最後に、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれを成し遂げる」と、それが父なる神の断固たる意思であることが改めて強調されます。つまり、主は、自業自得で失われようとしている国を、まったく新しい形で建て直してくださるというのです。
このキリスト預言がこの後、七百年後に実現しました。ですから、私たちの世界は今、平和の完成の途上にあるのです。
私たちの人生には、神がご自身の御顔を隠しておられるようにしか思えないことがしばしばあることでしょう。しかし、それはイエスご自身が歩まれた道であり、すべての時代のキリスト者が体験してきたことでした。
ニーチェの言うようにキリスト者は幻想を見ながら生きるものではなく、神の平和の実現という真のビジョンを見ながら、その方向へと旅をしている者たちです。御顔を隠していると思われる主に、なお信頼し続けているのがキリスト者の不思議です。それはひとりひとりが預言者イザヤのように、神にとらえられているからです。そしてそこで生きる意味と喜びを見出し続けているからです。
アハズのような夢のない現実主義者は目先の解決に走り、より大きな悲劇への道を開きます。また反対に、夢があっても人間社会の罪の現実を知らない者は悲劇を生み出します。たとえば20世紀の共産主義革命は、壮大な夢を掲げていましたが、それを力で達成しようとしたために奴隷国家を生み出してしまいました。
しかし、私たちは夢を掲げた現実主義者です。今、目の前に置かれている課題を、神の壮大な救いのご計画の視点から見直し、神のタイムテーブルの中で進みたいものです。